36 同郷望郷イノセント
枝葉の隙間から差し込む日の光は柔らかいが煌々と辺りを照らしている。
緩やかな坂を下って上り、石畳を進んだ先の開けた空間。里を流れる小川の側に、赤い屋根の可愛らしい家がぽつんと建てられていた。見上げる程高い木々に囲まれ、そこだけぽっかりと開いた草地になっている。小さな煙突からは淡い煙がふわりふわりと立ち昇っていた。隅の方に小さな畑と小屋が庭にあるのが見える。
先導するルアードがあれだよあれ、と指で指し示しながら告げるのをルーシェルはぼんやりと聞いていた。鈍く痛む頭は視覚情報を明朗に処理しない。胸がむかむかする、聞こえる音も感覚も薄い膜に覆われているかのようにどこかぼやけたものだった。起き抜けよりは大分ましになったが全快には程遠い。
……昨夜のことはよく覚えていなかった。
酒を飲んでひっくり返ったらしいことだけはなんとなく覚えている。鼻先をくすぐるような甘い香りだけが妙に頭に残っていて、それ以外はさっぱりだ。気が付いた時にはベッドの上に横たわっており、傍らで眠り込んでいる使い魔と何故かごてごてと装飾された天使がそこにはいた。重い頭と胸の悪さも相まって最高に意味がわからない状況だったのだ。それでも、肌を撫でる緩やかな風をうっすらと覚えていた。泣きたくなるほど優しい声を聞いていた。もう一度だけでいいから会いたい人の面影を見たような気がする。
くあ、と肩の上にいるリーネンが欠伸をする。猫の姿である時は意識が獣に引きずられるのか、一度眠るとなかなか起きなかった。相変わらずぷうぷうと間抜けな寝息を上げる使い魔にあきれ果てるが、まあ、昨夜一晩中扇いでいてくれていたようであるし……手間をかけた自覚は流石にある。褒美の一つでも取らせるべきだろうか。
カーン、と小気味よい音が痛む頭に響き渡った。
見れば庭の隅で斧を振るって薪割りをしているアーネストがいる。いつもの旅装束ではない、長い黒髪を一つにくくって動きやすそうな緩い服装へと着替えた彼は大きく腕まくりをしていた。剥き出しの腕には酷い傷痕が縦横無尽に走っていて、おや、と。僅かに目を見開く。何故室内ですら革手の一つもとらないのかと思っていたが、それほどの傷が残るなら致し方ないのだろうと十分納得出来る程の惨いそれ。敵討ちだとか言っていたが、竜人につけられた傷だろうか。傍らにいるいつもならやかましい筈の天使が静かなままだ、行動を共にする事も多かったようであるし、きっと知っていたんだろう。
「よっすよっす、精が出るねぇ!」
殊更陽気に声をかけるルアードに、黒髪の青年はがつ、と手にしていた斧を丸太で出来た薪割台に振り下ろした。綺麗に真っ二つに割れる薪が周囲に転がっていく、ふう、と汗ばんだ額を乱暴に拭ったアーネストがこちらを実に面倒くさそうに見る。
「一番食う奴が重労働しろって」
「そりゃあそうだ」
呆れたように言いながらルアードは飛んでいった割れた薪を拾う。四方八方に飛んで行った薪はそこそこの量になっていた、庭の隅に建てられた薪棚に丁寧に入れるのを天使も手伝い始める。
「……まさかと思うが昨日のあれもう全部食ったの?」
「三人で食べたぞ」
「当たり前なんですよねぇ」
むっとしたような物言いのアーネストに、薪を拾う手を止めないまま呆れたようにルアードは返す。昨夜イーサンが持って行けと言っていたやつだろうか。多めに包ませるとか何とか言っていたが、この男の事だ、阿呆程食べたに違いない。
「あとでじっちゃんが顔見せろってさ」
「嫌だが?」
「そういうわけにはいかないんですぅ」
