48 白堊おとないて - 10 -
魔法書の類を見たいと願い出た此方に、ルアードに案内されたのはいわゆる郷土資料館のような場所だった。こじんまりとした建物の中へと一歩踏み込めばそこは壁一面の棚に所狭しと並べられた書物。一体いつから保管されているのかはわからないが、見るからに年代を重ねただろう本もかなりの量がそこにはあった。
「このへんが魔法書、下の方に子供向けの初級魔法書、上の方には高等魔法の研究論文なんかがあるよ」
案内してくれたルアードが説明する。
「そっちの方には歴史書、あと奥の方にちょっとした歴史的文化財? とかも展示されてる。初期の、まだ精霊に近かった頃のエルフが使ってた弓矢とか魔法に使われた細工やら枝やら……きちんと整理されてるけど収蔵物は割と雑多だねぇ、あ、あと辞書なんかはそこだよ」
ずらりと並ぶ書物を的確に指し示す。辞書一つとっても年代ごとに違うものが並んでいるようだ、ざっと見ただけでも単語辞典、類語辞典、古語、人語辞典と種類も多い。彼もよく利用するのだろう。
ここにあるもの全て、室内に保全の術がかけられているから好きに手にとってもいいのだと言う。時を操れるのかと問えばそうではないらしい、その場に留まり続ける力を応用したとのことだった。外部からの力がなければその場に制止している、所謂慣性の法則の類のことなのだろうと思う。適応範囲の指定、この場合、室内から持ち出すことが〝外部からの刺激〟に該当するのだろう。
大きな窓からは空が朱色に染まっている様子が見える。夕刻だ。少しずつ薄暗くなってきているからか、ランプの代わりなのだろう魔力で作られた光球がふわふわと浮いていて、それが作る影が足元でほんのりと揺れていた。
室内には小さなテーブルと椅子とが設置されている。ルアードが、場所的に中級当たりの魔法書を手にしながら俺もたまには読み返すかぁと椅子に座った。どうやらこちらに付き合ってくれるらしい。
「わかんないことあったら遠慮なく言ってねぇ、司書の子もいるから」
閉館時間もあるしあんまり遅くまではいられないけどね、言いながらもエルフの青年は手にした本へと目を落とす。どこまでも気遣ってくれる青年である。
「……ありがとうございます。色々と見せていただきます」
丁寧に礼を述べると、ルアードはいいよぉとはにかんで手を緩く振る。そうして再び本へと視線を落としていた。何から何まで彼の世話になっている、何も持たない自分に、一体何が返せるだろうかとずっと考えている。欠けた存在、感情の機微に疎い自分。好きな事やりたい事が解ればいいねと、青年の優しく紡がれた言葉の意味を未だ測りかねてはいるものの、こちらを案じてくれている事だけは理解していた。
ルーシェルは自分の事を木偶の棒だと称した。
人形。あやつり人形。または役立たず。気の利かない人物や人のいいなりになっている人物の事を表す。……真を突いていると思う、自覚はある。メタトロンという役職に着いてはいるものの、元来自分は戦う事しか秀でたものがない。中身のない己に一体何が出来るだろう。自問自答。望まれたならば応えるまで、それは、与えられた模範的な行動の果て。自我のない猿真似の善意。く、と。自嘲が零れ落ちる。それでも己には何が最善なのまでは解らない。感情、は。恐ろしいものだ。容易く枠組みを飛び越えていく。正しくあれ、神聖であれ。そこに個人の感情が入り込む余地などない。
ふるりと頭を振る。
「いま出来る事を、出来る限り……」
小さく呟いて、試しに目の前にある一冊を手に取ってみる。
表紙に書かれた「優しい魔法基礎」という文字が、たどたどしくはあったが読めることが素直に嬉しい。
ここは異世界なのだから当然文字も言葉も違う、現在も己の耳には翻訳機能のある『女神の祝福』という赤いイヤリングが揺れている。おかげで耳から入る言葉は変換されているが、流石に文字までは無理だった。その為こちらの文字を教えてもらい、リリーからもらった絵本から始め今では粗方読めるようになっている。
