19 治に居て乱を忘れるな
暗闇の中を歩いている。
歩を進める度にぱきぱきという細かな音が足元から鳴る、何か細いものが折れる音。見渡す限り地面を埋め尽くすそれが何であるか気付きたくなくて、ひたすら前だけを見て歩いている。どこに行きたいのかもわからないのに、ただこの場には留まりたくなくて。
凝った闇はまとわりつくよう。
そうと伸ばした腕すら飲み込んでしまう。
立ち止まりたくない、早くこの場から逃れたい。けれど走れば足元のそれが砕け散る事もわかっていた。それは出来ない。乱雑に扱っていいものではない。
だからひたすら歩いて、歩いて、果ての見えない先に何かがあることを信じてそれだけを信じて進んで。
ずるりと足元がたわむ。
それと同時に空が割れたガラスの様に崩れ落ちる、踏まれ砕かれた白いものが舞い上がる。崩壊する世界に身体を支えるものなど一つもなく、ただただ落下していく。奈落の底へとまっさかさま。破片となって降り注ぐ空と共に果てない底へと落ちる。抵抗は無意味だと知っている。崩壊が始まった途端耳を塞いでも聞こえるありとあらゆる怨恨の言葉、顔を覆っても解る突き刺すような憎悪の眼差し。全身に絡みつく無数の腕、指、氷のように冷たいそれがぎりぎりと締め上げる。音という音、視線という視線が身体を塗り潰していく。潰れた喉の奥からか細く上がる呼気ごと消し去るように――
ばちっと目覚める。
急激な意識の覚醒は自身のいる場所を一瞬見失わせた。見慣れぬ天井、柔らかで清潔な寝台。カーテンのその向こうにある闇を切り裂く圧倒的な光源に、夜が終わったことを知る。は、は、と浅い呼吸を繰り返していた。指先まで冷え切っていて、心臓は早鐘の様に脈打っている。
「ゆめ、……」
寝台の上に座り込み、ルーシェルは頭を抱え大きく息を吐いた。
耳にこびりついた怨嗟の声が飽和してまだ残っている。幾重にも重ねられた言葉は最早形を保ってはいなかったが、薄れないどころか一層激しく耳の奥で響いているのだった。
とんとん、と。
音が聞こえびくりと肩を震わせた。遠慮がちに扉をノックする音だ、解っていても夢と現との境界が曖昧になっていて扉の向こうにどろどろとした暗闇が大口を開けているかのような錯覚。開け放たれるのを今か今かと待っているのではないか。そんな事などありはしないのに、でも、もしかしたらと。夢は夢だ、けれどこちらが現という確証もない。今度こそ飲み込まれるのかもしれない、いや、陽光に満たされた此方の世界が現実だ。でも本当に? ――扉を叩いているのは誰だ。
「ルーシェル、起きていますか」
柔らかな声色に、は、と。殊更大きく呼気が漏れる。
穏やかなその声にこちらの世界が現実なのだとようやっと実感が湧いた。天使と共にいる異常な世界ではあるが、それでもあの闇の中にこの男が現れるとも思えないのはある意味僥倖なのかもしれない。
「………なんだ、」
気取られないよう殊更気を付けて、なんでもないかのように声を返した。……いつも通りの声だっただろうか、自信がない。
「おはようございます。そろそろ出発をしたいそうですので、支度が出来ましたら下まで降りて来ていただけませんか」
男の声はいつもと同じように聞こえる。
ふわりと柔らかな、穏やかな日の光のような声だと思う。高くもなく低くもなく、そう、いうなれば甘く香るような。光の園の住人、満たされ充足する瑕疵のない者。実に余裕のある声だと思う。腹立たしい程に。
「……わかった」
黙っていればこちらの返答をひたすら待つであろう事は、このごく短い時間の中でも嫌というほど解っていた。大人しく中身のない美しいだけのただの人形。こちらの短い返答にそれでも満足したのだろう、耳をすませばとたとたと軽やかな音が遠ざかっていった。でかい図体をしながら男は基本的にあまり音を立てない、それすらこちらをあざ笑っているかのように聞こえる。過不足のない者の持つ余裕。こちらはこんなにも、……いや、別に。あの男は関係がない。
