22 碧落の森の中で - 1 -

 ただひとつの光すら届かぬ闇の中、一人立ち尽くしていた。

 ああ、またこの夢か。

 ルーシェルは無感動に思う。

 足元には果てしなく続くどす黒い湖が広がっていた。

 膝下まで浸かりながら、只中に一人佇んでいる。湖の中に沈んでいるのは真白い破片、それを覆いつくすかのように力任せに折られた骨とひしゃげた肉。ありとあらゆる方法で殺された物言わぬ亡骸がそこにはあった。ぽっかりと虚空。呼吸すら満足に出来ぬほどの濃い闇はのったりと重く。

 ひたりと冷たいものが腕に絡む。見ずとも解る、湖の中から延ばされる無数の手、徐々に増えていくそれが幾重にも重なる。腕に、指に、脚に、髪に。絡みついて離れない。解っているから。小さく口にするも沢山の手が自分を湖の中に沈めようと力任せに引っ張る。抵抗もせずそのまま引き倒される、ばしゃん、飛び散る水滴。殺された者達の流した血潮。なお一層ぎりぎりと肌に食い込む指、爪。

 許サナイ。

 ――解っている。

 許サナイ。

 ――解ってるよ。

 引きずり込まれた冷たい血の海、ごぽりと肺から押し出される空気。憎悪のまま掴まれ肌に突き立てられる死者の指。果てのない水底へと深く深く沈んでいく、怨嗟の声は纏わりつくように延々と続いている。低く小さく、高く大きく。何重にも重ねられて飽和する。指が、声が、身体を塗り潰していく。

 ――解っている、から。

 最早音にもならぬ声で夥しい死者たちに告げるも、力任せにこちらを掴む腕は増えるばかりだった。こちらの言葉はもう届かないのか、届いていて尚許せぬのかは定かではなかった。許して欲しいとは思わない、許される筈がない事を知っている。だから今は、まだ。

 ごぽりと肺腑から押し出された空気が歪んだ形で水面へと昇っていく。絡みつく指、肉に突き立てられる爪、凍えるように冷たい水中の中でそうと瞳を閉じる。何もかもが億劫だ。ぎちぎちと肉を削ぐかのような痛みにけれど抵抗する気にもなれず、されるがままでいたら。ふ、と。汚泥のようなそこに一筋の光が差し込んできてちかりと瞼を刺した。

 なんだろうとそうと目を開くと、決して強烈ではない暖かな光が真っすぐと果てしない底へと伸びていた。死者たちは酷く嫌がっている。綺麗な光。ゆらゆらと揺れる赤黒い水面、あれほどあった無数の死者たちの指が離れてゆく。重く垂れ込めた空を割る一条の光の先、青く澄んだ空が見える。されるがままだった腕を伸ばす、空の青はずっと、ずっと渇望していたものだった。届かないと知りながらもそれでも腕を伸ばさずにはいられなかった。泣きたくなるほどやさしい色、暖かな場所。空の上には楽園があると信じて疑わなかった。真白い光、柔らかな色彩、全てが満ち足りた暖かな世界。喉から手が出るほど欲しても決して手にすることは出来ないもの。

 ――緩やかに浮上する意識に、夢の終わりを悟る。

 凍えるような寒さを感じていた筈なのに酷く暖かい。……毎夜のように訪れる夢、骸と死者しかいない空間に異変が起きたのは初めての事だった。いつもいつでも憎悪に押し潰されて目覚めるというのに。

 きっと、天使が余計な事をしたからだ。

 身体全体が重い。瞼を持ち上げるのも億劫でだらりとしたまま、負傷箇所をほとんど無理やり治療されたことを思い出す。ゆるゆるとした思考、閉じたままでもわかる明るさに日が昇った事を知る。

 自身を襲った悪魔、大した力を持たぬ低級悪魔だったが無防備な此方からすれば十分な脅威だったのだろう。肌を削っていった炎、特に貫通していった右肩の出血はまあまあ酷いものではあった。だがあの馬鹿にどうこう言われる筋合いはなかった筈だ。勝手な事をするなと言えば、何が勝手だと随分な怒気をもって反論されたのだ。恐ろしく静かな声色なのに、それが怒りを押し殺しているのだと手に取るようにわかった。何をそんなに怒っているのかはさっぱりだったが。

 やはり天使の考えることはわからん。

 ほうとひとつ、吐息が漏れる。身体は重いが痛みはなかった。何かしらの術がかけられているのが解る、恐らく天使が傷口の治療と同時に痛覚遮断の術でも使ったか。人の身であれば致命傷になりかねない傷を負ったという自覚はあった、血を流し過ぎた事も。出血による寒気が酷かったが、今はじわりと温かい。ぱちぱちと小さく炎の爆ぜる音がする、そういえばルアードが暖炉に火をくべていたな……

