30 翠蓋と碧空
この世界に来て長らく世話になってきた男性が目の前で蹴り飛ばされてしまった。
それはもう、とてつもなく美しい回し蹴りで。目が点になると言う経験をヨシュアは初めて経験した。表現としては知っていたが、正直なそのような事態が訪れる事など全く想定してなかったのである。やはり異世界とはいえ地上は想定外の事ばかり起こる、新たな知見を得てしまった。
熾天使として天界を治める事が最重要視してきた生である。
悪魔を殺し人を護る事を第一としてきた生である。
目の前のエルフが突然怒号と共に見事な体幹から繰り出される足技で蹴り飛ばされた場合、どのようにすればいいのか皆目見当がつかなかったのである。
「客人」
「え、あ、はい?」
ルアードの事を愚弟と呼んだ女傑に突然声をかけられ、慌てて返事をする。じろじろと探るような眼差しが向けられる、ルーシェルがフードを被ったままだからだろうか、女性の緑の瞳がこちらを真っすぐと射る。
「……随分と美人だな」
「デショー」
女性の呟きに、腹部を抑えて蹲ったまま何故か誇らしげにルアードが口にしていた。誇らしげでありながらしかし息も絶え絶えである、一体如何程の衝撃だったのだろう。呆然としているこちらの前でオリビアと呼ばれた彼女がではなくてだ、と。大きく咳払いをして、そうして動けないらしいルアードの襟首を改めてひっつかんだ。
「何か事情がある事は察するが、こちらとしてもこの馬鹿から話を聞かねばならん」
ばか、という部分を強調される。
襟首をつかまれて逃げられないルアードは苦しいのだろう、首元を押さえたままねぇちゃん、と呻いていた。……顔が土気色になっていたが大丈夫だろうか。手を差し伸べるべきなのだろうが、近寄る事は可能だろうかと思うくらいにはオリビアと呼ばれた彼女の怒りが凄まじい。なんだなんだ、と同じく畑仕事をしていたらしいエルフたちがこちらを見ていた。そうしてオリビアとルアードを見比べながら、あらあらと。なんだか微笑ましいものを見るかのように微笑んでいるのだった。いや、微笑ましいのだろうかこれは。
気の強そうな表情の女性だ、確かに二人はよく似た顔立ちをしていた。綺麗な金の髪と深い緑の瞳。
「ご同行願おうか」
静かに、けれど拒否する事を許さぬ覇気を滲ませてオリビアはこちらに要請する。異議を認めない眼差しだ。さてどうしたものかとちらりとルーシェルの方を見る、フードを被った状態で彼女の表情を伺い知ることは出来なかったが、黙ったままでいるので了承とみなした。リーネンはルーシェルのコートの裾を肩にかけたまま不安そうに彼女の主人を見上げるばかり、アーネストもどこかへと行ってしまい、ルアードはオリビアに捕まり逃げられない。
着いてこいと言いながらルアードを引きずっていく女性の申し出を、断る理由はないと判断したのである。
※
収穫した果物を入れていた籠は後で届けてくれと周囲のエルフたちに任せると、オリビアは林の広がる道を通り抜け、集落へと歩きだす。そうして道中これといった会話もなく、無言のまま連れてこられたのは畑のあった場所から幾分か歩いた先の集落だった。当然エルフの数も多くなる、引きずられるルアードとそれを物ともせず片腕で引きずるオリビアというなかなかな光景を、やはりくすくすと笑いながら見ているのである。誰も助けようとしないあたりよくある光景なのだろうか。スキンシップが過激な種族なのだろうか……
そんな事を考えながら進んだ先にあったのは、他の民家とは違い一際大きな建物だった。見るからに統領の家だとわかる、立派な建物だ。ここを中心に民家が円を描くように連なっている。敷き詰められた石畳、至る所に植えられた木々と草花、素朴で柔らかな印象を与える家々。まるで御伽噺の中のような光景。
通されたのは、その大きな建物の中にある応接室とも言える部屋だった。
板張りの床に淡い色彩の壁紙。窓は大きく作られていて陽の光がさんさんと降り注いでいる。一番奥に主人のものであろうゆったりとした一人掛け用のソファ、その向かい側、扉の一番近くのものが三人用。両端に設置されたのは四人でも座れるようなロングソファだった。中央に小さな木製のテーブルが置かれている、テーブルを中心に向かい合うよう四脚のソファが設置されていた。隅には暖炉が置いてあり、至る所に植物が生けられている。木製の家具、木彫りの像、金細工や石で作られた装飾品なども客間らしく飾れていたが、どれをとっても華美ではなかった。長い年月をかけてきたであろう木材のつやが美しい。
席に着くよう促され、部屋の入り口から一番近いソファへと腰を掛けた。薄い青緑の布張りのそれはとても柔らかい。こちらも長く使われているのだろう、肘掛に触れるとまろみを帯びた柔らかな感触が返ってくる。三人掛けのようだったが、ルーシェルはほんの少し考えた後、直接陽の当たらない、自分とは違うソファへと座る。陽の光が良く入るからだろう、コートを目深に被ったままだ。その隣にコートから出てきた人型のリーネンがちょこんと座っていた。揺れる三角の耳と尻尾にオリビアが驚いたような表情をしていたが特に何も言わない。
……普段ならルーシェルはさっさと単独行動をしそうなものなのに、黙ったままとはいえ大人しく着いてきている。珍しい。やはり日の光が苦痛なのだろうか。
「相変わらずの馬鹿力め……」
「言いたいことはそれだけか?」
散々引っ張られたからだろう、首元を押さえながらルアードが低く呻く。普段朗らかな彼の発する悪態にも驚いたが、ものともせずに何か言ったかと睨みつける女性の強さにも目を見張る。
どかりとオリビアが一番奥のソファに腰かけた。
お前も座れと言われてぶつぶつ言いながらルアードもルーシェルとは向かい側のソファに腰かける。持っていた荷物を乱暴に床に放っていた。
「……あの人間はどうした」
「人間じゃない、アーネストだ」
常とは違う、あの柔らかな表情からは想像もできないほど低い声で。ルアードは人間と呼ぶなと静かに威嚇する。柔らかな光を湛える緑の瞳がすぅと色を無くし、冷えた眼差しに射られたオリビアはうっと押し黙った。何か言いたげに唇を震わせたかと思うと、気を取り直したかのように長く長い息を吐いく。
「……訂正しよう、アーネストはどこだ」
「さあね、いつもの所だと思うけど」
「ふん。相変わらず好きにさせているようだが、」
「で? なに? 疲れてるんだから温泉入りたいんだけど」
「話を聞け! まずは近況報告だろうが! また妙なものを連れてきて!」
「妙なものはないんじゃない? こんな美人さんに向かってさあ」
「美人な事と妙じゃない事は両立しないだろう!」
「否定しないあたりねえちゃんだよねぇ」
オリビアは声を荒げるが、ルアードは噴き出していた。けらけらと笑う彼にしかしこちらは非常にいたたまれない。明らかにこちらの事を言及されているのだ、しかし問い詰められている筈のルアードはだってさあと言葉を続ける。
「しょうがないでしょー困ってたんだから」
「だからと言って何故連れて来たんだ、人間との確執を忘れたのか!」
「人間じゃないじゃん」
「ああ言えばこう言う! というか帰って来るなら一報入れろと言っただろう!」
「帰ってこなくても怒るくせに」
「お前が自由すぎるからだろう!」
怒りのままにオリビアはソファの肘掛けをがん、と叩く。とたん、わっと彼女の身体からあふれ出た魔力が周囲に飛び出し、そのままの形のままぱちんと弾けた。弾けて、きらきらと砂金のように落ちてやがて消える。
「話し合いの場に魔力は必要ないからねぇ、ここは封魔の陣が張られている。まあ、冷静に話し合おうじゃん?」
「どの口が……ッ」
なにしてんのさ、とでも言わんばかりのルアードの発言に、オリビアはついに頭を抱えて顔を伏してしまった。会話があっちこっちに飛んでいて要領が得ないが、何故連れてきたのだと言うからにはこちらは歓迎されていないようだ。秘匿の里だ、外界との接触は避けたいのだろう。
――そもそもここに来たのは祝言騒動からの目くらましが発端だった。懸賞金稼ぎの為の闘技場、目立つ行為をしてしまったおかげで竜人の討伐隊への勧誘、勧誘を躱す為の与太話、からの彼らの里帰りの流れだった筈だ。そうやって考えるとやはりこの騒動は自分に原因がある。
「あの、」
「お前も跡継ぎとしての自覚をだな」
「オリビアがやればいいだろ、俺はまだやる事がある」
「人間の復讐ごっこにいつまで付き合う!」
「どうせすぐ死ぬんだから好きにしろって言ったのはねぇちゃんだろ!?」
「自分達よりも短命種だと言ったんだ! 曲解するな!」
「そもそもごっことはなんですか! こちとら命がけなんですけどねぇ!」
「お前たちが勝手に始めた物語だろうよ!」
完全に姉弟喧嘩となりつつある。
わあわあと応酬を始める二人にあのだのそのだのと、口を挟む隙もない。こちらの発言は彼らの耳には届かず、ルーシェルは黙ったままソファに深く腰掛けている。訳が分からないでいるリーネンがぽかん、と口を開けて二人のやり取りを見ていた。昨夜大まかな事情を説明はしたものの、流石に祝言騒ぎの話まではルーシェルの手前詳しく話せてはいなかった。何故ここに来たのか少女にはさっぱりな上この状況である。
「いいか、お前の軽率な行動が他の里の者に危害を加えるかもしれんのだ。竜人に目をつけられてみろ、何をされるかわかったもんじゃない」
あいつらならこんな結界物ともしないんだ。
火のような怒りの色を顔に漲らせて、オリビアは呻くように口にする。
エルフたちの間でも竜人の事は警戒しているらしい。エルフは人間のように食べられることはないとは言えども、その強大な存在の牙がいつ自分達に向かうのか恐れるのは自然な事と言えた。
アーネストの事は聞いている。竜人に襲われた村の生き残り、瀕死の重傷だったのをルアードが助け介抱したと。人の寿命とエルフのそれとはあまりにも違う、アーネストを最後まで助けてやりたいのだろうが当然オリビアの言い分も解った。人は儚い。人は脆い。人の身で神にも等しい存在に刃を向けるなどと。反撃があった場合当事者のみで収まるわけがないのだと彼女は言っているのだ。
「は、結局怖がってるだけじゃねーか」
「不穏分子は排除すべきだ」
きっぱりと言い切りながらオリビアはちらりとこちらを見る。人間と違い霊力を持っているからだろう、こちらの存在の異質さには気付いているようだった。人間ではない、妙な気配の膨大な力を持つ異端。警戒するのも当然だろう、里を治める者ならなおのこと。前情報なく突然連れてきたのなら文句の一つも言いたくなるのも当然と言えた。
「あの、何かすみません、」
おいでと言われてのこのこついて来るべきではなかった。
激しい言い合いの合間にようやっと口を挟めば、それはそれで二人の視線がこちらに集中してびく、と。思わず肩を震わせた。よく似た二人の、最高潮に機嫌が悪い表情はなかなかの迫力である。というか、こちらの知るルアードのあまりの違いに流石に少し、狼狽えてしまう。
「ヨシュアさんが謝ることないでしょ」
「そもそもどちら様なんだ、何故ここにそれ程の力を持つ者がいる」
「ねえちゃんが怒り狂うから……」
「私か? 私が悪いのか? あ?」
呆れたような物言いのルアードに再びオリビアが青筋を浮かべる。
