44 白堊おとないて - 6 -
ルーシェルを梓達に任せてリビングへと戻ると、オリビアが一人室内を片付けていた。横倒しにしてバリケードにされていたテーブルを重たそうに動かしていたのを手伝う。ひょいと持ち上げて元の場所に戻すと、ほう、と。エルフの女性は改めてこちらの姿を見て安堵とも落胆とも取れる溜息をついた。
「……ルーシェル殿は」
「梓さんに休ませていただきました」
「そうか」
がたがたと音を立てて椅子を戻すのを手伝いながら、ぽつぽつと言葉を交わす。そうこうしているうちに戻ってきたのはルアードだ。休むようにと連れて行った黒髪の青年の姿はそこにはない。
「一人にしてくれってさ」
眉毛を下げて、フラれちゃったーと。
いつもと変わらない口調ではあるものの、しかしその表情はどこか不自然に歪んでいた。無理矢理口角を上げて、笑みを作っているかのよう。
ヨナの封霊具、サンダルフォンの来着、霊術の発動、魔王の負傷。
天使と悪魔の対立などこの世界に住む彼らにとってはまるで関係のない事である。厳重な結界に守られたエルフの里でのこの事態は彼らの不安を煽るだけろう。接触を断つ為の結界、閉塞的な集落。変則的なものは受け入れがたいと言っていたというのに。この世界にはないと言う霊力、術式の展開による力の流れは恐らく里の者なら皆解るのだろう。だからこそオリビアがわざわざ早馬を使ってやって来た。様子を見に、不穏な気配を察知し里の物を護る為に。
……この世界での纏う色彩について、いささか無頓着であったことを反省する。話を聞いていても、この世界の書物を読んでいたとしても、結局のところ上澄みをさらった程度の認識でしかなかったのだと思う。理解した、という傲慢さ。
「すみません、」
それ以上何と返していいのかわからず、俯きがちに視線をふいと逸らした。謝罪の言葉は口からついて出るもののあまりにも白々しい。
「そんな顔しないでよ、遅かれ早かれこうなってたさ」
ぽん、と肩を叩いてルアードは意図してだろう、酷く明るい声で笑う。
大丈夫だよ、と。いつかはこうなっていたんだと。彼はこんな時でもこちらを気遣う。その優しさが苦しい。彼にとって大切にしているアーネストにあのような、僅か怯えたような、憎悪に染まった表情をさせてしまったというのに。肌を突き破りそうな怒り、怨恨、深い海の底のような青い瞳は震えるように蠢いていた。
「……最初から無理な話だったんだ」
小さくオリビアは呟く。
固い声にしかし感情は乗っていない、まるであいつに敵討ちなど無理だと言っているようにも聞こえた。諦めのように。絶望のように。目印のように人とは違う色彩を持つ人を喰らう神、人の手によって滅ぼされたと伝えられるのに未だこの世界に生きる者達に深い恐怖を残す種族。
「人間が太刀打ちできるような相手じゃない」
重く低く。その表情は絶望に移ろう。
強大な魔力を持つ竜人、彼らが持つ人とは異なる色彩。人の血肉を喰らう人に似た人ならざる者。勝てるわけがない、脆弱な人間が。魔力を持つエルフもきっと、……直接対峙したとて、敵うわけがない。彼女の声が、表情が言葉よりも雄弁に語る。竜人とはそれほどまでに異質な存在なのだろう。
室内にはオリビア、ルアード、自分、サンダルフォン、ヨナの五名。先程皆で席についていた時の賑やかさは完全に鳴りを潜め、しん、と室内は静まり返っていた。さほど広くもない小屋の中に漂う不穏な空気。
「竜人ってのは、そんなに凶悪なものなのか?」
事態をいまいち把握していないサンダルフォンが、腕を組み壁に背を預けて怪訝な声で問う。彼の側にはヨナがちょこんと立って、こちらを不安げに見上げていた。
竜人についてかいつまんで説明するとへぇ、と。彼は興味深そうに声を零す。
「色が明確に人かどうかを分けるってのは面白いな。俺のこの髪色も大概珍しいものだが、そこまでの恐怖対象にはならない」
今は色を変え、柔らかな金色になった髪を指先で弄びながら口にする。
サンダルフォンの硬質な銀の髪は天界でも珍しいものだった。さらさらと絡まる事もなく煌めく刃のようでとても綺麗だと自分は思うのだが、変わった色彩という事でそれはそれで苦労も多かったらしい。彼自身は非常に優秀だというのに。
