47 白堊おとないて - 9 -

 太陽は完全に傾いて残り火を僅かに残して強烈な閃光を放つ。

 地平線を朱色に染め、その上にまだ残る青空は仄暗く。白い雲が朱色と灰色に二分化していた。石を敷き詰められた床の上に作られる影は段々と色濃くなり、長く伸びる影が闇の中に溶け込んでいくかのようだった。

 朱色から闇色へと移り変わりつつある周囲を、ぽつぽつと魔力で作られたであろう光球が浮遊し柔らかく照らしている。ぼんやりとした明かりが、まるで輪郭をなくしたかのように柔らかく発光している。

 丸い石を積み上げて作られた浴槽はつるりとした質感で、揺れる水面の上に夕日が映り込んできらきらと輝いていた。湯はやや熱い、じんわりと熱が肌から内部に伝わっていく。透明な湯がゆらりと水中に肌の色を散らしていた。体温より高い温度は硬く編み込まれた己の身体をゆったりと解していくかのようだった。

「気持ちいいですねぇ」

 湯船に浸かりながらのんびりと口にするのは梓だった。あの空飛ぶ椅子から降りる事なくそのまま湯の中に入っている。他の入浴客達も特に気にした様子はなく、おそらく日常的な光景なのだろう。動力や性能についてはもうこの際気にしない事にする。

 浴槽の淵に背を預けてゆるく手を伸ばす。ほう、と零れ落ちる吐息、知らず強張っていた身体から緊張が緩まっていくかのような感覚と、……明らかに自分へと向けられる視線への不快感。

 ちらちらとエルフ達から向けられる眼差しが煩わしい。この里には金髪緑瞳のエルフしかいない。エルフの里であるのだから当然だ、その中で黒髪の己など悪目立ちするのは当たり前のことだった。

 纏う色が意味を持つこの世界で、リーネンのような明るいオレンジ色は一目で異端とわかる。この里に長く住んでいるらしい梓と共にいるとは言え、己の黒髪はこの里において明らかな異物である。

 いわゆる竜人の持つ色ではないからか、向けられる視線は恐怖対象に向けるものではなく、どちらかと言えば奇異に似たもののように思う。エルフは魔法を使う、人間とは違い探知能力があるからか自分達が異界の者であるという認識は説明しなくとも解るのだろう。しかし、あれだけの騒ぎを起こしておきながらエルフ達の態度は委縮しているようには見えなかった。この身に振るわれた力、あれは、それなりに強力なものであったと言うのに。

「ルーシェルさま、どうかしましたかにゃー?」

 とぷん、と小さな音を立てて湯の中に入ってきたのは先ほどまでこちらの髪を一生懸命洗っていたリーネンだった。ようやく自分の体を洗い終わったのだろう、ぽたぽたと頭から水滴を滴らせながら湯の中に身体を滑り込ませてきたのだ。……その小さな手で私の長い髪をよく扱ったものだと思う、湯たんぽの使い魔はしかし一仕事終えたとばかりに満足げにしている。必要ないと突っぱねようとやらせてくれと懇願してきただけのことはある。

「猫ちゃんなのに水は苦手じゃないのね」

「にゃーはそこらの猫とは違うんにゃ!」

 梓の言葉にリーネンはえっへんと胸を張って答える。お前は悪魔だろうに、猫だということは否定しないのか。最早突っ込む気も失せて超低級者である使い魔と人間の娘のふわふわとしたやり取りを何とはなしに見やる。

