29 降ち行く

 炎が揺れている。

 人間とエルフの二人が結界から出ていき、天使と悪魔と使い魔という実に不思議な三人で炎を囲んでいる。何が起こっているのかさっぱりだと言うリーネンに、天使は静かに状況を丁寧に説明していた。あれこれ一から説明するのも面倒であったのでお節介な天使に丸投げする事にする。

 この世界がいわゆる異世界である事。

 人喰いの竜人がいる事。

 言語、風習、魔石と魔力の事。

 自分達が元の世界に戻る為の方法を探している事。

 殺し合う間柄だが目的を同じくし一時休戦している事。

 魔界側から私が命を狙われている事。

 警戒し身を強張らせているリーネンに、天使はまるでなだめるかのように柔らかな声で現在知り得る情報を端的に述べていた。それをじっとリーネンは聞いている。はたから見ればまるで幼子に語り掛ける母と子のような格好である。

 炎が揺れている。

 朱色の光、ほんのすぐ後ろは闇が口を開いて佇んでいる。魔界の闇よりは随分と明るくさらりとしたそれだが、人間は暗闇を恐れるものではなかったか。あの人間とエルフはどこで何をしているのだろう、ルアードは魔法が使える、光源など気にしないのかもしれない。人間は――荷物をすべて置いていったのだから、ランプなど持っていないのだろう。夜目が利くとも思えない、だからこそ、ルアードは追いかけていったのだろうな。とうとうと続く穏やかな男の声を聞きながら、そんなことを考える。

 ……いい声をしているなと、思う。

 二人のやり取りを膝を抱えてぼんやりと眺めながら目を細めた。嫌悪する天使ではあるが、発せられる言葉は耳に心地よい低音だった。女顔かつ中性的な体格をしているが声を聞けば男だと分かる程度の低い声。悪意のない声だとも思う。腹の底は相変わらず見えないが、今、ここで、こちらに対しての敵意はないと解る。悪さをしないようにという監視、私が天使以外の手によって殺される事への警戒、薄れる事はないこちらへの注視はあるもののあの燃え盛る氷のような眼差しも殺意も鳴りを潜めていた。人形のような男だ、それら敵愾心をきれいに隠してしまう事も可能だろうが多分、これまでの言動を考えるにどうもこの世界にいる間は本気で共闘する気らしい。悪魔と手を取り合うなど、その後の評価とか気にしないものなのだろうか。

 ――炎が揺れている。

 静かに薪を焦がし光と熱を発している。触れるもの全てを燃やし尽くす原始的な力。美しいと思うのに接触を拒む無形。まるで聖性を持つ清らかな天使のようだ、地に堕ち闇に飲み込まれた我々は天上に住まう天使とは絶対的に相容れない。光は光の中で、闇は闇の中でのみ呼吸が出来る。存在が許される。汚濁に満ちた我が肉など、穢れを知らぬ奴らには唾棄すべき肉塊に過ぎぬ。

 休戦、やり直し、天使は言う。こちらの事など信じない、けれど交わした約束を守るだけとこの男はこちらの寝首を掻こうとはしない。約束など律儀に守る方が馬鹿を見る魔界にとって、それが当たり前に履行される天界はあまりにも違い過ぎて理解の範疇を超えている。

 今もこうやって、この男にとって敵であり殺す事が最善である我々とが同じ空間にいる異常。丁寧に状況説明をしている異常。それに対して多少の警戒も無くし口をぽかんと開けて男の説明を聞いている使い魔がいる異常。異常だらけである。異世界転移、人間と人間でないもの、天使と共に行動するなど通常あり得ない状態である。イレギュラーにはイレギュラーが大挙して押し寄せてくるものらしい。

「はぇ……にゃんか、凄い事になってるにゃ……」

 一通り説明を聞き終える頃にはまた少し警戒が緩んだのだろう、感心すらしたようにリーネンの間抜けな声が飛ぶ。穏やかな表情と声色で懐柔するなど天使の常套手段だろうにお気楽な事。どこまで理解できたのか怪しいが、ああだから言葉わかんないし魔物みたいなのがいるんにゃーと一応は納得したようだった。