「その銀色を纏う竜人とやらは、特に邪悪なのか?」
「今現在『銀の神』に関するの目撃情報は聞いたことがない。元々数の少ない種だったらしいが……詳しい事は何もわからない。他の竜人を纏める王的存在だったとしか」
「それなのに俺を見てそこまで怯えるものなのか」
「危機回避行動において視覚情報はかなりの割合を占めるものだ。我々の世界では纏う色彩に意味がある、人間のように何の力を持たない種はとっさの判断が生死を分ける。危険な状態から回避する為に、一目で恐怖を覚え、恐怖から距離を取るという回避行動を行う。何もおかしな事ではない」
サンダルフォンの問いにオリビアがむっとしたように反論する。
まるきり魔法の使えない人間にとって、人と違う色彩というのはある種の符号なのだろう。エルフや我々霊力を扱う者達が感じ取る事の出来る力の流れ、纏う気配、それらを視覚情報で補っている。反射と同じだ、考えてからの行動は一瞬の隙も逃げる為の時間をも奪う。
「なるほどな、……こちらの世界で言う悪魔みたいなものか」
畳みかけるかのように告げたオリビアの言葉に、ふうん、と。得心したように小さく漏らす。
「アクマ?」
「あ……えと、ルーシェルのことです」
聞き返すオリビアに補足をすれば、ああそういえば、と。屋敷へ招かれた時にざっくりとした説明でも思い出したのか、オリビアはそういえばそうだったなと小さく口にしていた。
「アクマも、人を食べたりするのか?」
「いや、元来肉は食わない筈だ。甘い言葉で人間を誘惑し悪事に導き、穢れた魂を喰らうと言われている」
まあ全くいないわけではないのだけども。
実に頭の悪い事だと、サンダルフォンは侮蔑を口にする。
実際、低級者が肉を喰らえば強くなるなどといった妄言じみたものを信じて、数こそ少ないとはいえ人や天使を襲う事例もなくはなかった。
「悪魔は邪悪なる者。悪辣で外道だ。血を好み闘いを煽る。女悪魔なぞ自分の身体を武器にする。穢らわしく肉欲を刺激し、享楽に耽る。美しい外見は力の象徴ではあるが、誘惑の意味合いも強い」
にくよく、ごくりとルアードが喉を鳴らしたのをオリビアが遠慮会釈なく殴り飛ばしていた。何すんだと器用に表情だけで姉を睨みつける弟の図に、しかし眉一つ動かさずサンダルフォンは続ける。
「あの女は悪魔どもの王、醜悪で冷酷、弱者に苛虐し惨烈を極める。そこにあって害悪でしかない者、生かしておくだけの理由がない。我々は悪魔を殲滅する為の存在だ、見た目に惑わされてもあれの本質は邪悪でしかない」
口にするのも穢らわしいとばかりに吐き捨てた。
しかし、エルフの姉弟は互いに顔を見合わせ、目をしばたかせる。
「……サンダルフォン殿、でしたか。その、あなたが仰るアクマというものと、私の知るルーシェル殿はあまりにも乖離しているようなのだが」
おずおずとだが、困惑の声を上げたのはオリビアだ。
「なんだって?」
「貴殿がおっしゃるような、そんなに凶悪な方とは思えないのだが」
悪魔というものを知らない世界の者の発言だ、と思った。言葉の持つ意味、設定された枠組み。定義は乱暴だとしても真を突く。悪魔とはそういうものだ――当然、これに対してサンダルフォンは鼻で笑う。
「悪人が悪人の姿形をしているとでも?」
「最もだ」
眉を顰めるサンダルフォンに、オリビアはけれど、と続ける。
「けれど、彼女は明るい場所を苦手だと言い、酷く酒に弱く、これは……こちらの落ち度ではあるが。メイド達に遊ばれてしまったが暴れる事などなかったが」
「はあ?」
何を言っているんだ――そんな表情を、声を、隠しもせずサンダルフォンは素っ頓狂な声を上げた。遊ばれる、という表現はいささかズレた発言のような気もしたが、メイド達に風呂の世話をされていたルーシェルはほとんど問答無用で連れていかれていたし随分と可愛らしいワンピースを着せられていたのだ。ヨシュア殿も、とでも言わんばかりにちらりとこちらを見たオリビアの視線は気付かなかったことにする。
「そうだねぇ、こちらの認識としては気の強い華奢な女の子なんだよね。ふわふわした女の子が苦手なのかな、いらないってすんごい拒否してたのに最終的に押し切られてご飯食べてたし」