険悪な空気の中、己はどうすべきなのだろうと身の置き場に困り果てていたら。不意にがちゃりと扉が開いた。言い争いを続けていた二人がぴたりと止まる、一人の男性が室内へと入ってきたのだ。
「じっちゃん、」
「ルアード。オリビアも落ち着きなさい、外まで言い争いの声が聞こえていましたよ」
がた、と席を立つルアードに静かな低音。
ルアードにじっちゃんと呼ばれた老年の男性は、やはり金の髪と緑の瞳をしたエルフだった。年のころは人間でいう五十をいくらか回ったといった所だろう、ゆったりとした衣服とその佇まいは威厳を感じさせるものだった。
「お客人、孫たちが失礼つかまつった」
老年の男性が丁寧な言葉と共に礼をされたと同時に、姉弟は二人とも苦虫を噛み潰したような表情になる。あれだけの言い合いをしていたのに非常にばつが悪そうに互いに目を逸らし、むっつりと口を引き結ぶ。
「私はイーサン、この里の長を務めております。失礼ながら人とは理を違える方々とお見受けする。どのようなご用件で参られた」
「あ、いや俺が連れて来たんだけど……」
単刀直入に問うイーサンに、こちらが口を開くより先にはい、と。小さく挙手しながらルアードの自己申告。
とたん、ほんの少し眉根を寄せて老年の男性は溜息を吐く。
「お前はまた……」
「異世界からの移動者です、困っていたようだったのでというのもあるけどちょっと、色々看過も出来なかったので」
怒っているわけではないが、心底呆れきったような表情の男性にルアードは口早に説明していた。異世界か、と。男性の言葉が重く床の上に転がり落ちる。オリビアも額に手をやり、やはりかと小さく呟いた。
「……確かにこれだけの力を持った存在が、人間ならまだしも竜人側につくとややこしいことになってただろう」
髭のない顎をさすりながら非常に重苦しく。
「でしょ? ちょーっと込み合った話になってて、」
「ルアード」
一言。その一言でルアードは慌てて口を閉じる。
イーサンは決して声を荒げてはいない、淡々と喋っているだけなのだが音の中に威圧感があった。得意げに語っていたルアードがとたんにすんません、と。小さく謝る。
「お客人、お疲れでしょう。部屋を用意しますのでどうぞ休まれていってください。そちらの女性も具合が悪そうだ」
フードを被ったままのルーシェルに声をかけるが、彼女は黙ったままだった。愛想のいい方ではないが、イーサンの言う通り陽の光に当てられているのだろう。日よけの為のコートではあるがやはり限度があるか。
「詳しい話は後程お聞かせ願いたい。……ルアード、彼らを部屋までご案内なさい。オリビアは補佐を」
「へーい」
「……解りました」
どこまでも軽いルアードの返事と、納得いかなさそうなオリビアのしぶしぶと言ったそれとが非常に対照的である。
「じっちゃんはどこ行くのさ」
「この後場を設けます。また使いの者をやりましょう」
それだけ言って、イーサンは応接室を後にした。
※
扉が再び閉まり、しん、と静まり返った応接室。
応接室から出ていったイーサンの背中を眺めながら、二人はふうと大きく息を吐いた。
「……お前のせいで叱られてしまったじゃないか」
「ねえちゃんがブチギレるのが悪いんですぅ」
「諸悪の根源が何を言う」
「別に悪かないでしょーが」
叱られた手前、先程とは幾分かトーンを落として姉と弟だと言う二人は言葉を交わしていた。嵐のような二人のやり取りの間は口を挟めなかったのだが、これてようやっとこちらから話を振ることが出来る。
「すみません、ご迷惑なようですのでやはり私達はここを出た方が、」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
立ち上がってルーシェルとリーネンに目配せをするのだが、これに慌てたのがルアードだった。
「来たばっかじゃん!」