ルアードが文句を言うが、アーネストはただでさえ目付きが悪いのに更に眉間へ皺を寄せていた。物凄い仏頂面。余程嫌らしい。むっつりと口を引き結んだまま、アーネストは手にしていた斧を乱暴に薪割り台の側に立てかける。屋敷に帰るのも久しぶりでしょーと尚も続けるルアードを完全に無視して小屋へとさっさと向かっていく。
「おいハヤト、やっと来たぞ」
そうして乱暴にドアを開けて奥に向かって呼びかけた。扉が空いたことでふわりと中から甘い匂いが漂う、何か、菓子の類だろうか。リリーが作っていたものと似たような香り。ややあって、がたりと家の奥から音。
「随分遅かったな」
低い声と共にのっそりと出てきたのは短髪黒髪の青年だった。何かの作業中だったのか、こちらも腕をまくって随分と汚れたエプロンを着ている。背はさほど高くないが若い。両耳に青い石のイヤリングをしていて、そこから漂ううっすらとした力の流れ、天使がしている赤い石の物と酷似している。
「梓が待ちくたびれて、」
折った袖を直しながらこちらを見た青年がぴたりと動きを止める。驚いたようにこちらを凝視しているのだが、その瞳の色にわずかに瞠目した。呆然としたようにこちらを見て目をしばたかせる青年の、その左目は黒々としていたが右目は白く濁っていたのである。
「……なんだ、漫画か何かか?」
こちらを凝視してくる男の、呆けたようなその表情と絞り出したかのような言葉にルアードが耐えきれないと言わんばかりに噴き出していた。
※
「話には聞いていたが、本当に現実味がないくらいキレイな生き物っているんだな……」
通された部屋でハヤトという青年が唸るように呟いた。ダイニングルームなのだろう、さほど広くも大きくもない部屋に六人と一匹とが詰め込まれている。大きめの長机と椅子があり、それぞれが腰掛けている。その周りを黒髪の少女がふわふわと文字通り飛びながらテーブルの上にコップを並べていくのを、天使と共に当惑しながら見ていた。ちなみにリーネンはと言えばいまだ肩の上で眠ったままである。マフラーのように伸び切っているが器用なことに落ちないでいる。
「本当にお二人とも女神様みたいね」
うっとりとしたように口にしながら焼き菓子をふるまうのはハヤトの妹というアズサだろうか。兄と妹というだけあってよく似ている。肩で切りそろえられた黒髪、兄とは反対に右目が黒く左目が白い。赤色のイヤリングをしているが、これは多少デザインが違うとはいえ天使がつけている言語変換の物と同じものだろうか。そうして何より言及したいのが、随分と可愛らしいその、宙を浮かぶ足のない座椅子のようなものだ。漂うのは魔力、どういうわけだか腰かけたアズサごとふわふわと浮いているのである。
んん、と。一つ咳払いしてハヤトという青年が改めて背筋を伸ばした。そうして色違いの瞳がこちらを真っすぐに射て。
「
顎でルアードをしゃくった。
はあーい、ルアードは気を悪くしたようでもなく両手をひらひらとさせている。その側で焼き菓子を乗せた皿をテーブルに乗せていた黒髪の少女が梓でーすとこれまたいい笑顔。
「私はヨシュアと申します。こちらはルーシェル」
「ああいい、あんたらの事は大体ルアードがから聞いている。多分、同じ世界からきたんだろ……天使と悪魔が実在していたってのは驚いたが」
天使の言葉を遮って隼人と名乗った日本人は、まあ何でもありだしなこの世界、と。呆れたように言いながら、コップに入った水を口にしていた。
その傍らに梓がすい、と移動していた。ひと通り準備が済んだらしく、ちょこんと空飛ぶ座椅子に座ってにこにこと笑っている。所謂魔法道具なのだろうか、見る限り隼人も梓もただの人間のように見える。魔力のない人間がどういった理論で操縦、制御しているのだろう。
「お二人は、この世界に来た原因が何かわかりますか?」
「さあね」