共に旅をしてきたルアードもオリビアと同じ意見らしい。いつか泊まった宿屋での事。優しい女将さんと、竜人について調べているというリリーに随分と世話になった。その時にあの娘は、と。人間の娘相手にルーシェルが妙に苦手意識を持っていたことを思い出す。
「今朝もなんやかやと着飾られていたな」
「つやっつやの黒髪が最高に綺麗だったよねぇ」
うっとりと語るルアードにサンダルフォンは理解できないとばかりに表情を歪めている。
我々の外見は霊力の強大さに比例している。
竜人も見目好い姿をしているのは人の警戒心を緩める為だと言う、油断を誘い、血肉を喰らう。美しい姿で人に近付き言葉巧みに悪へと導く悪魔と、そう変わらないのかもしれなかった。
「あれだけの美人さんなら誘惑の一つもされてみたいけど、ルーシェルさんなんかそういうの嫌いそうだよね。高潔とでもいうの、態度はまあ尊大なんだろうけど可愛いものでしょ。ねぇ?」
にこにこと笑いながらルアードがこちらに同意を求める。
かわいい、のだろうか。息を飲むほどに美しい悪魔、流れる黒髪と強烈な印象を与える血のように紅い瞳。馴れ合いを嫌い、誰にも頼ろうとせず、こちらに敵対心を抱き常に腹を立てている。苛烈な感情をその身に宿しながらしかしその体躯はあまりにも細い。折れてしまいそうなほどに。
「俺達から見たらルーシェルさんは小さくて華奢なただの女の子なんだよね」
答えられないこちらへの回答のように、ルアードはふわりと口にする。
ただの女の子。
先日は解らなかったその言葉が、今はなんとなく解るような気がした。
この世界に来る前、散々悪魔は殺してきていた。邪悪で悪辣、斬り捨てていった悪魔、甘言に乗せられ堕ちた仲間、力及ばず殺されていった同胞。敵味方の屍を山と積み上げてきた。悪魔とは悪だ、刃を交えてきた悪魔はサンダルフォンが今言ったように例外なく口にするのもおぞましい存在だった。欺瞞、卑劣、協力という言葉はなくひたすら力の誇示。弱肉強食、強ければ強いほど地位が確約される為、蹴落としも騙し合いも星の数ほど見てきた。
……ルーシェルは、少なくともそのような事はなかったように思う。口は悪く態度は尊大ではあるけれど、平手も飛んでくるけれど。怖気の走るような醜悪さはなかった。孤独を覚える孤高。細い体躯。触れたそこは暖かく確かに熱を持っていた。理解の出来ない相反する相手であっても、確かに生きていて温かいのだと。感情があるのだということを知ったのだ。
「魔王を女の子ねぇ、よくもまあ懐柔されたものだ」
呆れたように。哀れみのように。
あの汚らわしさを知らないからそんなふうに言えるのだ、サンダルフォンの言葉はそういった意味を多分に含んでいた。我々がする悪魔の認識とは彼が口にしたものと変わりない。悪魔だからという先入観は確かにある。枠組みは断片的な評価ではある、多数を見た時の平均的な傾向。そこから逸脱する者は異端として扱われる。それすら、その枠組みに組み込んでも良いものなのか。
「……よく知りもしない者を悪しざまに言うのは感心しないな」
理解出来ないとばかりに眉を顰めるサンダルフォンに、オリビアはきっぱりと言い放った。豪奢な金髪、深い緑の瞳が真っ直ぐに銀の天使を射る。
「先ほどからあなたは一体どなたのことを仰っている。そのような悪人はこの里にはいないのだが」
彼女の言は、決して庇うような物言いではなかった。決めつけや思い込みなどではなく、対応した時の彼女の所感を述べているのだろう。
「……色に怯えるお前達が何を」
「それはそうだねぇ、知らない事、理解出来ない事は怖いものだからねぇ」
いっそ糾弾とも取れるオリビアの言葉にサンダルフォンは不服そうに口にすると、のんびりとルアードが続いた。
「だから俺達には言葉があって、意思の疎通を図ろうとして、理解しようとするんじゃないの? 問答無用でご飯にしようとしてくる相手はまあ、難しいけどさ」
竜人の事をちらと言葉の端に添えて、彼はなんでもない事のようにゆったりと笑う。
天使と悪魔、この世界にはいない自分達。敵対している事も殺し合う事も知る彼は、それでも、ゆっくりと。噛みしめるように、相互理解への道はないのかと問う。人間とエルフの事を、重ねたのかもしれない。
