25 碧落の森の中で - 4 -

 小屋の裏に井戸があるよとルアードの言葉の通り、裏手へと回ると小さな古ぼけた井戸が一つぽつんとあった。雨除けの為か小さな屋根のついたそこにはルアードが使っていたのだろう、足元に小さな手桶が置かれている。足元は煉瓦で舗装されているがあちこちから雑草が蔓延っていて、作られてそれなりの時間が経っていることがうかがえる。手入れをする者もおらず、けれどこうして時折冒険者達を受け入れているらしい。

 緑の濃い森の中である、日中ではあっても日の光はまばらでさほど苦痛にも思わなかった。

 霊術でもって泥や血の付いたままの髪や赤黒く変色した血に濡れた服を洗うつもりだったが、井戸があるならばとそこから水を汲むことにした。実に原始的な行為である。滑車を回し、ルーシェルは衣服を着たまま冷たい水を頭から投げつける。ばしゃばしゃと音を立てて流れ落ちる冷たい水、ほう、と。零れ落ちる呼気。冷えた水は思考を酷く鋭利なものにする。こびりついた夢の残滓、腑抜けた凄涼、全て削ぎ落し流れ流れていけ。足元に出来る水溜まり、黒々と口を開く闇のようですら。

 無造作に水を被り、力任せに汚れを落としていく。乾いた血はなかなか落ちない、洗髪剤の一つもないのは痛いなとぼんやりと思う。湯の一つもないのだから汚れの落ち方もいまいちだ、風呂があれば多少は楽なのにと考えながら何度目かわからない水を頭から被る。力を使って井戸水を湯に変えればいいものの、それはなんだか自身が許せなくて。罪と罰。疲れたなどと思ってしまったことが許せなくて、冷えた水を選ぶ。井戸水は地下から引いているのか、凍えるような水温であるのが返って都合が良かった。滑車を回して水をくみ上げる、機械的な動き。ばしゃん、弾け飛ぶ水滴、奥深い森の中では光の一つも弾かない。

 森の中に建てられた小屋の周辺には緩い結界が張られている。

 四隅にそれぞれ置かれた石は魔石だろう、丁寧な細工は増幅装置の類か。どうやら人間と、指定された範囲以上の力を持つ者以外は弾くらしい。侵入を阻む範囲は雑だが魔力の弱い個体は中にも入れぬ術式だと解った。この森に生息する『魔』には十分有用なそれに、全く警戒を解くわけではなかったが。それでも多少気が抜けていたのは確かだろう。

 は、と。

 酷く下がった体温に小さく息を吐いて、手にしていた手桶を乱暴に地面の上に置いた。気になる汚れはあらかた落ちたと思う、濡れた黒髪をぎゅうと絞った。ぼたぼたと指の間から溢れ出す水、頬を流れ落ちる水を無造作に拭う。その時だった。

 ばっと明るいオレンジが視界の先に踊り、とっさに顔を上げた。

 ばちりと琥珀色の瞳と目が合う、森の中から飛び出してきたのは小さな子猫だった。何かから逃げてきたのだろうか、大きく跳躍してきたかと思ったらこちらを凝視、猫の目には明らかな動揺の色が走る。音もなく着地、耳をぺたりと頭に張り付けて、何故ここにと言わんばかりの表情でいるのが獣であるのにわかった。それはもう解りやすすぎる程に、全身でまずいと表現していたのである。

 こんな森の中にいるのがただの猫の筈がない、薄っすらではあるが気配も獣のものではない。

「ナハシュ・ザハヴ……ッ」

 名を呼べば手に馴染む柄、現れたこちらの大鎌を見た途端、耳を張り付けて身を屈めていた猫が文字通り飛び上がった。そうしてまるで人間のように周囲を見渡すという獣にあるまじき反応を見せたかと思ったら、弾かれたように駆けだしたのである。どういうわけだか小屋の正面へと。

「待て!」

 いくら緩いものとはいえこの結界の中には入れないだろう程度の力しかない猫に、一つの可能性を確信しながら追いかける。水で張り付いた衣服が重い、酷く動きにくいまま後を追えば、一体何を考えているのか開いていた窓から小屋の中へと飛び込んでいったのが見えた。破れかぶれのような自殺行為に、あいつ馬鹿じゃないのか、と。呆れている間にも、まるでこの世の終わりのような猫の悲鳴上がる。どうやら小屋の中で捕らえられたらしい。

「何なんだあれは……」

 誰にともなく一人ごちて、しゅうとナハシュを収納した。濡れた髪を無造作にかきあげる、肌に張り付く髪が実にうっとおしい。滴る水滴が不快で、服の裾を絞るが大量の水を浴びているので大した意味もない。

 ふいと顔を上げると窓からこちらを見る天使と目が合った。その腕には先程の子猫。ただの獣でも、こちらの世界の『魔』でもないことは明白である。それが解っているからだろう、天使の表情は実に複雑だった。何をしているのかとでも言わんばかりのそれに、そんなものこちらが聞きたいと睨みつけてやった。不毛である。

 はあ、と。無意識のうちに口の端から零れ落ちたのは深い深い溜息だった。

 

   ※


「貴女は本当に……目を離したらすぐにこれだ」

 天使の嫌味を聞こえないふりをする。

 面倒ごとを呼び込んでいる自覚はあるが、だからといって誰も好き好んでやってるわけではない。ルアードに渡されたタオルでがしがしと乱雑に髪を拭きながらじろりと見やる、暖炉の前に座り込んで暖を取っているのだが天使は相変わらず口うるさい。じいと物言いたげにこちらを見る男の視線は居心地が悪くて好きではない。

「……頬が青白いではありませんか」

「貴様には関係ないだろうが」

 すげなく返す。

 捕らえた猫は捕縛の縄で首を繋いでおいた。突然窓から飛び込んできた子猫にも驚いたようだったが、まずは乾かして! と小屋へと戻ったこちらにルアードが絶叫したのである。顔色を見た途端、なんで冷たい井戸水そのまま被ってんの! と盛大に文句を言われたのも正直納得いかない。関係のない事だろうが。

 ぱちぱちと焚かれ続ける暖炉の炎は暖かい。髪は大分乾いたようだったが衣服はそう簡単にはいかなかった。べたりと張り付いた布は確かに気持ちが悪いが、脱ぐわけにもいかない。コートは多少は乾いただろうか、いやしかし、だからと言って素肌にコートだけを羽織るのは流石に躊躇われた。一人ならまだしも男ばかりのこの場では憚れる。

 くしゅ、と。小さくくしゃみが出て慌てて口を覆う。

 途端、そら見たことかと言わんばかりでいる表情の天使にあーあーと胸中で悪態をついた。ルアードも大概規格外のお節介だが、天使も同様だ。何故天敵である悪魔を気遣うのか皆目見当もつかない。

「天使のものなど嫌かもしれませんが、私が天界で着ていた衣類があります。宿の女将さんが洗ってくださっているので汚れてもいません。着替えたらどうですか」

 完全なる善意であろう、呆れたような表情で真白い布を差し出してくる。

 触れるのも躊躇うような綺麗な布である、清らかな天使を体現していると言っても過言ではないそれに触れるのはあまりにも抵抗があった。大体着替えろ、だと? 体格差をそのおつむで考えた事はないのか。

「いらん」

「ですが」

「しつこい」

 どうしたって食い下がる。まるで押し問答である。

 一見穏やかに柔らかに告げてくるものの、その実えらく強情だ。

「それよりもまずはこちらだろう」

 男の腕を押しのけて、小屋の隅でぶるぶると震えている猫の方を見やった。目が合った瞬間、ヒッと猫が大仰なくらい身をすくみ上がらせる。あまりにも人間臭いそれは通常の猫のそれではない。ふいとあからさまに視線を逸らされた、取り繕う事さえできないあたり小物である。

「お前がアンカーだな?」

 低く問えば、鮮やかなオレンジの毛並みの猫はびゃっと小さく跳ねる。

「アンカー?」

 食器を片付けていたルアードが不思議そうに口にした。

 アーネストはテーブルについてまだパンを齧っている。相変わらず興味のなさそうな事だ。

「極めて低級な悪魔――天使もか、力を持たない弱い個体はそれ故に力の干渉を受けない奴いるんだ」

 小屋の周囲に張られた結界を難なく突破してきたのは、いわゆる不干渉者だからだ。零にいくら数を掛けた所で零なのと同じように、術によるあらゆる外部刺激を無効にする者。僅かな霊力は持つものの発現する力は微々たるものでしかなく、しかし術の干渉を跳ねのける為強化も出来ない。当然、物理攻撃には滅法弱い。

「空間を移動するために必要な者、とでも言いましょうか」

 天使がすかさず補足を入れる。

 大した力を持たぬ低級者など上級者にとっては取るに足りない存在であるが、ほぼ唯一の使い方が〝アンカー〟であった。魔界からこちらを襲撃してきた悪魔がやって来たのも恐らくこの低級悪魔が関わっている。

 空間転移。空間を裂き、現在地から任意の場所へと繋げ移動する事が可能な術。

 使用霊力が莫大である上、術の構築は難解であるに加え制約がある。正確な転移先の座標が必要なのだ。見知らぬ場所、適当な場所へは原則移動出来ない。適当に目星をつけて移動することもまったくの不可能ではないが、その分代償が大きい。肉体を砕かれるか、魂が砕かれるか、またはそのどちらもか。最悪死に至る。無傷では済まない。空間を違える異世界であるのであれば猶更だ。

「移動者の持つ霊力量が大きければ大きな程、空間転移には霊的にも肉体的にも莫大な負荷がかかる。ですので正確な場所の座標が必要なのです。空間を裂くわけですから、指定が狂うと亜空間に放り出されたり肉体が引き千切られたりするんです。ですが、――ごくごく微量の力しか持たない低級者は移動時の負荷をほぼ受けず、アンカー、錨の役割として送り込まれる」

 そちらの猫さんのように。

 天使が言いながら猫型悪魔をみやる、猫は今にも卒倒しそうだ。

「おおかたナハシュ・ザハヴの力を辿って私の居場所を突き止めたんだろうよ」

 震える猫の姿を無感動に見ながら、はあ、と。幾度目かもわからない溜息を一つ。最初はいつだったか、記憶の中を探れば容易く思い起こされるのは薄暗い室内だった。街であの竜人に襲われた時か……霊力を一時的に使って内側からナハシュを呼び出した。あの時に目星をつけられたのだろう。

 魔王の証である大鎌、血の継承。

 ナハシュの振るう力の軌跡を辿るのは容易ではないが、不可能ではない。

「ルーシェルの現在地が異世界である事の見当がつき、彼女の力の軌跡からある程度の座標を組んだのでしょう。適当な場所に不干渉者を先に送り込み、正確な座標をアンカーが主に伝える。そうしてようやっと本隊が目的地に辿り着く」

 静かに語る天使の言葉に概ね同意である。万全の状態で悪魔をこちらに送り、襲撃させる。私を殺す為に随分と手間暇かけているものである、その分相手が本気で殺しに来ていることが痛い程によく解る。

 そういう意味ではほぼ無傷でこの世界に来た自分達は幸運だった。

 いや……術の発動に制約がかかっているのだから手放しに喜べるものでもなかったが、双方五体満足でいた事、霊力量が変わっていないのはありがたかった。全くの零ではない分まだ戦いようがあるというもの。

 するりと立ち上がって、猫の目の前まで移動する。生乾きの衣服の不快さがなお一層苛立たせる。

「――誰の命令で来た?」

 半眼で見下ろせば、こちらを見上げてくる猫の琥珀色の瞳が恐怖に満ちる。ぶるぶると震えて、半泣きで顔色を無くしているのである。獣であると言うのに、誰の目にも怯え切っているのが解った。まるで弱い者いじめだ、実に気分の悪い。それに、である。

「いつまでその姿でいる」

 冷ややかに告げれば子猫はたじろいだ。そうして酷くばつの悪そうにしばらくうろうろと視線を彷徨わせたかと思うと、観念したかのように項垂れる。と同時に、ぼん、と。ちゃちな空砲のような音を立てて猫が姿を変える。

 そこには少女がひとりぽつんと座り込んでいた。年を言うなら五、六歳くらいだろうか、肩にかかるオレンジ色の短髪と輝く琥珀色の瞳をした子供――けれど、その頭には三角の猫耳があった。だぼついたパーカー、ズボンから伸びた長い尻尾がくるりと少女の足に巻き付いている。

「ごめんなさいにゃあルーシェルさまあ〜」

 半分猫で半分人間と称すべき少女が、顔をくしゃくしゃにしているのである。これでもかと言わんばかりにぺったりと耳が頭に張り付いている。

「おっしゃる通りにゃーはアンカーにゃ、でもアステマ様がやられちゃって……帰れなくなったにゃあ……」

 そこまで言うと猫娘はべそべそと泣き出す。

 アステマ。

 襲撃してきた炎を操る女悪魔の事だろう。

 やはりこの猫型悪魔がアンカーとなってあの悪魔をこの世界に呼び寄せたらしい。手酷くやられたが実力で言えば下の下、あの女悪魔が独断でこちらの襲撃を計画したとは思えない。空間転移の為に消費する霊力量を考えればさらに上がいる筈だ。確実に私を殺したい奴が。

