37 思い揺蕩う
小屋の外に出ればちかりと陽の光が瞼を焼くようだった。思わず目を細める、額の前に手のひらをかざして作った影の隙間から周囲を覆う緑色が色濃く見えた。
日は高く昇り辺りを白々しく照らしていた。木々に囲まれた小屋、周囲の緑は濃く陽の光を浴びてつややかに輝いている。ふうわりとそよぐ風、奥深い木々と小川を経てひんやりと心地よい。
背にした小屋からは人間達の笑い声が聞こえてくる、穏やかな昼下がり。森の中の秘匿の里、厳重に張られた侵入者を阻む為の結界。まるで異物のように侵入している自分達。
――賑やかな場所は苦手だった。
気分が悪いのは事実だったが、にこやかに談笑を続ける輪の中に入っていくほど厚かましくもなければ天使のように口が達者でもなかった。例の子供とやらも、同じ世界から来たという事がわかっただけでそれ以上の情報もない。
簡素な二人掛けらしいベンチが庭の隅に置いてあったのでそこに腰掛けた。柔らかなまろみを帯びた木製のそれが、ぎしりと小さく鳴くように軋んだ音を立てる。眼前には小さな庭が広がっている。薪割り場と薪棚の反対側には小さな畑が広がっていた。窓から覗いていた実り、種類の違う植物が少しずつ植えられて青々と茂っている。川の側には水汲み用だろう、木をくり抜いたようなバケツが一つ転がっていた。不必要なもののない必要最低限の庭。それは、決して余裕のある生活ではないと容易く想像がついた。転移の後遺症ともいえる身体の欠損も甚大だろうに、それでも彼らはここに残るのだと言う。不自由な身体での自給自足の生活。魔法である程度は補えるとはいえ、言葉も文化も違うだろうに、何が彼らをそう決意させたのだろう。
「――何故貴様までついてくる」
視線をやらないまま吐き捨てるように口にすれば、おや、と。小さく笑う声が聞こえた。揺れる空気、自分の側に立った男のせいで影が落ちる。ちらりと見やった男の手には小さな水滴のついたグラスが二つ。
「いえ、なんだか皆さん盛り上がってましたので……水を差すのもどうかなと」
言いながら天使は手にした二つのグラスのうち、一つをこちらに差し出してきた。濃い紫色をした液体に満ちたそれを怪訝な顔で見返すのだが、男はへらへらと笑ったままである。
「山葡萄のジュースだそうです。お酒ではありませんのでご心配なく」
「嫌味か?」
「糖分や水分は二日酔いに良いそうですよ」
聞いちゃいない。
「必要ない」
受け取らず睨みつけるのだが、男は動じない。
「貴女も随分と意固地だ、甘いものはお好きでしょう?」
「勝手に決めつけるな、別に好きじゃない。リリーが勝手に言っていただけだろう」
「異世界なのですから羽を伸ばしても良いのでは、と。ルアードさんも仰っていましたよ」
「余計なお世話だ」
ふいと顔を逸らして突き放した物言いをすれば、天使は残念だと言わんばかりに小さく息を吐いて、呆れたような、しょんぼりしたような。なんとも言えない表情をして差し出してきたグラスをひっこめた。仕方がないと言わんばかりに、小さなベンチの上に私の分だろうグラスを一つ置いていく。柔らかな木の上にほんのりと落ちる紫色の影、天使の、まるで聞きわけのない子供に対するみたいなその態度に酷く苛つく。
グラスを持った男がゆっくりと移動する、まさか隣に座るんじゃないだろうなと僅かに身構えたがしかし、男はベンチには座らなかった。小屋の壁に背を預けて立ったまま、ゆっくりと両手に持ったグラスに口をつける。
ゆるやかに男の口の中に流れ込む液体、陽の光に透けて男の頬にもほんの少しだけ紫色の影が落ちる。からん、と氷がグラスの中で涼やかな音を立てた。グラスから口を離しゆっくりと飲み込まれる液体、上下する喉。ぺろ、と濡れた唇を指先で拭うさまは、たったそれだけの事なのに嫌に目につく。
「体調は良いのですか?」
急に声をかけられてびくりとした。