「そちらにも事情はあるでしょうよ、でも俺達はさ、色んなルーシェルさん見てんだよね。あなたが言うようなそんなとんでもない悪人なら一緒に旅なんか出来てないんだ。この里の皆のためにも普通に追い出すよ」
まあまず連れてきてないんだろうけど。
へらへらと笑いながら言うルアードにオリビアが呆れたようにはあ、と。息を吐いた。
「くそみたいなおせっかいのお前がか?」
「まあお姉様、お口が悪くってよ! そもそもあたくしお姉様を困らせようなんて思ってないのですわよ!」
「何なんだお前は……」
酷いわっと嘆いて泣く素振りを見せるルアードに、心底面倒くさそうにオリビアは頬を引きつらせていた。言葉もないと言わんばかりの表情に、ほんの少しだけ、張りつめた空気が緩んだような気がする。ルアードの穏やかなその柔らかい声は酷く心地が良いものだった。
「困ってるからと言って妙なものばかり拾ってくるじゃないか」
「一応害になるかどうか位は見極めてるつもりなんだけどねぇ」
「人間はともかく、妙な気配の彼らを連れて来ておいてそれを言うか」
「えー、何かあっても対処は可能だって思ったんだし。お迎えがこんな事になるとまではわかんないじゃん」
「だからそれが軽率だと、」
「そこは悪かったよ。でもさ、悪人じゃないのはねえちゃんも解ったでしょ?」
「お前がそう判断したのならそうなんだろうが、私は言うほど交流はないぞ」
「それもそうだ」
ふ、と彼の緑の瞳と視線が合う。にこりと、どこか悪戯っぽく細められて。
「ここに来るまでに色々あったよねぇ。街に行った事も装備を揃えた事も、お二人さんの喧嘩とか言い合いとかしょっちゅうだったけど何やかや旅を続けてさ。ねえほら覚えてる? ルーシェルさん、祝言だ夫婦だーってなった時の嫌がり方なんて凄くて、顔真っ赤にしちゃってそりゃあもう可愛かったじゃん。美人さんの恥じらう姿って」
「は?」
「え?」
とうとうと会話を続けていた姉と弟との会話に特大のは? をしたのはサンダルフォンだった。その勢いに釣られたらしい、ルアードがやはり驚いたかのように声を上げる。
「……誰と誰が祝言だって?」
「えっ、あ、えっとヨシュアさんとルーシェルさんが、」
彼らの言い分にそれはそうかもしれないが、これはこれであるしと黙って彼らの会話を聞きつつ葛藤していたサンダルフォンが明らかに、明確に、きっぱりと目の色を変えたのである。
「お嫁さんはぁ! ヨナですぅ!」
「お前は少し黙れ」
呆然としていたヨナが意識を取り戻したように叫んだのをサンダルフォンは片手で制止する。そうして壁に寄りかかったままだった彼がふらりとこちらへと近づいてくる。じとりとした眼差しがこちらを捉えて、覗き込んでくる。あまりの様相に思わず腰が引けたが、逃げるなと言わんばかりにさらにずい、と。詰め寄られた。
「……………………“ヨシュア”だって?」
言葉と共に空気が引きつれた。
地を這うような低い声には明らかな怒りが滲んでいる。
「なんで、名前呼ばせてるんだ?」
サンダルフォンは笑っている。それはもう美しく、唇が緩やかに弧を描いているのだが。彼の周囲に漂う空気が。非常に、非常に重苦しい事は解った。
「えと、メタトロンは称号ですので、その名を語るわけにはならないと、」
「本気で言ってるのか?」
「何か問題が、」
「ないと思ったんだな、思ったからこうなってんだな、お前は……ッ」
「えぇ……」
困惑するこちらに、サンダルフォンは頬を引きつらせていた。そうして今度はずいとルアードに詰め寄った。怒気を無理矢理に抑え込んだ表情のサンダルフォンに、エルフの青年はびくりと肩を震わせる。
「他には」
尋問まがいの低い声。
迫力に押されたのかルアードはあわわ、と意味をなさない言葉を口走っていた。縋るような目でこちらを見てくるが、こちらもどう反応したらいいのかわからないでいた。
「えっ、えっ、言っていいのこれ」
「いいから」
「えーっと、えーっと」
曰く、闘技場での事。
曰く、コートの購入の事。
曰く、竜人や悪魔の襲撃の事。
しどろもどろとではあるが一つずつルアードが答える度、サンダルフォンは笑顔のまま眉間に皴を一つずつ増やしていった。段々と小さくなっていくルアードの言葉、事例、完全に無言になった時、親友である眉目秀麗な彼の、刻まれていく皴の深さは未だかつて見た事のない程になっていた。
「なるほどなるほど」
サンダルフォンは相槌を打ちながら、深く刻まれた皺のままにこりと微笑んだ。……他人の心の機微に疎い自覚のある自分であるが、己の片腕とも言える副官が決して愉快な気分ではないことくらいは流石にわかった。彼が一体何に対して腹を立てているかも。
「随分と楽しんでいらっしゃったようですねぇメタトロンさま」
憤懣やるかたない――最早隠しもせず、サンダルフォンはずいとこちらに詰め寄って来た。引きつる彼の口元は何とか笑みを刻んではいるものの、その赤い瞳が、こちらを射る眼差しが。てめぇこの野郎ふっざけんな、と念話のようにはっきりとこちらに向かって叩きつけられる。
「あの、どれもやむを得ない事態でしたし、祝言とはいっても彼女とは何もありませんし、」
「あってたまるかあッ!」
爆発したかのようにサンダルフォンは声をこれでもかと張り上げた。激昂などとは生ぬるい、全身全霊で激しくこれ以上なく。
周囲に響き渡る声に、窓の外から森からバサバサと鳥が飛び立つ音を確かに聞いた。
※
ちかりと差し込む光が目を焼く。
ゆるやかに頬の上を流れていく風が張りつめた空気をも押し流していくかのようだった。意図せずほうと息をつく、それなりに気を張っていたらしい。
うるさい仲間割れは外でやれとオリビアに小屋の外へと追い出されていた。別に仲間割れをしたつもりなどないのだが、サンダルフォンの顔には相変わらずこの野郎とありありと書いてある。やらかした自覚は……零ではないが。そこまで叱られる事だとも思えない。やむにやまれぬ事情、恐らくあの場に彼もいたら同じような判断をしただろうにと思う。
「気の強い女だな」
放り出されたことが面白くないのか、サンダルフォンはぶつぶつと文句を言っている。多少は落ち着いたのか、酷く疲れたような表情でいる。眉間の皺は未だ寄ったまま。
「そのような事を言うべきではありませんよ」
「わぁーってるよ」
がりがりと頭を掻きながら、深く深く。彼は溜息をついた。髪色を変えたことで随分と印象が変わっているが、それでも側にいるのは気心の知れた親友だった。怒り狂ってはいたものの、それらはすべてこちらの事を想っての事だからと知っていた。異世界、悪魔との行動、彼がここまで来るのに如何ほど骨を折ったかなど分からないはずもない。
「ありがとうございます、」
改めて礼を述べれば非常に複雑そうに口元を歪めて、彼は別に、と。実にそっけなく返してくる。
さわりさわりと風が足元の草花を揺らしていた。
そうと視線を落とす、やわらかな色彩、天界のようにすべてが美しく整えられたわけではない、どこか歪さも残るこの世界優しい世界にふ、と。小さく笑みをこぼしてサンダルフォンと向き合った。
「今天界は大変な状況なのではないのですか?」
「そりゃあなあ。とりあえず現在こっちは被害状況を把握、魔王がぶち開けた各階層の穴の補修してるところだな。惨いもんだ、各界の門番皆なで斬りされてたんだぜ」
現状を問えば、怒りを滲ませながらも淡々とサンダルフォンは告げる。
「俺の霊体の一部を残してきている。長時間は無理だがまあ指揮したり何だりと適度に仕事してるよ」
異世界転移に多大な負荷がかかる。
実体ではなく霊体を天界に残したのは、移動時のダメージを考慮したからなのだろう。彼のような莫大な霊力を持つ者が転移する場合、肉体にかかる負荷は相当なものになる。霊体では消滅する可能性も否定できなかった。わざわざ彼が、自分に次ぐ地位のサンダルフォンがやって来たのは心配をしてと言うのもなくはないだろうが、あまり下に話を広げたくなかったからかもしれない。
あの日。
魔界の最下層からやって来た魔王は、息一つ乱していなかった。
突然の事に事態の把握が遅れた、彼女に殺された天使達は一体何が起こったのかすらわからなかったのではないだろうか。各階層の守護者達、門番、精鋭である彼らがいとも簡単に殺された。
ナハシュ・ザハヴの刀身を血に染め上げ、ぎらぎらと殺意にその瞳を燃え上がらせて――刃を交えたのはもう遥か昔の事のようだった。尋常ならざる霊力を持つ悪魔、天界を襲撃、悪意を振り撒き、命を散らし、辺りを血に染め、私に――殺される為にやって来たルーシェル。
