46 白堊おとないて - 8 -
無数の光が身体を貫いていた。己の身体から噴き出す血の色を静かに見ている。
さながら磔のように、腕を、脚を、身体を。鋭い光は肉を焼きながら大地へと縫い留める。じりじりとした痛みが肌を刺す。薄らと開けた視界の先には柔らかな金色の髪が揺れていた。冷ややかにこちらを射る青い瞳、色のないそれ。汚らわしいと言わんばかりの眼差しがこちらを射抜く。男の手に握られた剣がいやに白く光を反射していた。
天使の唇がなにやら形作られるのに、しかし憎悪に満ちたその声を、言葉を。自分の耳は拾うことが出来なかった。柔らかな声も感情もすべて排除された表情で、構えた剣が振り下ろされる。肉を裂く冷たい刃物を確かに感じていた。破壊される肉、臓腑、砕かれる骨が上げる悲鳴のような音ばかりが響く。吹き上がる血の色、鮮血が周囲を染め上げる。男の綺麗な顔が、春の日差しを想起させる金髪が己の血に濡れて赤く染まる。痛み、どこか遠く。ぼたぼたと動けないこちらの身体から音を立てて零れ落ちる血の色に、冷血な青い瞳に。声をあげて笑いそうになった。そうだ、それでいい。お前がすべきことは私をこうやって殺す事だ――届かない声。唇から溢れる血は苦く甘い。ごぼりと肺腑から押し出されて滴り落ちる。
幸いだ。
ルーシェルは笑みを刻む。
善であるとしか言いようのない男が償いようもない罪に染まった自分の最期を彩る。汚濁に満ちたこの身を切り刻み、終わりを齎すのだ。これ以上の幸福があるだろうか。断罪。贖罪。清らかな天使に焼き尽くされたなら少しはこの身に沁みついた汚濁は浄化されるだろうか。贖いが終わるとは思わない、それでも何もかも、全てを終わらせられるのであれば何たる幸いだろう。
こちらを射る男の氷のように冷えた青い瞳が目に焼き付く、吹き荒ぶ冬の空の色だと思う。強く美しい、迷いのない光を宿した戦天使。数多の悪魔を殺した男の攻撃は一撃必殺のように容赦がない。早く殺せ、己の唇から鮮血と共に絶叫が響き渡る。天使は無表情に再び構えた剣を振り上げ――
――びくり、と。小さく身体が跳ねると同時に目を見開いた。
視界に映る見覚えのない天井、周囲に散らばるぬいぐるみに一瞬ここはどこだと焦った。
そろりと視線を彷徨わせると柔らかな色彩のカーテンに目が行く、やたら沢山置かれたぬいぐるみ達にここが梓の部屋だとようやく思い出した。窓に引かれたままのカーテン、既に日が高く上ったのか室内はうっすらと明るい。
いつの間にか眠っていたらしい、じっとりと再び汗の滲んだ身体をのそりと起き上がらせる。唇から零れ落ちるのは重苦しい吐息だった。夢は夢でしかなく、願望が形となって現れるに過ぎない。食い込む刃の、その冷たい異物感は確かに覚えているのにこの身には今や一つも傷はないのであった。流れ出した命の色、は。もう幾度もなく目にしてきたものだ。天使も悪魔も、人間も皆同じ色をその身に宿している。命とは、等しく平等だとでも言わんばかりに。
くだらない。声にならない声を舌先に乗せる。
傍らにはオレンジ色の猫が腹を出して眠っていた。使い魔であるリーネン、実に無防備な事だ。そろりとそのやわらかな腹を撫でるがうひゃ、と何とも気の抜ける声を上げるばかりで起きやしない。本当に湯たんぽにしかならないなこの使い魔は……そんな事を考える。期待など端からしていないが、それにしてもあまりにものんきにすぎないか。
呆れとも溜息ともつかない息を吐き出し、暖かなリーネンの腹を再び撫でてみる。ふわふわとした柔らかな毛並みは存外気落ちが良かった。手の平で撫でつけるようにすればその度にうにゃ、とかうひ、とか妙な声を上げるばかりで一向に目を覚まさない。されるがままのリーネンに、不意に昨夜の事が思い出された。
歌を口ずさんでいた男が戻ろうとこちらを促し、無言のまま小屋へと戻ったのは多分大分夜も更けた事だったように思う。煌々と地を照らす月は空の高い所にあり、何とも言えず――そう、互いに言葉を交わす事もなく。扉を開ければそれはそれでサンダルフォンが何で一緒なんだと突っかかって来て、何もかもが面倒になってさっさと梓の部屋へと逃げたのだった。そうしてぼふりと寝台に身体を沈めたはいいものの、冷えた身体とは対照的に脳は熱を持っているかのように落ち着かなくて。