「……貴様、名は」

「リーネンですにゃ……」

 しおらしくしてはいても悪魔は悪魔である。

 嘘泣きなどに騙されるほど自分はお人よしではなかった。ゆるい捕縛の術を強引に破る、ばちんという音と共に表情がわずか緩んだ猫型悪魔を冷ややかに見下ろし。

「にゃ!?」

 首根っこをつかまれ、宙ぶらりんになった猫娘が悲鳴を上げる。

 幼い体でじたばたと暴れているが手を離すつもりはない、首根っこ、正確に言うのであれば襟ぐりを引っつかんで持ち上げる。目線を合わせじっとその琥珀色の瞳を覗き込んで。

「……そのアステマとやら、誰の配下だ?」

 殊更声に凄みを乗せて問えば、リーネンと名乗った猫娘はひぃと小さく喉の奥を鳴らした。血の気が引きすぎたのか最早土気色だ、姿は愛らしい部類に入るであろうその猫型悪魔は完全に萎縮しており、ぷるぷると首を必死になって振っていた。

「知らないにゃあ! にゃあは言われた通りにしただけにゃ!」

 どうやら恐怖のあまり開き直ったらしい。

 リーネンはぶら下がったままにゃあにゃあと何やら喚きだす。

「知らないわけないだろう」

「上級悪魔の通念的な理念なんて知ったこっちゃにゃあです! にゃあは魔界で穏やかに暮らしていたいだけにゃ! いざこざにゃんてごめんにゃあ!」

 先程まで震え上がっていたとは思えないほど饒舌に怒鳴り出した。

「お仕事に呼ばれたらこれにゃ! 帰れなくなったにゃ! わけわかんにゃいものに襲われるわ、よくわかんにゃい人間に追いかけらるわ、もうなんもかんも嫌なんにゃあー!」

「貴様仮にも悪魔だろう!」

「お偉方は解んないにゃ――!」

 そもそもここはどこなんにゃあ、とリーネンはぶら下がったまま今度こそ本当に泣き出してしまった。体よく使われたアンカー、移動先の座標さえわかってしまえばあとは用済みとばかりに放置されたのか。どうも現在自分が異世界にいる事すら理解していないらしい、右も左もわからぬ世界に放り出されたようだ。それはそれで多少同情する所ではあるが、強者が絶対的な存在なのは魔界では当然の理だ。弱者は強者に食われるだけの存在。直接王殺しに加担したわけではないようだが、一端を担っているので無罪放免とはいかない。

「――穏やかなものですね」

 処遇をどうしたものかといらだっているこちらに向けられたのは、酷くやんわりとした声だった。ついと視線を上げれば天使がこちらを見ている、穏やか、だと? 一体何を見てそのような事を言うのか。

「何がだ」

「いえ、」

 睨み付けているというのに男の表情はまるで変わる事がない。くすくすと楽しそうにさえ笑っていて――それはつまり、こちらの事なんて怖くもなんともないという事なのだろう。余裕ぶったその表情が気に食わない。

「もっと徹底的に拷問をするのかと思っていました」

 男の言葉にぎょっとしたようにリーネンは肩を跳ねさせる。

 ごうもん、拷問!? 涙でべとべとになった表情で恐慌状態に陥っている。

「見たいのか?」

「まさか」

 問うたところで天使は相変わらず首をすくめて緩く笑っている。

「止めるつもりでいたのですが、必要なかったようですね」

 こちらを射る柔らかな色彩の瞳が、ふっと冷ややかなそれを覗かせる。本気でこちらの出方によっては制圧でもするつもりだったのだろう。天使どもの王ともあろう者が、随分とお優しい事だ。

「やはり貴女は悪魔らしくない」

 何が楽しいのか男は微笑んだまま、表情を一つ変えやしない。相変わらず鼻持ちならない男である。何もかも自分が正しいと思っているのか……一体何を見てそのようなこと言う口にするのだろう。悪魔らしくない? 魔王を捕まえて大した物言いである。

「貴様も大概おかしな天使だがな」

 拷問などと人聞きの悪い、情報を引き出すために問い詰めるのはよくある手だろうに。大した力を持たない低級悪魔が魔王にいじめられているとでも思っているのだろうか、庇護欲だか何だか知らないが大した傲慢である。事実襲撃に加担した者だ、それを低級悪魔だからと救ってやると言うその態度が気に入らない。