……確定ではない。彼女は何も言わない。
ただ、そうだと仮定した場合つじつまが合うような気がしただけ。たった一人でやって来たことも、やたらと挑発してくることも。ああそうだ、悪魔の襲撃を受けた時だって、僅かなりと霊力が使える状態であそこまでの怪我をするだろうか――覚えた違和感はあらゆる事を邪推させる。つと、顔を上げて。
「メタトロンの座には今どなたが?」
「士官学校から何名か候補生を宛がってる。能力値は高いが、まあいきなり実践はきついわな」
サポートにも何人か人員を割いているのだと彼は言う。
メタトロン、サンダルフォン、どちらも役職名である。
悪魔と交戦し世界の秩序を護る為に、天界での教育機関はすべて軍事関係となっている。能力別に細かな分岐はあるがある程度の戦闘能力を求められ、上位能力者は候補生として更なる研鑽を積むことになっている。
有体に言えば控えである。
場数を踏んで、有事の際の代わりとして控えている。
「原状回復が優先事項だ、一刻も早く戻ってきてもらいたいってのが本音だね。各階層の警護ももう少し堅牢にしたい」
その為にはお前が必要だ。
彼の目が、声が、そう告げていた。
綻びのないように結界の増強は急務だろう。いつ悪魔がやって来るともしれない、侵入がないとは言い切れない。天に仇なす存在、永遠に交わらない。互いに互いを薙ぎ伏せる機会を窺っている。隙を見せるわけには行かない、全力で迎え撃たねばならない。
でも、いまは。
そろりと目を伏せる。
「……ルーシェルの事があります。今すぐというわけには」
「またそれか」
苛立ちもあらわにサンダルフォンは吐き捨てるかのように口にする。
「さっさと殺してしまえばいいのに」
「そういうわけにはいかないと、」
「解っているよ、お前はこの世界の人間達も護りたいんだろう?」
最早諦めたかのように、サンダルフォンはがしがしと頭を掻きむしった。柔らかな金の髪がふわりと揺れる、自分の髪色と同じものにしたと言う金色のそれは、陽の光を受けてぱちぱちと爆ぜるかのように輝いていた。
天界を襲撃した悪魔。やって来た異世界、我々が対立をしているなどこの世界の住人にとってはまるで関係のない事だ。既に多大なる迷惑をかけているのだ、これ以上、自分達のせいで何かを変質させてしまうわけにはいかなかった。
戻らなくてならない。
元の世界の皆の為に。
護らなくてはならない。
この世界の人々を。
――お前は帰りたいのか?
ふいに耳の奥で飽和して響く声。
甘やかさなど欠片もない、女性にしてはやや低いそれはまるでナイフを突きつけてきているかのようだった。酷く静かな声なのに鋭利な刃物のように胸を穿つ。帰りたいか帰りたくないか、そんな事ではない。感情の話ではない。あの静謐な空間を懐かしく思わないわけではない。必要とされている、あるべき場所にある事が最良ではない。けれど、――けれど。
「……しばらく時間をください」
「お前な、」
銀の天使は不服そうに表情を歪める。
「そんなに、この世界が気に入ったのか?」
ほろりとほどけていくかのような微かな声に振り返る。赤い瞳がどこか不安げに、口元が苛立たしげに緩く戦慄いて。
己の立場を忘れたわけではない、戻らなければならない。戻って、ルーシェルと決着をつけて、何もかもなかったかのようにすべて元通りに。ただそれだけだ。遅かれ早かれ、この世界とは、魔王とは別れることになるのだ。
――この世界が気に入ったかですって?
「あなたも、地上に住まう方々と交流を持つといいですよ」
ふわりと微笑む。それは本心。世界を違えるとはいえ、遠い空の上で地上を生きる者を眺めているよりずっといいと思う。自分はそうだ、護るべき者達、交わす言葉。交流、心。知れる事は、触れ合える事は僥倖だ。
急に何を言い出すんだと、訝しげにこちらを見ているサンダルフォンのその赤い瞳。彼は嫌がるだろうが、ルーシェルと同じ色のそれに、彼女はちゃんと休んでいるだろうかと。そんな事を考えた。
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