23 碧落の森の中で - 2 -

 ふ、と目を開けるとぼんやりとした視界の先に誰かが座っていた。逆光でよく見えなかったが、長い髪を緩く結んで何かを読んでいる横顔が見える。片膝を立てていて、視線を落とした黒い影。

「――――、?」

 懐かしい名を口にしようとして、けれど躊躇ったそれは結局乾いた舌先からはこぼれ落ちなかった。はく、と唇が言葉を形作って緩やかに消える。零れ落ちた吐息、音にもならないそれに気付いたのか、横顔がこちらを見る。括られていると思った長い髪はまとめて肩に流されているだけだった、さらりと男の動作と共に揺れる。そうして、泣きたくなるほど優しい青い空色の瞳。

「お目覚めですか?」

 柔らかなその声にけれど胸の内はひやりとした。

 名を呼びかけた相手ではなかった、その当然の事実が思ったよりも重くのしかかる。

「貴様……ずっとそこにいたのか?」

 内心を気取られぬよう慌てて言葉を紡ぐが男は笑ったままだ。肯定の意である。確かに日除けになっていろとは言ったが、まさかずっとそこにいるとは思わなかった。馬鹿正直な天使。

「……どれくらい寝ていた」

「そうですね、一時間くらいでしょうか」

 差し込む陽の光の位置が変わっている、天使はなんでもないかのようにぱたんと手にしていた本を閉じた。男の傍には似たような本がもう三冊、傍に積まれている。

 のそりと身体を起こす、相変わらず気だるさは残るものの動けない程じゃない。体力は急速に回復しつつあった。ずっと側にいたナハシュ・ザハヴがりん、と小さく鳴いた。緩くその柄を撫でてからしゅう、と自身の中に戻す。闇色の帯、こちらを見る天使の傍に近寄るのは嫌なので簡易布団の上に座り直した。ほつれた髪を乱雑にかきあげれば泥と血が所々にこびりついていて酷くひきつれる。不快感にほんの少し、眉根を寄せて。

「何を読んでいる」

「リリーさんに頂いたのです、こちらの世界の絵本だそうです」

 そう言って男がひら、とこちらに見せていたのは随分と可愛らしい絵の描かれた薄い本だった。いや、本の形状をしているからそうだとわかるだけで、絵の側に並んでいるものの意味は解読出来なかった。

「……読めるのか?」

 見たこともない、文字らしきものがそこには連なっていた。

 男が手にしているのは赤い髪と目をした少年、だろうか。小さな子供の絵が炎と共に描かれている。

「いつまでも魔法道具に頼るわけにもいきませんので……ルアードさんにも教わって、多少なら読めるようになってきたんですよ」

 そう口にする男の膝の上にはなにやら文字が書き込まれた紙の束があった。やや丸っこい全く見覚えのない文字が整然と並んでいて、そこに注釈のように連なる文字は見覚えはあるものの酷く乱筆だった。

「随分な悪筆だな」

 やや大きめに書かれた見慣れた文字は走り書いたのかやたらと疾走感があった。癖字というものとは違う、何というか、とても大雑把な印象を与えるそれ。

「…………私の走り書きですので。お見せするようなものではありません」

 さらりと何でもないかのように口にするくせに、それでも見られるのは嫌らしく。そっと紙片を裏返してしまった。どうやらルアードが書いたこちらの文字に、天使が読み方などを書き加えたものなんだろう。

 何でもそつなくこなすと思いきや文字は汚いのか。

 その事実が何だか愉快だった。ふうん、にやついたこちらを酷く居心地悪そうに見ている男の顔が心底小気味良い。

「いわゆるデジタルアーカイブはありますが、やはり紙での保存が一番ですよ。ただまあ、一部焼失してしまっていますが」

 昔、悪魔の襲撃がありましてね。

 聞いてもいないことを突然喋りだしたかと思ったら、急に矛先を変えてきた。

「あなたのお父上はなかなか好戦的な方でした。我々天使と悪魔とがまだ激しく衝突を繰り返していた頃、私も前線で戦っていた時期があります。書類の焼失はその頃ですね」

 ……自分の父が天使相手に暴れまわっていたなど、どれ程昔の事を言っているのだこの男は。正確な年齢を聞いた事などはなかったが、自分の父の時代の事を知っているのなら相当な年数を生きてきているのではないだろうか。

「貴様、いつの話をしている」

 自分がまだ生まれてもなかった頃の話である。

「もう随分と昔の事ですよ」

 頬を引きつらせているこちらにしかし、懐かしいとでも言わんばかりにくすくすと男は笑っている。

 自分の知らない時代の事を咎められても困るのだが。父の統治の時期は長かったと聞いている、天使を相手取り相当暴れたという事も。全ては伝聞だ、いくら血のつながった親子であろうと親密かと言えばそういうわけではない。というか、話を逸らすにしてももっと他の方法があっただろうに。余程悪筆について触れられたくないらしい、字が綺麗ではないといった自覚はあるんだろう。