話が早いとばかりに天使が問うが、隼人はさらりと答えた。肩をすくめて、わからんよそんな事と一刀両断である。
「ただ、俺らの乗っていた飛行機が事故にあった直後にここに来ているのは確かだな。機内でとっさに梓の手を掴んで、訳の分からない衝撃に耐えていたらいつの間にか全く知らない森の中だ。パニック状態でいる時にたまたま通りかかったルアードに拾われてなあ」
言葉が通じなくって慌てたけど、魔法って便利だよなとあっけらかんと続ける。元来人間は霊術も、こちらの世界で言う魔法も使えないというのに随分と順応しているようだった。きらりと兄の耳で揺れる青いイヤリングと妹の赤いイヤリング。言語変換は赤として、青はなんだろう。漂う力の質が違うのはなんとなくわかった。
「拾い物が多いよなお前」
テーブルに梓が置いた焼き菓子を食べながらアーネストがぼそりと呟いた。
「拾い物第一号がなんか言ってるよ」
「誰が拾い物一号だ」
「アーネスト以外にいる?」
「じゃあ俺は第二号か?」
「わたしは第三号になるのね」
「違いない」
天使は何やら考え込んでいるが、他の四人は何やら盛り上がっていた。人間と人外、この世界の住人と異世界からの来訪者、滅茶苦茶な組み合わせだが仲がいいと言っていただけの事はある。軽口を叩き合いながら和気あいあいと焼き菓子を齧りながら談笑しているのである。
……種族も、住む世界も、彼らには意味がないのだろうか。
「航空機事故だと聞きました。差し支えなければ事故原因などわかりますか?」
天使が割と突っ込んだ質問をするが。
「うーん、エンジントラブルとか言ってたような気もするが……もうよく覚えてないな。あの時は海の上を飛んでた筈だから、多分海に落っこちたんだろうけど」
当の本人はと言えば、だからどうしたとでも言わんばかりである。
「怖くはなかったのですか? 死んでいたかもしれないのに」
「……別にもう、あの時はどうでもよかったからな。なるようになればいいとは思ったがね」
首をすくめて笑ってさえいる。
強がりではない、心底どうでもいいと言わんばかりだった。洋上に墜落したのであれば相応の衝撃もあっただろうに、たかが人間、恐ろしくはなかったのだろうか。そういった思いが顔にでも出ていたか、しかし隼人は別にとでも言いたげに興味なさそうな表情でいる。
「怪我自体はまあ大したことなかったんだが、どういうわけだか外傷もないのに視力と聴力、梓の脚が使い物にならなくなった。妹は元々足が悪かったが歩けない程じゃなかったのに、この世界に来た時には既に両脚が動かなくなってて。ちなみに俺は耳がほぼ聞こえていない。目も白い方はほとんど見えない」
「私の椅子とお兄ちゃんの補聴器はオリビアさまがくださったの、魔法で動いてるんですって」
梓がニコニコ笑いながら何でもないように語る。隼人の着けている青い石は補聴器の類だったか、空飛ぶ座椅子はやはり魔法道具らしい、所謂車いすのようなものなのだろう。
「……転移の影響でしょうね」
へらへらしている人間とは対照的に、天使は難しい顔をしていた。硬い声。
空間転移は正規に作られた道を通らなければ魂か肉体かに過度な負荷がかかる。恐らくこの兄妹は自分達が霊力を使えなくなったのと同じ様な事が肉体に影響したのだろう。
転移をするにはそれ相応の力、エネルギーが必要だ。空間転移には莫大な霊力を必要とする。
不本意な転移には高エネルギーが関係しているのだろうか。自分達がこの世界に来たのは霊術の衝突が原因だったと考えるのが妥当だろう。天界に突入し、向かってくる有象無象を斬り捨て、思ったよりも随分早くやって来た熾天使メタトロンと対峙、刃を交え、攻撃霊術を発動させた。自分が放った術と天使のそれとがぶつかって、拮抗し、莫大な力が弾け飛んで――気が付いたら森の中だ。『魔』とやらに襲われて現在に至る。