この時間帯は出発する冒険者も多いのか昼間より人の往来する音が響く。悟られるわけにはいかない、誰にも。闇色の世界は自分にとって肌に馴染むものだがそれ以上に秘められた空間でもあった。切り取られた箱庭を誰にも見せるわけにはいかない。緩くかぶりを振ってねばついた闇色を追い出す。
なんだ、エルフの里だかに行くのだったか……意図して思考を切り替える。くしゃくしゃになった寝台からゆっくりと床の上に降りた。足裏に感じるひやりとした感覚が現へと強制的に引き戻す。
夢の残滓を脱ぎ捨てるかのようにリリーから借りていたやわい服から自身の服へと着替える、丁寧に洗濯されたそれは今までよりも肌触りが良いような気がする。長い己の黒髪を梳いて、やや、いやかなり躊躇ったものの意を決して天使からもらい受けた青みがかった灰色のコートに腕を通す。柔らかな布地のそれは日中外に出ても問題なく行動できる代物だった。厚手である事と、恐らく遮光効果があるのだろうと思う。裾も長くすっぽりと身体全体を覆うそれ、顔が出ないよう深くフードを被る。
左手には青い石のはめ込まれた増幅装置。霊力を加減すれば問題なく使えるようだった。初歩も初歩の術しか使えないし相変わらず翼の一つも顕現しないが、ないよりはましだろう。
「ナハシュ・ザハヴ、」
小さく呼んで、体内にあった愛器を呼び出す。突き出した右手に螺旋状に渦を巻き、闇が凝るように現れる一振りの大鎌。人目に付くところでは出しておくようにルアードに言われていた。廃倉庫内で自分と一緒に回収された大鎌は随分と色んな人の目に触れていたらしく、尚且つここらじゃ珍しい武器だから持っていないのは怪しまれるからだという。昨日部屋に籠っていたらやはり扉の向こう側から投げかけられた言葉、自分が部屋を出た後も何やら話し込んでいたのか随分と後になってからやって来た男ども。面倒だ、何故私がそんな事をしなくてはならないのだと心底思ったが、郷に入っては郷に従えですよと天使がご高説を垂れるのでありとあらゆるものが嫌になったのだった。抵抗するにも胆力が必要だ。
霊力さえ使えればこんな面倒な事になっていないのに……そんな事を考えながら階下へと降りる。いや、そもそも天使と共にこの世界に来なければ……殺し殺されそれで終わりだった筈である。正直、この世界の人間の事など知った事ではない。次元を違えた世界なのだろうことは解る、だがそれだけだ。ふとした瞬間に何をしているのだろうと我に返る。自分は誇り高き悪魔であったはずだ、人間と、人間でないものと、天使と行動を共にしている。仕方がないのだと自身に言い聞かせながらも他にも何かあったのではないだろうかと今でも思う。
手にしたナハシュは長い。
壁や天井に当たらぬよう気を付けて階下へと降りるとそこには長い髪を括り、胸当てや脚絆などアーネストと同じような格好をした天使がいた。腰に下げられた長剣、思わず目を見張る。
「ルーシェル」
こちらに気付いた男がゆるくこちらの名を呼ぶ。
というか、声を聞くまで本当に天使なのか判断がつかなかった。
「……見慣れないな」
綺麗な金の髪、空の様に淡い色彩の瞳。真白い衣服に身を包んだ天使しか知らぬ自分からすれば、とてつもない違和感である。
「コート、着ていただけたようで何よりです」
「……別に、必要なだけだ」
相変わらず天使は何が楽しいのかふわふわと笑っている。
これが殺し合うだけの天使と悪魔の会話か。でかいばかりの図体を押しのけてロビーの椅子に座る。アーネストは最後だからと言わんばかりにやはり何かを食べていたし、ルアードは弓をカウンターに立てかけ女将と話していた。どうやら支払いをしているらしい。
「おはようございますルーシェルさん、コートお似合いですね」
お前一体どんだけ食ったんだとアーネストに文句を言うルアードを見ていたら、にこにこしながらリリーが寄ってきた。……天使の見立てたコートを褒められるのは何やら複雑だ。
「こちら頼まれていたお弁当です。焼き菓子も一緒に着けましたので道中皆様でどうぞ」
言いながらそこそこの大きさの紙袋を手渡してくる。
「大変お世話になりました」
