20 燎原の火

 森の中は仄暗かった。鬱蒼と茂る背の高い木々が空を覆い、火を焚くことでようやっと光源を確保出来ている。まばらに落ちる月光はありはしたが、薄ぼんやりとしていていささか心許ない。結界を張るのは『魔』が蔓延るからだ、森の中に満ちる異形の気配はそこかしらから漂ってきていた。

 そんな中へ一人飛び出していくだなんてあまりに危険だと、足早に結界から出ていったルーシェルを追おうとしたらルアードに引き止められた。腕を取られた事に驚き振り返るこちらに彼はふるふると首を横に振って。

「しばらくそっとしておいてあげようよ、この辺の『魔』はそんなに強くないし今のルーシェルさんなら大丈夫でしょ」

「ですが、」

「駄目」

 きっぱりと言い切られ、それ以上は続けられなかった。有無を言わせぬ緑の瞳に、何かまた自分は間違ったのだろうことが解った。言われるまま結界内に留まる、しばらくそっとしておけとルアードが言うならそれが最適解なのだろう、だが、あんなに顔を真っ赤にしていた彼女は果たして帰って来るのだろうか。

「あの、彼女は何をあんなに怒ったのでしょう…………」

 正解が解らずおずおずと問えば、ルアードは少し目を見開いた。

「まあその……俺が言うのもなんだけどさ。魔王様ってルーシェルさんのことでしょ? 子供産むんでしょって言ってるんだもん普通にぶん殴られても文句言えないんじゃないかな」

 セクハラですよとルアードは先程と同じ言葉を使う。

 言葉の意味は解ってもそれが何を指しているのかまでは理解が及ばない。魔界の王は代々血族に受け継がれる世襲制だった筈である。自分はただ事実を口にしただけのつもりだったのだが、どうやらそれがルーシェルの逆鱗に触れたらしい。なんだと思っている、と言っていたか。そんなの共にこの世界へ来ただけの悪魔でしかないだろうに。

「祝言だの夫婦だの、挙げ句に子供だ何だ言われたら普通にイヤだろうよ。ルーシェルさんだって女の子だし」

「女の子……」

 鸚鵡返しに口にしていた。

 女の子、なのか。あの凶悪な悪魔が。

 性別上の分類はそうなるのだろうが、いまいちピンとこない。

 魔界を統べる王。悪魔の中の悪魔。強大な霊力で同胞を虐殺した者。女の子、なのか。性別で考えればそうなのだろう、長くつややかな黒髪、血の様に濃く深い深紅の瞳。心配になるほど細い体躯。自分に比べずっと華奢で小柄なその姿は確かに女性的である。

「本当にお前が言うなだな」

 呆れたようなアーネストの声。

「う……いや、まさかここまで話がデカくなるとは思わなくて……」

 悪いことしちゃった。

 焚火の傍に座り直したルアードは、うう、と小さく唸りながら使った鍋に水を注いでいた。小振りな水筒から見た目の割に際限なく溢れる水、水筒には青い魔石が入っているらしい。常に清浄な水が満ちるように細工されているものだと言っていた。鍋を軽くゆすいで結界の外に中身を捨てると、もう一度水を満たし再び火にかける。ゆらゆらと揺れる炎。

 ――悪魔は。

 滅ぼすべき対象であり慣れあう存在ではない。

 性別がどうであれそれは変わらない。彼女が少女であろうと青年であろうと何も変わらないのだ。置かれている現状がおかしなだけで殺し合う相手であることは変わらない。

「少なくとも、俺から見たらルーシェルさんは小さくて華奢なただの女の子だよ」

 こちらの反応を見てか、湯を沸かしながらルアードがまるで駄目押しの様に告げる。

 焚火の柔らかな光に照らされたその表情は穏やかだけれど、きっぱりと言い切ったその口調はほんの少し、非難するかのような色が混じっていた。女の子なんだよ、と。念を押すかのように。