ガタリと音を立てて隼人は立ち上がると窓を開けた。さわ、とひんやりとした風が室内に入ってくる。
広がる鮮やかな木々、窓から覗く小さな畑には実りがたわわに。薪棚、流れる小川、窓枠に背を預けた隼人が綺麗だろう、と。満足そうに笑っている。
「……ここでの生活はまあ大変だが気楽でいい、元の世界に今更戻った所で居場所もない。身体は確かに不自由になったかもしれないが、その分しがらみもなくなった。俺達はここに来て満足している。例え帰り道がわかったとしても、帰らないと二人で決めたんだ」
「それでいいのですか?」
天使が若干狼狽えたように問いかける。元の世界に戻る事を最優先としている奴の事だ、共に帰る道をとでも考えていたんだろう。仲の良さそうな四人、異世界転移も転移による負荷の影響も、全く気にしていないのは天使にとって想定外だったのだろう。
「いいんだ、自給自足も悪くない」
「最初は大変だったけど、オリビアさまも優しいし、皆良くしてくれるんですよ」
兄と妹は互いに顔を見合わせて小さく笑っていた。何の問題もないと強がりでもなく、心の底から口にする彼らのここで生きるのだという決意は固いのだろう。……元居た場所が心地よいものだとは限らない。楽園に住む者がわざわざ新天地など望まないように、新天地が楽園であれば古巣は捨てていくものだ。
「ですが、」
天使には理解できないのだろう、おろおろとしつつも尚も食い下がる。
真実楽園の住人、元の世界に戻る事が最善であると言わんばかりの天使の言い分はしかし人間には奇妙に映るのだろう。はて、と。純然たる疑問をぶつけてくる。
「やっぱりあんたらは、故郷に帰りたいのか?」
「それは……」
当たり前だろうと言うのだとばかり思っていたのだが、天使は何故か口ごもった。どうせ元の世界に戻る事が最善であると信じて疑っていなかったのだろうが、否定されて動揺でもしているのだろう。
「……くだらん、戻りたくないのならそれまでの話だろう」
溜息交じりに口にして、立ち上がった。
ふが、と眠ったままのリーネンが鼻を鳴らしてずり落ちそうになったので、先程からちらちらと見ていた梓に放ってやった。ぐんにゃりと伸びるさまは間抜けにも程があったが、わあかわいい! と梓は歓声を上げる。余程ぐっすりなのかリーネンはやっぱり起きなかった。人間の少女の膝の上に乗せられ腹を見せている。
「おい梓、得体のしれないものに触るな」
「もーお兄ちゃんたら、可愛い猫ちゃんじゃないの」
「アズサ、それもアクマだそうだ」
「え、猫ちゃんなのに?」
「なんかねぇ、猫にもなれる猫型アクマって言ってたよ。どっちもかわいこちゃんですよ」
「お前な、あれはどう見ても幼女だろうが……」
「可愛いもんは可愛いじゃん、あ、そっかお前リーネンちゃんの着飾った姿見てないからそんなこと言うんだな。ルーシェルさんもヨシュアさんもすっごく綺麗だったんだから!」
「いやまて、屋敷で何があったんだ」
「なあ、それってつまりこの猫、もしかして人の姿にもなれるってことか?」
「凄いのね!」
四人がまたわあわあと喋り出す。賑やかな空間、はしゃいだ声が飽和して頭に響く。明るい室内、窓の外で光るあふれんばかりの緑、差し込んでくる暖かな日差しが床の上で踊っている。
――このままこの場にいたとしても大した収穫があるとも思えない。
「ルーシェル、どこに行くのです」
ふらりと扉へと向かうとすかさず天使が声をかけてくる。
「……気分が悪い。外で風に当たっている」
そう言い残してさっさと部屋を後にした。
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