触れた指先から伝わる鼓動を、熱を、確かに覚えていた。夢の延長だったのだろうとも思う、思いたい。この部屋に戻って寝台に身を投げ出しても、男の指の太さ、手の平の大きさ、触れた手や胸の体温を払拭できないでいたのだ。負傷だ何だと抱きかかえられることは多くなっていた、抵抗しないのは無駄だと悟ったからに過ぎない。体格差の問題だ、天使は女顔だが体幹のおかしな脳筋である。男だと認識していた筈なのに、それなのに。改めて触れた硬い手に確かに男だと再度わからせられたのだ。
失敗した、そう思う。
ルーシェルは舌打ちをする。
如何なる理由であれこちらから触れるべきではなかった。身体はだるいのに結局いつまでも寝付けず、布団の中で己の失態について延々と後悔していたのだ。夢の中で天使の躯が無残に転がっていたから、血が足りなくて寒かったから。月の明るい夜は幻想的に過ぎて、どこか現実味がなかったから。だからまるで夢の続きのようで、きっと気が緩んでだから……いくら言い訳を重ねたとて、男に自ら触れたのは事実だった。ふるりと小さくかぶりを振って、正当な理由があるのだと言い聞かせるようにぎゅうと手を握る。
男の青い瞳が、柔らかなその表情が。形容し難い色を浮かべていたから。
傷痕を気持ち悪いだろうと口にする声は掻き消えてしまいそうなほど儚かったから。
肌を見せたくないと隠そうとしたその行動がどこか必死に見えたから。
酷く……そう、酷く。
そこから先に続く言葉を自分は出せないでいた。
一人になりたかったと言い、傷跡を隠し、月明かりの下で美しい旋律をあの男は一体どんな思いで口にしていたのだろう。
リーネンの仰向けにさらされた腹を撫でている、柔らかな感触の指先とは裏腹に思考は酷く尖った形になる。不可解な、言いようのない暗澹たるものが胸の内に広がっていく。
扉の向こうからは穏やかな話し声が聞こえてきていた。
ルアード達が帰って来たのだろうか、薄い板一枚で隔てらた先には談笑が満ちている。室内のぼんやりとした空間も相まって、まるで切り取られた別空間のようだった。光と影、相反する存在は交わる事はない。永遠に。あの男に触れたとて、どうという事はないのだ。天に住まう者と地に住まう者と明確な隔たりがある。光を導き闇を従える、現状が異常だから。昨夜からずっと同じ言い訳を続けている。
――言い訳?
そこではたと気付く。
私は一体何について弁解しようと言うのか。
「んにゃ、……るーしぇるさまぁ……?」
袋小路のような思考回路の間中無造作に腹を撫でていたからだろうか、流石にリーネンは目を覚ましたらしい。金色の瞳がぱかりと空いて、ぼんやりとこちらを見上げてきたのだ。そのあまりの間の抜けた声と眼差しに、は、と。小さく笑いが漏れ出た。泣きたくなるような感覚。
そんなこちらの心情など知らぬリーネンは獣よろしく大きく伸びをしたかと思うと、ぽふん、と起き上がって再び人型となる。寝ぐせだろうか、ぼさぼさのオレンジ色の髪に呆れて軽く梳いてやれば、えへへぇと幼女姿となった使い魔は酷く嬉しそうに笑うのだった。
「撫でられるの気持ちいですにゃあ」
緊張感のかけらもない緩んだ表情と声に、改めて肩の力が抜けるような気がした。こちらが眠っている間の見張りも満足にできない役立たずではあるが、その無邪気さが今は少し、ありがたい。血の盟約を結び、強制的に支配下に置いた使い魔ではあるが唯一の見方と言っても過言ではなかった。霊力で縛り付け使役者である自分いに従うしかないとは言えども、少なくとも裏切る事はない。天使の口約束よりも余程信頼できる。
肉体の損傷が続いている。
日の光に焼かれ、生命に圧倒され、正直気の休まる時がない。油断ならない天使、傷口は塞がれても全体的な回復には程遠かった。流し込まれるような回復術も応急処置の域を出ない。そこに加えてこちらに対する天使の不可解な行動だ、毎度のことながら何故天使がこちらを気遣う。いや、解っている、私の死がこの世界に与える影響を危惧しているだけだ。生かされているだけに過ぎない、そもそも、何故、あの男は。あの時こちらの手を握りこんだのだ。引き離すだけなら必要のない行動ではないか――
「……まだどこか、具合悪いですにゃ?」
不安げな声が耳に届いてはっとした。
ぺたりと座り込んだリーネンがこちらを見上げてきている。
「お顔が赤いですにゃ」
「あ……いや、」