自分が受け取らないからだろう、横から天使がひょいと紙袋を抱えた。髪をくくった男の姿もあのずるずるした衣装ではない姿もやはり見慣れない、まるで別人だ。自分は元々の服の上からこちらの世界のコートを羽織っていて、こちらも前を留めてしまえばこの世界に溶け込んでいるかのように見える。
「いえ、また遊びに来てくださいね」
ふわふわと微笑む娘に、またお邪魔するかもしれませんと天使は天使で適当な事を言っている。元の世界に戻るのだろうが、何度もここに来るだけの理由もないと言うのに。
「その頃にはもう一人くらい増えてるかねぇ」
「…………………………は!?」
ふんわりほんわりとした二人のやりとりをいらいらしながら見ていたのだが、突然の爆弾発言に声が出た。後頭部を殴られたかのような気さえする、女将が仕事の手を止めてカウンターの奥からこちらを見ていた。何が嬉しいのかこちらもいい笑顔だ。
「ああ、それは素敵ですねぇ……」
夢見がちな竜人狂いの娘が、それこそ我が事のようにうっとりと目を細める。ので。ぞわりと肌が粟立った。というかいい加減しつこい、祝言、夫婦、一人って、一人って、誰が誰と何をするとでもいうのだ……ッ
「貴様どうしてくれる、」
手にしたままのナハシュをぎちりと音が鳴る程に握りしめる、言葉よりも遥かに雄弁にきつく睨みつけてやればだらだらと脂汗を流しながらルアードの顔色が悪い。悪いったら悪い。青くなったり白くなったりしつつ、ははは、気が早いよ、と。感情の籠らない酷く硬い声で女将に発言の撤回を求めていた。
「何の話でしょう」
一人訳が分かっていない天使が不思議そうにしている。今の話の流れで何も察せないあたり愚図も愚図なのだが、だからと言って事細かに説明するのもおぞましい。真実夫婦であるならそう、人間であるのならそこまで的外れな発言ではないのかもしれない。生命が番うのは次世代へと繋ぐ為だ、愛だ恋だなどは後付けに過ぎない。だが今はそういう話をしているのではない。
「そもそも誰のせいだと……ッ」
「わーストップストップ! 出発! 出発するよ! アーネストいい加減にしろもう頼むな!」
きょとんとしている天使、まだ何か食べようとする人間、間抜け面の天使を斬り刻んでやらねば気が済まないこちらとをルアードは宿の外へと無理やり引きずり出し、慌ただしく宿屋を後にする。
※
一通りの買い出しは済んでいたのだろう、宿からどこかへと寄る事もなく、引きずられるようにして街を後にし街道を通り抜け森へと至る。天候に恵まれており地を照らす光は煌々と。足元にできる影は黒々としており苛立ちは収まる所を知らずにいた。道案内よろしく先頭を行くルアードとアーネスト、そのやや後ろを歩く天使を眼前に最後尾を歩いている。揺れる綺麗な金髪がまた腹立たしい。
人とは違う生でありながら人の中に紛れる天使。
天界最強の天使。剣技も霊術もずば抜けていた筈である、それが今はどうだ、人と同じ姿となり交流する。あの冷徹にこちらを射る空色の瞳が緩く溶けて、腑抜けた顔でいるなど。……門から街を出る手続きをする時、仕事終わりなのか今も仕事中なのか今日も今日とて顔色の悪いマディムに絡まれたことを思い出す。
「やはり出るのか」
実に惜しそうに、何とも恨めしそうに出ていこうとするこちらに向けて口走るマディムに、天使はすみませんと困ったように笑みを浮かべつつも断りを入れていた。竜人討伐、きっとこの男なら造作もない事なのかもしれない。過大評価ではない、その腕は脳筋と評されてしかるべきだけの力量を持っていた。信じられないくらいの阿呆ではあるが。
「よかったのか残らなくて」
「私ごときがこの世界をどうこう出来るとも思っていません。この世界のことはこの世界の人々が解決すべきです」
嫌味を零すのだが、天使はこちらの言葉を一体どう受け取ったのか困ったように静かに笑うばかりだった。尤もらしい事を言いつつその実出した答えは放置だ。人間を護ると豪語するのであれば、その人を喰らう神の一つでも殺して見せればいいものを。世界の均衡だの、影響だの、ぐちゃぐちゃと考えているようだが実態が伴っていないのだ……
置いて来てやれば良かった。
心の底からそう思う。