「ふうん、あのね、猫型悪魔って言ってたけどどっちが割合的には多いの?」

「…………わりあい?」

「うん、悪魔なのか猫ちゃんなのか不思議だなあって」

「……猫型悪魔は、猫型の悪魔にゃ」

「そうだねぇ」

「割合……割合? にゃーの存在……?」

「うんうん、自己の確立って大変だよねぇ」

「にゃーは猫……? 悪魔……?」

 頭の痛い会話に思わず額を押さえた。揺らぐなそこは、お前は悪魔だろうよ。梓も適当な相槌を打つな。何故この会話の流れで自我同一性の話になるんだ。

 聞いていられなくなってきて遮るように大きく息を吐いた。ぐっと腕を伸ばせば指の間から柔らかな湯が溢れ出し、軽やかな音を立てて水が跳ねる。森の中の集落だからだろう、やはりここも周囲を木々が覆っていた。葉や枝の緩やかにこすれる音、湯に浸かる者達のおしゃべりも騒々しさからは程遠い。肺腑を満たすのは柔らかく清浄な空気、周囲の雑音や眼差しさえ無視できればこの空間は酷く暖かで優しい場所だった。

 相変わらず向けられる視線は凝視するような不躾なものではないものの、不愉快なのは変わらない。ちらりちらりと何か言いたげに盗み見されている。保守的だが新しいもの好き、ルアードはそう評していたが多分好奇心が強いのだろうなと思う。厳重な結界が施された閉鎖的な空間、外部からの人間は興味の対象なのだろう。

 ――メタトロンも、ここへ来たのか。

 ぱしゃ、と湯を肩にかけながらちらりと思う。

 あの男は傷跡のこともあって真夜中を選んたのだろうが、自分がこれなのだから他に入浴客が居た時間帯はなかなか大変な事になっていたのではないだろうか。

 髪色はエルフとそう変わらないが、一見女にしか見えないのだ。上背はかなりあるが細身であるし、なかなかの混乱をもたらしたのかもしれない。あれだけの容姿をしておきながら本人に自覚はなさそうであるし。

「…………、」

 小さく舌打ちして先刻のやり取りを思い出す。

 湯の中は心地が良いと言うのに、途端憤りに似た感情が湧き上がってくる。

 ――如月兄妹の小屋で目覚めた時、リビングにオリビアとサンダルフォンの姿はなかった。温泉へ行こうとはしゃぎだす梓を押しのけ、こちらに癒しの術を施そうとした天使の提案を遮って疑問を投げかけた。エルフの方はともかく、あれだけメタトロンに付き従っていた銀色の天使の姿が見えない事を不審に思ったのだ。

 犬のようにメタトロンに待てと命じられたものの、穢れたものを見るようなその眼差しに侮蔑を隠しもせず睨むばかりの天使。銀の髪を金に変えただけの上位三隊、熾天使の二番手。サンダルフォンの名を冠した、こちらに対して敵愾心を剥き出しにする天使が大人しくしているとは思えなかった。まだなにか暗躍でもしてるのかと身構えて問うたこちらに、事も無げに答えたのは青い瞳のぼけた天使。

「サンダルフォンなら天界に帰らせましたよ」

「はぁ!?」

 ふわりふわりといつもと何も変わらない表情で、声で。返ってきた言葉はあまりにも想定外のものだった。帰らせたって、帰らせたってお前。だったら何でお前はここにいるんだ。元の世界に戻るのが目的だったのではないのか。ただでさえ何を考えているのか腹の底の見えない男のあまりの言葉に絶句した。

「そもそも長く天を離れていい方ではないのです。まだ貴女の空けた穴の補修も終わっていない、私がここを離れられない以上、サンダルフォンまで不在にするわけにはいきません。ですので」

 帰らせました。

 男はやはりさらりと告げる。

 言葉もないこちらを、男は心底不思議そうにきょとんと見つめ返してきた。だからどうしたとでも言いたげである。阿呆な木偶の棒ではあるが、どこまでも愚直でくだらない保身で嘘はつかなかった筈だ。偽り、謀り、誑かし。澄んだ青い瞳からはそんなものは微塵も感じられない。演技でないとは言い切れないが、――感づかれないよう綺麗に取り繕うなど、そこまで器用な奴だとは思えなかった。そもそも、どういう理由であれ私を護ると宣言した男にこちらを騙すメリットがない。敵愾心剥き出しのあのいけ好かない気配も感じられないのだから、多分きっと、帰らせたのは事実なのだろう。問題は理由だ。何故帰した? 天界の為? そうであるなら、何故貴様はここに残っている?