見つめ返してくる淡い空色の瞳と絡んで、自分がずっと目で追っていたことにそこで初めて気付いた。慌てて視線を逸らす。
「別に、」
「ここは随分と日当たりもいい、植物も多く貴女にはつらいのでは?」
日除けの為のコートを着たままだったが、フードを被らずにいたからだろう。平気なのかと男は問う。こちらの世界に来てからずっと私が陽の光を厭い、具合を悪くしていたことを言っているのだ。揶揄するではなく心底こちらを案ずるかのようなやわらかな声色に、なんだかそわそわと落ち着かない。
「……別に、問題ない。言っただろう、そのうち慣れると――」
言い終わらない内に、ふわりと。男の金の髪が視界に踊った。ふ、とかかる影に顔を上げれば、ゆるりと融ける目も眩むような蒼い瞳がこちらを覗き込んできている。一瞬息が止まったような気がして――柔らかな霊力を纏った男の指が、こちらの額の上を触れるか触れないかの距離で撫でるように触れていった。そのまま離れていく指先、暖かな力の流れ、爪の先まで美しいそれはしかし確かに男の無骨なもので、ではなくてだ。
「き、さま、また勝手に!」
胸ぐらをつかもうとしてひらりとかわされる、まるでこちらの手が出ることを予想していたようで激しくむかついた。額の物理的な痛みも、胸のむかつきも、おおよそ二日酔いと称される症状がきれいに消えていたのだ。癒されたのだとわかった、回復霊術を使って勝手にこちらの不調をぬぐい取るかのように消されたのだ。
「具合が悪そうでしたので」
水分も摂りませんし、と。
男はいけしゃあしゃあとのたまいやがった。
「癒やしてくれなどと頼んだ覚えはない……ッ!」
「でも、痛いのは嫌でしょうに」
再びグラスに口をつけながら男は不思議そうに口にする。
ああほら、男の行動は完全に善意由来のものだ。ただ単に良かれと思った事をやっているだけに過ぎない。人間だろうが悪魔だろうがきっと関係ないのだ、傷付いたものがいるなら癒す。それだけなのだろう。そこにきっと特別なものなど何もない、ただ善である、善なる者ならするであろう当然のことを男は行っているだけに過ぎないのだ。自己のない木偶の棒。
「だとしても一言何か言え! 勝手な事をするな!」
「お伺いを立てた所で貴女は拒否するのでは?」
きょとんと小首をかしげる。
どうせ聞きやしないのだからと言わんばかりのその態度に、がくりと肩を落とす。……だんだんと抵抗するのも馬鹿馬鹿しくなってきていた。もう何度も繰り返したこのやりとり、きっとこの男は行動を改めない。こちらが受け入れようが受け入れまいが、男には関係ないのだろう。良かれと思っているのだから当然だ、神の名の元に悪を払い善を執行する。ふわふわとした見た目にうっかり騙されそうになるが、この男はなかなかに石頭で融通の利かない堅物であることはもう痛いほどよくわかっていた。
はあ、と。これ見よがしに溜息をつく。
「……何故貴様は悪魔である私を気遣う」
もう幾度目になるかも定かではない問い。
弱った隙にというのであればまだわかるが、この男はいつだってこちらの身を案じてきているのだった。ぎゅうと羽織ったままのコートを握る、これもまた男が用意したものだ。青みがかった灰色の手触りの良いもの。日よけとして、私に似合うだろうというもの選んでわざわざ購入したのだと言っていた。アステマと交戦して怪我を負った時だって無理矢理治療してきた、怒気をはらんだ男の声に随分と驚いたのを覚えている。かけられた痛覚鈍麻の術、夢を散らし、目覚めた此方に屈託なくよかったと笑う男。これが敵同士の会話かと頭を抱えたくなるほどの穏やかな表情で。態度で。
「具合が悪い方を心配するのは当たり前では……?」
