32 共生アタラクシア
イーサンの手伝いをしてくるからと言ってオリビアは部屋から出て行った。くれぐれも余計な事をするなよと、ルアードに釘を刺していくことを彼女は忘れない。わかってますよと返すルアードに、これ見よがしに深い溜息を吐きながらくれぐれもな、と。オリビアは随分ととげのある声で言い残し強めに扉を閉める。姉と弟だと言う二人のやり取りは見ているだけなかなか胃に来るものがあった。
「信用ないんだからなーもう」
こまっちゃうな。
言いながら、ちっとも困っているようには見えないルアードが閉められたままのカーテンを開く。差し込む光、優しい色合いの布が動く度に隙間から零れ落ちるそれが室内を明るく照らし、彼の金色の髪が光の中で融けてきらきらと輝いていた。薄暗さに慣れた目には少し眩しい、思わず目を細める。
自分はルーシェルが光を厭うような感覚を闇に対して抱いてはいなかったが、やはり明るい世界の方が息がしやすいと思う。闇は肌に馴染まぬとは思うけれど、恐怖の対象でもなければあのように体調に不備をもたらすものではなかった。
やれやれ、とばかりにルアードがぼすんとソファに腰掛ける。ヨシュアさんも座りなよ、と彼はなんでもないかのように言うので、自分も彼に習いゆっくりと向かい合って座った。布張りの柔らかなソファが小さく軋んだ音を立てる。
ふ、と唇から吐息が零れ落ちる。
大きめの窓から降り注ぐ光、厳重な結界を敷かれた室内は張りつめていた気を緩ませるには十分だった。降り注ぐ陽光、広い室内。高い天井。封魔の術がかけられた室内は力の流れがなく、光に満ちた室内はまるで時間の流れから切り取られたかのようだった。街にいた時とも森の中にいた時とも違う、しんとした室内。手持無沙汰とでもいうのか、ただ座っているだけのゆったりとした時間。こんな時間を過ごすなど一体いつぶりだろうか。
不意に、コンコン、と控えめに扉を叩く音。
どうぞ〜とルアードが声をかければ、失礼しますと先程の六人のうちの一人がワゴンを押しながら入ってきた。木製の柔らかな色をしたワゴンの上には、白磁のティーカップが乗せられている。花の形のようなやわらかな曲線を描くそれには薄紅色の花弁が描かれており、同じデザインの皿の上にあるのは焼き菓子の類だろうか、きれいに並べられている。その傍らに添えられたガラスの器には、色とりどりの木の実が丁寧に盛り付けられていた。他にも背の高いポットや小さな蓋つきの壺なども一緒だ。
ワゴンを押してきた女性がそれらを粛々とテーブルの上に並べていく。そうして自分とルアードの前に空のティーカップを置き、失礼しますの言葉と共に手にしたポットの中身をカップへと注いだ。揺れる水面、琥珀色をしたそれはふうわりと良い香りがする。ルアードがよく森の中で入れてくれたお茶とはまた違った香り。
「ありがとねー」
「また何かありましたらお呼びください」
お世話係だと呼ばれていた彼女は、そう言ってワゴンを押しながらゆったり退室する。はいはーいと言いながらひらりと手を振り、扉が閉まるのを確認したルアードがさて、と。言いながらおもむろにテーブルの中央に置かれた真っ白な蓋つきの壺にを伸ばしていた。手慣れた様子で蓋を外し、中から白い粉末状のものを出すとティーカップの中にさらさらと入れる。それをソーサーに添えられたスプーンでかき混ぜる――流れるようなその一連の動きを、じいと見ていた。食事を必要としていない為作法の正解はまだはっきりとわかってはいない。
「ま、ちょっと待ちますかねぇ。ずっと慌ただしかったしね」
かちん、とやわらかな陶器の音が妙に響く。スプーンをソーサーに戻したルアードはティーカップに口をつけていた。ここは彼の生家なのだろう、静かな室内でゆったりと彼はくつろいでいた。