 ……知らないからでしょう。

 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

 当然である、今ここにいる彼らとは生まれ育った世界が違うのだ。悪魔の残虐性を知らないからだとそしるのは少々お門違いのような気がした。護るべき人間を堕落させる悪魔。人類の敵。許されざる存在。彼女が天界で何をしたのか。ルーシェルは我らの同胞を殺戮した敵だ、圧倒的な力で一方的に蹂躙した。……女の子だと言われ少々動揺したが、彼女が行った事象は紛れもない事実である。血にまみれた美しい悪魔。多くの屍の上に悠然と佇んでいた光景は脳裏から離れもしない。

「……ですが彼女は、私の仲間を紙切れの様に殺した」

 ざわりと空気がゆらめき、びくりとこの世界の二人が身を強張らせる。自分でも冷たい声だとは思ったものの許せるはずもない、たった一人天界にやって来て殺戮の限りを尽くした悪魔。魔王。女の子だからとルアードは言う、それがどうしたというのだろう。それとこれとは別問題だ。 元の世界に戻って決着をつける。ただそれだけだ。共に行動するのも、彼女の身を案じるのもただそれだけのこと。あのように感情をむき出しにする彼女を、あまりにも我々と毛色の違う彼女を物珍しく見ているだけで畏怖する事などない。

「でも、対立するのと辱めるのは違うと思うよ」

 火にかけた鍋を揺らしながら噛んで含めるようにルアードは口にする。

 辱める、なのか。

 何が良くなかったのか、やはり自分にはよく解らない。

 悪魔は殺す、それは変わらない。今は協力を余儀なくされているので不和を起こしたくないだけである。この世界で対立したとて無意味だ、だが闇雲に貶めるような気はなかったのも確かだった。殺し合いの相手である、彼女の動向は注視すべきだが彼女の自尊心を傷付けるつもりなど。

「んっと、ヨシュアさんとこにも女の子いるでしょ? いない?」

 急に振られて言葉に詰まる。

 僅かに瞠目してルアードを見やる、柔らかな緑の瞳が緩く溶けて朱色の炎に揺れていた。

 女の子、と表現される性別の方はいるがそのくくりで相手を見た事がなかったので違和感がある。元より天使は能力が全てであり、性別はあまり関係がない。思い返してみる、真白い空間。整然と己の役割を果たす高位の天使達。

「…………二人、いますね」

「二人だけ?」

「普段共にいるのは御前天使の七名だけで、女性は二人のみです」

「ふうん、なんてお名前?」

「ガブリエルとラミエルといいまして……どちらも優秀な配下です」

 どうしてそんな事を聞くのだろう。

 唐突に話題を変えられて困惑しているが、ルアードはにこにこと人好きのする笑顔でいる。

「そのお二人って可愛い?」

「…………? 可愛いというより美しい方ですよ」

「ヨシュアさんみたいな美人さんがいっぱい……? じゃなくて」

 べしっとアーネストに肩を叩かれたルアードは慌てて訂正する。

「この人好ましいなあとか思ったことは?」

 質問の意図を図りかねる。

「私は……あまり、そういった事が解らなくて」

 すみませんと小さく呟くのだが。

 ルアードはそっかあ、と何やら髪をかき上げながら困ったように唸っていた。

「駄目だこりゃ、恋愛観が死んでる」

「お前を基準にすりゃそりゃあ……」

 ぼそぼそとルアードとアーネストが言葉を交わしていた。漏れ聞こえる言葉、恋愛――特定の人に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。人を慈しむことはあっても特定の誰かに向ける感情というものは自分にはよく解らない事だった。

「友人だと言ってくれる相手はいますが、私は少し……いえ、些末な事情ではありますが。少し周囲と事情が違うものですから」

 それ以上なんと言っていいのかわからず、へらりと笑うに留まる。

 可愛いと思う相手も、好ましいと思う相手も特には思い浮かばなかった。天界で共に過ごす彼らは皆大切で愛おしい、親友だと言ってくれる相手もいる。過不足なく満たされていて恵まれているのだ、それ以上望むことなど何もなかった。

「何故このような話を?」

「うーん、個人的な興味と、まあ大きなお世話ってとこかな」

 ルアードは笑っている。

 火にかけていた鍋の中、水は既に沸騰していた。

 スープを入れていた木製のコップを回収すると鍋の中の湯を入れる。そうして一つまみ何やら乾燥した葉を入れていた。お茶の代わり、と差し出されたそれを受け取る。ふわりと柑橘系の香りがする。

「ヨシュアさんも色々事情はあるんだろうけど、ほら、でもここは異世界なんでしょ? どうせなら少し羽を伸ばしてもいいんじゃないかなって思うんだ。出来なかったこと、やりたかったこと、そういうのってない?」

「…………、」

 答えられない。

 それは、なんだか酷く欠けた存在のような気がした。

 ただひたすら己の職務を果たしてきた。大切な仲間がいて、恵まれていて、これ以上何を望むこともない。やりたかったこと、なんて。考えた事もなかった。

「ここにいる間にさ、好きなものが解るといいね」

 他意など微塵も感じさせずルアードは柔らかく口にする。ゆるやかな優しい笑みに、そうですねと。自分も微笑みを返しそう答える事しか出来ない。

 人であるのなら、左程難しいものではなかったのかもしれない。己の感情、願望、運命を受け入れてなお藻掻く人間は美しい。可能性に満ちた儚い命。困難を打破し力強く生きる者達は眩い。

 長く長い時を生きてきた自分は現状に不満などない。

 好きなもの、だなんて。

 自分にはよく解らなかった。そういった感情は人が持ち得るものだから。

「――ん、何か、変な気配しない?」

 不意に、何かを感じ取ったのだろうルアードが訝しげに呟いた。

 その言葉と共に、ちゃり、とアーネストが側に置いていた大剣を手にする。

 奥深い森。動植物の息吹。『魔』がこちらを見る視線、結界に阻まれても確かにあったそれの中に明らかな異質なものが混じる。己の脆弱な霊力では察知は出来ても探知までは出来ない、そろりと己の長剣に手を伸ばす。

「ねえ、これって、」

 気付いたのか、ルアードが引っ掛かったような物言いをする。

 強大なものではないとはいえ、意識を研ぎ澄ませればこの世界に来てから久しく感じた事のない悪魔の気配がする。ルーシェルのあふれ出んばかりの満ち満ちた霊力からすれば微々たる量のそれ、だが、今現在彼女が扱える量には限度があったはずだ。コップの中に水が満たされていても、その水を取り出す術がないのが現状である。

 こんな森の中に悪魔がやって来る理由など自分にはわからない。だが、あまり良い状況だとは言えないのではないだろうか。そんな事を考えていたら。

 ばん、と。閃光と共に何かが爆発したかのような音が森全体を響かせた。

 一斉に鳥たちが飛び立つ。音のした方を見れば山火事でも起こったかのように、闇夜を切り裂く炎の色が見えた。近くはないがそう遠くもない、漂う霊力。……朱色の光に満ちたその先は、ルーシェルが消えていった先でもある。

 弾かれたように駆け出していた。


  ※


 赤髪の女悪魔が放ったのは炎。右手に宿る朱色の光は球体となり、一瞬きゅうと二回りほど小さくなったかと思った瞬間四方へと弾けたのだった。

 出来得る限りの防壁を展開。

 矢のような炎は大部分は弾かれたが、それでも捌ききれず幾分かは肌に突き刺さった。左頬の皮膚を削ぎ、右肩に貫通したのが一つ、左腿を三ヵ所削り取っていった。ばっと視界に踊る飛び散る血飛沫、痛覚は正常である。僅かに口元を歪めるが相手から目を離さない。動けないほどじゃない。

 防壁の強度はいまいちである。

「……コーシェフ、」

 短く詠唱。

 ナハシュ・ザハヴを左手に構え、血の滴り落ちる右腕を横に振れば小さな闇色の光が悪魔に向かって飛んで行った。初級霊術、手にした増幅装置を壊さぬように加減しつつ防壁を解除し力を攻撃に全振りする。が。

 女悪魔へは届かず、全て霧散する。防壁である。強固なようには見えないのにかき消されたそれは、こちらとの霊力差を物語っていた。物量で押し切るには流石に無理があるようだ。

「貴様、どうやってここへ来た?」

「答える道理があるとでも?」

 口元は緩やかに笑みを刻んでいると言うのに、残虐に満ちた眼差。

 ぼとぼととこちらの足元を濡らす血を見ながら、にやにやと女は笑っている。寄ってこない。こちらから距離を取って宙を飛んでいる、斬り伏すには近付かねばなるまい。だが、負傷した脚でどこまで飛べるだろう。