ともかくまずすべき事は、元の世界へと戻る手段を確立する事だ。ひいてはそれが彼らに対する恩返しになる、いつまでも手を煩わせるわけにはいかない。
ぱらりと頁をめくる。かさりとした質感が手に馴染んで、そろりと紙面を撫でた。ほんの少しだけ茶色の混じったインク、馴染みのないこちらの世界の文字は幾何学模様にも似ているように思う。
手にした本は専門書であるようだが、図解も多く読めなくはなさそうだった。単語の意味さえ分かれば解読もそう難しいことではないのかもしれない。ここには辞書もあるしメモを取ることも禁止されてはいなかった。新しくノートも手にしている、書き出しながら整理すれば何かわかるかもしれない。
ふむ、と目次に目を通す。魔法とは何か、魔力とは何か、章ごとに解説されているようだ。この本に欲しい情報があるかどうかは解らなかったが、こればかりは数をこなすしかなさそうである。そもそもの話、この世界の成り立ちや歴史もある程度は把握しておいた方がいいだろう。時代背景、文化形態、生まれ来るものは必要に迫られて開発されたものが多い。それに……この世界での絶対的な強者であった竜人について。魔石、魔具、知りたいことは沢山あった。本に書かれた文字を目で追いながら、法則性と言葉の意味を解読してく。この里にいる間、少し、腰を落ち着けて情報を精査してもいいかもしれない。
「ヨシュアさまぁ、読めませんよう?」
こちらの服の裾を掴んだまま、女性達と温泉に行かず自分についてくることを選んだヨナがこちらの手元を覗き込み――眉を顰めてこそりと零した。
読めない文字、理解できない言語。
ふとした瞬間に違う世界へとやって来たのだと突きつけられる。ヨナなど人間とさほど変わらない低級者である、いくつか強化アイテムを持たされてはいたようだがそれでも未知の世界によく飛び込んでこれたものだと思う。ある程度の情報は事前に伝えていたとは言え、ろくに戦うことも出来ない彼女に命の保証などないも等しかった。……私の迎えの為に、一体どれだけの者に迷惑をかけているのだろう。天に残してきた者達、自分を探し出す為に骨を折ったサンダルフォン。この世界でも随分と迷惑をかけた。自分達を異世界の者だと理解して尚も細々と世話を焼いてくれる者達、素性を知らずとも親切にしてくれた街の人達。空から見るばかりだった人間達の優しさ、温もりに触れて喜びを覚えた己の浅ましさ。巻き込みたくはない、大切な人々。この身一つ、如何程の価値がある。
「……大丈夫ですよ、なんとかなりそうです」
「さすがですぅヨシュアさまぁ!」
不安げに見上げてくる少女に、ことさら柔らかく、胸の内をおくびにも出さないように微笑む。安心できるように告げれば賞賛と共にヨナは笑った。淡い緑に青が滲んだかのような優しい色彩の瞳が嬉しそうに融けて、かつての天界を思い起こさせた。清浄な世界、静謐な世界。自身が身を置く世界。
悪魔との交戦も続いてはいても、かつてのように全面戦争のようにまではいかなかった。現在は中級三隊である主天使達が主に戦いに赴く、自分が表立って戦場に出る事はほぼない。
闘う為に、悪魔を殺す為に生を受けた自分が、現在戦場からは離れ箱庭のようにすべてが美しい天界でメタトロンの座に就いている。天界の最高位、天使達の王ともいうべき立場。上級三隊一位であるセラフィムの指揮官。第六天で指揮を執る。血と死とが満ち満ちた下層の戦場から退き、星の巡り、秩序を守り、全ては神の御心のままに。世界の為に己の力を振るう。それは、望まれた結果だ。それは僥倖だ。
天界を襲撃した魔王と対峙したのは、他の者では歯が立たないと解ったからだ。あれほどの圧倒的な霊力は未だ嘗て感じた事がなかった。夥しい死者の上に悠然と佇む赤い悪魔、鮮血に染まり、美しく残虐な忌むべき存在。こちらに向けられるぞっとする程冷たい眼差し、血のように紅い瞳が脳裏に焼き付いて離れない。今まで向けられたことのない剥き出しの怒り、純粋な憎悪。戦場にいた悪魔達の愉悦とも取れる表情とは違う、どこか生き急ぐかのような強烈な光をそこには宿していた。そうだ、彼女はいつだって己の感情に素直だった。取り繕うような生ぬるい視線とは違う、心底自分を厭う。表面を取り繕ったものなどは皆無だった。ありのままの怒り。憎しみ。……最近は少し、丸くなったような気はするが。それでも彼女はこちらに対して反発するし、相変わらず加工されていない感情を投げつけてくる。……どうしてだろう、あの時の強烈な眼差しが胸の奥底に突き刺さって抜けないでいる。
感情は恐ろしいものだ。不必要に捕らわれる。
神に捧げられたこの身。羊の供物。望まれるままに。
そ、と。手首に柔らかな感触を覚えてはっとする。
視線を落とすと自分よりもずっと小さなヨナがこちらを見上げてきている。
「どれだけ姿が変わっても、ヨナは、ヨナだけは、ヨシュアさまのお側にいます。ずっとずっと、あなたさまの味方です」
少女の小さな白い指がぎゅうとこちらの手を握る。
柔らかく微笑んではいるものの、そのまろい白い指は僅かに震えているようだった。戦えぬ少女。非力な少女。柔らかく傷一つない指先、穢れのない無垢な魂。柔らかな笑みを浮かべ、けれどどこか必死に。繋ぎ止めるかのように。
「ありがとうございます」
それしか返せない。
何でもないように微笑み返したこちらに、ヨナは口元に笑みを刻んだまま目元を歪ませている。泣きそうな表情、必死な少女にしかし自分は何もしてやれなかった。ぎゅうと握り締められたままの手、そろりと触れてやれば驚く程小さい。
「……ここにいてもつまらないでしょう、無理に付き合う必要はありませんよ」
「ヨナはぁ、お嫁さんなのでぇ、全然、全く、気にしませんのでぇ」
意図してだろう、えへん、と胸を張りながらも歌うように告げる少女。
その声がどこか震えているように思うのは、きっと気のせいではない。気遣わせてしまった、幼い少女に。覚えるのは言いようのない罪悪感だった。突き放すなど事出来ない。けれど、受け入れることも出来ない。は、と。己の唇からこぼれ落ちた吐息は、そこに一体どんな意味を孕んでいたのだろう。
「それでは、……しばらく、お付き合い願いますね」
「もちろんですぅ!」
嬉しそうに真白い少女は笑う。屈託のない表情は無垢な祈りのようだ。
ヨナから向けられる全幅の信頼。まっすぐな親愛の情。囁くように内側から聞こえてくる声にそうと目を細める。
己は、それを向けられるに値する存在だろうか。
※
兄は美しい方だった。
永遠にも等しい間囚われていた、おぞましい闇の中から救い出してくれた方。私の名を呼び、柔らかく触れて、抱きしめてくれた方。悪夢に苛まれる私を優しく助け出してくれた方。
何物にも代えがたい存在だった。
誰よりも愛していた。
強く恐ろしいばかりの父は私に興味などなく、美しく慈しんでくれた母は幼い時分儚くなった。母の庇護を失って――その後の事は、……あまり思い出したくない。
自身の出自が普通ではない事は理解していた。明確な両親が存在している事自体魔界では珍しい事だからだ。いつか天使が言っていた通り、どういうわけだか魔王は伴侶を得、次世代を生み育てる事が慣例となっている。いつから続いている事なのかも、そもそもの理由も知る由もない。その結果生を受けたのが私だ。血の継承、長く長い間受け継がれてきたナハシュ・ザハヴは魔王の血族にのみ応える。
神に反旗を翻し、堕落し、天から投げ落とされた天使の成れの果てが悪魔だ。今尚光り輝く空から堕とされる天使は多い。清らかなる天使はそれゆえ悪に染まりやすいのだという。
……長く長い間、堕天使同士で交配を繰り返し、地の底に巨大な帝国を築き上げたのが我々だ。性に奔放で快楽を優先した結果、無造作に生れ落ちる数多の悪魔達。産み捨てられると言う表現が多分一番近い。支配欲、色欲、食欲とありとあらゆる欲望に満ちた世界で子を守り育てる方が奇特な存在だ。持ちうる霊力量での序列、強者が絶対であり、規範がないからこそ自由で平等であり無秩序な場所。
天使は基本的に性的な接触はしない。
