13 祝賀に舞う月魄
完全に日の落ちた空は一端を僅かに藍色に染めるに留め、深い青藍が降りてくる。ぽつぽつと街灯が灯り始める、自動化されているのか時限式なのか、ほんのりと輝き始める黄色い石。炎のような明るさがあるわけではなかったがそれでも暗闇を照らすそれはほっとする暖かさがあった。
肌が闇色に染まり始める見慣れぬ光景の元、ルアードがじっちゃんの所に行く、と言った途端。
アーネストの表情が暗がりの中でもわかる程にはっきりと滅茶苦茶になった。きれいな青い瞳も歪みに歪んで、あまりのその様相にヨシュアは思わず頬を引きつらせた。
「え、あの、アーネストさん?」
「俺は帰らんぞ」
一言。
はっきりと告げると渋面のままさっさと宿屋の方へと一人歩きだしていった。
「しょうがないだろー、近況報告もしなきゃだし」
「お前がひとりで行け」
「俺の同伴意義はぁ?」
遠くなっていく背に向かってルアードは投げかけるが、アーネストはちらとも振り返らない。
追いかけるべきか、いやでも、などと。まごついてたら彼と長く旅をしているらしいルアードがいい、いい、と。困ったように笑った。
「いいよいいよ、先に宿に戻ったんだろ。あいつ俺の故郷嫌いでなぁ」
困ったもんだよ。
ちっとも困ったように見えないまま、彼はルーシェルに張り飛ばされた時に落としたらしい買い出しの荷物を拾い上げながら言う。怒髪天を突いた魔王は相変わらず触れるもの全てを破壊しかねない表情でこちらを睨んできていた。怖い顔のルーシェルさんも見惚れるくらい美人だよねぇ、と常と変わらぬ態度の彼に手伝いますと言って荷物を少し受け取る。紙袋の中は食料品がメインのようだったが、携帯用の砥石なども入っていて少し重い。
「お二人は同郷ではないのですか?」
「ん? ああ、あいつは……ええと、色々あってね。まだ小さい頃に俺の村にやって来たんだよ」
本人がいない所であれこれ言うのも憚れたのか、少し濁したようにルアードは口にする。
「どこにでもある話だよ、長老をはじめとする古参がやいやい言うんだよね。しきたりだ何だってくだらないよねぇ」
子供に言ったってしょうがないのにねぇ。
苦笑する彼の表情は、当時を思い出したのか明るい声色とは裏腹に随分と忌々しく歪めていた。
詳しい事は解らなかったが、今の口振りだとアーネストが快く村に迎え入れられたようには受け取れなかった。しきたりとは慣例である。村という集団を守る為に個を排除する考えは往々にして存在する。何故かなどは解らないが、あの黒髪の青年がルアードの集落で異端とされたのだろう。異端なら排除を考える。それは、大勢を守る為に下す判断として間違っているとは言い切れない。
「……輪を、保つ為に。時に非情にならねばならぬ時もあるとは思いますが」
決してしきたりを尊重するわけではなかったが、やむにやまれぬ事情もあったのではと。思ってしまった。すべてのものを救う手立てがあるならばいい、だがそれは往々にして現実的でない場合が多い。個を守る為に大勢を犠牲には出来ない。腹心一人の犠牲でその他大勢が救われるなら、自分なら迷わず腹心の方を斬り捨てる。
「ま、集団を思えばではそうだろうねぇ。でも、個人的には自分の力では何も出来ない子供に対して大人が寄ってたかってってのはいただけなかったかな」
おかげでまあひねくれちゃって。
茶化したような物言いではあるが、彼は彼で自身の出身地に何かしら思う所はあるらしい。
「……すみません、差し出がましい事を言いました」
「ええー謝んないでよ、ヨシュアさんの言い分も解るし」