「悪魔を助けると?」

 視線を外さぬまま睨みつけるが天使は揺らぎもしない。

「私は与える者、求められれば応える事は当然のこ――」

「助けてにゃぁぁぁっ!」

 事、と言いたかったらしいがそのままその言葉は遮られる。滅茶苦茶に身体を振って暴れたリーネンがこちらの手から逃れたと同時に、誰の目にも明らかなほどの勢いを持って天使へ突進していったのだ。そのまま突き飛ばさん勢いで天使に抱きつきに行ったらしい猫娘はしかし、ふわりと抱き上げられていて。

 一体どのような動作でそうなったのかはさっぱりわからない。

 実な緩やかな動作で、掬い上げられるようにしてリーネンが天使の左腕に座っていたのである。天使に抱っこされているという事態が良く呑み込めていないだろう少女は目を白黒とさせている。それを天使はなだめる様に殊更柔らかく微笑んでいて――後頭部を、思い切り殴られた様な気がした。

「貴様! よりにもよって天使に助けを求めるか!」

 まさしく絶叫である。

 天敵である天使と悪魔、階級は低いとはいえ仮にも悪魔がその天敵に助けを求めるなど言語道断である。未来永劫殺し合う相手に何をしているのかと詰問するも、しかし猫娘は最早それどころではないらしい。そもそも男が天使である事すら理解しているのかどうかも怪しい。

「この際誰でもいいにゃ! 死んだら元も子もないにゃ!」

 どうでもいいといわんばかりにリーネンは喉が枯れんばかりにわめいた。

「誇り高き悪魔が天使の手を借りるなど!」

「プライドで腹は膨れにゃいにゃ! 命あっての物種にゃぁぁぁっ!」

 ひとしきり叫んだ後、リーネンは天使の頭にぎゅうぎゅうと抱き着いていた。当の天使はといえば、困ったように笑うばかりである。どうしたものかと考えあぐねいているようだったが、それでいてやっぱり助けるつもりなのだろう、僅かではあるが庇うような形でさえいる。がたがたぶるぶる震える小動物の姿はお優しい天使殿の庇護欲でも駆り立てるのだろう、それをいい事にこの低級悪魔はさらにしがみつく力を強めるのが見て取れて。

「嫌にゃぁぁぁ……鞭打ち逆さ貼り付けの刑なんて嫌にゃぁぁぁ……きっと生爪派がされたりとか蛇の生殺し状態の拷問を受けるのにゃぁぁぁ、それは嫌にゃぁぁぁ……」

「誰がそんな悪趣味な事するか!」

 いい加減不快指数も限度を迎え、情けなくぐずぐずと泣いてばかりいるあまり同族とは認めたくない猫型悪魔を張り倒そうとしてしかし天使はすいと。すいとこちらの手を避けたのである。まるで猫型悪魔を護るかのようなその実に自然な動作に、かあ、と。訳の分からぬところが煮え滾ったのが解った。

「貴様も何抱き上げている!」

 天使の王だろうに、低級者とは言え何故悪魔を助けるのだ。

 あまつさえ抱き上げ護る素振りとは気でも触れたか。

 そう言うのに当の本人は実に不思議そうにこちらを見ている。その間も猫娘は天使から離れる様子もない。私が殺すとでも思っているのか、こちらを見下ろしながら実に不安げな表情でいる。それがさらに苛立ちを掻き立てて。

「何故貴女がそこまで怒るのですか」

「うるさい!」

 相変わらず意思の疎通が困難な天使は呆れたように息を吐く。そのやれやれと言わんばかりの表情に非常に腹が立つ、弱者を護ると言ったな。

「天界のお優しい天使様は悪魔ですら助けるらしい……ッ」

「この程度の低級悪魔を殺した所で意味がないと言っているのです」

「言ってないだろうが!」

 話が全然噛み合わない。

 リーネンはリーネンで、抱っこしている男が天使であることにそこでようやく気付いたのだろう。ひゅうと顔色を無くしていた。呆然とした様子で降りるにゃ……と小さく口にして天使の腕からゆっくりと降ろされていた。そうしてそのままぺたりと座り込む。最早どうしたらいいのか解らないのだろう、逃亡も諦めたのか蒼白のままぶるぶると震えている。力こそ全て、生きるも死ぬもこちらの意のままだと理解している表情である。恐る恐るこちらを射る琥珀色の瞳、恐怖に満ちた瞳が酷く癇に障った。こちらが眉根を寄せたせいかふいとまた視線が落とされる、膝の上に握った両手を置いているさまはまるで叱られる子供のようだ。