 ぱさりと頬に何かが触れた。

 なんだろう、そこでようやくのろのろと閉じていた眼を開いた。ぼんやりとした視界に飛び込んできたのはしかし、はっきりとわかるさらりとした一房の金糸だった。するりと頬を撫でるようにして降りてきたそれは絹糸のような長い金の髪――いや、そんなまさか。さあ、と。血の気が引いた。

 己の態勢が妙な事、何かに触れられている事、それが、暖かだが妙に硬いものである事にここに来てようやく気付いた。恐る恐る瞼を持ち上げてそうと顔を上げれば、果たして夢の中と同じ優しい空色とぶつかる。

「よかった……目が覚めましたか?」

 ふわりとやわく溶け出す空色の瞳、柔らかな声色。酷く近い所に男の顔がある。

 何がどうした事か天使の膝の上に横抱きに抱きかかえられているのである。大嫌いな天使に。言うに事欠いて男に。ていうか近い。近いと言ったら近い。

「ぅ、わああああッ!?」

 悲鳴を上げながら思いっきり突き飛ばす、のだがしかし男はびくともしなかった。どういった体格をしているのかけろりと涼しい顔をして、大丈夫ですかなどと何やらほざいているかまそれがこちらの混乱をさらに増長させる。傷を治されたのは覚えている、失血のせいだろう。気をやったのだろうこともわかる。だがどうして、天使が自分を抱きかかえたままでいるのかまでは理解できない。

「き、貴様一体何……ッ!」

 訳が分からずぐいぐい男の胸のあたりを押しのけるのだがちっとも距離が離れない。そうこうしているうちに男が肩から掛けていた毛布がずるりと落ちる、そこに衣服はない。いや下は履いているが、半裸である。訳がわからない。なんで。どうして。疑問符がまだよく回らない脳内を埋め尽くす。

「なんで上半身裸なんだ!」

「なんでって、雨に酷く濡れていたので……」

 男はきょとりと目をしばたかせている、こちらの問いの意図を図りかねている表情だ。

 雨で濡れていたから、それは解る。この男が霊術で広範囲に雨を降らせたからだ。だが男の言葉は衣服の事なのかこちらの事なのかはっきりしない、非常に不本意なことだが着ていたコートのおかげでそこまで濡れていなかったはずだ。いや男どもは濡れていたのか。脱ぐからとかなんとかは確かに言っていたような気がするが、それが一体どうしてこういう状態に陥っているんだ。

「なになにどうしたの!?」

 こちらの絶叫に驚いたのだろう、玄関から飛び込んできたのはルアードだった。外で作業でもしていたらしい。こちらは天使とは違い衣服を着ていたのだが、一体何をしていたのか片手に血まみれのナイフを握っている。ひ、と。喉の奥から妙な呼気が漏れ出たような気がした。なにも刃物や血に対する恐怖ではない、次から次へと訪れる何もかもが理解の範疇を超えていて事態が呑み込めない。

「あ、よかった。ルーシェルさん気が付いたんだねぇ」

 いつもの調子でニコニコ笑うルアードであるがいかんせんナイフも手も血まみれである。生臭さにようやく気付いたのか、おっと失礼、と言って片手に持っていたナイフを刃を隠すようにもう片手で覆った。鮮やかな血の色、夢の中と重なって脳を揺さぶられた。思わず額に手をやる。

「おい、これ、これどういう、」

 どういうわけだか未だに天使に肩を抱き込まれたまま逃れられない状況の説明を求めるのだが、ルアードは非常に複雑そうな表情で苦笑いをしていた。

「まあほら、あれだよ。心配ってやつだ」

「心配……?」

「なんでそんな怪訝そうなんですか」

 こちらの言葉に、実に不服そうな声を上げ覗き込んでくる青い瞳を慌てて押しのけた。が、首の後ろに回された腕が距離を取る事を許さない。男の右手が傷を癒された右肩にゆるく触れている、痛みはない、が。これ以上ないと言わんばかりに酷く密着しているのである。じわりと伝わる男の体温、さらさらと流れ落ちてくる綺麗な金の髪、女と見紛う顔立ちをしているのに触れる肌が筋肉質なことを否が応でも伝えて来ていた。いや、あの剣技や体幹のことを考えれば当然なのだが。見た目が細身の優男だからかこう、妙に。か、と頬に熱が集まる。