「ですので、私とルーシェルは現在協力関係にあります。私を警戒するのは当然ですが、危害を与えるつもりはありませんので安心してください」

 黙って聞いていたらまた好き勝手な事を言っている。

 協力関係とはよく言ったものだ。手と手を取り合ったつもりなどないのだが、この男の中ではどうも記憶が改ざんされているらしかった。

 天使の言葉を当然リーネンは胡乱な眼差しで見つめ返している。隠すでもないあからさまな疑いの眼差し、当然である。天使と悪魔など相容れぬ間柄であり散々こちらも煮え湯を飲まされているのだ、互いに互いを排除したいのだから争いが続くのであり、低級悪魔ともなれば天使と相対することは死と直結する。こちらも容赦しないがあちらはこちらと違い基本的に集団である、神の名のもとに強権を振るう。圧倒的な力で蹂躙するのはなにも悪魔だけではない。

「協力関係って本当にゃ?」

 大きな琥珀色の瞳をしばたかせてリーネンは天使に問う。

「ええ、現にこうして、」

「でも、おまいもルーシェル様を殺したいにゃ」

 リーネンの静かな声が天使の言葉を遮った。

 共に行動していることを告げたかったらしい天使を睨みつけ、獣のように鋭い牙をむき出しにして唸る。威嚇。突然の敵意に穏やかな男の表情が、僅かに驚いたように緩く目を見張る。

「……いずれ、ですよ。今ではありません。私達の目的は元の世界に戻る事、そこで改めて再戦する事ですから。今すぐあなたの主人を殺すようなことはありません」

 幼子に噛んで含めるかのよう務めて柔らかく天使は言葉を紡ぐが、信用ならないとばかりにリーネンはやはり警戒していた。耳を倒し、ぐるる、と喉を鳴らしている。

「天使の言う事にゃんて信用ならないにゃ……ッ」

 猫型悪魔だけあり、耳を伏せ毛を逆立てている。

 ここまで周囲に流れに流されてきた低級悪魔ではあるが、当然彼女も天界側からの悪魔狩りを経験したことがあるのだろう。図らずも天使に助けを求めた時の呆然具合をみれば、それなりに酷い目にも合ってきたようだった。甘い言動で油断を誘い、情け容赦なく相手を屠るのは天使がよく使う手だ。神の名の元に、正義の名の元に。自分達の杓子定規で彼らにとっての異端を弾圧する。慈悲深き天使はだからこそ悪魔に容赦がない。彼らの世界に我々は必要ないのだから徹底的な排除が慣行されているのだ。リーネンの警戒も不信も当然ではある。

「いい、やめろリーネン」

 威嚇行動を止めない使い魔に制止の声をかける。

「でも!」

「私がいいと言っているんだ、不問にしろ」

 語気を強めて言い切れば、今にも飛び掛からんばかりに牙を剥いていたリーネンはぐっと押し黙る。そうしてしばらく何やらもにゃもにゃと言っていたが、それもやがてぺしょりと頭に耳を張り付けて止む。はいにゃ……と。リーネンは不満そうにしながらもそれ以上は言及しなかった。

 我々は人間同士の対立した集団とはわけが違う。

 悪魔を一掃したい天使と邪魔者を排除したい悪魔とは解りあえない存在である。未来永劫殺し合うだけの存在、どちらかが死に絶えるまで続く関係。和解などありえない、相見えた瞬間殺し合うだけの間柄。共に行動している現状は元来あり得ないのだ。悪魔を殺さぬ天使など見た事も聞いた事もない。

「こいつの事は弾除けとして考えろ、誠実な天使様が寝首は掻かないと言っているんだ。約束とやらをどこまで守るのか試してやるのも一興だろう?」

 納得していないらしいリーネンに実に愉快だじゃないかと語る。

 この男は元の世界に戻るまで私を殺さないと言う。

 自分で殺すのだからと私を襲撃する者は排除すると言う。

 約束という名の枷を自ら課したのだ、どこまで遵守するのか見ものだろう。

「阿呆は賢く使え」

「……随分な言われようでは?」

「自身の発言に責任を持つんだな」

 有言実行だろうよとあざ笑ってやるのだが、元よりそのつもりだと男は呆れたようこちらを見ている。一々癪に障ることだ。

「で、でもにゃーとルーシェル様の二人がかりならこんな天使なんて……ッ」

 やっつけちゃうんにゃ! ぐるぐると威嚇しながらリーネンは言う。低級者なりに主人を護ろうとしたけなげな発言はありがたいが、思わず吹き出しそうになってしまった。困ったような表情のまま微笑んでいた天使も笑みが深くなる、言うに事欠いてこんな天使と来たか。