指摘されて、そこでまた昨夜のことを思い出しているのだと気付く。思わず頬に手をやると確かに熱いような気がした、馬鹿らしい、動揺しすぎだと。たかが手が触れただけで情けない、なんでもないと取り繕うつもりがしかしこういう時ばかり行動の早いのが我が使い魔であって。
「大変にゃあ!」
先程まで寝ていたとは思えない素早さで、ほぼ絶叫と共に扉をぶち開けたのである。
※
梓の部屋は小屋の一番奥に位置していた。
とは言えども兄と妹の二人暮らしの家だ、大して広いわけではない。リビングと台所、兄妹の部屋がそれぞれ一室あるくらいしかない。
当然部屋から屋外に出るにはリビングを経由しなくてはならず、使い魔が勢いよく蹴破らんばかりの勢いで扉を開けるとそこにはくつろいでいたらしい面々のぎょっとしたような顔が並んでいた。
「わあリーネンちゃん、おはよーってかどうしたの」
「ルーシェルさまが大変なんにゃ!」
何を暴走しているのか知らないが、緑の目を見開いたルアードに噛みつかん勢いで飛びついていた。なかなかの勢いでもって、たまたま扉の近くにいたらしいルアードは慌てたようにリーネンを抱きとめている。
リビングにいたのはルアードにアーネスト、兄と妹、メタトロンとその膝の上で座っている白髪の小娘だった。オリビアと銀の天使の姿は見えないが、三者三様の様相ではあったが彼らの視線が一斉にこちらへと向いたのだ。思わず布団を引き寄せる。未だベッドの上にいる自分からしてみれば不本意な注目の的は勘弁してもらいたい。
「お、おい馬鹿やめろ、」
「どうしたんですか? お熱でも出ました?」
慌てて使い魔を引き留めるのだが既に遅く、梓が心配そうに室内へとやって来てくる。
「いや、別になんでも、」
「こんなにお顔赤いのに!?」
何でもないと告げようとしたこちらの言葉に被せて、リーネンはそんなわけないだろうとどういうわけだか主張を変えない。……そんなに顔が赤いのかと思うと非常にいたたまれない。体調は確かに良くはないが、だからといってそこまで心配されるような事でもない。頬が赤い理由など言えるわけがないのだから正直もう放って置いてほしいのだが。
「ちょっと失礼しますねー」
この世界の住人どもは不必要なまでに親切だった。
梓がそろりとこちらへ手を伸ばしてくるので思わず身構えると、少女は色違いの瞳をほんの少し細めて笑った。
「大丈夫ですよ、お熱計るだけですからねー」
柔らかな言葉と共に娘のほっそりとした手が額へと触れていく。ぴたりと手のひらを押し当てられ、うーんとしばらく触れていたがやがて離れていった。
「……熱はないようですねぇ、ちょっと暑かったです? 汗かいちゃってるみたいなのでタオルと……とりあえず飲み物かなぁ」
お水とタオル~歌うように口にしながら梓はふわふわとまたリビングの方へと移動していった。
「だって、良かったねぇリーネンちゃん」
ぽんぽんと背中を優しく叩かれるリーネンはルアードにしがみついたまま。泣きそうな顔のままでこちらを見ていた。
「ほんとうにゃ……?」
「嘘はつかないでしょ」
「だって、だってルーシェルさま酷い怪我だったんにゃ……いっぱい血が出てて……」
落ち着かせるかのように優しく告げるルアードに、それでもリーネンはこわかったのだとしがみつきながらか細い声で白状する。通常では遭遇する事もない高位の天使を目の当たりにし、自分という主人が目の前で殺されそうになったのだから当然と言えば当然なのだろうか。ごくごく微量の霊力しか持たない低級悪魔。術式によって展開される霊術の強大さもきっと、恐怖心を煽ったのかもしれない。
自分のせいで巻き込んだ自覚はある。
アンカーとしてたまたま選ばれ、わけも解らず異世界へと放り込まれたのだ。自分と結んだ契約が命綱である。自分に何かあった場合、個の異世界に放り出された無力な使い魔が生きていけるとも思わなかった。
「もう大丈夫なんにゃって思っても、やっぱり、具合悪そうにしてたら心配するにゃあ」
するりとルアードの腕から下ろしてもらったリーネンが再びこちらへと戻ってきて、ぼふ、と。こちらに抱き着いてくる。無力で役にも立たない小さな命はそれでも暖かで、庇護すべきだろうと言う意思は働くものの、でも、と。仄暗い思考が離れてはくれない。ぐりぐりとこちらの腹に頭を押し付けるリーネンの、ぺしょりと力なく倒れている耳ごと頭を撫でてやる。暖かい。柔らかい。温もりは安堵に足るが、それでもという思いが消えない。