「いつまでこうしているつもりだッ」

 無理矢理押しのけ立ち上がろうとして、くらりと眩暈がした。頬が急激に冷える、視界が薄暗くなってそのままへたり込んでしまった。明らかな貧血、傷口は塞がっているが失血した分までは取り戻せていないようだった。男から離れた事で冷えた空気が肌を直に撫でていく、ぞわりと悪寒。

「だって貴女、こうでもしておかないとまた逃げるでしょう」

 立ち上がる事も出来ないでいるこちらに呆れた様な天使の声が上から聞こえる。僅かな衣擦れの音がしてふ、と影が差す。くらくらする不鮮明な視界の中、ぱさりと何かを肩にかけられた。少しごわついた布――天使が羽織っていた毛布のようだ。まだほんのりと温かい。

「逃げるだと、」

「私が目を離した隙に二度も襲われているのです、言ったでしょう。勝手に死なれては困りますと」

 そうしてこちらの目の前にしゃがみこんだらしい男が、ゆっくりとこちらの頬を撫でていった。触れるか触れないかの距離で、傷を負った左頬を確かめるように。

「……まだ顔が白いです、傷は治せても造血までは出来ないのですから大人しくしておいてください。細胞を活性化するにしても限度があります、特に内臓に関しては今の状況ではなかなか難しい」

 まるで幼子に言い聞かせるかのような口調である。

 貧血さえ起こしていなければ確実にその頬をぶちのめしていただろう、とっさに動けなかったのが悔やまれる。人が動けないのをいいことに好き勝手してくれた天使を目一杯睨みつけてやる。

「私に、気安く、触るな……ッ」

「イヤなら下手に怪我をしないことですね」

 柔らかな笑顔をしていると見せかけて、どういうわけだか声色にどすが効いている。釘を刺されているのだ、勝手に死ぬなど許さないと言っていたが負傷する事を快く思っていない。さすが魔界の事情など知った事ではないと言っていたくせに低級悪魔に容赦しなかっただけの事はある、自分が殺すまで生きていろと言っているのだ。

「簡単に言ってくれる……」

 揺れる視界の中、目一杯の拒絶をもって吐き捨てるのだが。

「生きる事は命あるものの責務でしょう」

 生命を祝福する天使は冷ややかに告げるばかりだった。生きていることがいい事だ、そんな事を頭から信じ切っている奴の言葉はどこまでもからっぽで中身がない。自刃を悪とする思想を持つ輩の考えそうな事だ、お行儀のいい奴らに我らの事など解るまい。

 肩にかけられた毛布の先を力任せに握りしめる、決して肌触りがいいとは言えない毛布ではあったがそれでも一つ羽織るだけで十分温かかった。温もりは生あるものの特権だ、その特権を、強者は容易く奪い取ることが出来るのだ。……生きろ、だなんて。

「ま、ま、何はともあれ体力回復には食事だよ」

 睨み合うこちらを見てか、慌てたようにルアードが割って入ってきた。

「まだルーシェルさんふらふらしているし、アーネストがさっき兎獲ってきてくれたんだ。血が足りないでしょ、肉食べよう肉」

 魔法や薬草なんかもあるけどまずはともかく食事!

 そう高らかにエルフだと言う青年は宣言したのだった。

 

   ※


 室内には何とも言えない香りが充満していた。形容し難いが、嫌なものではない。多分お腹のすく匂いなんだろうなと思う。

「いやあ、乾燥具持ってなくてねぇ。男の二人旅だから、濡れたら適当に乾くまでパンイチとかだったんだわ」

 室内にある簡易キッチンでなにやら作業しながら、魔石を加工した乾燥具という道具がある事をルアードは説明する。昨夜つけた暖炉にまだ火は灯っており、そこに小さな鍋がかけられていた。お湯でも作っているのかふわふわと湯気が昇っている。

「大体どのご家庭にもあるんだけどね、ほら、雨とか降ると洗濯物乾かないでしょう」

 携帯用のはそこそこお値段するんだ。

 何が楽しいのかにこにこしながら天使と機嫌よくおしゃべりをしつつ、ルアードはキッチンで忙しなく動いている。

 外はすっかり雨がやんでいるらしく、窓からは綺麗な青空がのぞいていた。カーテンはどういうわけだかついておらず、遮るもののない陽の光が差し込んで柔らかく室内を照らしている。

 先程ルアードが血塗れだったのは、アーネストが狩ってきた野兎を外で解体していたからだったらしい。一通りの処理が済んだのだろう、普段使っている携帯用の小鍋ではなく、据え置かれていたらしい大きめの鍋に解体した兎肉と携帯用の野菜類を放り込んで一緒に煮ている。上機嫌で作業をしている男を部屋の隅に寝転がりながらぼんやりと見ていた。十枚ほどあった毛布をルアードが布団のように敷いてくれたのだ、拒否するだけの気力もなく大人しくそこに収まった。一枚は床に、もう一枚を枕にし、二枚を掛布団にして包まっている。寒さは和らいだがやはり起き上がるのはまだつらい。

