15 睡余の後の片言隻語 - 2 -
カーテンの隙間から差し込む光がほんのりと目を焼いて、ルーシェルは重い瞼を持ち上げた。薄ぼんやりとした視界に広がるのは真白いシーツ。柔らかな枕と布団、暖かな室内。もぞ、と。身体を起こして小さく伸びをする。陽光が白々と夜を拭っていく様は、この世界に来てから数日体験しただけとはいえ慣れぬものであった。誰にも見せぬよう夜の中に隠した罪を暴いていくようで、眼前に引きずり出されているかのようで。何とも言えず居心地が悪い。
ベッドから降りて陽が入らぬようカーテンの隙間を埋める。それでも闇は戻ってこず、柔らかな影の中に潜むかのようにしかならない。ほつれた己の長い髪を手櫛で軽く梳いて、はあ、と。一つ息をついてベッドに腰掛ける。やわい光はそれでも不快感を与えてくるものだった。
夜空はあんなにも美しいのに。昨夜怒りのままに見つけた三階への階段、扉を開いた先に広がる一面の星空に圧倒された。転倒防止用の柵へ歩を進めれば、そこから覗くのは夜の帳が落ちた街中を照らすオレンジの街灯。すう、と通り過ぎていく風は頬を撫でてこんなにも柔らかな闇が存在するのかと驚いたのだ。意図して呼吸、肺腑を満たす冷えた空気は星色に満ちて。
――闇夜な中でもなお輝く金の髪が思い起こされて、ちっと。小さく舌打ち。
あの、憎たらしい天使。
ちらりと視界の端に映る青みがかった灰色のコート。無造作に備え付けの椅子の上にかけられているのを見て、どうして受け取ってしまったのだろうかと今更ながら後悔が襲う。天使からの施しを受けるなど、だが袖を通してしまった手前突っ返すのも躊躇われる。第一、陽の光が苦痛なのは変わらないのだ。まだ旅を続けるというのなら、いや、日常生活でもあのコートは必要だ。必要であると、認識させられたのだ。
――柔らかな布地は肌に馴染んで、落ち着いた色味は確かに好みではある。それがまた腹立たしくイラついてむかついて、言いようのない感情が胸中で渦巻いて非常に不愉快なのだ。不愉快だからこそなかった事にしてしまいたいのに、突き返しても必要なのだろうとまた世話を焼かれるだろうことは想像に難くない。というかあの男は同じことをする。絶対にする。
堂々巡りだ。
放って置けばいいのに、どうしてどいつもこいつも私に構う。
する、と苛立ち紛れに手首に巻かれたままになっていた包帯を解いた。あの夜、縛られ擦れた痕はまだ多少残ってはいたものの大分目立たなくなっていた。唇の端や頬に張られたガーゼと首に巻かれた包帯も取り去る。小さなテーブルの上に投げ捨てて、ぐっと伸びをした。億劫だが顔を洗いに行く、すれ違う人間は幾人かいたがほぼ例外なく青白い顔だったのが気にはなったが詮索する気にもなれずさっさと自室へと戻った。
用があれば誰かが呼びに来るだろう、自分から階下へ降りる気にはなれなかった。そうして立てかけられたままのナハシュを手に取って寝台の上に再び腰掛ける。大鎌の刃を左にして柄の部分を膝の上に置く、ぎゅっと握れば手に馴染む感覚。ひとつ、試してみたいことがあった。
現在もなお霊力は変わらず自身に満ちたままである。
元いた世界では己の意思一つで術は発動していた。霊力を織り上げ具現化する、詠唱を伴えば威力も増大するのだが、それはなにも媒介を必要としているわけではない。身一つで完結していたのだが、この世界では力を発動するのに媒介を通さねばならないという。天使は増幅装置を通しても関に霊力を流し、石の耐久度を図っていたようだったがあまり役には立たないようなことを言っていた。焼き切れたかのように割れた石、魔石とやらが高負荷で砕けるというのならナハシュはどうだろうか。
あの夜は、焦りがあったからだ。
そう自身に言い聞かせ、ゆっくりと指先から意識して力を流し込む。
霊力は確かにナハシュへと流れていく、問題はそこから先だ。ナハシュに流した霊力を発動させなければならない。手始めに闇色の球体でも作ってみようと思う、初歩も初歩の術だ。子供だましのようなものだが零から行うには視覚的にも解りやすくてちょうどいい。
ふ、と一つ息をついて、今までは無意識に行っていた霊術を意図して展開する。じわじわと滲ませるようにナハシュへと己の中の霊力を流し、回し、糸を撚るように、布を編むように。より鮮明なイメージと綻びのない数式の様にきちりと霊力を撚り上げる。が。
ばちん、と。弾かれた。術の発動ではない、拒絶反応だ。霊力を帯びたナハシュ・ザハヴはしかし術式の構築にまでには至らないようだ。やはり駄目か、小さくごちてルーシェルはぼすりと寝台へと沈みこんだ。この世界の理に則るならばやはり魔石や増幅装置を媒介にしたほうが良いのかもしれない。そこまで思い至ってぎゅうと唇を噛みしめる。……増幅装置は、天使がいくつか持っていた筈だ。
何をどうしてもちらつくあの男の姿に歯がみする。
同じ世界から来た唯一の相手であるのだから当然といえば当然なのだろうが、嫌なものは嫌なのだ。いまいち何を考えているのか解らない男。私の事を塵芥としか見ていないと宣言する癖に、同じ口で知りたいのだという。誰に対しても丁寧で私が辛いだろうからとコートを買い与える。こちらを気遣うような素振りをするくせに必ず殺すと氷のような眼差しで言い放つ戦闘特化の脳筋野郎。
はあ、と。長く深い溜息が口から零れ落ちる。
ともかく武器は多いに越した事はない、天使の持ち物を借り受けるのも嫌だったがコートを与えられた以上一つも二つも変わらないような気がした。そもそも、自分はこの世界の貨幣を持っていない。持っていないという事は購入が出来ないという事だ。略奪、という言葉も浮かんだが現状を鑑みるに余り得策とも思えない。
どこかで金を稼いだ方がよさそうだ。
そんな事を考えながらベットから立ち上がるとナハシュを再び壁に立てかける。僅かなりとも術が使えないと何もかもが不便だ。心底苦痛だが天使から一通り借りて、再び術の発動を試してみようか……
「あ、ルーシェルさんおはようございます」
あれこれ思案しながらドアを開けたら不意に声を掛けられた。
柔らかな女の声。リリーだ。
「ヨシュアさんならアーネストさんとお出かけしてますよ」
仕事中なのだろう、両手にシーツを抱えた娘はニコニコしながら続けた。天使が監視対象である私から目を離し外出した事にも驚いたが、相手があの目つきの悪い黒髪とは随分珍しい組み合わせだ。
……真っ先に天使の居場所告げられたのが癪だ。
昨夜の騒動は相当尾を引いているらしい。
「お食事は何にされますか?」
「いらん」
苛立ちのままに告げる。
そうしてそのまま部屋へと戻ろうとしたのだが。
「え、昨夜も何も食べてないのでは、」
「…………、」
必要ないのだからと、危うく言いかけて口を噤む。
人間は食事を摂らなければ生命活動は維持できない。人ではないのだと、告げるのは少々厄介なことになりそうだった。特にこの竜人について調べている娘の前では。
「あの、もう少ししたら休憩に入るんです」
どう返すべきだろうかと考えあぐねいていたら、思い出したかのようなやんわりとした声。だったらどうした、そういった眼差しを向けるとリリーはぱっと笑った。ふわふわとした柔らかな栗色の髪、明るい茶色の瞳を輝かせて笑う彼女は陽の光の下に咲く花ようだと思った。決して大輪ではない、素朴だがけれど力強く根を張るそれ。
「よかったら、一緒にお茶でもいかがですか」
娘は、実に可愛らしく口にした。
※
日は高く上っているだろうに、室内は奥まった場所にあるせいか妙に薄暗かった。昼間だというのにほんのりと灯されたランプの石がやわく光を発し、ゆらゆらと薄い影を作っていた。
……人よりもはるかに長く生きてきた自分ではあるが、まさか他者への紹介時に『森で拾った』などと言われる日が来ようとは夢にも思わず、ヨシュアは思わず目をしばたかせた。アーネストは言うだけ言うと、自身の剣が戻ってきたからだろう、柄の握り具合を確かめてはいるもののそれ以上何かを喋るわけでもない。その間も不躾とも取れる眼差しが高齢の店主から向けられていた。
「森、ねぇ」
店主ぼそりと低く呟いて顎をさすっていた。
唇の上を覆う立派な口ひげは白いものが混じっている。
「あの、」
「……どんなものが必要だ、長いのか、短いのか。双剣もあるぞ」
他に客もおらず、横たわる沈黙と視線に耐え切れず声を上げれば店主がふい、と壁を顎でしゃくった。ずらりと壁一面を飾る大小さまざまな刃物。長いもの、短いもの、曲線を描くもの、長く直線のものなど形は多種多様だ。ふむ、と。かつて自身が振るっていた剣の形状を思い出す。
「両刃の……アーネストさんの使うものよりは短いのですが。両刃の長剣てありますか」
「厚みは?」
「そこまで厚くは、」
ちらと壁に再び目をやる、一から形状を伝えるのは難しい。似たようなものがあればと壁一面に飾られている刃物達の中から探せばふと目についたものがあった。
「ちょうど、あれが近いですね」
一つの、大剣とでもいうべき形状のものを指さす。
刃幅はやや幅広で両刃、刃渡りは長く、銀色に鈍く光るそれは自身が長らく使ってきた愛刀に似ていた。この世界にやって来た時には既に握っていた筈のそれはなく、恐らくどこかのタイミングで取り落としたのだろう。呼べばやって来る筈なのにそれがないという事は、きっと天界に残っているのかもしれない。
「はん、」
こちらの指さした方を見た店主は何やら考え込むような素振りをし、再びこちらへと向き合う。
「防具もと言ったな、手甲と、……脚絆はいるか」
「標準的な装備を一通りお願いします」
お金ならありますので、続けるが老人はそうかと言ったきりまた黙り込んでしまった。顎をさすりながらふん、と。こちらを見ながら何やら考え込んでいる。
大分減ったもののまだ前回闘技場で稼いだ賞金が半分くらいは残っていた。流石に全額自分が使うわけではない、同行する人間達の食料や装備品、宿の宿泊費、彼らが魔石を換金して得たお金と合わせて出立の準備に使った残りだ。増幅装置を十点ほどとルーシェルのコートもそこから購入している。
「じーさん、裏借りるぞ」
一通り剣の具合を確かめたらしいアーネストが、それだけ言うとひょいと外へと出て行ってしまった。
「裏?」
「練習場みたいなもんがあんだ、試し切りでもすんだろ」
坊主は相変わらずマイペースだな。
店主は呆れたように言うと、ちょっと待っとれと奥の部屋へと引っ込んでいった。一人店内に残され、所在なく待つ。そうっと来客用だろう椅子に腰かけてみる、店主の消えていった部屋からは何やらがしゃがしゃと音が聞こえてきていた。壁にある剣を取るのかと思ったらそうではないのだな、そんな事を考えていたら店主が戻ってくる。老店主の手には五振りばかりの大剣が抱えられていた。
「構えてみろ」
その中から一本差し出される。
鞘に入った剣、先程自分がこれだと告げたものとよく似た形状のそれ。見れば、店主が持ってきたものはすべて多少の差はあれど同じような両刃の長剣だった。
「しっくりこなかったら別のを持ってくる」
事も無げに告げるが、奥の部屋に一体いくら所蔵されているのだろう。そうして、この短時間で似たものはこれだと持ってくるというからには、すべての形状を把握しているという事で。
「……そんなに沢山あるんですか?」
「馴染む奴じゃないと危険だろう」
何を言ってるんだと言わんばかりにホラ早く構えてみろとせかされる。言われたままに握る、鞘から抜くのは危険だろうと思ったが、抜き身じゃないと意味がないだろうとこれまたお叱りを受けた。
「達人は道具を選ばないとか言う奴もいるが、使いやすいものの方が生存率は上がるだろ。武器は特に生死にかかわるからな」
一本目を構えてみる、やや軽い。振りやすそうではあるがこれだという確信はなかった。その様子をしばらく眺めていた店主がふん、と。また鼻を鳴らして次はこちらだと剣を変える。長さ、重さ、構えた時の手首の癖、それらを見ながら二本目、三本目と持ち変えるように指示された。
双方でこれだ、と思ったのは八本目。
剣先は白銀だが柄に近づくにつれ段々と濃い青色になっていく刀身の長剣だった。刃幅はやや広めだがその重さがじっとりと手に馴染んだ。愛刀とは似てはいるものの趣向の違うこれは、霊力がない分単純な刃物として使いやすそうだ。ぱちんと鞘に戻す。
「グリップはあとで修正してやる、あと防具は手甲と脚絆、胸当てくらいか。あまり動きは制限しない方がやりやすかろう」
言いながら店主はまた奥の部屋へと行き手甲と脚絆、胸当てを持ってきた。
ルアードやアーネストと同じ茶色の皮製の手甲と胸当て、膝下まで覆うやはり皮で作られた脚絆。実際に着けてみてサイズを確認した後、こんなもんか、と。それまで深い皴を眦に寄せていた店主がにっと笑った。
「服はどっかで丈夫なやつを買え。剣帯はおまけしてやる」
「何から何までありがとうございます」
一通り武器と防具とが揃いほっとした。
店主は腕がいいのだろう、購入した剣は隅々まで手入れがされており、切っ先は鋭く曇り一つない。店主自身も余程の目利きなのか武器との相性を的確に見抜いているようだった。これで同行する彼らに迷惑をかける事もなく旅が出来ようというもの。今着ている衣服も軽装であるし、後で衣類の店に寄らせてもらおう。いや、ルーシェルと一緒に行った方が二度手間にならないだろうか。流石に衣服は勝手にどうこうできるものではない。
「しっかし、あの坊主がクソガキ以外といるなんてな」
あれこれと考えていると、購入した長剣の鞘に剣帯を取りつけながら店主がくっくと笑いだした。皴のある指先がさらさらと動いて作業する様は不思議と見入る。――クソガキ、とはルアードの事だろうか。
「あいつよくよく喋らんだろ」
剣帯をつけ終わるとそのままグリップの修正に取り掛かるのだろう、一回握ってくれ、と手渡される。言われるままに手に取ればふん、と。少し考えこんだ後、グリップに巻かれていた布をはがし別の布に巻き始める。
「お知り合いなんですか?」
「……もう十五年になるかね」
作業の手を止めないまま、こちらを見ないまま店主は一転静かに口にする。
「でっかくなったよ、目つきの悪いクソガキがさ。こうして他人と交流が出来るようになるなんてさ。時間ってのは残酷で、でも傷を癒すにゃ長く必要なもんだ」
柔らかな口調で店主はとうとうと口にする。その間も続く細かな作業、動く指先。
「それはどういう、」
口を開きかけたこちらに、何事もなかったかのようもう一度剣を握るように手渡される。丁寧に巻かれたグリップの布は先程よりも違和感なく手に馴染んだ。この短時間で完成する職人の技に心底感心するが、けれど彼の言葉はどこか遠くへと通じている。これでいいな、満足そうな店主の表情とは裏腹にこちらを見るやや薄い茶色の瞳は静かな光を湛えていた。感情の見えない静かな湖畔のようなそれ。
「なあお前さん、見た目は若いが随分な手練れだろう。その熟練度は人間がそう容易く到達できる練度ではない」
こちらを見据えた店主は静かにお前は人間ではないと断言する。ここへやって来た時からこちらの動作をじっと見ていたが、きっとそこから何か思う事があったのだろう。否定も肯定もしないこちらを、高齢の店主はただただじいと見つめて目を細めた。その表情はさながら祈りの様に。
「俺はあんたが何者なのか知らねぇがな。ただ、坊主を死なせないでくれや。そんだけだ」
乱暴な物言いはしかし、切望を孕んでいた。
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