 ぎゅ、とナハシュを握る手に力を込める。

 霊力差は歴然だと言うのに、こちらが大して術が使えないことを知っているのだろうか。女は酷く余裕そうに見えた。赤い髪を揺らし、脚を組み、炎を指先で弄びながら嘲りの眼差し。

「誰に刃を向けているのか解っているのか?」

「当然でしょう」

 何を今更。口元を醜く歪めて愉悦の笑み。

 きっとただ殺すだけなら他愛もないのだろう、だがそれでは面白くない。思う存分遊んでやろうというその表情にちっと舌打つ。嬲り殺しにでもするつもりなのだろう。

「せいぜい楽しませてくださいな」

 女の指が大きく半円を描く、その瞬間空から無数の炎の矢が降り注いだ。

 痛みを堪えながらもナハシュで斬り捨てながらかわす、しかし炎はそう簡単には消えてはくれなかった。粘性の高いそれは穿った地を、触れた生木を、舐めるように伝いあっという間に周囲を火の海と化した。

「……ッ」

 ナハシュも火に煽られて熱を持つ、燃焼は周囲の空気から急激に酸素を奪っていく。

「あらあら、窒息? 焼死? それとも失血死? どれがお好みかしら」

 喉を抑える。

 息苦しさと同時に熱風が肺腑を焼く、吸い込んでは駄目だ。コートの袖口で口元を覆うが、これでは満足に動けない。そうでもなくても負傷、流れ続ける己の血で汚れたそれは重い。

「焼死はごめんだな」

「でしたら逃げませんと」

 悪魔は笑っている。

 見下ろしてくる金色の瞳は獣のようだった。それは、いつかの夜と同じ、竜人と同じ金色に輝く瞳だ。獲物を前にした肉食獣とでもいうべきもの。遊びつくしてから殺してやろうと言う残忍さ。

 ごうごうと鳴る炎が肌をじりじりと焼く。

 ともかく延焼していく炎の壁をどうにかしなければならない。

≪踊れ幾千の水の礫、≫

「させるとお思いで!?」

 詠唱を口にした瞬間、女の手から炎が鞭のようにしなりこちらへと飛んできた。熱を帯びたナハシュで斬り捨てるが、炎は形を変えて絡め取ろうと幾本にも分かれ襲い来る。負傷した脚で何とかかわすものの長くは続きそうにもない。流石に身体の一部に燃え移るのは得策とは思えなかった。ああ、だが、段々と動悸が激しくなっていく。頭が痛みだす。

「そのお綺麗な顔も、焼けただれてしまえばさぞ愉快でしょう……」

 くすくす、くすくす。

 酷薄な女の笑い声がだんだんと遠くなってくる。

 炎の数は際限なく増えていく、熱風に肺が悲鳴を上げる。燃焼により薄くなる酸素、まるで水の中にいるかのような息苦しさ。目の前がかすむ。ついに自身よりも大きなナハシュ・ザハヴを支えきれず地に突き刺す、避け、なければ。頭ではわかっているのにそのままずるずると座り込んでしまう。失血と酸素濃度低下で意識が朦朧とする。こんなあっけなく終わるのか。伸びてくる燃える鞭にしかしなすすべなく身構えていたら。

「ぎゃあっ」

 女の悲鳴と共にばっと赤が視界を覆った。

 女悪魔から赤い血が噴き出している、弾け飛んだ何か細長いものがぼとりと地に落ちる。それが、悪魔の右腕だと解るのに僅かかかった。

 ふわりと視界に舞う金糸。

「てんし、……」

 そこには、女悪魔に剣を向けている天使姿があった。

 一瞬何が起こったのか解らなかったが、男の持っている刃が血に汚れている。放たれる覇気に気圧される、闘技場で見た時とは明らかに違うそれに、刃を交えた時の事を思い出す。背を向けている天使の表情は見えないが、きっと。あの時のように氷のように冷たい眼差ししているのだろう。