 半裸の天使はようやく衣類が乾いたのだろう、もそもそとシャツを着直している。普段晒されることのない白い肌は思った以上に筋肉質で、結構着痩せするんだなとどうでもいいことをぼんやりと考える。ほつれる長い金髪をさらりと背に流す様子が夢の中に現れた一条の光のようで、綺麗だな、と。素直に思う。気の遠くなるような長い期間恋焦がれた青空のような男。透き通る青い瞳、柔らかな金の髪。こちらの視線に気づいたのだろう、おや、と。男がこちらを見た。昨夜の迫力はどこへやら、相変わらずこれが敵対者に向けるものかと気の抜けるようなふわふわとした眼差し。

「どうしました、まだどこか痛むのですか?」

 横になっているこちらに、何の躊躇いもなく膝を折る男。もう少し術をかけましょうかと続く言葉にいらん、とだけ返した。非常に悔しい事に痛みはなくなっていた。傷口を塞いだことによって怪我の治りは格段に良くなっているようだった。

 ……そういえばルアード達と初めて会った時も躊躇なく同じようにしていたなと思い出す。膝をついて両手を組んで、敵意のない事を示す為だとその時は言っていたが、今、この時分、膝を汚す必要があるとも思えない。

「貴様は本当に、高位の天使である自覚がないんだな」

「地位など。ただの肩書に価値などありませんよ」

 呆れたように言ってやるのだが、天使は然したる興味もなさそうにしている。

 ただの肩書ねぇ。

 欲がないとでもいうのか、相変わらず己の信条と神の教えとやらに則って男は行動しているのだろう。余裕を持つ者特有のそのすんとした表情が相変わらず鼻につく。最高位の天使であるというのに、価値がないとは随分な物言いである。流石何もかもを手にした楽園の住人は言う事が違う。

「……寒くはありませんか」

 こちらを気遣うような声が酷く優しく聞こえるのも、絶対的優位に立つ者の単なる施しに過ぎない。善を行う者としては当然のやり口に過ぎない。意図も他意もないのだ、ただ、傷を負ったものに対する善意である。悪魔であろうとも分け隔てなく平等に扱うのが天使の常識だとは思わないし、この男が輪を掛けておかしなのだろうとは思うが。それでも、その、なんでもない労りの言葉が。息も出来ないほど、肺腑を衝いたのだ。

 くらくら揺れる視界、思考、失血した身体は重く酷く寒い。

 それでも気をやる事も出来ないほどの激痛はない。寒さは暖炉の優しい炎と毛布とで間に合っている。けれど思考は鈍麻している、きっとそれは正しい。

 夢のせいだ。

 血を流し過ぎたせいだ。

 だから。正常な判断が出来ないでいるのだ。

「もう少し毛布を、」

「いらん」

 乱れた毛布を丁寧に直し、追加分を持ってこようとする男を短く制止する。

「毛布はいい、から。日除けとして、そこにいろ……」

 窓から降り注ぐ陽光を遮るように座れと言えば、天使は黙ってこちらの言った通り直接陽の光が当たらないように座り直した。濃い影が出来る、随分と素直だ。ああ、こういう時図体がでかいと役に立つんだな。

「木偶の棒も役に立つんだな」

「……お役に立てたなら光栄ですよ」

 男は茶化さない。

 そうですかと言わんばかりにただ静かにそこにいる。触れるでもなく、そこに座っている。この距離が多分、丁度いいのだろうと思う。ナハシュ・ザハヴ、小さく呼べば寄り添うように現れる漆黒の大鎌。我が半身。何もかも気を許す事は出来ずぎゅうとその細い柄を握った。とろとろと訪れる暗闇はけれど夢の中のように凍えはしなかった。


 



 

「ルーシェルさん、寝た?」

 おたまを片手にルアードが覗き込んできて、ええ、と。ヨシュアは首を縦に振る。日よけになれとこちらに指示を出したきり眠りの底へ旅立ったらしい悪魔は、相変わらず頬を青白くしたままぐったりと簡易布団の中で横たわっている。抱き込まれきらりと光る彼女の大鎌が、まるで姫君を護る騎士のようにこちらを見ている。