王様って大変なんでしょう。へらへら笑いながらルアードは気にした様子もなく。俺らもいい加減戻ろうかねぇと宿へと促す。何事もなかったかのように。それが、不思議なくらいに胸に罪悪感を植え付けた。自身の発言が間違っていたとは思わない、が。それでも、何かを決定的に間違えたような気がする。アーネストを蔑ろにしているわけではない、けれど、集団と個とを比べた時に被害数を比べるのは当然だと囁く自身がいる。
「実に天使らしい考えだな」
怒り最高潮のルーシェルが吐き捨てるように口にした。
それが、何故か胸に突き刺さる。
自分なら。大勢と少数のどちらかを選べと言われたら大勢が生き残る道を選ぶ。
……あの黒髪の青年は何故異端とされたのだろう。
「貴様らはいとも簡単に感情を排除するんだな」
こちらを射るのは怒りに燃える深紅の瞳。先程の祝言のくだりから苛立ちの収まらない彼女の、さらに上乗せされた感情が紅玉のようなそれをきらきらと輝かせていた。まるでこちらを断罪しているかのようだった。……感情、だなんて。そんなものは必要とされない。それは、自己を破壊するものだ。
「ま、正解なんてないんだよこういうのはさ」
それでもルアードのフォローに覚える言いようのない居心地の悪さ。
じわじわと濃く深い闇が広がっていく空、まるで一人残されたかのようなぽつんとした異物感。冷えた風がお前が異端なのだと詰っているかのようだった。
「俺が見捨てられなかっただけ、ただそんだけの話」
だからヨシュアさんが間違ってるわけじゃないんだよ、そう慰めるように口にするルアードの、優しく緩む綺麗な緑の瞳。情の深さが溢れていて己の浅慮を恥じた。
「もー、ルーシェルさんも苛立ち紛れに八つ当たりしないの、ヨシュアさんへこんじゃったじゃん」
「私は叩きのめしてやりたいんだが?」
「またそういうこと言う……」
まあ、そんなところがルーシェルさんらしいんだけどね!
いつもの調子の彼と貴様、と言わんばかりの二人のやりとりに。ああ、私は今へこんでいたのか、と。そこでようやく気付く。
不可解な感情。全てが綺麗に整えられた天界で、己が担うべき事象に追われ、いつしか忘れていたように思うそれ。いや、ここに来て。この世界に来て。心が揺らがない日はなかった。目に見るもの全てが新しくて、傍にいる人間達の営みが愛おしくて。食事というもの、暖かくて美味しいという感覚。熱気、歓声、夜という暗闇の中に輝く青白い月光、闇を切り裂き白々と全てを明るく照らす陽光。目を刺すような朱色の光が空をグラデーションの様に色を変え訪れる夜。頬を撫でる風、全てが楽しくて、嬉しくて、浮かれて、そうしてまた誤った。
……しっかりしなくては。
気を緩めている場合ではない。いくら霊力を失っているとはいえ魔王が傍にいるのである。今の状態で刃を交えたとて負けるとは到底思えなかったが、それでも、である。彼女の元には魔王の証かつそれ自体が意思を持つと言われているナハシュ・ザハヴが出現した。それは、脅威に成り得るものだ。
魔王としての彼女ではなく、彼女自身を知りたいと思ったのは嘘ではない。
大雑把なカテゴライズに放り込んで決めつけて、無罪を有罪にしたくはなかった。
「さ、俺らも宿に戻ろう。ルーシェルさんも夜は危険だよ、あったかいご飯食べて明日はお二方の装備を見に行かないとねぇ」
すっかり暗くなっちゃった。
そう言ってルアードは宿へと向かって歩き出すのでそれに続く。
一緒に行動するのは嫌らしいルーシェルだったが、一人になるのは危険だとも身をもって解っているのだろう。どうして貴様らと、と。ぶつぶつと口にしていたが大人しく着いてくる。
「ルアードさんの故郷はここから遠いのですか?」
「まあそこそこあるねぇ、来た道を戻って、お二人がいた森も抜けなきゃ」
だから防具なんかは特にしっかり見とかないとね。
明るい物言いの彼に、そういえばこの街に来たのは装備を整える為だったなと思い出す。思えば随分遠くに来たような気がする、魔王が天界にたった一人でやって来て、刃を交えたのが遥か過去の事のように思えた。どういうわけだかこの世界へと飛ばされてきて、親切な彼らに何から何まで世話になっている。
闇が迫ってくるにつれ、ぞろりとしたものが胸の内に影を落とす。
戦う事しか出来ない自分と向き合わされているようだ。
急ぐでもなくのんびりと宿へと向かう道すがら、すれ違う公園内にいる人間達の種類が変わる。周囲が暗くなったからか子供は姿を消し、まだ残っている者達も帰路につく姿が散見されるようになった。それぞれの家か、冒険者は宿屋か。夜から本格的に営業を開始する闘技場周辺に向かう者もいるのだろう。
ほのかに発光する魔石の明かりはそれでも暗い中を煌々と足元を照らす。人々の生活に深く根付いた技術はなにも明かりだけではない、魔除けの水も、翻訳機として自身の耳つけているピアスも魔石が原料だという。
――竜人の血の呪い。『魔』の結晶化。ごく自然に消費される命であったもの。
「いい匂いだねぇ」
歩きながらすんすん、とルアードが鼻を鳴らした。
夕時だからだろうか、周囲から何やらいい匂いが漂ってきている。人間は朝昼晩と何かしらを食べるものであるとは知識として知っていた。事実旅を共にする彼らも三食口にしている、ルーシェルが眠っている間に自分も一緒に食事をと誘われていた。食事を必要としない身体であるというのに、それでも食べた食物が口内を刺激する感覚は嫌ではなかった。暖かいもの、冷たいもの、ぴりりと舌先を刺激するもの、甘いもの、なにもかもが自分には馴染みのないもので。
「ね、ね、パン粥もいいけど他のも試してみない? 女将さんのおすすめとか美味しいよ」
「貴様はどうでも何か食わせたいらしいな……」
呆れた様なルーシェルの言葉に、そうだねぇとルアードはからからと笑った。
そうして僅かに距離を置いて後ろをついて歩く彼女を振り返って。
「だって、美味しいもの食べたら幸せになれるじゃん。お腹が空になると気持ちに余裕もなくなるよ、暖かいもので腹を満たして、暖かい寝床に包まる。それはとても幸せな事じゃない?」
「そんなものか」
「そんなものだよ」
小さな幸せが第一歩!
大きく腕を振って、けれどもう暗いので声量は落として。
幸せは積み重ねだよと言い切る彼にルーシェルはもう何も言わなかった。
心根の美しいこの世界の青年の後ろ姿を眺めながら、……幸せ、か。などと。ぼんやりと思いつつさほど離れてもいない宿屋へと歩を進める。
※
街灯の明かりがあるとはいえ、太陽の下とは比べ物にならない闇の中。
幾度か夜というものを経験したが未だ慣れない、闇色に輪郭のぼやける視界は警戒心が働く。だからこそ室内から漏れ出るオレンジ色の光と宿泊客のものであろう笑い声は安堵を呼ぶものだった。
「ただいまー! いい匂いがするねぇ!」
元気よくというのがぴったりの明るさと勢いでもってルアードが宿の扉を開けた瞬間、何か白いものが投げつけられた。そうしてびたん、と。ルアードの顔に張り付いく。ずるりと滑り落ちたそれが床の上にぱさりと広がるそれには見覚えがあった、そうだ、食事をする時に出されるおしぼりだ。
何事だとぎょっとして室内に目をやれば、物を投げつけた格好のままのアーネストの姿が見えた。カウンターの席に腰掛けたまま器用な事だ。
「なにすんだ!」
ルアードの尤もな叫び声。
「状況説明」
「え、なに!? なんのこと!?」
「お前が言い出したんだからな、俺は知らん」
「いやマジで何が何だか分かんないんだけど!」
アーネストは先に食事を開始していたらしい、彼の前には既に皿が積まれていた。憤慨するルアードに心底面倒くさそうな表情をして、今日はパンの気分らしい、サンドウィッチというらしい食べ物を大きくかぶりついていた。そうしてそれ以上は完全無視ときた。
「お、やっと戻ってきたか」