呆れ果てた此方の言葉に、しかし男は心底不思議そうに小首をかしげていた。これもまあいつも通りだ、想定の範囲内である。傷口に塩どころか劇薬をねじ込む悪魔とはえらい違いだ。調子が狂う、儚く美しい天使。悪魔の事など虫けらにしか思っていないくせに馬鹿正直に誠実に接してくる。気遣う。さも当然だとでも言うかのように。世間一般の善性、この世の悪意など一つも知らぬ穢れなき天使。あまりにも当たり前のように答えるので、男に対してのいくつもの形容しがたい感情が縺れ合う。
「痛みは罰だ」
気がついた時にはぽつりと零れ落ちていた。
きっとこの男は真実優しいのだろう。善人なのだろう。清らかな天界の天使。恐れも穢れも何も知らぬただただ美しい天使。持つ者ゆえの余裕だ、施しという傲慢だ。強く優しい美しい天使。何も知らぬから、残酷なまでに優しくなれるのだ。満たされているからこそ分け与えられるのだ。私は奪う事しか知らない。罪には罰を。痛みには毒を。罪過は永遠に。
「それはまるで――受けるべき罰が、あるかのような物言いですね」
ざあ、と。
一際大きく吹き抜けた風が大きく木々を揺らして互いの長い髪が風になびいて視界に踊る。こちらを真っすぐに見つめる青い瞳、淡い色彩のそれは遠く地の底で切望した空の色。泣きたくなるほどに優しい色、声、そのくせ問い詰めるでもなく。ただ、そうなのかと。全てを受け入れるかのように。
「………………関係、無いだろう」
押し殺した声が喉から悲鳴のようにか細く転がって、それ以上何も言えなくなってしまった。
横たわる沈黙。男も何も言わない。
ベンチの上に置かれたグラスから水滴が零れ落ち、小さく底を濡らしていた。かろん、と融けた氷が涼やかな音を立てる。さわさわとそよぐ風、二日酔いから解放された身体は軽く、陽の光も生物の息吹にもさほど圧倒されなくなっていた。明るい世界、暖かな色をした空、緑は輝いていて生命に溢れている。背後から聞こえる人間達の声、きっとこれが平和な世界というものなのだろう。己にはあまりも場違いな場所。肌に馴染まない光に満ちた世界。傍らには自分とは対照的に祝福された輝く世界が似つかわしい男がいる。殺し合うでもなく同じ空間にいる異常。言葉を交わし、あまつさえ行動を共にする異常。光の園の住人、交わらぬ存在。場違いというのであるならばこの男もだ、どうしてあの時、故郷に戻りたいと言わなかった?
「お前は……元の世界にさっさと帰りたいのだとばかり思っていたのだがな」
帰りたいのかと人間に問われたのに、男は即答しなかった。
この世界を楽しんでいるようにも見えるが、そもそも現在のこの状態は私が天界を襲撃しなければ起こらなかった事態である。……そういえば、一度もお前のせいだと罵られたことがなかった。淡々と事実を受け入れ、この世界の情報を整理し、私を殺すのだからと言って妙に世話を焼く男。天使とは悪魔を排斥するものだろうに、恨み言の一つも言わない。約束をしようと、共に元の世界に戻ろうと手を差し伸べてさえ来た。
「戻りたいとは思わないのか?」
純粋な疑問。
人を守護する神の使い。楽園の住人。この地に留まる理由もない。天界と連絡が取れたと言っていたのだから、もう間もなく迎えが来るだろうにどうして。
「――そう、ですね。義務と願望の違いに少し、驚いて」
何を考えているのか読めない男の言葉はやはり要領を得ない。ふふ、と小さく笑ってまたグラスに口をつけていた。飲み込まれる液体、控え目に落ちるつややかな吐息、男は穏やかに笑って空を仰ぐ。遠くを見つめる瞳が、空の色と交わって境界を無くす。
……帰りたくないのだろうか。
義務と願望。帰らなければならないが、本心としては帰りたくない、そんな風に聞こえた。
「人は凄いですねぇ」
自分とは違うとでも言いたげにゆるく笑う男の顔は透明で、どこか生きていない人形のようだった。美しく精巧に作られた人形。酷く柔らかな声色はだからこそだろうか、形ばかりでそこにある筈の感情がそっくり抜け落ちたようでもあった。
