45 白堊おとないて - 7 -

 重い目蓋を持ち上げると、とろりと溶け落ちるような闇の中に佇んでいた。弛緩した身体はふわふわとどこか軽く、そろ、と視線を動かせばぼんやりとした視界の先に誰かがいる。細い肩、長い髪、こちらに背を向けて儚く座り込んでいる。その後姿を、自分は良く知っていた。

 ――母さま。

 思わず声に出せば、母はこちらへとゆっくりと振り返る。子供の落書きのようにぐちゃぐちゃに塗り潰され表情など見えないと言うのに、泣きたくなる程に優しく緩やかに微笑み返してくれた。溢れ出る胸の痛みにきゅうと唇を噛み締める。喉の奥が痛い。肌が粟立って、息が荒くなる。酷く儚げな印象の母はいつもどこか弱々しくて、あまりお身体が丈夫ではなかったように思う。微動だにせずにいるこちらを、見えない筈なのに不思議そうに見つめてきていると解るその眼差しは、優しくもやはりどこか疲れたような色をしていた。

 ……もう、顔も声も覚えていない。

 だってこの方は、――。

 認識した瞬間、溶けた闇がぐにゃりとたわむ。

 ずるりと歪んで、優しい母の顔が崩れ落ちる。裂けるかのように母の口元は大きく弧を描き、そこから大量の鮮血が噴き出した。母の細い指が口元を押さえるが、滴り落ちる赤は止まることなく流れていく。ぼたぼたと音を立てて、命が溢れて落ちる。気がつけばその細い身体はずたずたになっていて、内側から破壊されたかのようなそこは空気が押し出される度ごぼごぼと音を立てて真紅をこぼしていた。

 喉の奥で呼気が詰まる。己の意思に反して身体が小刻みに震える。

 母さまと、咄嗟に差し出した手が切り裂かれる。痛み、母と同じように吹き出すそれは闇の中できらめいていていやに鮮やかで。それでもなお伸ばした指先は母の温もりには届かない。


 ――オ前サエイナケレバ。


 血まみれの母の口から機械じみた動きで放たれた野太い声が、男の声が。これでもかと冷ややかにこちらを弾劾する。目を逸らせない自分の目の前で、母親だったものの身体がふたつに裂けた。そこから現れたのは黒い刀身の巨大な大鎌、ナハシュ・ザハヴを手にした怒りと憎しみに染まった血塗れの男。先代魔王、自分の父。こちらを射殺さんばかりの憎悪に満ち満ちた眼光がこちらを射る。ぞわりと。足が竦んだ。震える指先、早鐘を討つ心臓から繰り出される血という血が凍り付いたかのように。


 ――赦サヌ。


 怖気の走る呪いの言葉。縫い留められたかのように動けない。

 明確に叩きつけられる殺意。敵意。怨嗟。

 振り上げられた黒い刀身が確かな殺意を持って振り下ろされる。お前など。お前さえ。眼差しが、その振る舞いが。全身で己の存在を否定していた。消えてしまえと。全身全霊で私という存在を否定する。振り下ろされた刃が肩から腹にかけて食い込む、骨を砕き肉を引き裂き、はらわたを破壊し苦痛を血潮をぶちまけた。しとど溢れ出る血肉が足元を濡らす、母はとうに壊れ、原形も留めぬ肉塊となって狂ったように笑っている。けたけた、けたけた。笑い声が耳を刺す。噎せ返るような血の匂い、砕かれた骨が尚も肉に突き刺さり肺腑を圧迫する。口から吐き出された黒々とした血、吐瀉物、どうして。じわりと眼を覆った水は一体どういった意味で溢れたのだろう。黒い刀身をこちらに振り下ろした父は引きつった表情のまま笑っていた、反らされぬ憎しみの目。真っすぐにこちらを見ながら私という存在を力の限り憎悪していた。噴き出した血に染まり、悪鬼のような表情でがなり立てるようにこちらに向かって悪意を撒き散らす。お前など。繰り返し否定される。いらないのだと。