「ルアードさんも統領の御令孫ならば、不用意な行動は慎まれるべきかと」
「うーん上に立つ方のお言葉は重い! じゃなくて!」
それとこれとは違うでしょうとルアードは声を荒げる。
「今更お二人さんを放り出すなんてことは出来ないよ、そりゃあアーネストは旅を続けたがっているけどお二人さんだって帰りたいわけだろ? ここに来たのだって人間の街より情報がありそうだと思ったからだし」
街や外より安全なのだからとルアードは必死に弁明しているが、けれどオリビアの言う事も確かなのだ。我々は招かれざる客、この里は人間とも竜人とも与しない独立した集落。異質なモノを受け入れるにはあまりにもリスクが高い、目をつけられたら。報復があったら。イレギュラーを受け入れるには相応の対応が求められる。
「随分と甘えてしまいましたし、自分達の事は自分達でなんとかすべきでしょう」
きっぱりと告げる。
アーネストの事もある、彼の目的と自分達の目的は違うのだからいつまでも行動を共にするわけにはいかないだろう。里に来たのも軽率であった、確かに何の手掛かりもない中での情報はありがたいが彼らを危険にさらすのは本意ではない。
そんなあと嘆くルアードにすみませんと小さく笑みで返し、ルーシェルに向かい合う。
「そういう事になりましたが……大丈夫ですか?」
黙ったまま、こちらのやり取りを聞いていたのかどうかすら怪しいルーシェルにそう投げかけるがやはり返答はない。フードを取らず座り込んだままの彼女に手を差し伸べる、がこちらの手をぱちんと払いのけられた。常とは違い勢いがない。
「……施しなどいらん、貴様が気にする事じゃない」
いつもの拒絶だが明らかに覇気のない声。
心配そうなリーネンに支えられながらゆっくりと立ち上がるが、少しふらついているようにも見える。乱れたコートを正して、すっぽりと身体を隠している。……こちらの世界に来てから、彼女はずっと調子が悪そうにしていた。霊力の差だろうか、リーネンはそこまでではないのにルーシェルは明らかに日の光を厭う。
「どうした、そんなに具合が悪いのか?」
「彼女、陽の光が苦手なんだ」
オリビアの問いかけにルアードが答える。
ここが明るい部屋の中だから驚いたのだろう、オリビアが目を丸くする。
「それはすまなかった、部屋を選ぶべきだったな。というかお前もちゃんと言え、私は彼らの事を知らないんだ」
「いや……コートのおかげでいままではそんなに、」
非難するオリビアに、ルアードは慌てたように答える。確かに街の中も森の中も、日よけの為の青みがかった灰色のコートを着てからはここまで具合悪そうにはしていなかった筈だった。
「陽光が苦手とは虚弱体質かなにかか? そんなに具合が悪いなら治療師を呼ぶが、」
「ちがう、」
身体が弱いのに旅をしているのかと言わんばかりのオリビアに、弱弱しくも気丈にルーシェルは否定する。
「……植物の気に当てられているだけだ、そのうち慣れる」
口元を手の甲で押さえながら、囁くかのようにそう口にした。気分が悪いのかフードの端から覗く指先が色をなくして常よりも白い。
確かに里は光と緑に溢れていた。
明るい空、陽光を取り入れる為だろう室内には大きな窓が設置されており、小屋の外壁に這う蔦、道の周囲に植えられた花々、至る所に植物が生い茂っている。そもそもが森に囲まれた集落だ。陽の光も植物もない世界の住人からしてみれば、至る所に「命あるもの」が存在する状態は慣れぬものなのだろう。植物の少ない街、陽のあまり差さぬ森、この二つではそこまで問題になっていなかったのだから、ここにきてまた具合を悪くしているのは陽の光と大量の植物の相乗効果なのかもしれない。
立つ事もつらそうな彼女に、抱きかかえる事が最善なのだろうが……きっと良しとしないだろうことは今までのやり取りからわかっているので自分なりの妥協点を示す。