 じっと床の上を見つめる小さな姿を前に、いつものような穏やかではありつつも批判的な視線を天使がこちらへと送ってくる。……頭が痛くなってきた。地の底を這うような深い溜息を吐いて乱雑に髪をかきあげる。

「……リーネンと言ったな」

「にゃあ、」

「私の使い魔にしてやる」

「んにゃ!?」

 素っ頓狂な声と共に勢いよく顔を上げる猫娘は、大きく目を見開いて愕然としていた。

 私の事は知っているのだろう、いや、姿は知らずともナハシュ・ザハヴを知らぬ者はいないだろう。魔王たる証、いくら低級悪魔とは言えどもこの黒い大鎌を見て察することが出来ぬほど愚図ではあるまい。上級者であれば配下として下位者を従えるのはそう珍しい事ではない、脆弱な低級悪魔であろうのもいないよりはましというもの。

「にゃ、にゃんで!? にゃーは御覧の通りひ弱にゃのに……」

 しかし突然のこちらの提案に、リーネンは信じられないものを見るかのように大きく目を見開いていた。零れ落ちそうな琥珀色の瞳、大した力を持たないことなど見ればわかる。

「待ってください」

 しかしこれに異議を唱えたのがどういうわけだか天使であった。

 悪魔が悪魔を従えて何が悪い、この程度の低級悪魔を傍に置いたとて何の痛手でもあるまいに。難癖でもつけてくるのかと身構えるのだがしかし、飛んできたのは想定外の言葉だった。

「何故今知ったばかりの彼女の名を呼ぶのですか」

「…………は?」

「私の事は一度も呼んではくれないではありませんか」

 妙にすねたような物言いで。

 納得いかないと言わんばかりに天使が詰め寄ってきたのである。

「名乗りましたのに、貴女は未だに私の事を貴様か天使としか呼ばないのに。何故彼女の名は最初からちゃんと呼ぶのでしょう」

「はあ!?」

 わけのわからないことを言い出した。

「貴女は名を呼ばない方なのかと思っていたのですが、ルアードさん達の事は名前で呼びますし、彼女だって……何故、私だけ除外されるのですか」

 ふざけているようには見えない。

 実に真面目に真剣に、不満であると告げているのである。何故も何も、である。

「貴様と仲良しこよしなどごめんなのでな」

「私は貴女の名を呼ぶのに?」

 男は引き下がらない。

 どうでもいいだろうとこちらは思うのに、この強情な男は得心しない。頭一つ半は違う身長でずいとこちらを見下ろしてくるのである、何故だ、と。淡い色彩の瞳が真っすぐにこちらを射る、金の髪が視界に踊る。頭上から降り注ぐ光のように零れ落ちてくる――酷く近くに、男の顔がある。

「わかった、わかった呼べばいいんだろう! わかったから離れろ!」

 全力で押しのけた。が、重い上に体幹お化けの距離感がおかしいこの男はびくともしない。ただ、こちらのやけになって放った言葉に酷く満足したようだった。何が嬉しいのか天使は儚くも美しい笑みを浮かべたのである。

「なんでそんないい笑顔なんだ……」

「名は大切なものでしょう」

 そう言って、ふわりと。まるで聖女のように微笑む男にげんなりする。名は体を表すとは言うが、この男がそこまで拘る理由が解らない。熾天使メタトロンは称号であるからと言っていたからだろうか、ただのヨシュアだからと。名を、呼ばれるのは。個の確固たる確立として必要なのだろうが。

「呼ばれると嬉しいものなのですよ」

「はあ……」

 よくわからん。

 あっちもこっちもとっ散らかってて考える事をそろそろ放棄したい、そもそも私は病み上がりなのだ。体調はほぼ回復したとはいえ未だ血が足りてないのだ。ああ、使い魔としての契約をしなければと天使との不毛なや会話をもう投げてしまおうとして。この世界とは全く関係のないこちらのやり取りを、大変だねぇとばかりに見ていたルアードとぱちりと目が合った。次の瞬間、突然大きく吹き出した。そうしてもう耐えられないとばかりに、それはもう、遠慮会釈なくゲラゲラ笑い出だしたのである。全くもって意図が解らない。

 リーネンはリーネンで頭を抱えて相変わらず座り込んだまま。てんし……あくま……まおうさまのつかいま!? などと何やらぶつぶつうわ言の様に呟いている。

 ――カオスとは。多分きっと、こういう事を言うのだと思う。

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