「……馬鹿らしい、人間などどこででも生きていくだろうよ」
呆れたように口にすれば、天使はゆっくりとこちらを見た。少しだけ呆けたような表情、ゆるく開いた唇がやがて弧を描いた。透明な笑み。
「そうですね」
まるで言いたいことを何もかも飲み込んだかのように、目を伏せて静かに男は笑ったのだ。
「私がいなくとも世界は崩壊しませんし、時は流れ続ける。あるべき場所に存在する事が最良ではない、人は道を切り開いていける」
色のない声で、歌うように。囁くように。
どうしてだろう、男はからっぽの笑みを浮かべたまま。伏せた瞼に影が落ちて、実際はそんな事ないのにまるで泣いているようにさえ見えた。
メタトロンの坐する天界の第六層、第六天ゼブルは天使達の参謀本部だと聞く。熾天使、智天使各七人の十四名で指揮し、世界の秩序と星・太陽・月の運行を支配するのだと。天使達の教育機関もあり、全ての天使が十四人の天使の元で整然と行動するのだという。魔界で知り得た情報が如何程正確なのかもわからないが、この男が天使達の王というのは間違いない。有象無象の中で誰よりも輝く魂、自分に匹敵するだけの霊力を持つ天使。誰よりも強く美しい天使、人間を護る存在、与える者、世界の秩序と安寧を保つ為にその身を捧げてきたのだろうか。どれほどの時を生きたのか、それが――如何程の重圧であったかなどと。そんな事を汲んでやる必要など私にはなかった。
「思い上がりも甚だしい、天界の天使様は随分と傲慢でいらっしゃる」
吐き捨てる様に言い放つと、少しだけ驚いたように天使がこちらを見た。見開かれる青い瞳にわずかに色が戻る。
「貴様一人がいなくなっただけで立ち行かなくなるような世界など冗談じゃない」
「あの、……ルーシェル?」
「ふざけるなよ」
怒りが口をついて出る。
何故かなど分からない、けれど何もかも諦めたかのような物言いの男に、猛烈に腹が立ったのだ。
帰らねばならない、そこに奴の意思はないのだ。
元の世界へ戻る為の協力をとは繰り返していたが、この男は帰りたいとは一度も言った事がなかった。与える者だからと言って、普段腹の底の分からぬ男の、声が。眼差しが嫌だ。何もない。暖かな光の中が何よりも似合うのにガラスのように透明でからっぽの男、お前は、一体どこにいる。
「……ふざけるな、」
魔界で音に聞いた熾天使メタトロンの名、この男の事なぞ名前くらいしか知らないでいた。自分と同じ立場の者だとしか。霊力の総量で決まる階級、役割。天使達を束ねる王、必要とされて、満たされて、一体何が不満だ。何故そんなにも。
「どうして貴女が怒るのですか」
「怒ってなどいない」
「ですが、」
「うるさい!」
声を荒げれば天使は困ったように眉を下げて、そうですか、と。小さく口にした。大人しく引き下がる男にも腹が立つ、何故かなど自分でもわからない。でも酷くいらいらする。
目の前にいる天使、熾天使メタトロン。青く透き通る永遠の楽園に住まう者、与える者、全てが満たされた世界。それなのにどうして。まるで生きていないかのようながらんどうな表情をするのだ。
「貴女が、一体何に腹を立てているのかはわかりませんが、」
「まだ言うか……ッ」
「でもきっと、すてきな事だ」
さらりと舞う金色の髪、こちらを見る青い瞳。ただ美しいだけの人形に命が宿るかのように、ゆるりと光が灯る。透明な笑みが色づいて淡く綻ぶ。
「ありがとうございます」
ふわりと。
嬉しそうに、寂しそうに。
悲しい目をして、けれど確かな感情を纏って男は笑った。いつも綺麗に覆い隠して見えない奴の胸の内、綻びからわずかに覗くそれは酷く、――酷く。
「貴様、は」
「にゃあー! ルーシェルさまどこにゃあ!」
突然悲鳴のような叫び声と共に窓からリーネンが飛び出してきてぎょっとした。猫の姿のままだ、その姿はまるでオレンジ色の弾丸のように室内から逃げたかと思うと軽やかに地面を蹴ってこちらに飛びついてきたのだ。必死なのか知らないが力任せに抱きつかれてぐえ、と。首が締まる。