「お二人さんも水臭いなぁ、それならそうと教えてくれてもいいじゃないか」
アーネストの代わりにここ数日共に宿を利用している客が快く出迎える。詳しい事はあっちに聞け、と。アーネストが食事の手を止めないままこちらを指さすが、ルアードと同じくこちらも事態がよく呑み込めていない。
なんだろう、などと。考える猶予もなく突然カウンターにいた客の一人にがっしと肩を抱かれた。困惑するこちらなどお構いなしにそのままカウンター席へと強引に座らされる。
「さ、さ、お嬢さんもこちらへどうぞ」
「断る……!」
自分の隣の席は空けられている。
そこへと座るように促されるがルーシェルは冗談じゃないと言わんばかりに拒否をした。
「ええー…それじゃあ無理にとは言わないけど……」
毛を逆立てた猫が後ずさるように距離を取るルーシェルに、警戒されちゃったと冒険者の一人が苦笑しながらまた席へと戻ってくる。そうしてこちらの眼の前にずいと赤い液体の入ったグラスを差し出してきた。突然の歓迎に何が何だかさっぱりであった。
「まあこれは祝い酒ってことで」
まずは一杯。
「え、と?」
飲めということなのだろうが意図がわからない。わからない、が。何故か、どことなく、祝賀ムードが満ちるこの室内に対する嫌な予感が。こう。心臓を冷たい手で撫でられるような嫌な予感が背筋を走った。そうして外れて欲しいと願う時にこそその予感は的中するのであって。
「めでたい話は共有してくれよな! ご結婚おめでとう!」
豪快な冒険者の豪快な笑い声に、えっ、と。思わず目を見張った瞬間、爆発する振り返らずともわかるルーシェルの殺気が肌に突き刺さる。
祝言だ夫婦だと。場を取り繕うだけのただの戯言であった筈なのに、というか、自分達が宿に戻るまでにそこまで長く経っていない。あの場にこの宿の宿泊客でもいたのだろうか。それにしたって、周知に至るまでのこの速度。
「え、もうそんな広がってんの……?」
流石に想定外だったらしい、ルアードは顔色をなくして呟いた瞬間。ばつん、とこれまた強烈な破裂音が背後から響く。誰が誰に対して何をしたのか容易く解ってしまい振り返れない。彼女の放つ渾身の一撃は冗談抜きで痛いのである。身をもって知ってしまった以上回避行動を取るのは当然なわけで。
「あ、あのですね、私と彼女は敵同士ですので、」
放って置けば次は我が身である。
正直無関係なような気もしたが事の発端であるのだから逃げ道はない。
訂正を急がねばならないと、使命感を持って口を開くのだが。
「うんうん、村同士の諍いなんかでよくある話だなあ」
既に酔いが回っているのだろうか、少し呂律が怪しかったが冒険者がわかるよォと何故か同意を示す。いやちょっと待って欲しい、よくある話なのかこれは。
「竜人さまと人間の道ならぬ恋は王道ですよね!」
慌ただしく給仕に勤しんでいた筈のリリーが満面の笑みで叫んだ。
そうしてこれは心づけです! とニコニコしながら大皿をどんとカウンターのテーブルの上に置いた。なかなかに立派なサイズのローストされた肉である。
「王道……?」
道ならぬ恋が王道とは。理解が及ばず、彼女の言う言葉をオウム返しするしか術がなかったのだが。ぽんと隣に座る冒険者に肩を叩かれた。目が合った彼はうんうんと何かを察したかのように頷いている。
「大丈夫だ、俺らもよく解らん」
「リリーちゃん絶好調だな」
それでも出された肉を切り分けながら冒険者の男は皿よこしな、と。こちらの席の前にあった未使用の皿を取るように言う。言われたまま差し出せば食べやすい大きさに切り分けられた肉が丁寧に盛られる。
「でもたまに聞く話ではあるよ、ハーフの話」
竜人と人間の間に生まれた子供の話。
まあ、大体碌な目に合ってないよなぁ。
酔いが前提の席で男達は思い思いに何かを飲んでいた。果実酒が多いらしい、透明に見えるものもあるが水ではないだろう。飲みながら、ああ、何か聞いた事ある、と。あちらこちらからぽつぽつと声が上がる。
「それは、どんな話なんですか……?」
好意を無駄にするわけにもいかず、まあ飲みなよと差し出されたグラスにそうっと口をつける。舌先に痺れるような刺激が襲う、アルコールだろうか。対して鼻に抜けるのは甘い香りだった、何か、果物で作られた飲み物であるのだろうが。それ以上は解らなかった。
「色々あるよな、色だけ受け継いで力はないとか、その逆で見た目人間だけど竜人の能力持ちとか」
「人間喰う奴もいるけど人間とほとんど変わらない奴とかもいるって聞くよなあ」
「討伐隊が苦戦するのも解るよ、普通の人間じゃ見分けつかねぇもん」
あいつら魔法使うしさあ、そう続ける言葉は実感が籠っている。
冒険者だからこその情報なのだろうか、それとも周知の事実なのだろうか。視界の先でルーシェルに強烈な平手打ちを食らい床に沈んでいたらしいルアードがよろよろとカウンター席に座る。俺にも一杯ちょうだい、とリリーに向かって注文している姿を見ながら、彼ならもう少し詳しいだろうか、と。この場であまり詳しく問うのも怪しまれそうでそれ以上は口を噤んだ。
「絵本に多いですよね、竜人さまと人間の恋物語」
リリーは手を止めないまま嬉々としながら語るが、冒険者達はああー…と実に反応に困る表情をしている。リリーちゃんは竜人オタクなんだ、と先日言われていたが成程と納得する。竜人を語る彼女の表情は非常に生き生きとしていた。
「えらいもんをぶちこんだ絵本があるのか」
「性癖歪まんかそれ」
「まあ綺麗な竜人と綺麗なお姫様とかなら……確かに絵にはなるわなぁ」
「え、じゃあお姫様食われるの?」
「読者の情緒が死ぬわ」
「絵本だろ? どんな気持ちで子供に読み聞かせるんだよ……」
冒険者の男達は好き勝手に言って、またリリーから顰蹙を買っていた。
凄惨な事件なども調べているようなので夢物語ばかりを追っているわけではないらしいが、原点がそこなら冒険者達との温度差は確かにあるのかもしれない。旅の最中、彼らは竜人や、竜人の人間のハーフに出会う事はあるのだろうか。絵本、御伽噺、美しい物語に反して確かに起こってい凄惨な被害。この世界ではそれらは一体どのようなバランスで存在しているのだろうか――
ごん、と頭に何かが当たって思考が打ち切られた。ころころと足元に転がるのは先程部屋で彼女に渡した銀色の腕輪だ、どうやらこれをこちらに向かって投げつけてきたらしい。
ゆっくりと拾い上げる、細かな装飾も美しい増幅装置はりんとして重い。
驚いて振り返ると不機嫌も不機嫌最高潮と言わんばかりの形相でこちらを睨みつける魔王ルーシェルの姿があった。入り口近くから動く事も座る事もせず立ったままの彼女の背後に、霊力はない筈なのにゆらりと揺れる何かを見た。確かに見た。
「貴様、解っているんだろうな?」
地獄の底から響くような重低音ですごまれた。話題が逸れたからだろう、きっちり訂正しろと言わんばかりの眼差し。こちらを射殺さんばかりの。
けれど今更何が言ったところで何が変わるとも思えない。どうせ偽りの話なのだから話半分に聞き流しておけばいいものを、それすら魔王様は嫌らしい。意外と潔癖だ、天使と悪魔が婚姻を結ぶなどあり得るはずもないのだから放って置けばいいのに。……リリーの言うように、道ならぬ恋というならそうなのかもしれなかった。祝言、婚姻、結婚。言葉でしか知り得ぬそれは意思あるもの全てに適応される物なのだろうか。竜人と人間との間に生まれた子供、結ばれた二人が子を成すのは人間であるなら然程不自然な事ではないが。
うん? 天魔の間に子はできるのか?
ネフィリムは天使と人間の間の子だったが……?