「貴女は、魔界へ戻る手段はありますか」

「え、あ、ああ?」

 訳がわからないでいるこちらに対して、突然の問いかけである。

 魔界に帰る術だなんて。

「い、いや……」

「それが全てでしょう?」

 にこやかに断言である。

 返す言葉もなく、はくはくと唇を戦慄かせる。

 つまり、この男は迎えに来た天使をそのまま追い返したのだ。自力では帰ることが出来ないからこその迎えだろうに、私を一人残しておけないから? だから残ったとでも? 必要とされている貴様が何故そんな事をする。

「ですので、まだしばらくはご一緒ですね」

 理解の追い付かないこちらに、ダメ押しのようにメタトロンはにこりと微笑んだ。腹の底の見えない木偶の棒、ふわふわと穏やかでありながら感情の読めないその表情。

 思わず周囲に目をやるが、その場にいた者は誰も声を上げない。室内に満ちる空気は困惑が濃いように思う、一体どんな話し合いでそう言う結論を出したのかは知らないが、そう決めたのなら仕方ないよねぇ、と。ルアードがどこか寂し気に笑う。

「俺はいつまでも一緒でいいんだよ?」

「目的が違いますので……それに、これ以上巻き込みたくないのです」

 懇願にも似たルアードに容赦なく一刀両断である。

 つまり、ルアードとアーネストたちとは別行動をするつもりである、と……

「冗談じゃない!」

 力いっぱい声を荒げた。

 何が嬉しくて天使と行動しなくてはならないというのか。ただでさえわけのわからないエルフとかいう種族と人間とでの旅であったというのに、それでもなんとかここまで来たのは人数だ。ともかく人数である。意思の疎通が困難になりがちな天使との間に入っていた相手が居なくなるというのは、大層こちらの気力を削ぎ落としてくれるに違いない。それは最早確定と言っても過言ではなかった、冗談ではない。

「何故私が貴様と旅を続ける必要がある!」

 反駁するもののしかし男は聞き入れない。

「こちらの世界の理を理解し、術の構築式を追えば最適解が見つかる可能が在ります。貴女に迎えが期待できないのであれば、こちらから働きかけるしかない。ここに留まっても貴女は命を狙われているのです、むざむざ解っている危険を放置するわけにはいかないでしょう」

 当然とばかりの理屈である。

 いや、それはそうなんだが。そうじゃないだろう。

 メタトロンの膝上に座っている白い小娘だけがとてつもないふくれっ面をしてはいるものの、だからといって取り乱してはいなかった。結論を出したのは、帰らない旨を説明をして皆を一応形だけでも納得させたのはきっと、もっとずっと前の事だったのだろう。恐らく自分が眠っている間に決めたのだ。

「それに、帰らせたと言っても一時的なものです。雑事を終えてからまた来てくださいます、このままこの世界で旅を続けていく上で彼の力は必要ですから」

「そのまま帰ればいいだろう……ッ」

「出来ない相談ですね」

 きっぱりと言い切られて眩暈がした。

 天界最高位の天使、最強の天使。メタトロンの名を与えられた天使の義務と願望。天使とは人間を守護する存在だ、この世界に悪魔である私を残した場合の事を考えればある意味当然なのかもしれない。……主義主張重視の、そこに付随するであろう感情を完全無視した状態ではあるが。天使とは人を守る為の存在、異世界だろうとこの男にとって関係ないのだろうか。空間を同じくする護るべき対象、その為にこんな不条理を受け入れたと?