「なんでいないにゃ!? どうして置いてったにゃ!?」
しがみつくリーネンを無理矢理引きはがすが、小さな猫型悪魔はわあわあと泣きながら尚も離れまいと手足をばたつかせている。その度に小さな爪がぱりぱりと肌の上をひっかいて、痛みはさほどないが非常に不快なそれ。
「貴様、低級とは言え悪魔なら、」
「ルーシェルさまはまじもんの低級者の事を知らにゃいからそんなこと言えるんにゃあ!」
しかしリーネンは滂沱の涙を流しながら声を荒げていた。それはもうとてつもない剣幕でまくし立て始めたのである。
「目が覚めたら! しらにゃい人間の膝の上で! なんか滅茶苦茶見られてるし! 触られまくってるし! しらにゃい人間に! 一瞬の判断ミスでこっちは簡単に死ぬんにゃ!」
「だったらいつまでも寝てるな」
「主人の側で安心して寝て何が悪いんにゃ!」
「開き直るな!」
わあんと声を上げて泣くリーネンに頭を抱える。
直属の配下も使い魔も持たずにこれまで来たが、選定にはもう少し気を使うべきだったか。アンカーの役割を終えた低級魔族など話し相手か湯たんぽくらいにしか使い道がない。まあ、小さな猫になると言うのは荷物にならなくて丁度良かったが。
「完全に動きが猫だったな」
「びよんて、びよんって飛び上がってびっくりしたあ……」
日本人だと言う兄と妹が窓からこちらを覗いている。
ひしとしがみつくリーネンがあれ誰にゃ? ここどこにゃ? と震えながら問うてくるが、どう見ても非力な人間だろうに何をそんなに恐れるのか。
「とても怖かったのですね」
「そうにゃあ~」
天使がリーネンに声をかければ、情けない使い魔はべそべそと泣きだしていた。そうしてこちらの膝まで降りるとぼふ、という間抜けな音と共に人型に変わる。頭の上の三角の耳が平たく伏せられていてふるふると震えている様は完全に小動物のそれだった。
「置いてかにゃいで欲しいですにゃあ……」
伸びた四肢でぎゅうと抱き着いてくるのを、不敬では? と。ぼそりと呟くがリーネンは聞こえにゃいですもん、と。開き直りやがった。ぐりぐりと胸に頭を押し付けてみーみー泣いているのである、見知らぬ場所と人間を前に余程驚いたのか。屋敷に残していたらそれはそれでパニックになっていたんだろうな……情けない。
「凄いわ! 本当に人の姿になれるのね!」
「ネコミミ少女の悪魔とかマジか」
「うらやましいねぇ……あだ! ちょ、何で殴るのさ!」
「もはや歩くセクハラだろ」
「そこまで言う!?」
べそべそと泣くリーネンに、いい加減うっとおしくなって好きなようにさせていたら背後の窓から人間達もまた好き勝手に喋り倒していた。
……先程までの空気は完全に消え失せ、ちらりと見た天使はいつものように笑みを浮かべている。まるで何事もなかったかのように、透明でからっぽの表情ではなくなっていた。いつも通り。穏やかに微笑んで、慈悲に溢れた美しい女神のように。
「ねールーシェルさん、気分はどう? 少しは良くなった?」
ルアードの問いにああ、と。曖昧に返せばぱちりと天使と目が合った。柔らかな表情、泣きたくなる程優しい眼差しでにこりと笑いかけてくる。ほんの少しだけばつの悪そうにして、まるで何もかも誤魔化すかのように。
あの時、どうしてあんなに腹が立ったのかはわからない。天使の腹の底も、何を考えているかも。自分よりも遥かに長い時を生きる男、安穏と過ごして来たと決めつけていたがもしかしたら違うのかもしれない。綻びから覗いたのは確かに深淵だった。
……あいつにも、誰にも知られたくない事があるのかもしれないなと。そんなことを思った。
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