口数の少ないアーネスト、ルアードと何やら穏やかに言葉を交わす天使。後ろを歩くこちらがちゃんとついてきているかを探る気配が不快だ。いや、でも犬ではないのだから置いて行っても勝手についてくるのか……自身でも思考がよく解らないことになっている。天使は犬ではない。夢見の悪さが不必要に思考の邪魔をする。
旅は順調だった。
アーネストと天使が剣技で時折現れる『魔』を倒し、ルアードが放つ弓矢でそれを援護と言った形で進んでいく。自分が出るまでもない、ナハシュ・ザハヴは早々に仕舞っていた。『魔』を倒し魔石を回収し、左程急ぐでもなくゆっくりと進んでいく。森の中は鬱蒼と茂っており陽の光もまばらだ、被ったフードを脱ぐ。開ける視界と耳に入る森の騒めきはあらゆる生き物に溢れていた。わずかではあるが霊力が使えるようになったおかげで薄くではあるが気配の探知が可能となっている。動植物を始めとする生物の気配、天使の気配、『魔』の気配、ルアードの妙な、恐らくエルフ特有の気配と人間の気配とが混ざり合って少し気持ちが悪い。命あるものの生命活動が鬱蒼と茂る森の中で満ちていて、襲い来る『魔』の気配探知があやふやだ。
一通り歩き通し、陽が落ちて影が濃くなってきたので休息とする。手慣れたように聖水とやらを円形に撒いて簡易結界を作り、中央には拾ってきた薪で小さく火を熾している。
「いやあ、やっぱり攻撃出来る人が多いと楽だねぇ」
ルアードが小さな鍋で何かを煮ながら穏やかに口にする。夕食を作っているそうだが、あれだけ大量に食べていたアーネストはそれで足りるのだろうか。リリーから渡された紙袋を開ければ、綺麗に包まれたサンドイッチが入っていた。人数分入っていたらしくルアードがこちらへと寄越すが、どうにも食べる気になれずアーネストへと渡してやった。そもそも食事などする必要がない。
「食べないのか」
「いらん」
そう言って中央の焚火から離れ、結界ぎりぎりへと腰を落とした。膝を立てて顎を乗せる、背を向けるのはなんだか癪で食事を始める男達と揺れる炎を見やる。光源、熱源、朱色の光とぱちぱちと爆ぜる音。
「食べた方が、」
「貴様は好きにすればいいだろう」
尚も食事を勧める、こちらと同じく食事の必要としない天使に吐き捨てる。無駄な事をするものだ、必要のない事をする天使の考えが理解できない。
「食べたくないなら無理には言わないけど……大丈夫? まだ先は長いよ?」
「くどい」
ルアードも投げかけてくるがつっぱねると、天使とルアードが顔を見合わせて小さく息を吐いていた。なんだそのしょうがないと言わんばかりの表情は、いらないと言っているのだから放って置いてほしい。
「じゃあいただくけどさ……」
一言こちらに断りを入れてサンドイッチに齧り付いたルアードに倣い、天使もでは、と。やたらと分厚いそれに口をつけていた。食べ慣れていないからだろう、両手で持ってはいるもののぽろぽろと端から具材がこぼれていた。大口を開けて豪快に食べるアーネストとは違いどうにも食べづらそうにしている。小さい口、などと。どうでもいいことを考える。
「ね、ね、じゃあさ。あの大鎌出してくれない? どういう術式なのかやっぱり興味あるんだ」
片手でサンドイッチ、片手で鍋の中を器用にかき混ぜながらルアードが身を乗り出してきた。思い出したと言うよりは問う機会を窺っていたと言わんばかりだ、目をきらきらさせるな。げんなりする。
「……いい加減しつこいぞ」
「だってこの世界にそんなハチャメチャな術ないし」
「ハチャメチャとか言うな」
「空間転移? 空間圧縮? どういう原理なのかなって」
「随分とこだわるな」
「俺ら長寿だしね、研究というか極めたい節はあるかな」
ただ生きるだけではつまんないんだよ。
ルアードは言いながら鍋の中身を木製のカップへと注ぎ、アーネストに手渡していた。スープだったのだろうか、ヨシュアさんもいる? 投げかけられた天使はやはり断るでもなくお願いしますと言っていた。サンドイッチもスープも食べる気らしい。天使の食事風景というのもなかなか希少な光景ではなかろうか。
――構築式だと?