 ――見ルガイイ、オ前ノ罪ヲ。


 嘲笑うかのような声と共に、周囲が一変する。

 足元に広がるのは夥しい数の死体。砕かれた骨、腐敗した死肉、力任せにへし折られた翼は天使のものも悪魔の者ものも等しくそこに転がっていた。闇の中でなお存在を主張する血の池は粘度を持って身体に絡みつく。目を覆うような惨禍、見慣れたオレンジの髪が血の海に浮かんでいる。ずたずたに引き裂かれた黒髪の人間達、緑の瞳は薄汚れ濁り、腕も足もばらばらにされて物言わぬ唇が確かに呪詛を口にしていた。何故おめおめと生きている。呪われろ。死んでしまえ。そこには金の髪も混じっている。折れた白い翼は赤黒く染まり、ありえない形に変形したそれは皮膚から骨が突き出していた。ずっとずっと切望していた輝く天の空色に似た瞳が、今は光を無くしてぽっかりと開いている。骸の眼光が呪いの言葉を吐く。


 ――汝、永劫ヲ不浄ニテ束縛サレヨ。其ノ身ヲモッテ大罪を償ウガ良イ。


 似て非なる声。

 それでも、物言わぬ骸が、虚空を湛える眼差しが。断罪する。私のせいだと。存在を否定する。いらないのだと。ナハシュ・ザハヴを握ったままの父は、面影を残したまま異形の姿へと変貌する。異形の無数の腕がこちらを掴む、腕を、脚を、髪を。掴んで力任せに引き千切る、伸びてきた腕がぎりぎりと首を締め上げる。ぶちぶちと音を立てて避ける肉の音、食いこむ指の太さと力強さ。込められる力に純粋な憎悪が燃えていた。


 ――ごめんなさい。


 途切れ途切れながらもなんとか口にした謝罪はしかし、誰にも受け取られる事もなく闇に溶けて消えていく。

 意味がない。必要でない。謝った所で向けられる憎しみは消える筈もない。ただひたすら向けられる憎悪のまま肉体を、精神を力任せに引き裂かれる。終りのない重苦、でも、それでしか償えない罪を負っている事も重々理解していた。千々に裂かれた身体を見て笑う、嗤う。嘲りの眼差しが、嘲笑が、耳にこびりついて離れない。飽和して脳裏を染め上げる。塗り潰していく。母の顔のように、他を許さぬ圧倒的な闇色。ひきつれた声が、喉の奥からか細く上がる。響き渡るのは呪いの言葉と嘲笑、誰も彼も、私の声など聞いてやしないのに――

 は、と。

 目を覚ました時、視界は暗闇に覆われていた。一瞬何処にいるのか解らなくなって反射的に身体を起こすと、ずるりと何か柔らかなものが自分の側からずり落ちた。それが、猫の姿をしたオレンジ色の使い魔だと気付き恐る恐る手を伸ばす。暖かい。細切れになっていない。すうすうと穏やかな寝息と上下するその背に、は、と。知らず押し込めていた呼気を吐き出した。

 どくどくと心臓の音が煩い。びっしょりと汗をかいた身体は柔らかな布団の中にいたというのに氷のように冷え切っていた。震える指先、ぎゅうと握りしめると爪が肉に食い込んでぴりりと痛みが走る。零れ落ちたのは自嘲、この程度の痛みで何を安堵している。

 そろりと周囲を見渡すが誰もいなかった。

 眠りにつく前まではぼんやりとした明るい闇だったが、今は深い黒が室内を覆っている。如何程の間眠っていたのか、すっかり日が暮れたようだった。身体の重さと寒さは鳴りを潜めていた、そろりとベッドから降りる。平衡感覚はしっかりとしていてふらつくような感覚はない。足裏がひやりとした温度を伝えてきて、明確にこちらが現実であることを突き付ける。汗で張り付いた衣服が気持ち悪くて、少し夜風にでも当たろうかと。そんな事を思う。

 小屋の中はしんと静まり返っていた。生き物の気配のない暗闇。

 自分が眠っていた梓の部屋は小屋の一番奥、唯一の出入り口はリビングを通った先にあった筈だ。そろそろと足音を立てないままリビングへと向かうと、ぼんやりとだが僅かに明るい事に気が付いた。思わず足を止める。