「貴女は目を離すと直ぐにこれだ」

 呆れたような声色に、は、と。息が漏れる。急激に鎮火されていく炎、少しずつ呼吸が楽になっていく。けほ、と小さく喉を鳴らして。

「なんだ……とどめを刺しに来たか」

「軽口がたたけるなら平気ですね」

 天使は緩く笑ったかのようだった。

 鎮火されつつあるとはいえまだ炎の壁が残っている、天使の綺麗な金の髪が朱色に染まる。

「炎はルアードさんが何とか消してくださっています。貴女は下がっていてください」

 すらりと剣を構える男。

 油断も軽視もなく、ただ目の前の敵を倒す事だけに意識を向けている。がら空きの背中、こちらが攻撃すると微塵も思っていないのが丸わかりだった。もし自分が動けるのであれば斬り捨てる事など容易いだろうそれ。

「天使……天使! やはり主様の言った通りだわ! 魔王ともあろう方が天使と共に行動しているね、裏切り者!」

 血の流れ続ける腕を押さえて女悪魔は叫んだ。

 ぎゅる、と生々しく肉が盛り上がり再生される腕。けれど急いだからか、それとも能力不足だからだろうか酷く歪なそれ。

「天使が何故悪魔を助ける……ッ」

「獲物を横取りされたくないだけですよ」

 いきり立って喚き散らす女悪魔に、天使は殊更丁寧に言葉を紡ぐ。

 ふわりと実に軽やかな身のこなしで天使が地を蹴る、羽を広げて間合いを取ろうとする悪魔をしかし男は逃さない。燃え盛る木の幹を蹴り、

「ぎゃ、」

 再び女悪魔の右腕を斬り飛ばした。

 霊力など使っていない純粋な剣技。いや、宙を駆けるに少しは力を使ったのかもしれなかったが微々たるものだ。刃に乗っていたものはない。腕力、素早さ、どう考えてもやはり規格外の男。ぼとりと落ちた腕はどちらもざらざらと砂のように崩れていく。

「何故ルーシェルを狙うのです」

「それは、……ッ魔王様が! 一番よく解っているでしょうよ!」

 天使には歯が立たぬと判断したのだろう、それとも一矢報いろうとしたのか動けないこちらへと女悪魔は飛んでくる。再生の追い付かない右腕とは反対の左手が伸びて来る、爪が凶悪に伸びる。いつまでも座り込んでいるのも腹が立つ、天使に助けられるなどと。ナハシュを握る手に力を込めるが。

「…………ッ」

 こちらにその手が届く前に、翼を斬り落とされていた。

 痛みで耳障りな悲鳴を上げる女悪魔を、男が静かに見下ろしている。噴き出す血、ゆっくりと流れていくようで。その先にある絶対零度の冷酷な瞳。普段の呆けた表情からはとてもじゃないが想像できない無慈悲なそれ。

「……もう片方の腕も切り落とせば大人しくなりますか?」

 色のない眼差し、無表情に女悪魔を見下ろしている。

 暖かさなど欠片もない声に女悪魔はひいと小さく悲鳴を上げた。天使の表情から、態度から、放たれる殺気から普段からのあの慈悲深さなど消え去っている。

「貴女には聞きたいことが沢山あります。どうしてこの世界に来ることが出来たのか、何故霊力が使えるのか。ルーシェルを狙ったのは何故か。誰の命でこのような事をしたのか」

 淡々と告げる天使の声、まるで氷のような冷たさを与えるものだった。ざり、ざり、と地を踏む音。ゆっくりと近付いてくるそれは余計に恐怖心を煽るのだろう。ひとつ足音が近づくにつれ、女悪魔の顔から血の気が引いていった。ガタガタと震えてさえいる、恐怖に歪むそれ。

「いやっ……言う! 言うから! お願い殺さ」

 ばつん。

 強いて言うのであれば、まさにそんな音を立てて。命乞いを始めた女悪魔は突然弾け飛んだ。

 びちゃびちゃと降り注ぐ血の雨、肉の破片、生ぬるく。赤。視界が真っ赤に染まる。温かな肉片は急速に熱を失いただの物体と成り果てる。

 まるで握り潰されたかのように粉々に砕け散った女悪魔を、自分は茫然と見ていた。

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