「大げさなのよぅ」
「やめなさい」
白い小娘がぼそりと零した呟きを制止するやわい声が続いて、知らずぴくりと肩が震えた。いつも通りの声だと思った。いつも通り、柔らかく落ち着いた声。どんな表情でいればいいのわからず意図して男を視界から外しているというのに、困ったように眉根を下げているのか、この先続く言葉が何であるかも容易く想像ついて額を抑える。
「体調が良くないのでしたら回復霊術を、」
「いらん」
やはりだ。
思った通りの流れに食い気味に拒否する。
悪魔の身を案じる天使は、昨夜の事などなかったかのように普段通りの態度でいる。自分が必要以上に身構えているのだろうとは思う、不必要に意識しているのだろう。目の前にいるこの男にとって誰構わず善意を振り撒くのは当たり前の事であるし、親切を働くのも当然の事なのだ。誰にでも優しいだけであって特別なわけではない。勘違いをしてはいけない、よくわかっていただろうに。それでも、なんだか。どうしてだか。理由は解らないが。非常にこう……面白くなかった。
「じゃあ俺がやろうかー?」
その時第三者の声が上がった。
え、と顔を上げればにこにことしたルアードがひらりと手を振っている。
「なに、」
「えー? 俺だって回復系使えるんだぜ、ヨシュアさんが嫌だって言うなら俺が変わりにやろっかって。石術には治癒能力の向上効果のあるやつもあるし、うってつけじゃない?」
痛いのもしんどいのもつらいよねぇ。
へらりと言いながらルアードはいつも身に着けているのだろう、腰の革袋から紫色をした親指の先程の石を取り出していた。透明度の高いそれが、きらりと室内で小さく光を反射している。美しい石。
――確かに初対面時に、赤い石を使って腫れた此方の足を治療されたことがあった。あれ持ちのように深く濃い色をした綺麗な石だった。長く旅をしていると言っていたのであるし、当然ルアードやアーネストも負傷するだろう。術の効力を体感している身とすれば、別にこのエルフの男が力をふるったとて何の問題もない。効力を疑問視しているわけでもない。
「………………それも、そう、です、ね?」
随分と間の空いた返事をしている男の声は、正直聞いた事のないものだった。
なんだと怪訝に思ってそろりと見やると柔らかな表情がデフォルトのような男の顔が、瞬きすら忘れたように目を見開き呆然としていたのだ。今初めて気が付いたとでも言わんばかりだ。ヨシュアさまぁ、白い小娘が男の手を引いているが男は何やら考え込んでしまったのか反応が薄い。
「すげぇ、目に見えてバグってるな」
我関せずとテーブルに着いたままだった隼人が実に面白そうに笑いを噛み殺していた。言っている意味は解らないが、様子がおかしな天使にしかしやはりまともに目は合わせられない。
「……必要ないからいらんと言ったんだ、誰からの治療も必要ない」
ルアードの提言を突っぱねる。
「そお?」
「別に、歩けないわけじゃない」
身体は重いしだるさは続いているが、だからといって術に頼らねばならない程消耗しているわけではなかった。傷口は塞がれているし、幾度か直接回復術を流し込まれている。夜半、外に出ていけるだけの体力は回復しているのだ。あの時は夜風にでもあたりたいと思っただけだったのだが、まさかここまで胸をざわつかせる羽目になるとは思わなかった。月明りの下の天使、幻想的な空間。美しくもどこか物悲しい男の歌声がふとした瞬間に思い起こされる。指先から伝わる熱、拍動、――いい加減振り切ってしまえ。
「もう平気なんですか?」
水の入ったグラスとタオルを手に戻ってきた梓がふわりと室内へと戻ってくる。トレイの上に乗せられたグラスをサイドチェストの上に置いてこちらへとタオルを差し出してくる。ありがたく受け取って柔らかなそれで首筋を拭いた。いい匂いのするそれでかいた寝汗を拭っていくのだがしかし、汗ばんだ衣服まではどうにもならなかった。冷えて冷たくなった布地に僅かに顔をしかめると、だったら、と。黒髪の少女はにこりと笑った。
「着替えもかねて、一緒に温泉行きません?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます