26 碧落の森の中で - 5 -

 使い魔と結ぶ契約は血の盟約である。

 使役者が自身の血を触媒にし、使い魔を強化し縛る契り。

 使い魔とは使役者の力を間借りし、使役者を護る為に働く存在である。使役者の霊力を分け与えられるがあくまでも使える量は自身の力量によるものであるし、契約に縛られ主人たる使役者の命令には背けない。一度契約を結べば使役者が破棄するまで一方的に続き、反逆など不可能。

 それでも使い魔になるだけのメリットは、使役者に守られると言う一点にあった。

 使い魔が死亡すれば使役者にもそれ相応のダメージが返ってくる為、雑に使われはするものの魔界で使い魔になることはそう悪い事ではなかった。返ってくるダメージを物ともしない上級者もいないことはないが、そもそも上級者と呼ばれるほどの実力を持つ者がわざわざ使い魔など使う必要もない。全て自身で完結できる以上、弱点にもなりうるものを持つ必要などなかった。

 つまりは弱い者同士の救済装置だ。

 ルーシェルは一連のシステムについて思う。

 使役者は自身では手間な雑務を使い魔にやらせ、使い魔はその報酬に他の悪魔からある程度は守られる。

 ある程度、とされ絶対ではないあたりがまあ悪魔的というか……所詮使い捨てられるのが低級者の宿命ではある。持って生まれた物、特性、否応がなく永続していく。

 ……面倒な事はさっさと済ませるに限る。

 やかましいばかりの男どもを小屋の中へ残し、猫型悪魔のリーネンを外へと連れ出すと適当な所に座るように指示する。状況がようやくある程度は飲み込めたのだろう、あれほどパニックになっていた少女は今は恐々とこちらを見上げてきていた。琥珀色の瞳が不安で押し潰されそうな色をしており、三角の耳が相変わらずぺたりと頭の上に張り付いている。

 恐怖の眼差しは胸の奥を酷くざわつかせる。

 一つ大きく息を吐いて少女の前に立つと、ぶつっと、右手親指の腹を噛み千切った。溢れ出る血を眺めながらすり、と。指先に血をまとわせる。

 今から行うのは所有権の上書きである。

 リーネンの上司であったアステマは天使が殺害した。使役者の死亡により交わされた契約は既に白紙に戻っている、そこに新たに自分が主人であると書き換えるのだ。霊力の供給元を変える必要がある。

「……開け血と肉の門、刻め我が焦熱を心霊へ」

 赤で染められた白い指先を少女の額にそうと押し付け力の宿る言葉を紡ぐと、霊力の流れが少女の周囲を緩やかに取り巻いていく。詠唱によって開かれた肉と魂、見るからに脆弱なそれを壊さぬように気を使いながら緩やかに術式を織り上げていく。

「――汝、我が眷属となりて強固なる鉄枷に永続せよ」

 それは命令。

 それは呪縛。

 自分の物であると言うしるしを刻み付ける為の儀式。

 前の使役者の痕跡を消し、新たに書き換える。既に繋がれていた鎖を外し改めて新たな霊力の道を繋ぐ。

 言葉と共になお一層力の渦が生まれる、決して強くはないそれは緩やかに流れ、やがて収束する。指先から流れる血が生き物のように蠢き、やがて少女の額の上で弾けたかと思うとすう、と。描かれた血の文様は消えたように見えなくなった。

「完了だな」

 ふ、と一つ息を吐いて血の溢れる指を口に含む。

 鉄臭い味だ。舐め取ればぴり、とほんの少しの痛みが返ってくる。

 リーネンは血の弾けた額の上を不思議そうにこすっていた。何も指についてこない事を確認すると、はわぁ、と。何やら言語化できないような感嘆を口にしている。お前二度目だろうに。

 見えず触れられず、それでも見るものが見れば明確にわかる『所有印』。これで術者である自分より実力のある者以外は手出しが出来なくなる筈なのだが――現在、霊力はこの世界に来る前と変わらずにあるが発動に条件が課されいる。この場合どこまで有用なのかは定かではなかったが、ないよりはましだろうか。何もかも手探りである。

「あ、あのっありがとうございますにゃ!」

 はっとしたように立ち上がってリーネンは大声で謝辞を述べる。その表情は暗くもないが明るくもない、僅かばかりの恐怖と、感謝とが混ざり合った表情だ。どうしてという困惑も濃い。低級魔族など出会う事もない相手である、リーネンからしても私の名を知っていたどうかも怪しい。霊力量による階級の差は歴然であり、通常であれば相対する事すらあり得ぬ間柄であった。微々たる霊力で魔王の居城に近づく命知らずなど皆無である。

 契約を終えればもう用はない、元の世界に戻る術は持たないが好きに生きろと言おうとして。やたらと思いつめたかのような表情をしているリーネンに気付いた。うろうろと視線を彷徨わせつつ何か言いたげにこちらを見上げているのだ。

「……なんだ」

 声をかければぴゃっと飛び上がって、それでも意を決したように。

「えっと、あの、にゃーきっと一番下っ端なので、……他の、使い魔の方々へってご挨拶とかした方がいいんですかにゃ!?」

 力いっぱい叫んだ。

 あまりにも想定外の言動に呆気にとられる。

「手土産とかやっぱいるんすか! どの程度のものを用意したらいいすか! 常識とかわかんにゃいっす!」

 処世術だろうか、両手を硬く握りしめ切迫した表情で必死になってこちらに問うのである。そのあまりの迫力に一瞬たじろいだ。強者が絶対の魔界において低級者がいびられるのはまあ、想像に難くないが……元気ににゃあにゃあ喚くオレンジ色の猫型悪魔に頭痛すら覚える。

「いらん」

 短く否定。

 そもそも手土産とは言うが何を持っていくつもりだ。

「でも! 心象良くして助けてくれる相手を増やしとくのは定石にゃんでは!?」

 保身の為だろうがそれはもう真面目に熱弁してくるのである。

 ……使い魔は主人にのみ気を遣うものではないのか。

 上級者には上級者の流儀があるらしいが、低級者にも低級者なりのやり方があるらしい。というか、アステマとやらは一体この超ド級の低級猫型悪魔に何を吹き込んだのだ。いや、私が知らないだけでこれが普通なのか? 相互扶助をせねば生き延びられぬとでも? 居を構えていた城外での事は正直な所よく解らない。低級者に会う事もないのだから、彼らの生態など知りようもなかった。彼女も先述のように上級者が使い魔を基本的に持たぬことを知らないのだろう。それは解る、解るが。

 その間もどうしたらいいのかと真面目に真剣にわあわあ問いかけてくる。他の使い魔の好みや性格などを聞き出そうと必死なのだ。手回しなどいらぬと言っているのにしつこい、あからさまに顔をしかめていると言うのに必死になりすぎてリーネンはこちらの渋面に気付かない。

「……使い魔はお前だけだ、他にはいない」

「えっ」

 いい加減黙れと言わんばかりに僅かに語気を荒げて。

 他にいないのだから必要がないのだと重ねるように告げればようやくぴたりとリーネンは口を閉じた。使い魔、いにゃい、大きな瞳でこちらを呆然と見つめながら何故かオウム返しに呟いている。

「使い魔の契約も初めてだ。お前、爆発四散しなくてよかったな」

「爆発四散!?」

 想定外だったのだろう、ぎょっとしたように素っ頓狂な声を上げる。……くるくるとよく変わる表情である、見ていて飽きないなと思う。あの張り付いたような型通りの笑顔を浮かべる天使とは雲泥の差だ。あの男の微笑は非常に柔らかく美しく、女神のような相貌ではあるがどうにも人形のようで生気がない。お綺麗な天使様。

 ああでも、私が怪我を黙っていたことを酷く怒っていたな。

 怒りという感情を持っている事にも驚いたが、あのように感情を露にすることがあるのだなといっそ感心したのだ。くそ真面目で融通の効かぬ堅物脳筋天使。悪魔など塵芥としか見ていないと言っていたわりにリーネンは助けようとする、よく解らない男。

 ちらりと小屋の方を見上げると、やはりこちらを監視するかのような眼差しとぶつかる。窓からそうとこちらを伺うそれは私が人に害をなさぬよう、そして私に冤罪をかけぬよう見張るものだろう。当然、いい気のするものではない。

「……私はこういった細かな事が苦手でな、殺す為の術しか知らない。これからはお前が代わりにやってくれ」

 何もかも面倒になって投げやりに告げる。

 手放すつもりだったが、なんだかんだとやる気はあるらしい。低級者に期待する事など何もないが、それでも雑務を押し付けるにはちょうどいいのかもしれない。天使の気配も探れぬような奴なのだから荷物持ちでもさせるか、などと思い直す。それに、どこまで知っているかははっきりとしないが魔界側の事情を多少は喋るかもしれなかった。

「他に使い魔もいないのだから好きにすればいい」

「で、でも四大諸侯の方々は……」

 久しく耳にしていなかったそれにぴくりと肩を震わせる。

 四大諸侯、天界で言う所の四大天使の対であり熾天使とでもいうべき存在だろうか。魔王を筆頭に四方を統治する魔界の実力者である。表向きは魔王の補佐という事にはなっているが、協力し合う事のない悪魔同士であり常に腹の探り合いをしているばかりなのだが。何か、盛大に勘違いしているらしい。

「……霊力量の序列に過ぎん、形だけ付き従っているだけで誰も私の命なぞ聞かんよ」

 身内でもなければ仲間でも配下でも、ましてや使い魔でもない。

 私に配下と呼べるような相手はいない。実力が全ての魔界では天界のような明確な階級制度も存在しない。それぞれが好きなようにやっているだけだ、魔王とはいえ絶対的な力で支配しているだけで、統治などという崇高なものではなかった。

「それじゃあ、ルーシェルさま一人ぼっちにゃんですか……?」

 それを一体どう受け取ったのか知らないが、リーネンのその恐る恐ると言わんばかりの言葉に僅かに目を見開いた。ひとりぼっち、だと?

「悪魔は徒党を組まぬだろう」

 溜息交じりに呆れた声色で返す。強さこそが全ての魔界で、手を組む悪魔など存在するはずもない。必ず上下関係が生まれ、強者が弱者を使役する。横の繋がりなど皆無だ、四大諸侯も例外ではない。

 何を言っているのだと呆れたように返すが、一人きりでは生きぬことが難しいらしい低級悪魔はいや、でも、うん、と。一人で何やらぶつぶつと呟いていた。一体何を考えているのやら。

「がんばるますにゃ」

 何かを決意したかのようにこちらに向かって告げたリーネンは、すっくと立ちあがると膝についた砂をぱたぱたと払っていた。そうしてこちらに駆け寄ってくる、ぴこぴこと動く長い尻尾が実に動物らしい。一体何を頑張るのか、問うのも最早馬鹿らしい。

 ふいと背を向けて小屋へと向かう。

 天使と共に行動する必要などないのだろうが未だ全快にはほど遠く、契約の為に使った霊力も体力の消耗を加速させていた。大した量ではないと言うのに血がまだ足りないのだろうか、酷く疲労感が襲う。……これからも恐らく魔界からの襲撃は続くだろう、一人で捌くには少々骨が折れるのだから天使を体よく使うのは悪手ではないのかもしれない。怪我を黙っていた事、重傷を負った事をあれほど憤っていたのだから雑多な事はこの低級悪魔と同じように投げてしまえばいいのかもしれない。

 多すぎた失血はそう簡単に回復はしない。かなり良くなったとはいえ、力の行使でほんの少し視界が暗くなるのを堪えながら、ルーシェルはそんな事を考える。

 私の事を、自分の手で殺すのだからと宣言し守ろうとすらする天使の考えなど到底理解できる筈もなかった。殺害は消去である。命を、痕跡を、全てを抹消し消し去る事だ。誰がそれを行ったとしても結果は同じだ、この手で討ち取るのだと息巻いた所で意味がないと思うのだが、理解の範疇外の天使はそれを大真面目に口にする。

「ルーシェル様、にゃんでにゃーを使い魔にしてくれたんですにゃ?」

 今更のようなことを小さな少女は問う。

 視界の端で揺れる綺麗なオレンジ色の髪、琥珀色の瞳の小さな少女。微々たる霊力しか持たず、外部からの干渉すら跳ねのける脅威に成りようもない小さく小柄な低級悪魔。

「言っただろう、私は細かな術式は苦手なんだ」

 それだけ告げるとゆっくりと歩みを小屋へと向けた。

 

   ※


 使い魔としての契約は滞りなく終わったらしい。

 ついてくるなと一蹴して小屋から出ていったルーシェルを窓から眺めながら、ヨシュアはなんだか随分な組み合わせだなと思う。魔界最高の霊力と地位を持つ魔王が人とそう変わらない脆い低級悪魔と共にいる。魔王ともあろう者が今更低級者の使い魔を持ったところで大したメリットがあるとも思えないのだが、彼女は契約を結んだ。不穏分子など早めに処分しておくべきだろうに、アンカーとして使われた彼女を消すでもなく使い魔にしたのだ。主人を書き変えたことによりルーシェルを襲撃した魔界側からの道を一時的に遮断したようだったが、それでも道は繋がっている、繋がってしまった。魔界側は彼女の現在地である『正確な座標』を手に入れた。繋がった道と座標を手に入れた以上アンカーも必要なくなったのだ。あちら側は恐らく再びやって来る。

 道は使えば使うほど回路が強化される。

 強化されるという事は、さらに強大な力を持った悪魔がやって来ることが出来るという事だ。今はまださほど強くもない低級者がやって来るだけだが、いずれ、そう、もしかしたら上級悪魔がやってくる可能性だってあった。

 ……何故、命を狙われるのだろう。

 窓から緩やかにそよぐ風が頬を撫でていく。生い茂る木々は陽光をまばらに散らし、緩やかな光源が生い茂る葉を通って彩度も鮮やかに影を落としていた。するりと己の髪を指先で緩く流す、光に満ち溢れた天界とはあまりにも違うがこの景色は嫌いではなかった。美しく生命に溢れる森。

 闇色の世界だと言う魔界の事柄など交流のないこちら側からは推し量ることが出来ない。魔界の王、絶対的な霊力量、凄絶な存在。その力故に誰も彼女を傷付けることが出来ないからだろう、だからわざわざアンカーまで使ってこちらの世界で接触を図ろうとする。彼女を殺す為に。

 彼女を殺して、どうするのか。

 魔王の座でも狙っているのだろうか。

 空間転移まで行使するくらいだ、相当の実力者、それこそ四大諸侯のような存在が噛んでいる可能性が高い。それに生半可な覚悟をもって襲撃を指示していない、確実に殺すのだと言う明確な意思がそこにはある。誰が、一体何故。これ程の殺意をただの権力争いで片づけていいのだろうか。問うたとて、きっと彼女は口を噤むのだろうけれど。

 そんな事を考えながら件の彼女を窓から気取られぬようそうと見ていたのだが、こちらの視線など筒抜けなのだろう。ぎっと、こちらをきつい眼差しで睨んでくる悪魔と目が合う。血のように赤い瞳が紅玉のように輝いていて、敵だという事も加味しても実に美しいと思う。彼女を彼女たらしめていると言っても過言ではない、濡れたようにつややかな黒髪、見た者に強烈な印象を与える真紅の瞳。気位の高さも相まって誰もが彼女に目を奪われる。興味を引かれる。それでいて誰とも馴れ合わぬ孤高の王。

 魔界での統治などあってないようなものの筈だ、完全なる実力社会。強者が絶対である。下剋上など日常茶飯事だと聞いているが、何故彼女は同族からここまで明確に殺意を向けられるのだろう――

「名前は呼んでもらえそう?」

 不意に声をかけられはっとした。随分と思考に没頭していたらしい。

 食器類は粗方片付け終えたのだろう、アーネストとお茶を飲みながらルアードがにこやかに問うてくる。先程自分が何故名を呼ばないのかと彼女に問うたことを言っているらしい。……魔界から襲撃される理由すら語らない彼女が、嫌悪する天使の名など呼ぶとは思えなかった。

「まあ……無理でしょうね」

 率直な所感である。

 あの魔王が素直に聞くとは思わない。それでもあの時はどうしてだろう、何故自分は除外されるのかという不可解さに口を挟まずにはいられなかったのだった。主張はしておくべきだろうと。名は体を表すものだ、認識と個の確立。

「諦めるの? 呼んで欲しいんでしょ?」

「それは……、」

 他の者とは違う対応をされることに、不公平感を覚えただけだ。

 メタトロンと呼ぶならまだしも、彼女は自分を貴様、もしくは天使としか呼ばない。それは自分自身の所属は指し示すものだが個を認識したものではない。明確な距離感、仲良しこよしなどごめんこうむる、ごもっともである。馴れ合いなどこちらとしても望んだものではないが、自分という存在を無視されているようでそれはそれで少し――少し。

「……面白くないのでしょうね」

 ふ、と言葉と共に零れ落ちるのは笑みだった。

 ルアードは相変わらずにこにこと楽しそうにこちらを見ていた。そっかあ。弾んだような声色に何か彼にとって楽しい話題だっただろうかと思う。自身の言動を思い返してみるも、答えは出なかったが。

「でも、私の名を呼ぶ事に抵抗がなくなった頃、私とどのように殺し合いをするのか。それは……そう、興味ありますね」

 彼女が約束通り元の世界に戻り刃を交えた時、一体どのような反応をするのかは興味があった。こちらが彼女という存在を以前より知った今、彼女も同様にこちらを認識している。思考、嗜好、得意不得意、言動全て、あの時よりも遥かに彼女についての情報を手にしている。

 共に行動するようになった期間は短いものだが、実際に交流してみた現在彼女は完全な悪人ではないという事はなんとなく解る。リーネンと契約を結んだことも恐らく少女を護る為だろう、この世界は言語をはじめあらゆる文化が違う。用済みになったアンカーを悪魔が救出するとは思えない、放り出された低級悪魔が辿る道など一つしかあるまい。

 こちらに反駁はするもののこれといってルールから逸脱した行動をすることもない。口は悪いが暴力的ではない。自分が散々斬り伏してきた悪魔とはあまりにも違う、気高き孤高の王。変わり者の悪魔。

「やっぱどっかズレてんね……」

 ルアードの苦笑が響く。

 ずれとはいったい何の事だろう。

 そうこうしているうちにルーシェルが小屋の中へと戻ってくる。その後ろには使い魔として契約を終えたばかりのリーネンがいた。低級悪魔の彼女は天使……と言いながらこちらを警戒しているようだ、ルーシェルの後ろに隠れながら恐る恐るとこちらを見ていた。まさしく子猫のようなその様子は微笑ましいが、反対にルーシェルはまた具合が悪そうにしている。こちらに気取られないようにだろう、気丈に振舞ってはいるが頬が青白い。

「また顔色が悪くなっていますよ」

「うるさい」

 指摘するも彼女は一蹴する。

「回復術を、」

「余計な事をするな」

 にべもない。

 こちらの言葉をすべて否定した彼女はテーブル傍の空いている椅子に乱暴に腰かけた。そうしてふーと細く長い息を吐きながら額に手をやっている、傷口は癒えても食事をしたとしても即時回復するわけではない。大した霊力を必要としないとしても新たな契約は相応の負荷を掛けたのだろう、心配してかリーネンが彼女の傍へと寄っていった。ぴょこりと少女の頭の上で三角の耳が揺れている。実に可愛らしいそれをルーシェルは小さく弾いたかと思うと、突然むんずと掴み、力いっぱい上に引っ張り上げた。

「にゃ、にゃ!? 痛いにゃあ!」

「知っていることを全部話せ」

 突然の暴挙にじたばたと暴れるリーネンをじろりと睨みつけたのである。自分よりも遥かに格上である魔王の、その冷ややかに輝く紅い瞳に射られえっと、えっととリーネンは目を白黒させている。

「えと、にゃーはそれはもう、とんでもない低級悪魔にゃので事態を知ったのは割と後というか……アステマ様も気まぐれに契約したにゃーの事なんか半分忘れてたんじゃにゃいかなとは思うけど、」

「端的に」

「にゃあーちぎれちゃうにゃあ!」

 ぽつぽつとあれこれ語り出したのが気に入らないのだろう、長話など聞きたくないとばかりにルーシェルは耳を掴んだまま再びぐーっと上に引っ張り上げる。一体どういった構造かは解らないが相当痛いらしい、しかし相手は魔王であり現在の使役者であり主人であるものだからリーネンは抵抗するも大した動きになっていなかった。痛い痛いとみーみー鳴く姿は、あまり見ていて楽しいものでもなく。

「ルーシェル、その辺にしたらどうですか」

 そ、とリーネンのその小さな猫耳をつまみ上げるルーシェルの手に触れ、やめるよう促したのだが。触れた瞬間三角の耳から手を離し力いっぱい手を払いのけられた。それはもう全力で。まるでこちらが不浄のものかのような程の勢いである。

「……そこまで嫌がることあります?」

「気安く触るな!」

 具合の悪そうな青白い頬のままルーシェルはこちらを忌々しく睨みつける。離れていった細い指、指先の色づいた桜色がいやに目を引いた。ぎりぎりとこちらを睨みつける深紅の瞳と対照的なそれ、血の気の失せた肌をしていると言うのに指先は淡い色を纏っている。

「私が私のものをどう扱おうと貴様には関係ないだろう」

 明らかに具合が悪そうにしておきながら、ルーシェルは気丈にもこちらを非難する。私のもの、そう、使い魔は使役者の所有物だ。だが、だからと言って好きにしていいとは自分は思わない。

「暴力は不要でしょう」

 事態把握の為に耳を引っ張る道理などない筈だ。

 それなのに、魔王は何を言っているんだと言わんばかりの表情で返して来る。テーブルに肘をかけ、深く腰掛けた椅子の上で膝を組んで実に尊大な態度。こちらが触れた手を緩くさすりながら、まさしく魔王が玉座に君臨する様相である。実際は粗末な木製のダイニングチェアなのだが。

「貴様が拷問しろと言ったんだろうが」

 非難がましく発せられた言葉に思わず目をしばたかせた。

 一体いつ、自分がそのような事を言ったのだろう。拷問するのであれば止める、とは言ったがしろとなどと言った覚えはない。

「言ってませんが……」

「なかった事にする気か?」

 そんな事を言われても身に覚えがない。誤解である事と訂正を申し出るのだが、それはそれで彼女の機嫌を損ねたらしい。明らかに、確実に、感情が急降下したのが解った。寄せられる眉根の深さにしかし、自分の意図とは違う事を行われるのは看過できない。

「尋問するであれば暴力でなく懐柔でしょうに」

「おまいも何言ってるにゃ!?」

 恐怖で支配してどうするのだと、ため息交じりに告げれば突然リーネンが叫んだ。両手で頭上の猫耳を押さえて座り込んだまま、痛みのせいだろう、その大きな瞳に涙をいっぱいに貯めてこちらを見上げてきているのである。

「そんな事しにゃくともにゃーはちゃんと喋るんにゃあ! 勝手に拷問だ尋問だ勘弁するにゃ!」

 綺麗な顔しといて二人とも何を言い出すにゃ! とリーネンもいたくご立腹なようであった。はて、そんなに非難されるようなことを言っただろうか。子どもの癇癪のようにわあわあ喚く少女、その間もぴこぴこと動く耳が可愛らしくて実に動物的だ。痛むだろう耳に回復霊術をかけるべきだろうかと手を伸ばしたら、しかしこれまた手酷く払いのけられた。どういうわけかルーシェルに。

「何でもかんでも気安く触るな!」

「まるで子供のように言わないでいただけますか、私は怪我をしているのなら癒そうとしたまでです」

「本当に引き千切るわけないだろう! というか何か言え! いきなり触れるな!」

「随分な言い方ではありませんか」

「何か間違ったこと言っているか!?」

 突然話を振られたリーネンがぴゃっと飛び上がっていた。美しい表情を怒りに染め上げたルーシェルはそれはそれは迫力がある、えと、えと、と目をぐるぐるさせながら言葉に詰まっている。何を言えばいいのか解らないのだろう。小さな身体でおろおろとしている様は悪魔であろうともなんだか可愛そうになってきて。

「幼子にそこまで圧をかけなくても」

「幼子!? こいつが!?」

「なんかもうぐっちゃぐちゃだねぇ」

 収集がつかなくなってきた辺りでルアードの声が飛んでくる。やはり楽しくて仕方がないように微笑んでいた。彼は一体何を楽しんでいるのだろう、自分にはわかりかねたが忌々しそうにルーシェルは酷い顔色でルアードを睨んでいた。

「おまい、何で笑ってるにゃ」

「いやあ……ほら、面白くない?」

「わけわかんないにゃ……」

 ぐったりしている猫型悪魔に、ルアードは何かを手渡していた。カラフルな紙に包まれた小さな丸い包み。いつかの夜に教えてもらったキャンディという菓子。紙を広げて中身を口に含むよう伝えると、リーネンはちらとルーシェルを窺い見た後恐る恐る口にする。とたん、びっくりしたように口を手で押さえ目を見開いていた。自分もあれが最初の食事だった、舌先を刺激する甘いという感覚に酷く驚いたのを思い出す。

 コロコロと硬いものが口の中で転がる音になんだかふ、と。室内の空気が緩んだような気がした。ルーシェルはやはりイライラしているようだったが大きく舌打ちをした後は黙り込む。

 何とも言えない空白のような一拍にルアードはすかさず提案をする。

「ルーシェルさん具合悪そうだし、今日はもう休もっか。出来れば明日辺りには出発したいしさ」

 ほら、とルアードが指差した先でアーネストは既に寝ていた。あいつ自由でしょ、苦笑いしているルアードの柔らかな声に最早ルーシェルとのやり取りも続きようもなく。彼の提案をはねのけるだけの理由もないとなれば強制終了となったのだった。

 結局何の情報も得られぬまま、夕闇が迫って来ていたのである。

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