「にゃ、にゃんで二人とも笑ってるにゃ!」

 まだ相手が誰なのかわかっていないらしい、先程の説明でも天使も特に自己紹介はしていなかったな。霊力が低いと言うのも考え物だ、周囲にいる者が自分よりも上級者であることが常であり、なおかつ霊力探知能力も低いのか事態を正しく把握していない。

 天使は天使で怒るでもなく困ったように笑うばかり、地位などただの肩書だと言い切るだけの事はある。

「お前、熾天使の名は知ってるか」

 くすくす笑いながら問いかけると、リーネンは急に何を聞くのかと言わんばかりに困惑の表情を浮かべていた。いいから言ってみろと先を促せば、それでも必死な使い魔はえっと、ええとと記憶を手繰り寄せて。

「えっと、上からメタトロン、サンダルフォン、ミカエル、ウリエル、ラファエル、ガブリエルと……確か、ラミエルだったような」

 多少つっかえながらも、リーネンは七大熾天使の名を述べる。御前天使とも呼ばれる神に最も近いとされる存在をそらんじて見せるとは勤勉な事だ。しかも序列きちんと把握している、低級悪魔は天界の上級天使の事など気にもしないと思っていたが。ぽんこつなようだが馬鹿ではなさそうだ。

「正解」

「にゃんで急にこんなこと……」

 ここまで言ってまだわからないらしい。

 微笑む天使とにやにやとするこちらに、リーネンは居心地悪そうにそわそわとしている。

「あの男はな、お前が今一番最初に上げた名を肩書に持つ脳筋馬鹿だよ」

「最初?」

 きょとりと首をかしげて、こちらの言葉の意味を理解した瞬間それはもう面白いくらいリーネンは表情を白くしていた。血の気が完全に引いたように蒼白になったかと思えば、紅潮させたりと忙しないことこの上ない。相手がどんな立場の者なのかようやく理解できたらしい、大量に汗をかきながらがたがたと震えている。

「ナマ言ってすみませんでした……」

 消え入るような声で低級悪魔は謝罪を述べる。

 卒倒しそうなリーネンにしかし天使は「なま?」と不思議そうにしてるだけだった。言葉の意味もだが、あの顔は恐らく何も問題にしていない顔だ。……余裕ぶったその表情は、決して驕ったものではないのだろう。私とリーネンがあいつを襲撃したとしても、何ら脅威にはならないと言う確信があるんだあの男は。霊力差は遜色がない、が脳筋天使相手に武器使用も肉弾戦も不利にしかならない。女神のような外観とは裏腹に腕力、素早さ、体力と全てが桁違いである。というか、何故そこまで強くなければならなかったのかこの男は。単なる鍛錬好きなのか。

 炎が揺れている。

 仄暗い闇を淡く照らして、影を長くのばしていた。

 傍には魔王、目の前には天使の王という低級魔族が短くないその生涯でもまず出会う事のない相手に挟まれて硬直しているリーネンをちらりと見やる。どうすればいいのか解らないのだろう、がたがたブルブル震えている幼い娘の姿をした使い魔はいっそ哀れな程に顔から色を無くしている。

 ふと、悪戯心が鎌首をもたげた。

 頭にこれでもかと張り付いた三角の耳を、ついとつついて。

「こいつは熾天使メタトロン、名をヨシュアというらしい。是非本名の方で呼んでやれ」

 嫌味を多分に含ませて目の前の男をリーネンに紹介してやる。協力関係というからには私の使い魔であるリーネンもこいつを呼ぶ権利がある筈だ、低級悪魔に称号名ではなく本名を呼ばれる辱めを受ければいいと思ったのだが、しかし男はぱ、と。どういうわけだか顔をほころばせた。大輪の花が咲くような派手なものではなく淡く色づく細やかな花のようで――いや、これは男の表情に対して評価する言葉だろうか。ではなくてだ。

「覚えていてくださったのですね」

 嬉しそうに天使が笑っていて、ようやっと己のやらかしに気付く。この男が名を呼べと言っていたのをすっかり失念していたのだ。

「……何がそんなに嬉しい」

「いえ、」

 にこにこと毒気の抜かれる表情である。とてもじゃないが熾天使メタトロン、天界最強の天使と仰々しいあざなを持つ存在とは思えない腑抜けた顔だ。たかが名前と軽視するつもりもないが、悪魔に呼ばれて喜ぶ神経がわからん。天使とは悪魔を殺す事こそを重要視しているのではないのか。