「手をお貸ししましょう」
「いらん」
しかしこれまた手酷く拒否される。
側にいるリーネンすら振り払って、問題ないとばかりに足を踏み出したルーシェルだったが本当につらいのだろう、立ち眩みでもしたか踏み出した足元がふらついてぐらりと身体がかしいだ。
「ルーシェルさま!」
慌てたように叫んだリーネンより速く彼女を抱き留める、鼻先にふわりと香る甘やかな香り、彼女が目深に被っていたフードが外れてつややかな黒髪が溢れ出た。まるで抱き合うかのように向かい合った状況。こちらの胸へと頭を預ける形になっていたルーシェルがゆっくりとこちらを見上げる。至近距離で見た深紅の瞳は大きく見開かれ、光溢れる室内で彼女のそれは紅玉のように輝いていた。華奢な身体はやはり驚くほどに軽く、ほんの一瞬ではあったが絡んだ視線の先、驚いたような表情は妙にあどけなく。
「……お怪我は?」
「――――ッ!」
声にならぬ声を上げながら突き飛ばされた。らしい。何故らしいと言うのかと言えば、両腕で押しのけられたようなのだがよろけて後ずさったのはルーシェルの方だったからである。細い体躯に見合う程度の腕力だ、突き飛ばそうとして自分が弾かれたのだ。
「耳元で囁くな!」
耳を押さえたまま再び身体をよろけさせる彼女は白い頬を紅潮させて、こちらからじりじりと距離を取りながら乱暴にフードを再び被っていた。……あの宝石のような瞳が隠れるのは、少しもったいないような気もするが。それよりも、だ。これだけ足元がおぼつかないのであれば自力で歩くことは困難なのではなかろうか。
「やはり私がお部屋までお連れしますよ」
「やめろ寄るなこれくらい平気だ」
「辛いのでしょう? 足元もふらついて、」
「いらん!」
「ですが、」
「しつこい! というか寄るな! 喋るな!」
……拒否は今まで散々あったが、さすがに喋るなは初めてだった。そこまで彼女の怒りを買うようなことをしたつもりもなかったのだが、ルーシェルはまるで毛を逆立てた猫のようにこちらを威嚇している。純然たる好意のつもりだったのだが何か彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。リーネンがわかりますがちょっと落ち着くにゃあと宥めているが聞く耳を持たない、というか、彼女はわかるのか。
近寄ることも話しかけることも拒絶され、しかしルーシェルは怒り狂っていて。ほとほと困り果ててルアードに視線を送るのだが。彼らは彼らで同じ顔をしてこちらをじいと見ていたのである。
「おい……おい、フードの下からどえらい美人が出てきたんだが?」
「ねー、もう本当やっばいよねぇ……」
腕を組み右手で口元を押さえながらオリビアが呟けば、ルアードがわかるぅと言いながら賛同していた。二人ともこちらをじっと見ている、見ているが助けてくれそうにはない。
「これはあれか? 愚弟」
「あれでそれですよ姉上」
そうしてなにやら暗号のような物言いを始めていた。あれだのそれだの、外野が何を言っているかまではわからない。分からないが、さすがに何か、楽しまれているようなことだけはわかった。
「これはまあ、……うん、あれだな」
「ご同類で嬉しい限りー」
言いながら二人はコツンと互いの拳を軽く当てていた。姉弟の間で交わされるなにかなのだろう、そうしてこちらを威嚇しつつ距離を取るルーシェルと自分とを見ながらオリビアはにっこりと笑った。
「さあ、まずは部屋まで案内しよう。そこでゆっくり休まれるといい」
話はそれからだ、と。
非常に良い笑顔でこちらに提言したのだった。
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