「やはり随分と消耗しているようですね」

 あの気位の高い魔王がこちらに頼るようなことを口にするとは思わなかった。寄るな触るな、余計なことをするなと散々こちらを拒否しておきながら可愛らしい悪態をついて甘えたように。それほど辛いのだろう。毛嫌いする天使に頼らざるを得ないほどに。

 横向きになって大きな鎌をその腕に抱いて、丸まるようにして眠るその姿は小柄な事もあって小さな猫のようにも見えた。あまりに細い手足、波打つ黒髪は今なおつややかで、発光しているかのように淡く光を反射していた。さながら毛並みのいい小さな黒猫。

「はー、やっぱり綺麗だなぁ。昨夜もさ、お二人の姿見ながらこれ彫像にしたら最高なのにとか考えてたんだよねぇ」

 自分の傍にしゃがみこんで、ルアードはしみじみと言いながらルーシェルの寝顔を覗き込んでいた。半分以上毛布に顔をうずめているので口元は見えなかったが、僅か眉間に皴が寄っている目元はやはり涼やかだ。だが、眠っている時にあまりじろじろと見られるのは嫌がりそうでもある。

「あまり寝顔を見るというのは、」

「ヨシュアさんがそれ言っちゃう?」

 軽口のようにへらりと返された言葉に、思わず目を見開いた。そう、そうだ。自分がどうこう言えたものではない。眠っている彼女をずっと見ていたわけではなかったが一晩中抱き込んでいたのだ、ルアードの言葉は尤もだった。自分が彼を非難する権利はない。

「それは、……そうなんですが」

「俺は駄目なんだ?」

 追撃されて言葉に詰まる。

 いたずらっぽく笑っている彼の表情は、解っている答えを敢えてこちらに問うてきているようでもあった。だが自分にはその想定されている答えが解らない。眠る彼女を、魔王を、見ているのは良くないと思う。誰であってもだと、思う。

「いえ、……」

 見世物になるような事を嫌がりそうだなと思っただけで、それは自分の独りよがりなものだったのかもしれない。いや、でも意識がない時に、いや意識があったとしても嫌がりそうだな、とか。思ったのだ。そっとしておいてあげた方がよく眠れるのではと、その方が回復は早いのではと。けれどそれは、あくまでも自分の判断であって。

「私がどうこう言えません、ね……」

 導き出された答えは『関係ない』である。

 自分とルーシェルは同じ世界から来たと言うだけで敵対する者同士だ。代弁者でも何でもない、気遣う必要もない。死なれては困る、それは、自分が彼女を討つものだからである。だから怪我を治療した。抱き込んでいたのだって寒かろうと思ったのと、逃げられては困るからだ。弱っているものに鞭打つようなことは出来なかった、だから毛布をと、――彼女の願いを、かなえてやる必要はないのでは?

「他人で遊ぶな」

 第三者の声がして、よく解らなくなった思考がそこで一旦打ち切られる。いつの間に床の上を見ていたのだろう、はっと顔を上げると帰って来たらしいアーネストがそこにはいた。ぼす、と一抱えほどもある布袋をルアードの頭にのせている。

「いやー、ちょっとなかなか面白くって」

 面白い?

 けらけら笑うルアードの言葉に更なる疑問符が浮かぶ。

「酒が飲みたくなりますなぁ!」

「いつか刺されるぞ」

 終始にこにこしているルアードに対して呆れたような物言いのアーネストだったが、彼らが何の会話をしているのかさっぱりだった。面白がられているようだったが、どこら辺が彼らの興味を引いたのだろうか。

「言われた通り、香草と野草採ってきてやったぞ」

「わ、沢山ありがと」

「さっさと飯」

「それがまだ掛かるんだよねぇ」

 くるくるとおたまを手遊びで回しながら、もうちょっと煮込みたいのだとルアードは言う。

「どうせなら美味しく食べて欲しいじゃん? そうだな、お肉まだあるしせっかくだから暖炉でじっくりローストしてやろ」

 眠っているルーシェルに一つ微笑みかけて、ルアードはすっくと立ちあがった。アーネストが採ってきたという袋の中身を確認しながら、実に楽し気に足取りも軽くキッチンへと向かう。

「なんかつまめる物はないのか」

「そうねぇ」

 小腹が空いたのだろう、ぼやくアーネストに荷物袋をごそごそしながら。

「ヨシュアさんもお茶にしない?」

 ルアードに問われるが。

「すみません、ここにいるよう約束しましたので」

 申し出を断った。

 いくら悪魔と言えど交わした約束を違えるわけにはいかないのだと告げれば、ルアードはそっかあ! とにんまりと笑う。なにやら多大に含みがあるような笑みだったが、他者の感情の機微など図れぬ己に、彼の真意などまだわかろう筈もなかった。

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