「お、なんだい馴れ初めを語ってくれるのかい」
なんと返すべきだろうと考えを巡らせたほんのわずかの隙に、すかさずヤジのような声が飛んできた。
「誰が! 誰との!」
黙っておけばいいものを苛立ちが最高潮のルーシェルには看過できないらしい。
「あらら恥ずかしいのかしら」
「のろけ話聞きたいわねぇ」
酔いの回った男達は実に楽しそうである。歴戦の冒険者達にはこの状態の魔王など小娘でしかないのだろう、実に微笑ましいという表情でにこにこと笑っている。しかし何故ここの人たちは度々言葉遣いが女性的になるのだろう。
「恥ずべきことなど、」
「じゃあ是非とも聞きたいわあ、甘ずっぺぇ二人の恋のお話」
「恋だと!?」
否定すればする程、照れているのだと誤解が進む。
血のように赤い唇を戦慄かせて、白い頬を怒りで真っ赤に染めて。怒髪冠を衝くという状況を初めて目の当たりにした。ではなくてだ。
「あ、あのその辺で、」
これ以上はまずいと止めに入るものの時すでに遅く。
「――死ねッ!」
あの魔王が語彙力を吹き飛ばし、どういうわけだかこちらに強烈な平手を見舞ってくれたのである。
※
打たれた頬は相当に痛かったが、リリーが冷やしたタオルをくれたのでそこまで腫れもしなかった。強いなぁ、強い嫁さんはいいぞぉ、と冒険者達はまた明後日の方に盛り上がり、よくわからないまま飲めや食えやの大騒ぎとなってしまった。
もう知らん、勝手にしろと吐き捨てて自室へと足を鳴らしながら戻っていくルーシェルの背を見送ったのはどれくらい前の事だろう。真っ赤になっちゃって可愛いなあ、と冒険者達の笑い声に、一度だけ此方を振り返って射殺さんばかりに睨みつけてきた彼女はしかし耳まで赤く染め上げていて、確かにそう、何だか妙に、羞恥と怒りとで頬を真っ赤にしている彼女はどうしてだか可愛らしく見えたのだ。多分見た事のない表情だったからだと思う。
長くつややかな黒髪の、きつい目元の彼女は涼やかな美しさであって、とても可愛らしいと形容すべき容姿ではないというのに不思議な事である。表情など鬼の形相だったというのに。
彼女の深紅の瞳は命の色に燃えていて、まるで氷のような冷たさを湛えている。薙いだ夜の海のように、薄氷の下の激流の様に。激情を抑え込んだような眼差しからこちらへと向けられる明確な憎悪。
――天使と悪魔は長らく殺し合ってきたものだが、それにしても随分な嫌われようである。好意の反対は嫌悪ではない、無関心だ。自分にとって悪魔など魔王であろうともただ狩るべき対象でしかない。そこに特別な感情は存在しない。
ヨシュアは宿の階段を登りながらほう、とひとつ息をついた。唇から零れ落ちた吐息はいつもより熱い。
宿屋は一階が受付と軽食を提供する場で、二階が客室、さらに階段を登ると三階がありそこは屋上テラスとなっているという。ルーシェルの姿を見送った後も何だかんだと解放されず、酒はグラスに注がれ続け、食べてないじゃないかとあれこれ皿が差し出され。気が付けばそこそこ時間が経過している。
火照る頬に夜風に当たりたくなって、外へ出ようとしたら三階へと促された。三階からの眺めも良いですよ、と。リリーに言われたのもある。熱気に当てられたせいだろう、高揚とでも言うのか、このまま眠ってしまうのはなんだか惜しい気がしたのだ。
木製の階段はきしきしと軽い音を立てる。
階下ではまだ冒険者達が飲食しながら騒いでいる、その喧騒がなんだか心地よく。ランプはあるもののほんのりと暗い階段を登りきり、そう、と。やや重い扉を開ける。さほど広くない空間に丸テーブルが三つ、それぞれ二脚の椅子が置いてあり、胸のあたりの高さで貼られた転落防止用の柵に寄りかかっているのが一人きり。
「…………なんだ、貴様か」
先刻まで怒り狂っていたルーシェルだった。
驚いたようにこちらを振り返る彼女の長い黒髪が風にふわりと舞う。夜の化身の様に、闇の中にゆるりと融け込むかのように。女性にしてはやや低い声を紡ぐ唇は赤く小さく、僅かに見開かれた深紅の瞳が輝いて、空に瞬く星の様だった。
闇の中の闇、悪魔の中の悪魔。闇の眷属。舞い降りる厄災。
未来永劫交わらぬ天より最も遠く離れた存在、美しくも強大な悪魔。それが、今、目の前にいる。
「なんだ貴様、人の事をじろじろと」
不審な目を向けられてそこでようやく我に返る。
「ルーシェルも、ここにいたんですね」
「貴様らがあまりにうるさいからな」
退避だ退避、嫌味のように告げる彼女の傍へと向かう。少し距離を開けて同じように柵へと出かけた。何故寄ってくると言わんばかりにじろりと睨まれるが気付かないふりをする。
「ちゃんと訂正したのだろうな?」
「え、」
「え、じゃない、祝言だ何だと否定してきたんだろうな!?」
怒りはまだ継続中らしい。
一瞬何を言われたのか解らず呆けた声を上げたのが気に入らないらしい、また眦を釣り上げて食ってかかられた。……あの場から離れ、勝手に全部任せておいてなんとまあ態度の尊大な事よ。
「そんなに目くじら立てなくても……状況が変わったのであと二、三日もすればここを発つつもりらしいですよ、今更無理に訂正しなくてもいいのでは? ――それに、」
「それに?」
「貴女が躍起になって否定するから、もう冗談でしたと言っても多分誰も信じないかと」
「なんでだ!?」
「なんでって……人はやましい事があるから否定するのだと思うものですし、貴女のその挙動は照れ隠しにしか見えてないみたいですし」
事実、一階ではルーシェルのドレスの色についての談義が始まっていた。白が王道だろう、いや黒や赤も捨て難いだの言っていてなるほど彼女に抱くイメージは自身が覚えた色と変わらないのだなと妙に感心したものだ。式に参列したいよなぁと語る彼らのそれらはすべて、素性も知らぬ自分達に対する祝福で溢れている。
「皆さん、心からお祝いしてくださいました」
ありがたいことですね、と。
そう告げた時の、いっそ絶望とでも言わんばかりの彼女の表情は見ものだった。祝福は受け取れないらしい、怒りか呆れか、唇を戦慄かせて呆然とこちらを見上げてきているのである。……これも初めて見る顔だ、なんだか今日は珍しい表情を随分と見せてくれるものである。
それに、祝言を挙げるために村へ戻るという口実で討伐隊への誘いを蹴っている手前、あまり声高に違うと訂正して回るのも悪手のような気がした。力になれる事なら惜しむことなく協力する心づもりだが、ここに定住するとなれば話は別だ。あくまでも元の世界へ戻る事が目的なのだから、中途半端な手助けをするくらいなら始めから断るのが筋だろう。
そよ、と緩やかな風が二人の間を通り過ぎていった。さらりと彼女の黒髪と同じく己の長い金の髪も揺れる、闇夜に揺蕩う川の流れのよう。視界で踊るそれらを指先で流す、頬に感じるひんやりとしたそれは心地よい。揺れる彼女の髪が月光を受けて柔らかく輝いて酷く美しいと思った。闇の化身、夜の女王。そう形容するのが正しいと言わんばかりのその姿。
「……貴様は忌まわしいとは思わないのか、貴様ら天使が忌み嫌う悪魔と夫婦になるなど」
きりきりとこちらを睨みつける眼差し。
冗談ではないと全身全力で訴えかけてくるその姿があまりに必死で、そんなに嫌な事なのだろうかと考えてみる。彼女と自分が祝言を挙げ共に生きていく、というのは想像できなくもなかったがあまりに現実離れしていていまいち実感がわかない。天界で生きるのか、魔界で生きるのか。何もかもを捨てる覚悟は必要だろう、住む世界が違う以上すり合わせも大変そうだとは思うけれども。
そも、何度も言っているがただの方便でしかないのだ。
そこまで嫌がる道理が解らない。
「貴女は……今まで殺してきた魔族や天使の数を覚えていますか」
「は?」
ふと思い立って問いかけてみると、突然を何を言い出すのかと言わんばかりに彼女は眉をしかめた。それと同時に数えているわけないだろうと言外に含められる。そう、覚えていない。それは自分も同じ事。
「私にとって、悪魔とはそういうものです」
彼女の深紅の瞳を見据えて静かに言い放つ。
悪魔とは滅ぼすべき種族である。相容れぬ存在である。祝言だ夫婦だなんて些末な問題だ、今はこうして穏やかに言葉を交わしているが元来は殺し合う運命でしかない。私は彼女を正しく知り、そうして討ち滅ぼす。それだけのこと。夫婦になることに対する忌避感情? そんなもの。
「…………塵芥と変わらないってことか」
「理解していただけたようで恐縮です」