「随分と強引だな、そこまでこの世界に肩入れする理由はなんだ?」

「肩入れなどと……現状を鑑みた場合の最善では?」

「だからと言って!」

「もう決めた事です。魔界に戻る術を持たない貴女をここで死なせるわけにはいかない、ここまで私達に心を砕き助けてくださった方々の世界を危険にさらすわけにはいきません」

 それが最善だから。

 それが一番良い方法だから。

 相変わらず自分の感情は度外視する男である、どうしたいかというものが一切ない。帰りたいのではないのか。やはり帰りたくないのか。だから、こうやって理屈をこねくり回しているのだろうか。理由を並べ立てて退路を断っているかのような物言い。

 向けられる表情も声も柔らかなものだというのに、面倒な事に眼差しは強く決意した光を宿している。

 ……ここで拒否をしたとて、この強情な男が聞き分けるとは到底思えなかった。

 言われるまでもない、魔界へ自力で戻ることは不可能だ。一度に使える力に制限があるとは言え、肉体に内在する霊力量に変わりはない。生半可な転移霊術では太刀打ちできない、肉体に宿る力に比例して莫大な霊力を消費するからだ。

 刺客もやってくる、自分が殺される事は本望だがうっかり天使が死んでしまってはこれまでのあれこれが水泡に帰してしまう。そうして今現在、天使もかつて程の強さは持っていない。最後の切り札を、雑に失いたくはない。

 己の目的はこの天使に殺してもらう事だ。

 かかった制限がどこまで有用なのかは分からないが、魔界へ戻れば再び以前のように力を振るえるようになるかもしれない。そうすれば、また私を害する事が可能な者は居なくなり――振り出しへと戻る。だからこそ、魔界側はこの世界で私を討ち取りたいのだろう。天使はそれを許さない。この世界には存在しない霊力が、肉体の消滅と共に解き放たれた場合を危惧しているのだこの男は。先日こちらを襲撃してきた刺客は可もなく不可もない低級寄りの悪魔だったが、有する霊力が与えたであろう変化をこちらは把握していない。少なければ問題ないのかどうかの判別はつかない、平気なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 解らないことだらけだ。

 元の世界に戻ること、これが第一条件である。それまではこのぬるま湯のような世界で現状維持だ。この男は私と共に旅を続けるつもりなのだと言う、天使と悪魔がである。最善だなんだと言っているが、とてもじゃないが現状を理解しているとは思えない。忌敵、仇敵。殺し合うだけの間柄だ、こんな状態にでも陥っていなければあの時天界でそのまま自分はこの男に討ち取られていた。大した言葉も、熱も鼓動も交わすこともなく、それですべて終わり。そうして私という存在が消滅した世界では何事もなく明日がやってきて、回る歯車は止まる事なく静かに続いていく筈だったのに。

 何の因果だろうか。

 どうしてまだ生きているのだろう。

 勝手に死ぬことは許さないと告げた男、私を殺すのは自分だと。他の何者にも許さないと怒りすら滲ませた言葉が、月明かりの下伸びた男の影が。あの静かな歌声と重なり合う。説明のつかない感情。理解しかねる衝動。あの男は。一体何だ?

 ――最早回想とも言えない、現在の思惑と絡み合った思考で頭痛すらし始める。

 ふう、と息をつく。

 温かな湯に浸かり上がる体温、巡る血流は熱く滾るように内部を駆け巡る。少し暑いな、そんな事を考えながら浴槽の淵に頭を預けて頭上へと視線をやる。日はすっかり落ちて、周囲は紫紺色へと染まりつつあった。魔力で作られた光球のおかげで暗くはないのだが、移りゆく色の変化はきれいだなと思う。

 考えたとて、思考回路の違う天使の考えなどわからない。散々好き勝手なことを言ってくれた男は、あの後温泉に行くのなら私は魔術書などを見せてもらっていますなどとこれまた勝手な事を言って天使はさっさとルアードを連れて小屋を出ていったのだ。自由か。あっけにとられるこちらに、それじゃあ私達も行きましょうと梓に促され、そうして現在に至る。

 さらりとした湯は確かに気持ちがいい。汗も流してさっぱりはしているが何故だろう、苛立ちが収まらない。もちろん白い小娘はメタトロンについて行った、酷い身長差だと言うのに気にした様子もなく纏わりつく小娘、とてつもない階級差だと言うのにそれを許している男に不可解な苛立ちが否応もなく満ち満ちる。さらりと流れる金の髪、穏やかな表情。柔らかな眼差しが小娘に向けられる。嬉しそうにはしゃぐ甲高い小娘の声が耳障りだった。男の腕を掴んで身を寄せる小娘に、嫌がらない男に、知らず硬く拳を握っていた。指先から離れなかった男の熱が、拍動が、儚くも霧散する。