 どうせ天使がいるのだろう、そう思うと気が重い。

 あの男はなんだかんだと言いながら自分の側から離れる事はなった。私が人間に危害を加えないように、……私が。何者からも危害を受けないように。変わり者の天使、迎えが来たと言うのに私を殺すなと制し、人間に私を託し、……あの男は、どうして。いくら考えた所でわかる筈もなかったが、それでも疑問は尽きない。血に塗れ、呪詛を一身に受ける私を、悪魔を。天に仇なす魔王を。

 顔を合わせたくないと言うのが、多分一番しっくりくるんだと思う。

 夢の中のあの男は綺麗な金の髪を千々に乱し、光を失った青い瞳が虚ろに色を無くしていた。物言わぬ骸、白い肌を緋に染めて、薄い唇からはこちらへの呪いを綴っていた。恐怖とはまた違った感覚、夢の中とは言え勝手に殺した相手と顔を合わせるのはなんとなく気まずさがあった。

 いや、とも思う。

 気まずさなど知った事かと。

 ふわふわとした雰囲気を纏いそうとは感じさせないだけで、結構好き勝手に振舞う男だ。どうしてこちらが相手の事を慮る必要がある。夢の中で男の骸が転がっていたとして、不可抗力なのだから仕方がないだろう――そう思い直し、いささか乱暴にリビングへと踏み込んだ。

 そこにいたのは、金色の髪色こそは同じではあったが赤い瞳の銀色の天使だった。思っていた以上に意気込んでいたのだろうか、妙な肩透かしを食らったような感覚。

 ほんの少しだけ驚いたかのように、こちらを見る。煌めく紅い瞳は自分と似ているなとも思う。

「……あからさまにお前かみたいな顔すんじゃねぇよ」

 口も態度も悪い事だ。同じ天使でもこうも違うかと言わんばかりに、銀の天使、サンダルフォンは実に嫌そうに口にした。力を使ってメタトロンと同じ髪色にしたとはいえ、その赤い眼差し、少し吊り目の精悍な顔立ちは随分と印象を違えるものだった。柔らかな印象のメタトロンを静とするならば、今目の前にいるこの男は動である。湖畔の水面のように静かな男とは対照的に、燃え盛る炎のような苛烈さを内に秘めているかのような。

「どこへ行くつもりだ」

 交わす言葉などなく、すいと大人しくテーブルについている天使の側を通り過ぎれば苛立ちも露わに男はこちらを呼び止める。汚らわしい悪魔風情めが、と言葉などよりも態度がありありと物語る。これが普通の態度だよなと思いながらもふうと溜息。

「……貴様に許しを請う必要があるか?」

 これ見よがしなこちらの言動に腹でも立てたか、サンダルフォンは悪魔風情がとその美しい口元を歪ませて吐き捨てる。実に馬鹿らしい、無視して天使を通り過ぎてさっさと外へと出る。

「それの意味を忘れるなよ」

 男は興味もなさそうに、しかし忠告でもあるかのようにこちらの首を指差しながら告げる。

 それ――首元に嵌められた金色の輪。未だ外れもしないそれを指先でなぞりながら、こんなもの、とも思う。サンダルフォンがこちらに着けた首輪とでもいえる金色について言及する。逃亡防止、位置把握の為のもの。いうなれば、不穏な行動をしたこちらを問答無用で消し去る事の出来る術式。何がこの男の琴線に触れるかはわからないが、お前の命など好きにできるのだからという宣言にも聞こえた。

 命など。

 馬鹿馬鹿しくて鼻で笑う。

 なんなんだ貴様はと更に語気を荒げる天使を無視して外へと続く扉を開ければ、ふうわりと夜風が頬を撫でていった。ひやりとしたそれが酷く心地よくて目を細める、ほう、と知らず呼気が漏れ出した。

 最早振り返るだけの理由もなく、後手で扉を閉める。銀の天使は別に追ってくるでもない、好きにすればいい、行動は監視しているようなものなのだから。不穏な動きをすれば命はない、とも言っていたな。消してくれると言うなら、それはそれで願ったり叶ったりではあるが。殺すなと命じられている以上、余程の事がなければ行使されないであろう術式など意味があるとも思えない。

 夢の残滓を振りほどくように意図して踏み出した足、さくりと音を立てる大地、可憐な草花。濃紺の空は月が煌々と輝いていて、幾千の星々が鮮やかに瞬いていた。夜半だろうにそれらが光り輝き酷く明るい。