「情報の保全のみを考えればデジタル化は理にかなっているのでしょう、ただ、やはり私は紙の方が扱いやすくて好きですね」

 どうでもいい事を駄目押しのようにつらつらと語る。

 なかった事にしたいらしい。

「いただいた本はこちらの青の大陸の女王様について書かれたものと、人間の王子と竜人のお姫様の恋物語と、これは……英雄譚ですかね。昔話の形をしていました。そして今こちらを読んでいて」

 男の長く大きな手が、本を緩やかに撫でる。

 剣を握り闘う天使が細いペンを持つさまは想像できないのに、紙面の上を踊る指先の軽やかさは何故だか容易に目に浮かぶ。しかし実際に書かれた文字の様相に何度考えても面白さが勝った。走り書きであるなら丁寧である必要はないだろう、それは解るが普段模範的な所作をする男の意外性がもう可笑しくて仕方がない。

「赤い髪と目をした男の子が、色を馬鹿にされた腹いせに村へと火を放ったお話です。その後少年は捕らえられ懲らしめられる――理由が何であれ、悪い事をしたら罰せられると言った内容ですね。……何を笑っているのです」

「いいや?」

 何事もなかったのかのように平然と、けれどいつも以上に説明口調の男。ああ、随分と楽しい事が知れたものだ。にやにやと笑みを刻むこちらを、苦虫を噛み潰したような表情で見てくる男が愉快でたまらない。散々こちらばかり酷い目にあってきたのだ、これくらいの意趣返しは許されるだろうよ。

「聞いてました?」

 それなりに羞恥でもあるのか男の声色はわずかではあるが硬い。ほんの少しだけ狼狽える眼差し、それでいてむっとしたような表情でいる。くっくと喉を震わせてやれば酷く重い溜息が漏れ出ていた。観念したかのようなそれに、胸のすくような気がした。ああ、愉快だ。

 するりと立ち上がる、立ち眩みはない。

 憮然とした面持ちでいる天使を心地よく見下ろして、その手にあった赤い少年の絵本をぱっと取った。そのままぱらぱらとめくる、リリーが好きそうな、とても美しい絵で描かれたそれは内容の凄惨さすら宗教画のように美しく彩られていた。辟易しつつ例の宿屋にいた娘を思い出す、ふわふわと穏やかでいられるのは僥倖だとも思う。外の世界を知らぬ娘。護ってくれる殻のない世界の残酷さを知らないのは幸運でしかない。

「ようは寓話的なものだ、教訓や風刺が織り込まれている」

 文字は一つも読めなかったが、絵だけでも何となく内容が解るのが絵本の良い所である。

 絵本とは元来子供向けに描かれたもの。往々にして行動の帰結、結果と改善、情操教育の一環でもあり二の轍を踏まぬよう警告の意味も多分に含まれる。

 この世界に深く根差した竜人、歴史書と取るか単なる願望として書かれたものかは定かではない。全くの無から始まる物語がないとは言い切れないが、実在の竜人を題材にしている以上何かしらの事実は含まれているのかもしれなかった。

「……村を燃やした赤い竜人がいたんだろうな」

 人間側が報復出来たのかどうかはこの際さしたる問題ではない。赤い竜人に燃やされた村があった。いや、竜人なら燃やすだろうと言う前提で書かれた空想の話の可能性もある。どちらにしろ憎悪を煽るものだ、まるで人間と竜人との分断を先導しているかのように。

「目印のように人とは違う色彩を持つようですね。解りやすく異端とわかるようになっている」

 天使が静かに口にする。

 ちらと見たもう三冊の絵本。青の大陸の女王は美しい青い髪と瞳、竜人のお姫様とやらは綺麗な銀の髪と瞳で描かれている。それが、男の言う通り目印としてあえて誇張された表現なのかはわからないが。自分を襲った竜人の瞳は明らかに人とは違う輝く金色をしていたので、あながち的外れな表現ではないのかもしれなかった。

 集団において異端は排除される。

 数の少ない群衆は正統派を自称する多数の集団に排斥されるのが常だが、この世界ではその『数の少ない集団』が圧倒的な強者となっている。異教徒の弾圧など散々見てきただろう天使は何を思うのだろう。人々の憎悪、恐怖、我らの肌に馴染む感情をこの男は一体どう受け取るのか。