 ばしゃん、と乱暴に顔に湯を叩きつけた。

 驚いたようにリーネンがこちらを見てくるが構っている場合ではなかった、イライラする。ぼとぼとと滴り落ちる湯を乱暴に拭って唇を嚙み締める。

 そもそもである。

 眠っていたからとはいえ、こちらに一言もなく勝手にあれこれ決められた事に納得いかない。それに男は腹が立つくらいいつも通りだった。こちらばかりが動揺していて、昨夜の事など何もなかったかのように振る舞うそのさまに、そう、非常にムカついたのだ。小屋を出て行く時にちらりとこちらを振り返った白い小娘の、勝ち誇ったかのような表情も気に入らない。身の程も知らぬ小娘。人の神経を逆撫でばかりしていく天使ども。

「あのう、あなたですよね、ルアードさまが連れてきたという異世界からの転移者って」

 急に話しかけられてじろりと見やる。そこには年若い女の二人組がいた。常連なのか友人同士なのかは知らないが、こちらに近づき何やら興味ありげにしているのだ。

「……だとしたら何だ」

 低く口にして睨む。虫の居所は最高潮に悪かった。おろおろするリーネンをよそに、しかし女達はきゃあと黄色い声を上げた。

「やっぱり!」

 何がやっぱりだ。

 突然傍に寄って来た女達を忌々しく思う。さっさとどこかへ行って欲しいと言うのに、こちらの雑な返答にしかし何やら興味に火をつけたらしい。

「ルアード様たちと旅をされてきたんですよね!」

「やっぱり長く一緒にいると喧嘩も派手になるんですか?」

「無駄のない洗練された術式、すっごくきれいでしたよねぇ」

「やっぱり異国の方も喧嘩の後は治療し合ったりするんです?」

「やり過ぎちゃうことってあります?」

「それはあんたでしょ」

「あんただって彼氏半殺しにしてたじゃん」

「浮気した方が悪いんでーす!」

 きゃあきゃあとはしゃぎながら機関銃のように絶え間なく続く質問に、思わず後ずさった。女達が口にする言葉がさっぱり分からない、話が見えない。喧嘩だと? 誰と誰が。緑色の瞳が二対、きらきらと何やら期待しているかのようにこちらを見つめてきて何とも言えず居心地が悪い。

「……オリビアさまが、里の皆にルーシェルさん達が喧嘩したんだって説明したんです。この世界のものとは違う力が働いたのは、エルフの皆さんは分かるので」

 あまりの勢いに口を挟む隙もないこちらに、こそりと耳打ちしてきたのは梓だ。あの時振るわれたサンダルフォンの問答無用の攻撃、周囲を打ち付ける降魔の光の矢。あれだけ派手な攻撃霊術だ、誤魔化す事はまあ、無理だったのだろう。下手に隠しても不信感を煽るだけだ。

 実際は喧嘩などと言った生易しいものではないのだが。梓たちの小屋は集落から少し離れた場所にあるからだろうか、エルフたちはオリビアの説明をすんなり信じたようだった。

「よく信じたな」

「オリビアさまが言うことですもん」

 どこか誇らしげに梓は笑う。どうやらあの女傑は随分と慕われているらしい。眼の前の女達の会話はどこまで転がっていったのか、オリビアが悪さをしたルアードを蔓草で縛りあげた上逆さまに吊るした話で盛り上がっていたが。どうやら術式の壮麗さや腕前も尊敬に一役買っているようだった。……衝突時に躊躇なく術を使うのは、魔力や霊力と違いはあれどどこの世界でもそう変わりはないらしい。というか、ルアードは一体何をしたというのか。