ちっと舌打ちをする彼女に微笑んでそう返せば、怪物でも見るかのような眼差しが向けられる。理解できないとでもいうのだろう、実に感情のままに生きる悪魔らしい。
「胸糞悪い野郎だ」
「気が楽でしょう」
いずれ殺し合うのだから。
決まり切った未来を呟けばルーシェルは渋面のまま黙り込む。
「深入りしたって、しょうがないでしょう?」
それは本心。
やむにやまれず共にいる、可愛いと思っただとか、綺麗だと思っただとか、そんなものは足枷にしかならないのだ。感情は責務を蔑ろにする。私は天使で、天使達の王で、天界の責任者でもある。一時の気の迷いなど許されるべくもない。
「……当然だ」
彼女も否定しない。
こうして刃を交えることなく会話をする異常。そう、異常だ。でもどうしてだろう、不思議と心は穏やかだった。
ふ、と空を見上げる。
リリーが素敵ですよと言っていた通り、宿の三階から見える光景は空が近く美しかった。街灯の柔らかな光で暗闇は和らぐが、それでも満天の星空はきらきらと輝き圧倒される。無数の星がこちらを見下ろしてきている。
夜の暗闇とは無縁の世界にいた。
闇の眷属とも言える悪魔は須らく斬り捨ててきた。
長く長い時をそうやって経てきた、それなのにこの現状。闇色の中で悪魔と言葉を交わすなど、少し前なら考えられぬことだった。不快だと思わない自身の心境、彼女という人物をよく知らないまま斬り捨てるのはなんだか惜しいと思える程度には。
「……不思議ですね。何もかも不自由なこの世界に貴女と来たことは、そんなに嫌ではないのです。貴女が私との婚姻は御免だという事もよく解りましたし」
残念です、と笑うがルーシェルは心にも無いことを、と。忌々しく呟いた。
「私の事をゴミクズとしか思っていないくせに」
「お互い様ですよ」
貴女だってそうでしょう、問いかけに否定はない。そういうものだ、気にも止めない存在だ。そういった存在だった筈だ。
「でも……貴女は、……貴女という女性は、とても、……なんだろう、気になる……ような……、?」
「はあ?」
「うん、……うん?」
ほつりと零れ落ちた言葉にルーシェルは怪訝な顔をしていた。何か口を滑らせたような気がする、思わず口元に手をやるものの転がり出た言葉をなかったことになど出来る筈もなく。
「貴様……随分良く喋ると思ったらさては酔っているな?」
呆れた物言いにしかし反論できない。
祝い酒だ何だと勧められるまま、一体何杯口にしただろう。するすると喉を滑り落ちていく熱い感覚がなんだか不思議で、上機嫌で酔っていく人間達を見ているのが楽しくて。……そこそこの量を飲んだような気がするが定かではない。
「よく解りません……」
でも今、酷くいい気分なんですよ。
言い訳のように口にする。そう、きっと酔っているからこんなに胸の内が穏やかなのかもしれなかった。目に映るもの全てが美しくて、楽しくて、胸の内は穏やかで心地が良い。
「天使も酒を飲むんだな」
「ワインはキリストの血ですから……?」
「ぐだぐだじゃないか」
ふっと。ほんの少しだけ柔らかく緩む彼女の口元。
悪辣とした笑みではなく、そんな風に笑う事もあるんだなと当たり前の事を思う。
「……今回初めていただきました。貴女もどうです、美味しいものでしたよ」
「いらん」
勧めてみるがにべもない。
彼女は相変わらずほとんど物を口にしようとはしない。
「貴様にもっと飲ませて口を滑らせてやるさ」
「おや、何が知りたいのでしょう」
「貴様の弱みだな」
「それは困りますねぇ」
他愛のない会話なのになんだか可笑しくて、くすくすと笑いがこみ上げる。彼女ならきっと忘れたころにやるのだろうなというぼんやりとした確信があったし、例え自分が口を滑らせたとしてもそこを突く彼女をどう攻略するかを考えるのは楽しい遊びのような気もした。
夜空は晴れ渡っていて、濃い闇の中にいるのに瞬く星が周囲を明るく照らしていた。無数に煌めく星々、その中で一際大きく柔らかな光を湛える月。
「夜空、きれいですね」
「……そうだな」
まるで月の精のような彼女の口から投げ出されるぞんざいな返答。
この距離感が、自分は思いのほか気に入っているようだった。
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