 緑多いエルフの里、葉を濃く茂らせた木々が風に乗ってざわざわと鳴る。生命に満ち溢れたここは命あるものの気配が濃厚で、酷く息苦しさを覚える。

 ――生命とは無縁の生だったように思う。

 闇より濃い闇、光などない世界。周囲は死臭に塗れていた。命の抜け殻が転がるばかり、生を否定された自分が世界を違え天使と共にこの場所に来た意味をずっと考えている。まるで報復のように命に、善意の者に囲まれる意味を。命を肯定する者と共にいる意味を。

 あてもなく歩を進める、足元からはさくりさくりと軽やかな音が聞こえる。

 踏みしめる大地、肌を焼く陽光が隠れてしまえば周囲を支配するのは視界を覆う闇色だった。しんと静まり返った空間、果てしなく広がるそこに風が通り抜け、生い茂る緑の木々を揺らしては微かな音を立てる。耳の上を通り過ぎるように撫でていく風に交じって、ふと。何かしらの旋律が聞こえたような気がした。

 そろりと周囲を窺う。意図して耳をすませば自然界で発生する不規則な音の連なりではない、緩やかに抑揚のある何かしらのメロディが聞こえてくる。歌声だ。それも、軽快なものではなく月の光のような淡く儚い。

 何とはなしに声のする方へと足を進める。

 少しずつ歌声が大きくなる、はっきりと聞こえるようにはなったものの相変わらず音量はさほど大きくない。優しい声だと思った。呪いの言葉とはかけ離れた、温かく慈しみに満ちた声。近付くにつれ、聞こえてくる歌が自分達の元いた世界での言葉であると気付いた。やや開けた場所、視界の先。果たしてそこには小さな岩の上に座り込んだ男がいて、――思わず呼吸を忘れた。

 月の光に照らされて、男の美しい金髪は発光しているかのように淡く光を反射していた。柔らかなそれはさながら森の中に佇む妖精のようですらあって。寄ってみればただの女顔の大男だと解ると言うのに、彼の持つその中性的な顔立ちが、雰囲気が。月に照らされた優しい声が。子守歌のようにも、鎮魂歌のようにも聞こえる静かな響きのメロディを、優しい声が静かに歌っていたのだった。誰に聴かせるでもないだろう呟きにも等しいそれは、それでもどこか泣きたくなるように感情を揺さぶる。足が止まる。

 一体どれほどの間そこに立ち尽くしていたのだろう、酷く長い間そうしていたようにも思うがほんの一瞬のことだったのかもしれない。

 一通り歌い終えたのか、天使が口ずさんでいた歌はふ、と。止んだ。そうして男の閉じられていた瞳が再び姿を現し、ゆるやかに伏せられていた顔が上がる。ぱちくり――女顔とはいえ、中世的な顔立ちだとは言え。細身ではあるがれっきとした男の仕草ではないのだが、それが不思議と似合う男がこちらを見る。

「……ルーシェル?」

 歌の代わりに、低く甘く、香るような声が自分の名を呼ぶ。

「どうしたのです一体……体調はもう良いのですか?」

 こちらを気遣う声と共に空色の瞳が柔らかく溶けだす。

 音もなく座っていた岩から降りてこちらへとやって来る天使。見上げる程の男の髪が冷えた夜風にゆるく揺れる。強く優しい光を宿した青い瞳、さらさらと流れる金の髪、地上から見る晴れ渡る空のよう。まるで焦がれ続けた空そのもののような男だと思った。夜の中にいるというのに月の光を受けて淡く光を纏う、夢の中の闇色がぞろりと心の蔵を撫でつける。