「なんだ、お前達も来ていたのか」

「オリビアさま!」

 三つ編みにした金の髪を解いたオリビアがそこにはいた。噂をすれば何とやらである。

 夕刻だからだろう、少しずつではあるが入浴客が増えつつあった。広い湯船があるからか、どうやら里の者はほとんどここを利用しているらしい。ゆっくりと湯につかるオリビアに、こんばんはぁと女二人組はにこにこと挨拶をしている。里長の孫だというのに里の者と随分と距離が近い。

「お前達、お客人を困らせてはいけないよ」

「はぁい!」

 最早元の会話が何であったのかもわからないまま、ひたすら喋っていた女二人組はそれこそ元気よく注意したオリビアに返事をする。

「暑くなっちゃった、外でなんか飲も」

「賛成〜」

「それじゃあ皆様ごゆっくり! 異国の方、またお話してくださいねー」

「旦那様にもよろしくお伝え下さいね!」

 やっと嵐のような奴らが湯船からあがり、ほうと胸をなでおろしたのも束の間。明らかにこちらへに向けて告げられた言葉に、ひゅう、と。血の気が引くのが分かった。一度波のように引いて、再び煮え滾るように噴出する熱が全身を貫いていった。旦那様、旦那様と言ったか今。ばっと、オリビアの方を向けばあからさまに顔色を悪くした女が、酷くバツの悪い表情で反射的にだろう。さっとこちらから顔を逸らした。

「おいどういうことだ」

「内輪揉めだと外聞が悪いのでな……まあ、ほら、夫婦喧嘩なら割と理解が得られるというか」

 説明を求めずいと詰め寄るのだが、ええと、と。オリビアは歯切れ悪く口にする。視線は相変わらずそらされたままである。うろうろと水面を見つめるその緑の瞳が、取り繕うかのような口元が。愛想笑いを浮かべたまま言い訳にもならない弁明を始める。

「だからといって何を勝手な事を!」

 またしてもである。

 またしても夫婦扱いだ、流石あの弟の姉なだけある。同じようなことを口実にこちらの尊厳をよくもまあ辱めてくれるものである。というか夫婦喧嘩なら強力な攻撃魔法でも許されが発生するなどどこの蛮族だ。何が森と共に生きる種族だふざけやがって。

「貴様らの外聞などこちらの知ったことか!」

「お怒りはごもっともだ。だが男女の冒険者は大抵カップルか夫婦なんだ、兄弟のこともあるが数は少ない」

「里から外に出ない貴様らが絶対数など分かるわけないだろうが」

「我々にも外にそれなりのネットワークはある、それに……あなた方もそう、かけ離れたものではないのでは?」

 気まずそうな表情をしながらも、それでもオリビアは納得いかないとでも言わんばかりに眉根を寄せていた。好き勝手な事を言ってくれる、何がかけ離れたものではないだ。何を見てそう判断をしたというのか。祝言、夫婦、いい加減にしてほしい。

「私とあいつは殺し合うだけの敵対者だ、億が一あり得ない……ッ」

「だがルーシェル殿が倒れられた時も真っ先に介抱していたし、随分と親しいように見えたのだが」

「あいつの距離感がおかしいだけだ!」

「そうだろうか?」

 何が気に入らないのか、オリビアはやはり理解できないとばかりに表情を曇らせている。天使がこちらを抱き上げられる事も治療してくるのも散々拒否した、拒否したうえでのあれなのだから根負けしたというのが正しい。唯々諾々と受け入れているわけではない。

 何故そこに食いつくというのか、元来身を置いていた世界とは違う異世界、姿形は似かよっていても言語も扱う力も異なる種族。この世界の常識が解らない己と同じように彼らにとってもまた、我々の間に横たわる断絶を知り得ないのだろう。説明などしたところで理解が出来ないのだ。だからと言って、容易く妄想を働かせてもらっては困る。