「存在を無視されるのはなかなか堪えるものですので」

 女神のようなその相貌で、相変わらずよくわからないことを言う。

 名を呼ばないことが存在の無視にまで繋がるのかこの男は。しち面倒臭い。これ見よがしに深い溜息を吐く、こちらの感情をどう受け取るのか知らないが男は一人満足そうに微笑んでいる。

「……だそうだ。思う存分呼んでやれ」

 呆れ果てて投げやりに口にする。名前一つで大仰なことよ、生来の名を捨て役職名を名乗る天使らしいといえばらしいのだろうか。別に知りたくもないが。

 傍らにいるリーネンは魂が抜けたかのように呆然と座り込んでいた。してんし、なまえ、うわ言のように呟きながらとゆっくりと己の顔を両手で覆って。

「おうちに帰りたい……」

 絞り出すようにこぼれた少女の嘆きの声。

 しかし生憎とこの場に彼女の感情を理解できる者はいなかったのである。

 

  ※


 ルアードに連れられて仏頂面のアーネストが戻って来たのは、それから随分後の事だった。

 一体どのような話し合いがなされたのかは定かではなかったが、アーネストもルアードも多少ではあるが衣服が乱れていた。殴り合いでもしたのだろうか、ごめんねぇとへらりと笑うルアードとは対照的にアーネストはこれでもかと顔をしかめて口を固く引き結んでいたのである。ルアードの頬に殴られた様な痕があるのを天使が見つけ、癒そうとしたのをいいのいいの、と。ルアードは断っていた。不思議そうにしている天使に、ルアードは愛だよねぇと。小さく呟いてまたアーネストに頭を叩かれていた。痴話喧嘩か。

「ご迷惑をおかけします」

「いいっていいって、」

 再び焚火を中心に男どもが腰を下ろす。むっつりと黙ったままのアーネストは一人外れに座っていた。いつものようにからからと笑うルアードがふ、と口を噤む。揺れる炎をじいと見ながら。

「ま、なんていうの。腰を据えてちゃんと話すのって多分初めてだったからさ」

 ぽつんと口にした。

 いい機会だったのかもしれないねぇとなんでもないかのように言いながら、先程スープを作った小鍋を軽くゆすいで水を入れていた。そうして焚火にかける、湯を沸かして茶でも入れるのだろう。

「……色々と知れたのは良かったのかなって」

 焚き火の中を細い枝でつつきながら、ふふ、と。ルアードは穏やかに笑っていた。対照的にアーネストは黙ったままだ、この件について話すつもりはないのか隅の方に座って目を閉じていた。

「やはりいつまでもお世話になるにはいきません、アーネストさんの目的を優先すべきかと」

「そうなんだよねぇ」

 枝を放り、水を張った鍋を見ながらルアードは静かに呟く。

 小さな鍋に入れられた水はすぐに沸騰する、ぼこぼこと湧き上がる気泡を確認すると火からおろした。そうして乾燥した葉のようなものを鍋の中に入れるとさわやかな香りが立つ。

「ま、そこらへんもさ。里で落ち着いて話そうかって。アーネストは旅をまだまだ続けるつもりだし、お二人さんの希望も聞きたいしねぇ」

 言いながら鍋の中身を人数分のコップに注いでいた。ふうわりと香るそれを天使に手渡し、ありがとうございますと緩やかに微笑む男の顔をじ、と。急に不安な表情で見つめ。

「でもさ、大丈夫?」

「何がでしょう?」

「いやほら……ツッコミがいなくなるし」

「ツッコミ?」

 言われた意味が解らないのだろう、不思議そうにしている天使にだよねぇと苦笑しながら今度は使い魔に話を振る。

「リーネンちゃんいけそう?」

「おまいわかって言ってるにゃ?」

「ダヨネー」

 コップの中身が熱くて飲めない使い魔がわざと言ってるにゃ、と文句を言っているのをやはり天使は不思議そうに見ていた。……ツッコミ、で片付けていいのだろうか。どうもこちらと感覚が違うらしい天使の言動はあれもこれもずれている。他の天使もそうなのかこの男が特別おかしいのか……多分、後者であるのだろうが。

「ま、ともかく今日はもう休もう。明日には里につくよ」

 そう言いながらルアードがコップの中身をすする。

 二人は旅を続けるのだろう、では自分達はどうすべきだろうか。今までと同じように旅をするのか、だが旅をしないとなると居を構えるしかなくなる。天使はこちらへの監視の目を緩めるつもりはないだろう、まで考えが至りぞっとした。共に暮らすなど最早拷問ではなかろうか。いや、旅も似たようなものなのだが。どちらにしろ詰んでいる。リーネンを使い魔にしたのは結果的に良かったのだと思う、二人きりなど冗談ではない。