我々悪魔に性別があり生殖が可能なのだから天使も同様なのだが、それでも、毎朝夜露のように新たな天使が生命の泉と呼ばれる場所から生まれてくる。能力値、持って生まれた霊力量が絶対なのは共通しているが、教育機関での育成がある分魔界よりかはまだ横の繋がりがあるように思う。無生殖での増殖。故に、元は同じ種であったとしても根本的に違う存在。だからこそ、あれほどの透明な美しさを持ちうるのだと思う。見返りなく善行を働けるのは恵まれた環境だからだ。暴力と欲望が渦巻く世界で如何に他人の為に尽くした所で、返って来るものなど何もないどころか下手すれば命すら奪い取られる。強者が全て、それが唯一の法にして秩序。
そんな中、どうして兄が私を助け出してくれたのかはわからない。
単なる気まぐれだったのかもしれないし、憐れんだだけかもしれない。真意など解らない、魔王の娘という事で利用していただけかもしれない。それでも、たしかに兄の手は暖かくて、優しくて。向けられる眼差しが柔らかくて。それが全て偽りだったと思いたくない。欺瞞に溢れた魔界でありえない話ではない、そうだと分かってはいても正面からは認めなくなかった。
ルーシェルは俯いたまま口元を覆う。そうでもしなければみっともない声がこぼれてしまいそうだった。
強く美しい兄は自分の自慢であった。兄の事が好きだった。共に暮らした日々の追憶。忘れられる筈もない。
だから、だ。
だから、今はもうない兄の影を追って、あの男と重ねているに過ぎないのだ。
善性の塊のような清らかで白百合が似合う男。我らとは似ても似つかぬ天使。どれだけ跳ねのけようともこちらに構う事を男は止めなかった。たかだか口約束だというのに、元の世界に戻って再戦だと矛を収めた男。死ぬのは許さないと傷を癒した男。そこからいやに接触が増えたような気がする、それは、こちらの体調が万全ではないからだ。抱きかかえられることへの抵抗を止めたのだって無駄だからと諦めたに過ぎない、あの男は他意なんぞない。己がそうすべきだからと頭から信じ切っているだけだ。力持つ者の傲慢さ。他人に施しが出来るのは絶対的な強者であるからだ。他人に分け与えられるだけの余力を持った者が余剰分を差し出しているだけに過ぎない。傲慢。欺瞞。それでも、――それでも。こちらの身を案じて名を呼ぶ声が。眼差しが。向けられる情が。掻きむしりたくなるような甘い痛みを訴えるのだ。
ああ、と。そういえばかつての名を呼べと言っていたなと思い出す。
何を考えているのかよくわからない男。
あの男は、兄ではない。
「あれ、ねえちゃんじゃん」
「皆さん。こんなところでどうされたのですか」
ルアードのどこか軽い物言いに続いた柔らかな声に、思わずびくりと肩を震わせた。
顔が上げられない、声の主など、見るまでもなかった。泣きたくなるほどに優しい声。地の底で焦がれ続けた空色を纏った天使。今現在一番会いたくない男。
「ルーシェルさんのぼせちゃったみたいで。ちょっと休んでたんですよねぇ」
頭上で梓の声がする。
「あらら、大丈夫?」
「随分長く入ってたからな」
「ここで力尽きちゃった」
ルアードに答えて、オリビアと梓が困ったように笑っている。笑っているが、しかし反論できなかった。
周囲はすっかり暗くなっていた。現在自分達は温泉から出た傍にある軽食店のベンチに腰かけている。手にはほぼ無理矢理渡された冷たい飲み物、項垂れるように座り込んだまま動けないでいたのだった。
「お前達も用事は済んだのか?」
「いやー閉館時間になったから撤収しただけ。また明日も行くんでしょ?」
「はい、しばらくは通う事になりそうです」
頭上で交わされる言葉。さらさらと降り注ぐような声にしかし自分は顔を上げることが出来ない。
オリビアや梓が余計な事を言うから。
胸中で悪態をつく。悪魔が天使を拒絶や否定して何が悪いと言うのだ。あの後ぐるぐると回る思考回路の果てに、いやもう良く解らないな、と。考えても無駄だとようやく湯船から出た時には既に遅かった。身体は信じられないくらい熱かったし、頭がぼんやりとしていてどくどくと動悸が激しくなっていた。気持ちも悪い。倒れる前に何とか着替えだけ済ませて、外のベンチに腰を下ろしたまではいいがそこから動けなくなったのだ。