「温泉に行くのでは」
「あとでもいっかなって」
そう言ってへらりと笑う。
先程まで激しく言い合いをしていたとは思えないほど、自分が知るいつも通りののんびりした喋りだった。ティーカップをソーサーの上に置くと彼は用意された菓子にも手を伸ばす。薄く丸い形をしたそれ一つ摘まむと口に運ぶ、さくりという軽い音が耳に心地よい。クッキー、美味しいよ、と勧められるが遠慮しておく。流石に問題の渦中にいてのんびりと食事というのは気が引ける。
「すみません、本当に……何から何までお世話になってしまって」
行く当てもなく、一緒に帰ろうと言われてやって来たエルフの里。拒否すればよかったのだろうが、しかし彼らと別れたとしてどうするべきだったのだろうか。言葉はともかくとして旅を続けるにしても定住するにしろ、人間の側に長くはいられまい。何よりこの世界の常識にはまだ暗い部分も多く、彼らの好意に甘えて何とかなっている状態だ。自身の不便はどうでもいいが、この世界の住人に不利益を与えるような事は避けたい。悪魔がこちらの世界の住人に配慮するとは思えないのだから猶更だ。
「やはり、ルーシェルと共にここを発つべきかと」
どれ程考えたとしても、結論はそこへと至る。
ルアードとアーネストは『赤の神』という竜人を追っている。
村を滅ぼされた敵討ちだと言っていた、情報収集しながら当てもなく旅をしているのだと言う。御伽噺として伝わる竜人の生き残り、人間と竜人の混血。どちらもほとんど目撃情報はなく、流れた竜人の血が呪いとして『魔』となり蔓延るばかり。
自分達は元の世界に戻る為の情報が欲しいが、魔界側からの襲撃がある以上彼らと行動を共にするのはあまりに危険だろう。もう十分彼らを巻き込んでしまっている、最悪の事態となる前にやはり早急に別行動をするべきだと思う。
「まあ……それが現実的かもしれないねぇ」
今度は否定しない。
目的が違う以上、共に行動するのは非効率だ。自分達は有り余るほどの生があるが地上の生き物はそうはいかない。エルフの平均寿命が三百だと言っていた、人間などそれよりも遥かに短い。我々にとって瞬きのような生だ。あの夜、アーネストが森の中でいつまで子守をするつもりだと言いたくなるのも解る、人間にはリミットがある。
「あ、でもすぐにってのはやめてほしいな、資料室もあるし、ここなら魔法書もある。じっちゃんたちの話も聞いて、少しでも何か手掛かりがないか探しつつも少しゆっくりして、美味しいもの食べて、ほら温泉! 温泉もあるし。ヨシュアさんは温泉入った事ある?」
まくし立てるかのようなルアードの言葉に、ふ、と。口元が緩んだ。出身地であるこの地に誇りがあるのだろう。里長の孫として、一出身者として楽しんで欲しいというそれはきっと他意のない素直な感情なのだと思う。でも、だからこそ疑問が残る。
「……ルアードさんは、どうして私達をここへ連れて来てくださったのですか」
別に歓迎されるとは思っていなかったが、あそこまであからさまに何故連れてきたと言われていたのだ。人間と揉めた事があると言っていた、アーネストの事もある。ともすれば自分達は禍になりかねない存在なのだ、彼の大切にする故郷に、事情があったとはいえどうしてと。そう問えば、えっと、と。ルアードは少し口ごもりながらゆるく目を伏せた。そうして何かを言いかけて、口を閉じて。何度か繰り返した後、こちらに向かってまたへらりと笑って。
「近況報告とか、情勢についてだとかの連絡の為ってのと、まあたまには顔出さなきゃなってのはあってね。街からそこまで離れてないし、ヨシュアさん達の力になりたいってのと、俺の里も見てもらいたかったのもあったりはして――」
随分と歯切れ悪く言う。
恐らくその全てが事実なのだろうが、どこか建前然としていた。本心は、言いたいことは別にある。そんな表情をしばらくしていたが、観念したかのように口を噤んだあと長い溜息を吐いて。
「あのさー……ヨシュアさんはさあ、共存とかって、考えたことない?」
想定外の言葉が出てきて、思わず目を丸くした。
「共存、ですか?」
「ヨシュアさんとルーシェルさんってテンシとアクマ、だっけ? 仲が悪いんだよね」
どこか探るような物言い。
正直仲が悪いどころの話ではないのだが、どう説明すべきなのか逡巡した結果、そうですね、と曖昧に返す。嘘でもないが本当でもない、我々は種族の違い故の衝突をしているのではない。
――気の遠くなるような遥か昔の事。
創世の天使が人間の始祖を堕落させ、神によって地に投げ棄てられた堕天使の成れの果てが悪魔だ。神に成り代わろうとして反旗を翻し、今なお人間を誘惑し堕落させる絶対悪。それを排除するのが我ら天使である。世界を護り、人を護り、悪魔を殺す。それが神の定めた秩序であり、自分達に課せられた使命である。共存など。考えた事もなかった。
「俺はさ、アーネストの保護者ではあるんだけど。なんか、なんていうのかな。人間とエルフでもうちょっと協力出来ないかなーって思ってんだよね。なんかこう、きっかけとかさ」
皿の上の焼き菓子を口にしながらルアード軽い口調で語る、それがわざとであることはなんとなく察しがついた。柔らかな口元とは裏腹に目に宿る光がひどく冷徹だ。
「種族が違うのはもうしょうがない。寿命、魔力、生活様式、全然違う。でも、……竜人に怯えているのはどちらも同じなんだ。竜人はもう根本的に考え方が違う、話し合いにすらならない。そもそもが殺戮を好む性分らしくて気分で街一つ消す事だってできる。らしい。これも、実際に俺は会った事がないからあくまで伝聞な」
言いながら、ルアードはひとつ、ガラスの器から果実を手に取った。
元の世界では見た事のない紫色をした小振りな実を指先で弄びながらルアードは続ける。
「今いないから好き勝手言うけどねぇ、俺はあいつに死んでほしくはないわけですよ。敵討ちは結構、その一念できついリハビリも耐えて自刃も堪えてくれたわけだしね。でも、勝てるとは思わない。脆弱な人間が神に勝てるわけがないんだ」
胸の内にあったであろう想いが一つ、こぼれ落ちれば最早とどめておく必要も失ったのだろう。まるで覚悟を決めたかのような硬い表情で、ルアードは語る。
「お目付け役、保護者、なんでもいい。だた、一緒にいて何か、解決できるような道があればいいなあと思って旅をしてる。人間とエルフとが手を取り合えたらまた違うんじゃないかなとか。新しい物好きだけど変革は嫌う俺らだ、まあ、気長にね」
竜人などいなければ、と。
抑揚なく続ける彼の言葉の節々にはそんな思いが滲んでいた。
かつてこの世界を支配していた竜人。人を喰い、その数を激減させた今もなお彼らの奥底に植え付けられた恐怖は消えずにいるのだろう。人喰いの竜人がいるから、人間とエルフが不必要に対立を深めたのだと。本来ならばもっと別の交流の仕方もあっただろうにと。
「……人間と確執があるとのことでしたが」
「そう、それなんだよ問題はさあ」
ぼすりとソファの背に寄りかかりながら一際大きく息を吐く。
頭を抱える彼に思ったよりも問題は根が深いようだ。
「前に俺らエルフは竜人のご飯にならないからって人間側が勝手にやっかんで、って話したじゃん? 当然言い合いなんかじゃ済まなくて、まあ、ちょっとした衝突もあったらしいんだ」