「私は悪魔であいつは天使だ、馴れ合いなどしない……ッ」

 殺し殺される間柄だ。

 光と闇、永遠に交わる事のない存在である。

「種族間のいざこざは確かに存在するだろう、それについてとやかく言うつもりはないが……」

 再度口にするのだが、しかしオリビアはやはり怪訝そうに小首をかしげる。

「……私は里でのあなた方しか知らないが、ヨシュア殿は常に貴女を気遣っているように見えたが。それも私の勘違いだとでもいうのか? これでも人を見る目はある方だと言う自負があるが」

「あいつは誰にでもそうする、私だけではない」

 相変わらず釈然としない表情でいるオリビアに言い切る。

 それは事実。

 真なる善なる者。

 例え悪魔であろうとも心を砕き、善を働く。

「この際はっきりと言ってやる、私はあいつが嫌いなんだ。穢れを知らぬ清らかな存在、悪魔だろうが等しく向けられる善など虫酸が走る……ッ」

 吐き捨てるように。

 苦労を知らぬ真白い天使。あいつは誰にでもそうする。そうだ、私だけではない。あいつが私に構うのは、私がこの世界に来てからずっと体調を崩しているからに他ならない。負傷、陽光、生命の息吹。たまたまだ、たまたま、私が。あの男にとっての「すべきこと」に該当しているだけに過ぎない。あいつの優しさは平等で、向けられる情は分け隔てなく特別がない。そう、あの男にとって息をするのと同じくらい当たり前の行動なのだ。

「偽善者の慈しみなど、」

「いっぱい否定するんですねぇ」

 不意に上がった、のんびりとした梓の声にぎくりとした。

「まるで嫌ってなきゃいけないみたい」

 見やった先、色の違う白と黒の両の瞳が不思議そうにこちらを見ている。どうしてそこまで否定するのかと問いかけるその眼差しに、どくりと心臓が跳ねた。はく、と唇がわななく。否定、を。しなければならない、全て、全てだ。熱い湯の中にいる筈なのにぞろりと胸の内を走る怖気。凍り付く。そう、私は。

 天使の挙動。ただそこにある事実。

 体調の悪い私を介抱し、気遣い、殺すなと宣言するのは何も私の為ではない。

 あの男の行動理念はただ一つ、この世界の者を傷付けないように。ただそれだけだ。あの天使の中では生きとし生ける者全て平等で、目に映る者全てにすべからく善を貫く。特別などいない。触れた指先の熱、拍動、向けられる優しい眼差し、甘く香るような声色。私にだけじゃない。

 ――あの男は。知らないから。

 罪は裁かなければならない。

 罪人は断罪されなければならない。

 光の化身、聖なる者。清らかで美しい天使。何も知らないから。だからあの男は、血にまみれ、罪に塗れた私であろうとも平等に接する。事実と違う事は容認できないなどと口にするが、事実であるならば。私が、唾棄すべき存在であるのだから、きっと。私はあいつを嫌いでなければならない、違う、嫌いだ天使など。ずっとずっと。永劫嫌い続けなければならない。種が違う、天に住まうものと地に落とされたもの。ただ安穏と過ごすばかりの天使、我らの憎悪の欠片なりとも知らぬ白痴者。施しなどいらない、情けなど糞食らえだ。

 納得いくよう理由を並べ立てて、理屈をこねくり回して退路を断っているかのような物言い、は。

「――違う、」

 笑えるほどかすれた声が零れ落ちた。

 違う。

 優しさなどいらない。気遣いなど。裁きを待つばかりの身には分不相応なものだ。それなのに一々心を乱して、向けられる優しさに、温かさに、戸惑い嫌悪すると同時に泣きたくなるほど胸の内を掻き毟られていた。爪痕のようにゆるい痕を残し、消えてはまた熱病のように。

「違う、私は、本当にあいつが嫌い……、」

 きつく握った拳を胸に押し当てる。

 脈打つ拍動は忙しなく、まざまざと突きつける。

 温かな手。優しい言葉。

 触れた指先、握り込まれた掌。拍動。熱。降り注ぐ柔らかな声色、囚われる澄み切った空の色。

 違う。こんなにも胸が痛いのは。あの男に、兄を重ねているだけだからだ――

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