ぱたぱたとリーネンがこちらをタオルで扇いでいる、ふうわりと通り抜けていった夜風はひんやりとして気持ちよかった。湯あたりだなぁ、オリビアが苦笑しながら濡れたままの髪をタオルに押し込み何やら術をかけていた。ふわりと柔らかな風が吹いたかと思えば、ろくに拭きもしなかった髪は完全に乾いてさらりと頬を滑り落ちてく。……汗ばんだ肌に張り付いてそれはそれで不快だ。かきあげるのも億劫でされるがままになっている。
ああ、だから。
未だ収まらない動悸にふと思い至る。
熱い湯にあたったから、だから血が沸き立つように熱くなって、あんな異様に胸が苦しくなったのだ。
今目の前にいる天使は兄ではない。私が勝手に兄に重ねただけの、憎たらしい天使だ。
そうだ、梓が余計な事を言うから妙に意識してしまっただけに過ぎない。違う、私が好きなのは、誰よりも何よりも大切だったのは兄以外にはいないのだ。天敵である天使に心乱されるなんてありえない、弱っているだけに過ぎない。掻き消えた幻想をかき集めて夢を見ようとしているだけなんだ。
うん、そうだ。言い聞かせるようにルーシェルは胸中で呟く。そもそも兄と天使とを重ねることが間違っているのだ、かけがえのない人とこちらの神経を逆撫でるばかりの木偶の坊を一緒にするなど馬鹿げている。
そろりと顔を上げると、夜風に揺れる金色の髪が見えた。相変らず白い小娘が傍に付き従っていて、面白くない。自分には関係ない、それなのになぜこうも苛立つのか、と考えてる間にぱちりと天使と目が合った。暗闇を照らす光球が男の空色の瞳を照らし、まるで宝石のように輝いて。
「ルーシェル、」
天使の声が耳に届いた瞬間、ぶわ、と。全身の血という血が沸き立つ音を聞いた。確かに聞いた。ただでさえ熱に浮かされているというのに、そこから更に頬に熱が集中する。ぐらぐらとした視界、それでも、驚いたように目を見開いた青い瞳と夜風に流れる長い金色から目が離せない。
「大丈夫ですか?」
覗き込むように腰をかがめる男の顔が降りてくる、さらりと零れ落ちる金色。見つめてくる春の空の様に淡い色彩の瞳。心底こちらの身を難じたかのような優しい眼差し。兄と同じで、違う。比べるのもおこがましい程に似ていないのに、それなのに。喉の奥に言葉が張り付く。唇が戦慄いて、結局形作られることはなく。ただただ零れ落ちる熱い吐息が。跳ね回る心臓が。
「ナハシュ・ザハヴ……ッ」
「え、ちょ、ちょっと!」
耐えられなくなって愛器の名を呼べば、螺旋を描いて右腕に闇が凝る。慌てたように飛びのいた天使の顔が見れない。現れた漆黒の大鎌、指に馴染む柄をきつく握った。そのまま膝を抱えてうずくまる。熱い身体、火照る頬、形容し難い難解な激情が胸中で荒れ狂って激しく拍動を繰り返している。急にどうしたのかと狼狽える天使の気配がすぐ傍でする、顔があげられない。訳が分からなくなっているこちらを見るなクソ……ッ
「ちょっとぉ! 危ないじゃあないですかあ!」
白い小娘の声がきゃんきゃんと煩いが、しかしだからと言ってやはり何も言えないでいた。どうしたのですかと、よくわからないままにこちらを心配する天使の声が、これまた胸の内を無遠慮に撫でつけていく。ひゃー、梓の楽しそうな声、周囲のざわついた声。好奇の視線にさらされて、怒鳴りつけたのに動悸が激しくてそれも叶わない。湯に当てられ籠った熱はいまだ引かず、茹だった頭では自身に何が起こっているのかまるで解らない。耳の後ろを流れる己の血流の音ばかりが響く。
「いやあ、青春だねぇ」
「人死にが出そうだがな……」
エルフの姉と弟は他人事のように呟いている。
困ったように天使がこちらに手を伸ばしてきたのが解った、ほんのりと柔らかな光、癒しの力だ。のぼせが癒せるのかどうかわからないが、今はとにかく男から距離を取りたくて。やめろとナハシュを振るおうとして――今度こそ、ひっくり返ってしまった。
暁のホザンナ 青柳ジュウゴ @ayame6274
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