 深く考えないようにして渡されたコップに口をつけた。

 舌を焼く熱がいっそのこと心地よかった。


  ※


 夜明けと共に野営の後を片付け、森の中を進む。

 多少乾いてきてはいるがまだ湿り気の残る森の中は相変わらずむっとした湿度に包まれている。泥水の減った獣道、なおも襲撃してくる『魔』を剣士二人が凪ぎ伏せながら奥へと進む。

 少しずつ陽の光が差し込む間隔が増えてきた。

 木々がまばらになる、濃い緑の葉から零れる陽光にフードを目深に被り直した。出発時に肩に乗らせていたリーネンを再び人型にし、コートの裾の中に入れてやる。抱きかかえてやるつもりはないので自分で歩くよう指示するが、使い魔はそこまで陽の光が苦手ではないらしくこちら程日よけを必要としていなかった。アンカーはそこらもあまり問題にならないらしい。

 しばらくして、ほんの少し開けた場所に出る。といっても奥深い森には変わりがない、木が少し少ないかと気付くかどうかだ。しかし漂う何かしらの力。何もない場所にぽつんと浮遊している力の流れ。空間が一部、水面のようにたわんでいる。

「さて、ここが入り口です」

 軽く周囲を見渡し他の人間がいないことを確認したルアードが、その空間の歪みを紹介する。

「力に反応して開くので魔力持ちでない人間には見えない扉です。例えこれに人間が触れたとしても、開かないのでそのまま素通りしちゃいます。見えず発動せず、実に安全ですね」

 まるでおすすめの商品を販売するかのようにべらべらとよく喋る。無色透明の異空間への入り口、陽炎のようにゆらゆらと揺れているそこに身を滑り込ませろと言うのだ。

「隠し扉みたいな感じですか?」

「そ。人間と揉めた時にもう絶対エルフの里に入られないよう、結構大掛かりな術式を構築したらしいよ」

 どんだけ面倒くさかったんだろうねぇ、ぶつぶつ言いながらその門とやらをつついている。ふわ、とルアードの指先を中心に波紋が広がる、特定の行程でもあるのだろうか。何やら術式を起動させるかのような素振り。

「じゃあアーネストさんも里から出たら入れないんですか?」

「そうなんだよねぇ、魔力持ちと一緒なら大丈夫なんだけど単独では無理だね」

 天使の問いかけに答えながら、ず、と扉を押し開くかのように空間の歪みにルアードは腕を差し入れた。

 飲み込まれるかのように腕の先が見えなくなる、さ、さ、と差し伸べられた反対側の手を嫌そうながらも最初に取ったのはアーネストだった。開いてもらった道でなければ中に入れないのだろう、里に帰りたくないと言っていたがこれも原因の一つかもしれないなと思う。いい年した男がおてて繋いで、というのは確かに嫌なのかもしれなかった。

 中に入るよう促され、得体のしれないそれにそろりと足を踏み入れた。ぐにゃりとたわむ視界に、この感覚が嫌なんだとアーネストが小さく口にしたのが聞こえる。不快とまではいかないものの、ざわりと肌の上を何かが撫でていくような感覚がある。

「ま、俺らエルフは保守的という程ではないけれど変則的なものは受け入れがたい民族かなあと思うよ。森と共に生き、森と共に死ぬ。人間のようにあまり環境を変えないかなあ、魔法で何とでもなるしそもそもそこまで欲もない」

 異空間の中をのんびりと歩きながらルアードは出身地について述べていた。すぐに辿り着くのかと思いきや、霧の中のような道が続いている。

「何が欲がないだ、肉欲の権化が……」

「にくって……あのね、お前は軽口を叩かないと死ぬ病気か何かなの?」

 魔力のない人間には負荷が強いのか、気持ち悪そうに顔をしかめているアーネストの非難をルアードはお前凄いこと言うね、と。頬を引きつらせていた。

「俺は綺麗なものが好きなだけで、別にどうこうしたいわけじゃないんだけど」

「どうだか……」

 くぐもったアーネストの声に、信用がないねぇとルアードは気にもせずへらへら笑っていた。むっとしたようにアーネスト眉を寄せているが、何を言うでもなく再び口を噤む。そうして横たわる無言。