「……術なんてイメージの世界だろうが、うだうだ考えず構築すればいい」
己の霊力を布を織るように組んでいくだけのことだ。
す、と指先で宙に小さな円を描く、細く長く、糸を紡ぐように。影のような薄いそれが軌跡を描くのを目で追う、別に何も難しい事などない。元居た世界では無意識に行っていた術の構築だったが、霊力を少し意識して左手の増幅装置に流せばふわ、と。小さな闇色の球体が現れる。ぱちん、と指を鳴らせば球体が電磁を帯びる。子供騙しのような初級霊術。魔力だ霊力だ、およそ目には見えぬ力を使う者にとってそう難しい術ではない筈だ。
しかしどういうわけだがこれに不満の声が上がる。
「あらまあ天才の言い分ですわヨシュアさん、系統立てて組み立てなきゃ崩壊するんですよ魔法ってやつは。ご存じないかもですが」
目も覚めるような美人で尚且つ天才だなんて! ルアードは何やら憤慨している。天才だなんて思ったことなどなかったが名を呼ばれた天使がカップの中をすすりながら、そうですねぇと相槌を打っていた。特に否定も反論しない、という事は概ね同意なのだろうか。
「ルーシェルの術式は確かに精錬されたものではありませんでしたが、その分殺傷力に特化していましたね。あとは圧倒的な霊力で殴るとでもいうのか。貴女と戦った時、このままでは押し切られると思いましたし」
天使のその表情ではとてもではないがそんな危機的状況であったようには見えない。
もう既に遥か昔の事の事の様になってしまった天界での記憶、刃を交え、強大な霊術で攻撃する。相手をただ殺す為に意識を研ぎ澄まし、全力でぶつかったのはそんなに前の事ではない。
「貴女は感覚的に力を使うのですね」
「……普通そんなもんだろう」
「あんまり普通じゃないんだよなあ」
どういうわけだか術者二人に異常だと言われ、二の句が告げなくなってしまった。
会話に参加できない非術者である、ただの人間であるアーネストは黙って食事を続けていた。渡したサンドイッチも私が食べる気がないのを察したのかぺろりと平らげている。対して天使は具材のたっぷり入ったそれをちまちまと啄むように食べていた。長期戦で挑むらしい、唇を親指の腹で拭いながら何でもないようにぽつりと。
「私は霊術の才能がなかったので、ひたすら研鑽の日々でしたね。おかげでそれなりに扱えるようになりましたが、まだまだ精進の身です」
お恥ずかしいばかりですと微笑む男に頬が引きつる。
「それなり……?」
思わず口に出ていた。
私が天界に赴いた時、初手から凄まじいものをお出ししてきておいて何を言っているのか。同族を殺され怒り狂ってるのかと思いきや恐ろしく凄然に術を放った男。こちらも負けてはいなかったが辺り一面吹き飛ばし切り刻み、それでもなお涼しい顔をしていた男。平然としている男に覚えたのは相手の能力の高さだった。的確な攻撃、防御、反撃は素早く。流石天界を統べる者だ、馬鹿ではない、と。その時は思ったものだったが。共に行動する事を余儀なくされた現在己の認識を改めるに至った。木偶の棒は木偶の棒である。
ぎゅ、と弄んでいた球体を握り潰す。音もたてずに霧散したそれを払いのけるように指を振って。
「ナハシュ・ザハヴの収納については、ルーシェルの血によるものが大きいのではないでしょうか。天界にも魔界にも人間の様な夫婦という概念はありませんが、魔王様は例外的に代々子を成すのが習わしだとか。受け継がれる血に反応する、って、」
大真面目に自身の推測を語りだす天使にかっとなり、とっさに近くにあった小石を全力で投げつけた。気の緩み切っているようにしか見えない天使だったが、ぱし、と。難なく石を受け止められる。小石程度で大したダメージを与えられるとも思わなかったが、避けるどころか石を片手で受け止め、ただただ困惑した表情でこちらを見てくる男にぶつっと。何かが盛大にぶちぎれる音を確かに聞いた。
「どいつもこいつもいい加減にしろ! 私を一体何だと思ってるんだ!」
吼えるが何を言われたのかよく解らなかったらしい、男はやはり不思議そうにこちらを見ている。
「すみません意味が良く、」
「いやあ、今の普通にセクハラでしょ……」
「せ……なんです?」
「わあ」
本当に欠片も解っていないらしい天使に、助け船を出してくれたルアードはかける言葉もないとばかりに笑顔のまま表情を凍り付かせていた。連綿と続く血の継承、そう、ナハシュは我らが一族の血にのみ反応する。それは事実である。事実ではある、が。その過程を本人を目の前にして言う必要がどこにある。
そもそも祝言だなどと戯言でしかないのだ、それでさえ屈辱的であるというのにどうしてそれが前提となっている。悪魔と天使が夫婦だなんてあり得るはずもない、前提条件からしておかしいのに何故どいつもこいつもその先について口にするのか。何故ここまで蔑ろにされなければならない。
訳の分からぬ天使とただの一時でも一緒にいるのがそもそもの間違いであったのだ、人形のように空っぽの男。悪魔に謝罪し物を与える風変わりな男。結局、主体性も何もないのだ。だから己の感情にも愚鈍で、他者の心の機微にも疎い。善人だ、ああ、善人だとも。ただの木偶の棒でしかないのだから!
