35 夜の底
「お前がきっと、私を殺してくれるんだろうな」
薄闇の室内。
差し込む月光、揺れるカーテン。
ほんの少し開けた窓から僅かな風が入り込んで、彼女の髪をゆるく揺らしていた。零れ落ちたのは吐息にも似た願い。祈りのように。白波のようなシーツの上でしどけなく横たわる彼女の、恐らく心からの。
まるで救いのように彼女は微笑んでいた。死こそ解放だと疑わないかのように。
普段のあの苛烈さは鳴りを潜めていた。これこそが本質だと言わんばかりに。
……何故単身天界に乗り込んできたのか、ずっと疑問だった。供の一つもつけず、敵である天使の真っ只中にたった一人で乗り込んできた悪魔。自分の腕に余程自信があったとしても自殺行為だ、何か勝算があったのだろうかと。確かに彼女の持つ霊力は尋常ではなく、上回る者などいなかった。自分ですら単純な霊力比では彼女に押し負ける。
目的が、最初からそうなら。
全て辻褄が合うような気がした。
食べる事を頑なに拒否することも、治療を嫌がることも。生に繋がることを彼女は遠ざけていた。己の首はここだと、私は悪魔だと。人間を誘惑し堕落させるものだといやに挑発してきていたのも全て、――全て。
視界の先には相変わらず頬は赤いが、幾分か穏やかな表情になったルーシェルがいる。美しい悪魔、麗しい獣、結われた髪がほつれほどけ緩く広がっていた。ふわりと漂う甘い花の香、彼女は起きない。閉じられた瞳、ほんの少し空いた紅い唇、漏れ出る吐息は熱く。上下に揺れる肩、穏やかな呼気と拍動を繰り返している。彼女は今ここで、確かに生きている。
「…………、」
どうして、と。
思わなかった訳では無い。
けれど自ら死を願う理由など本人にしか解り得ない、恐らく彼女はその強大なまでの力のせいで自刃すら敵わなかったのだろう。霊力は魂の力、魂は自らの器である肉体を生かそうとする。神の創造物である存在に永遠はありえない、死は等しくあまねくものに訪れる。それでも、いつ終わりが来るかは誰にもわからない。気が狂うほどの長い時を生き続けなければならない絶望、永劫続く重苦。死を願うのに死に嫌われた命。
膨大な霊力、
きい、と不意に扉が開いてぎくりとした。
そろりと開いたそこには大きく立派な水差しを抱えたリーネンがいた。重たいのだろう、よろよろと実に危なっかしい足取りの彼女に慌てて駆け寄り水差しを受け取った。
「助かったにゃー…」
主人想いの使い魔はやれやれと言わんばかりに大きく息を吐いた。小さな身体で水の満たされたガラスの水差しを持ってくるのは重労働だったのだろう。
「随分重たいものを運んできたのですね」
「と、当然にゃ。おまい、ルーシェル様に何もしてないにゃ?」
ベッドサイドの上に水差しをゆっくりと置きながら口にすれば、未だにこちらに対して警戒心を持っているようでリーネンはびくりと肩を震わせていた。それでもルーシェルの傍から離れようとはしない低級悪魔はけなげだ、意識を失った主人を護る為かこちらを威嚇するように睨んできている。綺麗な金の瞳、大きくうるんだそれ。慌てたように水を取りに行ったが、私がルーシェルに害をなさないか不安になって急いで戻って来たのだろう。
「もちろんですよ、元の世界に戻るまでは協力関係なのですから」
ゆるく笑って肯定する。
それは嘘ではない。元の世界へと戻る為に協力すると約束をした。
ルーシェルの言葉を聞いた上でそう白々しくも告げれば、それにゃらいい、と。リーネンは猜疑心に満ちた表情ながらも小さく呟いた。そうして寝台の上によじ登ると、放ったままになっていたうちわに手を伸ばし再びルーシェルに向かって扇ぎ始める。甲斐甲斐しい使い魔を見ながら向かい側の寝台にゆっくりと腰かけた。使い魔のうちわが放つ音、やわく揺れる空気、仄暗い室内、穏やかな寝息と横たわる暗闇も霞むようなあでやかな悪魔。
……一体どんな思いで今まで自分と共にいたのだろう。
殺して欲しいという願望を抱いたまま、異世界でここまで来た。見ている範囲ではあるが、それなりにこの世界の人物たちと交流をもってきていたように思う。襲撃を受け負傷した箇所、大量の血を流しながらそれでも助けを求めなかったのは。そのまま、死んでもいいとさえ思っていたのだろうか。だからあんなにもこちらの手を拒絶したのか。勝手な事をと激高して、暴れて、借りを作りたくないのだろうと思っていたが実際は違ったのだ。彼女はずっと、ずっと。死ぬために生きてきた、?
ぎゅう、と。知らず寝台の上のシーツを握りしめていた。
腹の底から湧き上がるのは不可解なものだった。重く息苦しくて理解できない。
永遠に長らえる命などない、誰もかれもいつかは果てる。自分が摘み取る命だと自負していた、彼女の希死念慮など知った所でそれは何も変わらない。自分は彼女を殺すだけだ。それが自身に課せられた使命であり、生きる意味だ。こちらの憎悪を煽る為だけに殺された同胞、あの凄惨な光景を忘れたわけではない。彼らの敵を取る為に。終わりを望もうが望まなかろうが未来永劫殺し合うだけだ、彼女が何を願おうとそれは変わりない。
元の世界に戻れば、霊力が戻れば。
なのに、どうしてこんなに。
じりじりと胸の奥に食い込む不可解で不快なもの。ざわりと仄暗いものが思考を侵食する。生を否定すると言うのであれば、それこそが解放だと言うのであれば。今ここで、彼女の願いを叶える事は可能だった。霊力の殆どが使えない状態、あの程度の悪魔にあれだけの怪我を負わされたのだ。防御も
目の前には穏やかに眠る悪魔。その豊かな黒髪はうちわで煽られて小さく揺れていた。華奢な彼女の、その作り物のように細い体躯。その背に、その肩に、一体如何程の物を抱えているのだろう――悪魔も、全てを終わりにしたいと望むのか。
「あ、あの、……よしゅ、あ、?」
おずおずとではあるが名を呼ばれてはっとした。
ふいと視線をやれば、三角の猫耳をぺたりと頭に張り付けながらリーネンが意を決したように投げかけてきていた。声の掛け方を考えあぐねいていたのだろう、随分と口ごもっている。主人であるルーシェルは相変わらずこちらの名を呼ばないが、使い魔であるリーネンが先に口にするのかと思うと何だかふ、と。肩の力が抜けたような気がした。
「なんでしょう」
やっぱりやめておけばよかったと、その幼い表情にありありと浮かべ顔を青くしているリーネンに意図して小さく笑みを返した。伺い見るような眼差しは、こちらとぶつかると慌てて反らされる。
「え、えっと、風呂に入るなら、用意できてるってメイドが……言ってたにゃ」
うちわを扇ぐ手を止めないまま、しどろもどろとリーネンは明後日の方を見ながら小さく口にした。水差しを取りに行った時にでも言われたのだろう、ちゃんと言ったからにゃ! と自棄のように少しだけ声を荒げる。なんだかその様子がおかしくて。
「教えていただきありがとうございます。助かりました」
敵意はないのだと伝える為に殊更柔らかく告げれば、恐怖と安堵とがないまぜになったような複雑な表情を少女は浮かべていた。――伝言など、黙っていたとしても彼女は困らないだろうに律儀な事だ。自分が知る今まで対峙してきた悪魔はもっと凶悪だった、殺戮を好み礼儀の一つも知らぬ悪辣者。だからだろう、どうも彼女たちといると調子が狂う。
出会ったばかりの頃のルーシェルも随分とこちらを警戒していた事を思い出す、今もそう親睦を深めたようなことはないものの多少なりと意思の疎通は出来ていると思っていた。自意識過剰だと自嘲。相変わらず楽観が過ぎて虫唾が走る。
彼女のことなど何も知らないのだ。魔界でのことも、彼女の兄のことも、何故魔王ともあろう者が死を選んだのかも。……知った所で何が出来るとも思えない。そこまで傲慢ではない。短絡的な衝動で天界へやって来る筈もない、明確な意志と決意がそこにはある。理解出来ずとも理解する努力を止めたくはない。敵同士、共存、思考は絡み合って答えは出ない。
「では私も、湯をいただいてきますね」
なんとも気まずそうな表情でいるリーネンに告げて、立ち上がった。
メイド達の手伝いの申し出を断り、ひとり身を清めて部屋に戻った時には既にリーネンもルーシェルの傍にころりと転がっていた。可愛らしい寝息を放つ暖かく柔らかな少女の態勢を整えてやり、二人に薄手の上掛け布団をそうとかける。安らかな吐息が室内に満ちて夜の底は穏やかに。
その後、朝までルーシェルが目を覚ます事はなかった。
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