俺が生まれるもうずっと昔の話らしいけど、と。断りを入れてルアードは続ける。
「双方そこそこの被害が出てねぇ。ある時さ、何を思ったか人間側がエルフの遺骸を持ち去ったんだ」
声色の変わらぬままルアードは淡々と口にする。抑揚のない語り口に一瞬聞き取れなかった。遺骸を? 目を見開くこちらに酷くバツの悪そうな表情で短く息をつく。
「どうも俺らの骨が竜人除けになると思ったみたいで、当然こちらは仲間を返せとなるんだけど人間側も必死でさ……当然完全決裂。激怒した里の重鎮たちが厳重に結界張って森の中に引きこもり。今も戻ってきてない遺骨もある。ただ、それらが人間側の信仰の一つとして大事に祀られてるっぽいのは確認できてるのでこう、こちら側とすればすげー複雑。民間信仰とはいえ結構参拝者とかもいたんですよ。そりゃあもう丁寧に祀られてんの」
持ち去られた遺骨の数は多くはないが、どれも清められそれぞれ廟を建設されているのだという。街や村の守り神として祀られているらしい。人間同士でも神格化される事は時折見受けられる、他種族であればなおさら畏怖の念もあるのだろう。
極限状態で神に祈る事はそう珍しい事ではない。自身の力の及ばぬところ、どうにもならないことを何とかしようと藁にも縋る想いだったのだろう。信仰は心の支えとなりうる。祈りは届く、信じる者は救われる。それは、裏を返せば「祈らねば、信じねば救われぬ」である。遺骨があるから竜人から受ける被害が少なくなった、は必ずしもイコールではない。それでも何かが起こった結果だと思わせるには十分なのだろう。
無理矢理取り返すのが良いとは思わない。暴力には更なる暴力が待っている。
けれど、故郷に帰りたいだろうというのも痛い程解る。
十把一絡げにできる問題ではない。
……そんな中、アーネストを助けて里に連れ帰ったのか。
人間に対してそれ程の憎悪を持ったエルフたちが、重傷の子供とはいえ人間を簡単に受け入れるとは思えなかった。アーネスト自身がここに帰りたくないとあれだけ拒絶するのも、彼が恐らく受けたであろう仕打ちを物語っていた。悪だ善だと測れるものではない、感情は事象を正しく理解しない。
「前は適当に濁しちゃってごめんねぇ、胸糞すぎてちょっと言いづらくて」
「いえ、」
「俺一人の力でどうにかできるもんだとは思ってないよ、でも、……うん。ヨシュアさんならどうするかなって、ちょっと思ったんだ」
あなたも統治者なんでしょう――そういった、こちらにすがるような眼差しにしかし答えられない。
どうしたら、どうするのが最善か。彼は第三者からの意見が欲しいのだろう。同じような問題を抱える自分の意見が。
共通の敵を作って団結する事は可能だ、この場合は竜人だ。人間とエルフ対竜人の構図とすれば表面上は手を組むことは可能だろうが、それも付け焼刃に過ぎない。深い相互理解が必要だ、一時の協力程度では、たとえ竜人の排除という目的が達成されたとしても人間とエルフが再びいがみ合う事になるだろう。それは、彼の望む事ではない。かといって、わだかまりが残った状態での交流の再開は危険だ。問題を解決するにも現状があまりにも悪すぎる。
視線の先、ルアードの弄んでいた木の実の皮が小さく裂けているのが見えた。
……下手にいじくっては大惨事になりかねない。では手をこまねいているだけで事態は好転するのか。答えは否である。
共存。共に手を取り合い、共に生きる事は可能だろうか。
個々人では違うとはいえ、程度に差はあれど互いに憎悪を募らせている。竜人と人間の混血が生まれる様に、恐らく個人間では可能だと思う。だがそれが集団となった場合、……実現は零ではないのかもしれないが、あまりにも荒唐無稽ではなかろうか。段階が必要なのだが、それが一体どれ程の時間と労力を必要とするのか見当もつかない。誰もかれも争いを望んではいない。平和的解決が望ましいが全くの無血で済むとは到底思えなかった。