ぐしゃぐしゃと頭をかきむしり立ち上がる。
「ルーシェルどこへ、」
「ついて来るな!」
吐き捨てて結界の外へと出る。
背後から男どもが何か言っていたが、振り返りもしなかった。
※
魔除けの結界の外を出て暗い森の中をひたすら歩く。
苛立ちは収まらず怒りに任せて足場の悪い道を進んでいった。男共が追ってくる気配はない、来たとしても追い返すつもりではあったが。
愛器を取り戻せた事は大きな安堵であった。
霊力はまだほぼ使えない状態ではあるが一歩前進している。ナハシュ・ザハヴを顕現できるようになったのは大きい、この世界の『魔』など取るに足りない存在である。竜人だって、あの時は油断したからであって今なら問題なく対応できるに違いない。いくらあいつらが人間ではないとはいえ殺す事など造作もない。
元の世界に戻ることが目的ではあるが、わずかながら霊力も使えナハシュもいる。であれば現状天使と共に行動する理由もなくなった。協力だ何だと言っていたが、使うには便利だがあまりにもこちらの精神衛生上よろしくない。やはり解り合えぬ間柄でしかないのだ。
「……無意味な時間だった」
零れ落ちる言葉にしかし、返事をするものはいない。
長い時を生きる我々にとって瞬きのような瞬間でしかないのに、この疲労感は一体何なのだろう。
ざくざくと自身が土を踏みしめる音ばかりが聞こえる、『魔』だろうか、息を潜めた生き物の気配が入り混じっていて妙に落ち着かない。夜風に吹かれてさざめく木々の音が頭上から降り注ぐかのようだ。背の高い木々が空を隠していて、月の光がまばらに足元を照らしていた。
男どもと行動を共にする必要がなくなったわけであるが、この後どうしたものか。言語、この世界の事、まだ心許ない。だが積極的に人と関わる必要もないのだ、食事も必要ない。日よけのコートもある、そもそも明るい時分に出歩かなければ済む話だ。終わりの見えない長い生の中、別の道を探すのも悪くはないのかもしれない。
ああ、そうだ、それがいい。煩わせるものなどない方がいい。
そんな事を考えながら、ふうとひとつ、大きく息を吐いた瞬間。
しゃなりと。細く冷たいものが首に絡みついてきてぞわりと肌が粟立った。
「ナハシュ・ザハヴ……ッ」
愛器の名を呼び現れた刃で背後をなぎ倒す。手ごたえはない、己の脆弱な霊力、森の中に充満するあらゆる気配に紛れて察知出来ていなかったがこれは、この気配は。
「ご機嫌ようルーシェル様」
こちらの攻撃範囲からふわりと距離を取った一人の女。流れるような赤い髪、甘ったるい声。その背には巨大な皮翼、鬱蒼と茂る森の中でそれでも優雅に浮いている。血のように赤い口がいびつに歪んでいて。
悪魔……ッ
ぎりとナハシュを握りしめる、竜人などではない。よく知った同族の気配を間違えるとも思えなかった。だがどうしてこの世界に悪魔がいる、次元を違えた異世界だと言うのに。
身構えるこちらを見て女はころころと笑った。一見穏やかに笑みを刻んでいるが迸る殺意を隠そうともせず、残虐性に満ち満ちた金の瞳がこちらを射る。すい、と横に緩やかに突き出された右腕、そこに集まる霊力。煌々と輝く炎。現在自分が扱える霊力よりもはるかに大きなそれに目を見開く、何故、この女悪魔は、この世界で当たり前のように霊術を使っている……?
「お美しい魔王様、」
さながらまるで囀るかように。
「……主命により、その首頂戴いたしますわ」
言葉と同時に、炎が炸裂した。
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