「……あいつらは」

 ふいと視線を逸らし、どうでもいい事を問う。

 ルアード達は小屋にいなかったようだが。言葉を続ければ、男は少しだけ目を見開いた。

「何も聞いていないのですか?」

 サンダルフォンに言付けていたのですが。

 ごく自然に発せられた言葉に、やっぱりこの男はずれていると思った。あれだけあからさまな敵意を向けてくる銀の天使が、魔王である私に手を貸すなとありえないだろうに。

「……何度でも言うが、天使が悪魔に親切を働くと思っているのは貴様くらいだぞ」

 呆れたように言ってやるのだが、男はそうかもしれませんねぇと特に堪えた様子もなくへらりと笑っていた。一体どこまで理解しているのやら。

「オリビアさん達は屋敷に戻られていますよ。また明日の朝、来ていただけるようです」

 いつもと同じトーンで天使は告げる。

 穏やかな声、表情。

 この男は一体何を思って歌っていたのだろう。光溢れる世界の住人が、こんな夜の下で、こんなところで。口ずさんでいた優しい歌。優しい旋律の歌だった、やはり天界が恋しいのだろうか。それとも、――誰かを想って? そろ、と再び男を見る。天使は穏やかな笑みを口元に浮かべているだけで、感情も腹の底も解りはしなかった。この男が一体何を思った所で、誰を想った所で。自分には関係がない。

「一人やたら嫌がってたのがいなかったか」

「里を出る時のお約束だったようですから」

 長い黒髪の、青い目をした人間の事を言ってやれば天使は約束は守るべきだと言いたげに緩く笑うばかりだった。約束、ね。自分と交わした戯言のような口約束を律儀に守り、配下にもそれを強要するのだから大した阿呆だと思う。

 意味のない言葉を交わしている。

 それなのに、どこか安堵している自分がいた。

「私達も明日改めて謝罪と感謝を述べねばなりませんね」

「勝手にやればいい」

「そういうわけにはいかないでしょう」

 どうでもこちらも共に連れて行く気だこの男は。

 呆れと共に妙におかしくて苦笑が漏れ出た。阿呆な木偶の棒は非常に強情だ、こうだと決めたら譲る気はないらしい。儚げな見た目に反して意志が強いのは、天界を統べる者として必要条件なのかもしれないが――融通が利かないのは、あまり美徳とも思えない。

 しんと静まり返った夜。月は冷え冷えと輝き星々は瞬いている。冷えた空気がぴんと張りつめて、通り過ぎていく風が耳を掠めて小さく鳴る。男の美しい金の髪が夜風に揺れて銀色に輝いている。光が最も似合う天使が、月明りを受けてやわく微笑んでいる状況はあまりにも物語然としていて、どこか現実味がなかった。

 夢の、続きではないだろうか。

 ふとそんな不安が鎌首をもたげた。

 そんなわけないだろう、自分に言い聞かせる。

「それで、貴様はここで何をしていたんだ」

「え、と、」

 男は少し言い淀んだ。

 視線を僅かに揺らせて、どこか言いにくそうにしていたが。ややあって男はゆっくりと口を開いた。

「……少し、一人になりたくて。温泉もどうぞと言われていたので湯を頂いてきたのです。夜風が心地よくてここで涼んでいました」

 流れるような言葉はしかし、いつもの通り。

 先程歌を口にしていたのと同じように、何でもないように男はゆるやかに。

「こんな夜中にか?」

「あまり肌を見せたくなくて」

 訝しげに問うも男の表情は揺るがない。

 水浴びくらいはするのだろうが、肌を見せたくないなどと実に潔癖な天使らしいなと思うと同時に、以前雨に降られた時普通に服を脱いでいた事を思い出した。上半身裸で一晩抱き込まれていた事まで芋づる式に思い出してしまったが、かぶりを振って記憶から追い出しなかった事にする。

 天使の衣服は基本的に肌の露出を抑えたものだ。指先も足先も覆いつくす白く長い布、首元も覆われて出ているのは首から上だけだと言っても過言ではない。

 現在、自分達はこちらの世界の標準的な衣服に身を包んでいる。あんな裾の長い衣装で問題ないのは宙を舞い霊力で雑多な事までカバーできるからなのだろうが、この世界ではあまりにも不便だからだ。

 つ、と。

 改めて視線をやった先。

 着替えたのか、昼間よりも少し襟ぐりの広い服装になっていた。月明りは煌々と周囲を照らしている、暗闇の中、影になっていた部分がちらりと月光のもとに晒されふと目についたのだ。

 お綺麗な天使様らしくすっとしなやかに伸びた首筋が晒されていることに気づき、思わず息を飲んだ。白い肌には似つかわしくない赤黒い傷痕が縦横無尽に走っていたのだ。多少は薄れてきているとはいえ、複数の傷が折り重なるように。癒えた傷の上に更なる傷、首元など噛み千切られたかのように歪に引きつれている。