「やっぱ難しいよねぇ」
へらりと笑う彼の、諦めたような表情が酷く悲しい。
恐らくずっと思い悩んでいたのだろうと思う。優しい彼の願いを叶えてやりたいと思うが、その術が自分にはなかった。力で無理やり押さえつけたとていつかは綻びが生じる。けれど。
「……考える事はやめたくない、ですね」
ゆるく笑う。
どれだけ綺麗事だと罵られても解決の為の糸口を探したいと思う。
争わずに済むのであればそれに越したことはない、彼らは自分達と違い戦う必要など最初からないのだから。
――天界を追われ地に堕ちた悪魔。
神に反旗を翻し、刃を向ける悪魔。
人を堕落させる悪魔から人を護る為闘う我ら。
我々に共存の道などない。
私はルーシェルを殺さなければならない。
天界で殺戮の限りを尽くし、自分と刃を交えた厄災の悪魔。今現在置かれている状況が異常なだけで本来であるなら相まみえた瞬間斬り捨てる相手である。交わす情も何もない。
彼女は恐らく悪人ではない、けれどだからと言って彼女を見逃す理由にはならない。変わり者の悪魔、今まで自分が殺してきた悪魔とはあまりにも違うがそれだけだ。約束を交わした、この世界では協力すると。反故にするわけにはいかない。
ふ、とルアードが顔を上げた。遠くからどたどたと荒々しい足音がする。
「……なんだか騒がしいな、」
そう言ってルアードが警戒したと同時に乱暴に部屋の扉が開く。そこには湯浴みを終えたのだろう、髪をゆるく結い上げ見慣れぬ真白い服に着替えたルーシェルがいたのである。
※
室内に戻ってきたルーシェルはずいぶんと血色が良くなっていた。どういうわけだかお付きのエルフ達に腕を取られ無理矢理部屋の中へと連れてこられている。呆気に取られているこちらなどお構いなしに、エルフ達は先程と同じ勢いでわっと同時に喋り出した。
「ほらごらんください、こんなにお可愛らしくなって!」
「おい馬鹿やめろ、放せ!」
「駄目ですよぅ逃げようとしたんですから~」
「お綺麗でしょう? ほら、髪も綺麗に結い上げたのですよ」
「今日はもうお疲れだとのことですので、また明日が楽しみですわあ」
明日も、という言葉にあからさまにルーシェルは頬を引きつらせていた。部屋を出ていく時と同じように抱きかかえられているリーネンは最早抵抗もしない、着替えたのかルーシェルと同じようなワンピース姿だった。着なれないのか、酷く窮屈そうな様子が微笑ましい。悪魔の美しい姿、幼く愛らしい容姿は油断を誘うものだがなるほど、と。思う。エルフの皆がほめそやすのも理解できる程に、確かに彼女は美しかった。
――冷えた思考のまま、目の前の悪魔を見る。
普段のルーシェルは着ないであろう柔らかな裾の長いロングワンピース。確かに普段は黒を基調とした衣服だったから、柔らかい乳白色のワンピース姿というのはなかなか珍しいものであった。以前街で着ていたシンプルなものよりもずっと手の込んだ衣服だ、白い布地に細かな刺繍を施され、袖口はふんわりとしている。丁寧に手入れをされたであろう黒髪が緩く結わえられていて、随分と印象が変わる。
裾の広いフレアスカート、首元がゆったりと開いていていつもよりも晒されていた。白くて細い首だ、――今。自分が。その首に手をかければ。刃など必要ない、首に手をやり少し力を込めれば容易く手折れそうな程のそれから目が離せなくなる。彼女を殺すことが最善である。今ここで殺害し、肉体から解き放たれる彼女の霊力、魂魄、それらが与えるであろうこの世界への影響。すべて無視して、ただただ、己に課せられた悪魔を殺すという役割を遂行したら。何も考えず実行に移せたら。