「……相互理解など幻想だ」

 ぽつりと口にしたそれは本心であり真実だった。

 何をどうしたって解りあえない相手というものは存在する。脆弱な人間ですら永劫殺し合っている、我ら悪魔と天使など言うに及ばず。人喰いの竜人と喰われる側の人間が手を取り合う日など訪れるとも思えない。ああいや、ハーフはいるのか。個々人間の趣味嗜好など言及する気にもなれないが、それが集団全体に及ぶとは到底思えなかった。種が違えば集団としての対立がまず表に出てくる、それは、なにも竜人に限った事ではない。

「私は、そうは思いません」

 しかしおめでたい頭の天使は真っ向から否定してくる。

「……同族に殺されそうになった私に向かってよくそんな事が言えるな」

 貴様の手でいとも容易く殺した名も知らぬ低級悪魔。

 その低級悪魔によって負傷した私を知らぬわけではあるまいに何を戯言いうのか。いかに同種であろうとも対立は生まれる、程度の差はあれ憎み恨み啀み合う。

「理解出来ずとも、理解する努力を止めたくはないのです」

 強くはっきりと告げるが所詮は綺麗ごとである。

 理解する努力だなんて、理解したところで一体どうするのだ。定められた運命が努力一つで変わるとも思えない。そも、他者に対しておこがましいと思わないのか。

「理解出来る筈だと信じて疑わないそれこそが傲慢だと言うのだ」

「ですが、」

「ま、ま、そのへんにしとこ?」

 仲裁に入る声、視線をやればぱちりと緑の瞳と目が合った。いつからこちらのやり取りを見ていたのだろう、備え付けのテーブルに肘をついて、じい、とこちらを見ているのはルアードだ。

「おはよぉルーシェルさん、体調はどう?」

 不必要な程いい笑顔のルアードに何やら薄ら寒いものを覚える。

「アーネストもお待ちかねなんだ、お二人さんご飯にしよ? ね?」

 どうしても何かを食わせたいらしいこの世界の青年が、笑顔のままこてん、と首を傾けていた。食べるよね? という確固たる強い意志を感じて顔をしかめる。食べる必要がないと、いくら言えば理解するのだこの男は。

「いらん、」

「食べないとまた倒れちゃうかもねぇ、今度は俺が抱っこしちゃおうかな」

 にこにこしながら食い気味に言われぐっと押し黙る。

 ……脅しではないか。

 体調管理は自身できちんとするに越したことはない、事実負傷と失血で意識を飛ばしているのだ。あのような失態は繰り返すべきではない、それは解るが。人と違う悪魔が人間と同じように食事をして何か意味があるとも思えなかった。

「食べた方が早く回復するそうですよ」

 音もなく立ち上がった天使がルアードに追随する。

 積まれていた三冊の絵本とこちらの持っていた赤い表紙の絵本をそうと取ると、丁寧に持ち直して部屋の隅に置かれた男の荷物袋へと戻していた。先程の走り書きメモも一緒に。

「それは人間の場合だろう、私には、」

「何故そんなに頑なに拒否するのです」

 必要ないと言いかけたこちらを、実に不思議そうに天使が問う。

「せっかく作っていただいているのです、試してみればいいではありませんか」

 好意を無下にはしない主義らしいお気楽な天使は、先程までのやり取りなどなかったかのようにルアードに賛同する。試行錯誤、高潔な天使はしかし意外と泥臭い事を厭わないらしい。いや単なる好奇心だろうか。

「おい貴様気安く触るな!」

 立ったまま動かないこちらにじれてか、天使がこちらの両肩に手を置き座るように促す。頭一つ半違う男の手は大きく力もある、嫌だと足を踏みしめるがずるずると押し出されるようにしてテーブルへと連れていかれる。

「何を今更。一晩共にした仲ではありませんか」

「言い方ァ!」

 怒鳴るが天使は別に間違ってないじゃないですかときょとんとしている。一晩中抱き込まれ毛布に包まれていたなんてことは事実からも記憶からも抹消したいと言うのに。

「触れるくらい抱き込まれるのに比べたら……ねぇ?」

 ルアードはルアードでにやにやしながらこちらのやり取りを眺めている。その何とも言えず幸福そうな表情が非常に腹立たしい。ぶん殴ってやろうかと拳を握るが、こちらの挙動に気付いた天使が暴力はいけませんよと牽制してくる。まず貴様を殺してやろうか。

「まだか」

 すでに席についているアーネストの実に面倒くさそうな声。この食欲大魔神は旅の最中は最低限の量しか摂らないようだったが、今回のようにある程度余裕がある場合は目一杯食に勤しむらしい。早くしろと言わんばかりのその態度に心底腹が立つ。

 どいつもこいつも……ッ

 ぎりぎりと唇を嚙み締める、現状の打破は絶望的らしい。

 そうして、へらへらと笑っている天敵たる天使に強引に席につかされたのだった。

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