「貴様、」

 余程呆けた声でも上げたのだろうか。こちらの視線の先に気付いたらしい男が、さ、と首元を隠す。よくよく見れば男の手の甲にも酷い傷痕があった。血が滲んでいないから傷痕だと解るだけで、酷く深く、刃物で切り裂かれたであろう物も牙で受けたのだろう物も際限なくそこにはあった。雨に濡れた日、この男の素肌を見た時にはなかったものである。

「……傷自体はとうに癒えているんです。ただ、体温が上がると一時的に浮かび上がってしまって、」

 気持ち悪いでしょう――掻き消えるような声で。

 男は初めてこちらから視線を逸らした。

 だから、こんな夜中に一人で湯を浴びたのか。夜風に当たりたいからと言い訳をして、一人熱を冷ましていたのか。そんな、酷い傷を抱えて。どんな思いで歌を歌っていた。

 戦天使なのだと言っていた。

 私の父が魔王だったころ戦場で戦っていたと。

 その時に受けた傷だろうか。馬鹿みたいに強いこの男も、負傷する事があったのか。それは驚きにも似た感情だった。通常であれば当たり前のような気もしたが、この男は、何もかも恵まれた天使どもは。美しく清らかなこいつらは、ただただ安穏と暮らしているのだと信じていた。いや、信じていたかった、?

「古傷ですよ、受けたのはもうずっと昔の事です。剣を取り戦う日々の中で沢山の同胞が死に、同じだけ悪魔を殺しました。命のやり取りですから――当然、無傷では済みませんし」

 天使はなんでもないかのように語る。穏やかな物言いに騙されがちだが、これといった起伏のない語り口は感情的なものが排除されていた。大した感慨もなく事実のみを淡々と口にしている。

 このような言い方ならば傷痕はきっと見える所ばかりではないのだろう。今着ている薄手の衣服の下、そこにはきっと、目も覆いたくなるようなものがあるのかもしれない。アーネストも酷い傷が残っていたが、この男はそれ以上だ。長い長い間戦場にいたのだろうか、一体幾度、死の淵を彷徨ったのだろう。強力な回復霊術、それでも身体が受けたダメージをこうして吐き出す程度には繰り返されたのかもしれない。

 脆弱な人間とは違い頑健ではあるが、痛みがないわけではない。

 痛覚は反射として機能する、回復霊術は時間の巻き戻しではなく促進だ。剣を振るい、霊術を使い、一体如何程の時戦い傷付いてきたのだろう。この男の事だからきっと多くの仲間を助けたのだろう、それと同時に、一体どれ程の悪魔を殺してきたのだろう――

 闇色の世界。山と積まれた遺骸、血臭、腐臭、死臭。

 耳を劈く悲鳴と咆哮、衝突する金属音、幾多の霊術、詠唱。力の奔流が炸裂し血肉をばら撒く。

 そろりと指を伸ばしたのは、本当にただ、気になっただけだった。夢が影響したのだろうとも思う。血と死臭漂う闇の中で血の海に沈んだこの男の躯を見たから、だから触れて、熱を、生きているということを確かめてみたいと。この男に死なれては困るから、だから。

 こちらの伸ばして指先がそろりと男に触れる。男は逃げなかった。ほんの少しだけ驚いたかのような呼気が漏れ出ただけで、男は無防備にしている。拒否がないことをいいことに胸のあたりに手のひらでそうと触れてみると酷く暖かかった。恐る恐る、ほんの少しだけ撫でてみる。やわく硬い胸板から拍動が確かに伝わってきて、間違いなく生きているのだとわかった。夢ではない。あんな、濁り腐り落ちたかのような目は。千々に乱れ薄汚れた金の髪は。現実ではない。

「……もう、痛くはないんですよ」

 優しい声が頭上から降り注いではっとした。

 男の胸を撫でさすっている自分にそこでようやく気が付いたいたのだ。これでは男の傷跡をこちらが心配したかのようではないか。慌て手を引き離そうとするのだが、しかし男の指に柔らかく絡め取られてそれも出来なかった。緩い拘束とも言えない指に、そのままやわく握り込まれる。あたたかな手、じわりと伝わる体温。女顔の天使のそれは酷く硬く、剣を握るからだろうかごつごつとしたものだった。自分の物よりも遥かに大きく指も太い。かあ、と。体中の血という血が、足りない血が沸き立つように熱を持つ。