 空間転移のような平衡感覚が失われる道をしばらく歩いていくと、ちかりと目を刺す光。揺れる空間を通り抜ければ突然視界が開けた。

「というわけで御一行様ごあんない~」

 しゅう、と収束する感覚。

 足を踏み出した先には、周囲を木々に覆われた緑多い集落が広がっていた。先日までいた街とはまるで違う、人通りの少ない閑散とした村だ。入り口の近くは畑になっているのだろう、様々な作物が実っていた。人工的なものが多かった街とは違い、森と共に生きると言っていたように自然の恵みを頂くと言った生活をしているのだと解った。清らかな小川が流れている、水源地はもっと奥の方らしい。見れば木々に覆われた小高い丘から滔々と水が流れ落ちていた。

「綺麗ですね」

 周囲を見渡しながら天使が感嘆の声をあげる。人は多くないが畑作業をしている姿がちらほら見えていた。

 通って来た道を振り返るとそこだけ窓のように空間の歪みがぽっかりと浮いている。その周囲には結界だろうか、見えない壁のようなものにぐるりと囲まれていた。外界からの完全な遮断だ。

「そういってもらえると嬉しいねぇ」

 切り取られたかのような集落の中をこっちだよ、と案内をする男の後をついて行く。

 木々の柔らかく擦れる音、鳥のさえずり。所々でルアードに声を掛ける里のエルフへと、男はただいまーと片手を上げて軽く返事をしている。

 人間の街には皆髪色や瞳の色が違っていたが、ここにいるエルフ達は多少の差こそあれ皆金髪緑眼だった。年齢も皆若いように見える、子供もいなくはないようだが高齢者の姿がない。魔力が満ちているのもあってか天界のようにすら錯覚しそうになる。むっつりと口を噤んだままのアーネストと自分の髪色が酷く浮いている。

 里の中を歩く。それなりの広さがあるらしく、森の中よりも明るい道を進んでいく。フードを被ったままルアードの後をついて行っていた。

「これガヴァの実って言ってねぇ、タルトケーキなんかにすると美味いんだよね。いやー久しぶりだ、どれくらい滞在しようかねぇ」

 親指ほどの大きさの丸く紅い実が成っている茂みを見ながら、楽しそうにしているルアードにアーネストは嫌そうに声を荒げた。

「おい、俺は長居するつもりないぞ」

「まあまあ、ちょっと休憩するだけだよ」

「お前らの時間感覚は信用ならない」

「いうじゃーん」

 いつもの調子で軽口を叩き合っていた二人が、ガヴァの実の茂みを抜け民家がある方へと歩を進めていく。久しぶりの故郷に気でも緩むのか、ニコニコしながらルアードの足取りは軽やかだった。

「実はお二人に会わせたい奴がいてねぇ、」

「……ルアード?」

 聞き慣れない声に名を呼ばれ、ルアードはぴたりと足を止めた。

 声の方を見ればそこには豊かな金の髪をゆるく三つ編みにした、ルアードと同じ緑の瞳をした女性が呆然とこちらを見ている。腰ほどの低木に成った紫色した拳大の木の実を収穫していたのだろう、一抱えほどの籠の中には沢山の実が入っているようだった。美しい女性だったが、この里の出身だと言う人間とエルフの二人が明らかに動揺した。

「オ、オリビア……」

 おそらく女性の名だろう、ルアードが呼んで後ずさっている。通常であれば軽く口説くくらいするであろう男があからさまにまずいといった顔をしている。

 オリビアと呼ばれた女性がこちらを順繰りに見つめたあと、手にした籠をゆっくりと地面の上に置いた。そうして再びルアードに向き直り、天使のようにたおやかに美しく笑みを刻み。

「てめぇ今度は何を拾ってきやがった!」

 女の怒号と共にルアードが飛んだ。文字通り、宙を舞っていたのである。オリビアと呼ばれた女が、その綺麗な緑の瞳を燃え上がらせて、恐らく渾身の力を込めたであろう見事な蹴りをルアードに叩き込んだのである。

 あまりにも突然の暴挙に声も出ないこちらに対し、後ろにいたアーネストがぼそりと口にした。

「………………俺は先に行く」

 それだけ告げると俺は関係ないとばかりにさっさと民家のある方へと行ってしまった。逃げたのだ、と。理解した時には既に倒れたルアードが襟首をつかまれていた。修羅の如きエルフの女、地の底から響くような怒りの声が静かに響き渡る。

「さあて、詳しく聞かせてもらおうか愚弟」

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