彼女は悪魔である。
今は無力な少女だとしても。
彼女は魔王である。
今は協力関係だとしても。
共存。
天使と、悪魔と。
彼女と、自分と。
悠久の時を殺し殺されてきた。
手を取り合う事など出来る筈もない。
「わー! ルーシェルさん更に美人さんになったねぇ!」
ルアードの一際大きな声にはっとした。
目の間にいる悪魔。魔王。排除すべき敵。
けれど、それは今ではない。ぎゅ、と両手を握る。目の前の少女、は。恐ろしい程の美貌を湛えた悪魔だ。悪魔を討つことが存在理由である自分の獲物だ。だが今じゃない。元に戻る為の道を探さなければならない。未来永劫交わらぬ筈の縁が交差する、互いの個人という特性を知った現在は空白のような幕間である。ふるりと小さくかぶりを振って。
「……ええ、そうですね、」
曖昧に微笑んで相槌を打つ。が。
しん、と。
何故か水を打ったように静まり返ってしまった。
あれほどはしゃいでいた女性たちが皆一様にしらっとこちらを見ているのである。つまらないと言わんばかりのその緑の瞳に思わず腰が引けた。
「…………それだけですの?」
エルフ達から随分と不満げな声が上がる。
「え、」
「あらあらー、随分な朴念仁でいらっしゃるのね」
「ルーシェルさまお可哀そうですわ」
「私はあいつの感想なぞ、」
「そうは言いましても~」
「せっかく綺麗になったのに一言もないのはどうかと思いますわ」
「そりゃあ元が素晴らしいですけども」
「何か一言くらい、ねぇ?」
口を挟む隙もない。
さわさわと声量としては非常に上品であるのにえらくなじられている気がする。
「リーネンちゃんもすっごく可愛いし、ルーシェルさんも普段も眩しいくらい綺麗だけどやっぱり女の子は着替えるとがらっと印象が変わるねぇ、可愛いねぇ、いや本当に美人さんだね……」
ルアードがうっとりしたように語ると、大分気持ち悪い気もしますがまあ及第点ですかねと女性たちは何やら採点を始める。気持ち悪いとはなんだとルアードは不貞腐れていたが、女性たちはそれを無視してこちらを見ていた。どうやら自分もルアードのようにルーシェルの容姿を褒めろという事らしい。当の本人は非常にいたたまれなさそうな表情をしていると言うのに、エルフの女性たちに腕を掴まれ逃げる事も叶わないらしい。こちらから顔を背けて非常に嫌そうに顔をしかめている。
抱きかかえられたままのリーネンはといえば、にゃー達の王様ですもん! と実に可愛らしく誇らしげにしていた。
「着飾った女性に一言もありませんの?」
ルーシェルの事などお構いなしにエルフの女性が非難する。そういうものなのだろうか、と改めて彼女の姿を見た。
普段が殺戮の女王とするなら、今はさながら大輪に咲き誇る白百合のようだった。つややかな黒髪、真紅の瞳、苛烈な気性が衣装で随分と柔らかな印象になる。文句無しに美しいと思う、非常に居心地悪そうにしている姿もなんだか新鮮で可愛らしい。まるで怯えている子猫だ。
「ですが、……私は、喋るなと言われていますし」
困ったように告げる。
先刻ルーシェルが倒れかけた時、安否を尋ねただけなのだがどういうわけだか喋るなと一喝されていた。
喋るなと言われたのだからと従う謂れもないが、具合を悪くしていた彼女を更に怒らせるのも少し、違う気がする。
ルーシェルはいつも自分に対して怒りを向ける。敵対者なのだから当然だとは理解しているつもりだが、それでも、何が逆鱗に触れているのかが自分にはわからなかった。いつか殺すべき相手にどう思われようが気にも止めることではないが、必要以上に反感を買って協力体制が崩れることはこちらとしても遠慮したい。