「ありがとうございます」

 囁きが落とされる。泣きたくなるほど優しい声。

 まっすぐにこちらを見下ろしてくる青い瞳がゆるく溶けて、柔らかく滴り落ちてくるかのように。夢の中の呪詛を飲み込むかのように、塗りつぶしていくかのように。透き通った空色、囚われる、そう思った。

「ちが、貴様なぞ、心配したわけでは、……ッ」

 自分が自分ではなくなりそうで、乱暴に男から手を引き放した。離れた指先にはまだ男の体温が残っているようで落ち着かない。振り張ってしまいたいのに、薄れていく暖かなものが酷く惜しいと思った。思ってしまった。血が足りないからだ、寒いからだ。必死に言い訳を積み上げて男が触れていった手を隠すように自身で握り締める。頬からは熱が引かない、熱い。寒い。ぐちゃぐちゃの思考のまま、何か言わねばならないと、否定をと必死になるのに喉の奥で言葉が絡まり合って出てこない。

「私が、嬉しかっただけですから」

 風の中に溶けていくかのような声。そろりと見上げた先にいた男は、ふわりと微笑む男は本当に嬉しそうに、あまりにも美しく微笑むものだから。それ以上何も言えなくなってしまった。

 違う、そんなつもりじゃなかった。

 心配などしていない、天使の傷なんて珍しいと思っただけに過ぎない。酷い傷跡を不安に思ったのは夢のせいだ、全部、全部。この男に死なれては困るのだ、自分と唯一対等な力を持つ者だから。惨たらしく殺して欲しいのだ。生きる事は罰だ、罪は消えず積み重なっていく。全てを終わらせたい。だから、だから。

「……そろそろ戻りましょうか。あまり夜風に当たるのも体に障る」

 まだ本調子じゃないのでしょう――

 ささやきのように呟いて、男はごく自然にこちらへと手を差し伸べてくる。降り注ぐ月光、酷く明るい夜の下でまるでワルツでも踊りましょうと言わんばかりの優雅な身のこなし。先程まであった傷痕は指先から、手の甲からほとんど消えていた。まるで月が雲に隠されたかのようだと思った。目には見えないのに確かにそこに在って、痛みを与えているかのように。

 その手を、躊躇いなく取れたならば。

 そんな馬鹿げたことを考えながら、自身に言い聞かせる。

 勘違いをしてはいけない。

 この男は誰にでも優しいのだから。平等に与えられる情愛を錯覚してはならない。

 身体は酷く熱を持っているというのに、汗は既に全身から引いていた。しっとりとした衣服が夜風に触れて、ひやりと肌に張り付く不快感に僅かに顔をしかめる。理解できぬ胸の内、夢の中でかき乱された感情はどこまでも仄暗い。闇に彩られた地の底、凄絶な光景、向けられる穏やかな表情は正しく光で泣きそうになる。これ以上掻き乱されたくない。

「必要ない」

 短く告げ、差し出された男の手を取らない。

 さして気にした様子もなく、男はそうですか、と小さく返してくるに留まった。他意などないのだとわかりきっている。こういう男だ、真実善人で清らかな天使。悪魔など塵芥のようにしか思っていないこともわかっている。この男は、男の信念でもって行動をしているにすぎないのだ。求められたら応えるまで。その言葉が全てを物語っている。

 それでも、解っていたとしてもそれでも尚、男の側は酷く息がしやすかった。敵対者ばかりの中で共闘と言う形でいるからだと思う。直球の敵意は、――なくはなかったが。それでもこの男は私に害意を向けない。傷付けない。恐ろしく奇妙な関係。

 ゆっくりと小屋へと戻ろうと足を踏み出した。さくりと、再び足元から大地を踏みしめる音がする。目の前に広がる光景は月の明かりに照らされて幻想的な儚さがあった。まるで非現実。凄惨な夢の後に現れた穏やかな夢の続きのよう。

 後ろに続く男は何も言わずにこちらの歩幅に合わせて付かず離れずを保っている。横たわる沈黙、緩やかにそよぐ風がゆらゆらと髪を弄んでいる。

 ――終わりはいつだろう。

 そんなことばかりを考えていた。

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