今度は女達の視線がルーシェルへと向かった。注目の的となった彼女は肩をびく、と肩を跳ねさせる。わずかに身構えてさえいて完全に怯える猫の様相である。小柄なルーシェルに対し、エルフたちはそこそこ背が高いのも手伝って尚更取り囲まれているようだ。
「そうなのですか?」
「痴話喧嘩ですの?」
「何を言われたのですか」
事と次第によっては制裁も辞さないと言わんばかりの圧である。
「ど、どうだっていいだろう」
やはり女性には強く出られないのか、しどろもどろとルーシェルは言葉を濁していた。疲労があったとはいえ湯浴みに大人しく連れていかれていたし、普段の彼女であるなら選ばないであろうワンピースも着ているのだ。髪を結われるのも受け入れていて割と素直だと思う。
「ルアードさまの失言でしたらこちらで対処いたしますが」
「待って待って、俺関係ないから」
何されちゃうんですか俺、と。
彼女らの主人に当たるであろうルアードが両手を上げて降参のポーズをしていた。冗談ですよぉとくすくす笑う女性達に、君等は本当にやりそうだからねぇと呟いて、そうしてにやりと。にやりとこちらに向かって非常に形容したがたい表情で笑った。
「大丈夫だよヨシュアさん、さっきのあれ照れ隠しだから」
「貴様何勝手な事を!」
「本当のことでしょー?」
いきり立って声を荒げる彼女に、にやにや笑いながらルアードが駄目押しのように言う。……照れ隠し、だったのかあれは。何が恥ずかしかったのだろう、足元をふらつかせた事だろうか。天敵である自分に助けられた事が恥と思ったのか。わからない。具合が悪いのであれば仕方のないことだと思うのだが、気高い彼女にとっては受け入れがたかったのかもしれない。
「だからさ、言いたいことがあるなら言ってあげたらいいと思うんだけどなー」
「適当なことを言うな! 何なんだ皆して勝手な事を……!」
顔を真赤にして怒鳴るルーシェルを、エルフの女性達はあらあらまあまあとざわめきながら微笑ましく見ている。だってそうじゃないですか、甲斐性と言うものが、と。続く言葉にそういうものなのだろうかと思う。
ルアードの言葉も信じていいのだろうかと思ったが、ちらと伺いみたルーシェルは何も言わなかった。何とも言えない表情で歯噛みしていて、あながち的外れな発言で無いようだった。
「でしたら、」
ゆっくりとソファから立ち上がると、ルーシェルはこちらの動きにばっと身構えた。そのさまは本当に猫のようで……共生など不可能な間柄ではあるが、それでも、ふ、と。胸の内に揺蕩う不可思議なものは不快ではないのであった。彼女は自分がこの手で必ず殺す、それは変わらない。彼女とて同じ事。
エルフたちに囲まれたルーシェルのそばまで歩を進める、訝しげに見上げてくる彼女達にひとつ。笑みをこぼして。
「……顔色が良くなったようで安心しました。身体は辛くないですか?」
そう言いながら手を差し出しこちらへどうぞ、と。ソファへ座るよう促した。彼女は手を取りはしないものの、こちらから警戒の眼差しを離さぬままどかりと座った。ふわ、と柔らかな裾が緩やかに揺れる。足を組んで尊大な態度、それでも彼女は忌々しげにこちらを見る。美しい悪魔。永遠に敵対する者。柔らかな笑みで見つめる――これは、この手で討ち取る自分だけの美しい獣だ。
「よくお似合いですよ」
「…………もういい、」
もういいから皆黙れ。
消え入りそうな声で呟いて、彼女は頭を抱えていた。
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