33 境界、遥か遠く
準備ができたからと呼びに来たオリビアによって別室へと案内される。
通された部屋は応接室や待機室とはまた違い、細長いテーブルが室内の中央に置かれていた。真っ白な布がかけられたその上には食器がいくつか並べられている。小さなカップとソーサーが涼し気に置かれていた。淡い色彩の花の絵が描かれている。
ここはダイニングルームなのだろう、大きな窓には薄いカーテンがかけられていて直射日光をやんわりと遮っていた。日が傾きかけていてほんのりと空が朱色になりつつある。そうしてやはり沢山の植物に覆われた部屋だ、促されるまま椅子に腰かける。体調はかなり回復していたが、気を使われたのだろうリーネンと共に影になる場所へと案内されていた。
テーブルの上のカップには琥珀色をした液体が入っていた。いつかの街で、リリーに振る舞われたものと同じものだろうか。確か紅茶だと言っていた、良い香りがする。そっとカップのそばに置かれた小さな皿には、薔薇の花弁で作ったジャムというものが添えられている。給仕をしていたさっきの六人組エルフがにこやかに説明していった。紅茶に入れるものだという。カップの柔らかな淵を指で緩く撫でつけながら、視線をやった先にいる天使の声を聞いていた。
上座に座るイーサンに、天使がこれまでの経緯をまた一から丁寧に説明している。何度繰り返したかわからないこのやりとりを、しかし天使は嫌な顔一つせず過不足なく語っていた。穏やかに流暢に語るその様は、流石生真面目な天使だといっそ呆れるほどだった。響く柔らかな声。
「そちらのご事情は把握しました」
天使の話を一通り聞き終えた老エルフが静かに口にする、その表情はどこか陰りがあった。傍らで話を共に聞いていたオリビアも複雑そうに顔を引きつらせている、ありていに言ってしまえば面倒な、だ。異世界という存在を信じろと言うのがそもそも事をややこしくしている。異世界、魔法と霊力、ただでさえ竜人とエルフ、人間とがそれぞれ対立しているところに更なる別人種がやって来たのだから頭を抱えたくなるのもわかる。厄介事を持ちこまれて喜ぶような奴はいまい。
「私達は御令孫に随分と助けられました。こちらへ連れて来ていただいたのも、私達が元の世界に戻る術があるかもしれないからとの事。もうしばらくの滞在を許していただきたい」
まるでお手本のように美しく椅子に座った天使が淡々と告げる。
あくまでも元居た世界へ戻る事が目的である事を男は強調すると、ふむ、と。イーサンは髭のない顎を緩くさすりながら小さく呟いた。しばらく考えたようにこちらを見ていたが、ややあって、では、と。口を開いた。
「違う理の世界から来られた方。お力になれるかはわからないが、魔導書などが閲覧できる資料室などを後ほど案内させましょう。気が済むまでここにおられるといい」
「ありがとうございます」
柔らかな声、穏やかな物腰。緩やかに微笑む天使は普段と変わらない。ふわりと微笑む様子は大層美しく、嫌味がないあたり一種の才能なのだと思う。
――先程の、色の無い眼差しからは想像も出来ない程柔らかな笑みを天使は浮かべて礼を言っていた。まるで何事もなかったかのように。あの時の――こちらを真っすぐと射た透明な眼差しは、感情を排除した天使特有のものだ。上手く隠されてはいたがあれは明確な殺意であった。協力だ何だと耳当たりの良い言葉を並べ立ててはいるが、あの天使の本質は悪魔殺しの戦天使だ。人当たり良く人好きする笑顔を浮かべているが敵対する相手を冷酷に殺害する事が出来る神の傀儡。無感情に神の教えをひた守る人形。現在は協力体制という体でいるが、天使にとって悪魔など生かしておく理由もない。ふわふわと腑抜けた表情で甘い事ばかりを口にする男ではあるが、己の使命とやらを忘れていないようで安心した。仲良しこよしなど冗談ではない。
「ですが、我々の使う空間転移術は大掛かりなものです。転移元と転移先にそれぞれ術者を配置せねばなりませんし、距離も長大なものは難しい。次元を違える世界へなど……」
言外に不可能だと静かに語るイーサンの言葉に、やはりどうにかなる物ではないのだと知る。この世界の術式をしっかりと確認したわけではなかったが、触媒を必要とする以上発動するものには上限があるのだろう。そも、空間転移は制約が多い。こちらもアンカーを用意しなければ非常に危険だ、肉体か、魂にか。かかる負荷が無防備な身体に直接跳ね返ってくる。恐らく自分達に霊術の発動に制約がかかっているのは、この世界の理に縛られたのもあるが術式なしに移動させられたのが理由なのだと思う。
「私から伝えられるのは、異世界を渡る術を我々エルフは持ちえないという事のみです。竜人なら方法を知っている可能性はあります、青藍都市の女王ならまだ人間にも友好的だ」
いつか聞いた都市の名をイーサンは挙げる。
リリーが言っていた混血の女王が治める都市だった筈だ。竜人の混血、確か絵本にもあった。慈悲深いとかなんとか……人喰い種族が向ける慈悲とは何ぞやとは思うが、現状竜人と対話が出来る唯一の存在なのだろう。そこらの有象無象が簡単に謁見なぞ出来ないだろうが、文化体系を違えた存在ならあるいは。
「だがここからは随分と離れている。当然我々と交流はない」
あくまでも可能性でしかない。
長い旅路の果て、目的のものが手に入らない可能性だってある。協力を仰げるかどうかも未知数だ。
それでも行くのであれば止めはしない――イーサンの眼差しは穏やかだが、楽な道ではないだろうと暗に含まれていた。それは、そこまでしてでも帰りたいのかとという問いかけにも似ている。
「そちらの世界から迎えを期待は出来ないのですか」
護衛のようにイーサンの側にいるオリビアの問いに、ちらりと天使がこちらを見た。刺客が送られてきている自分にただでさえ面倒な行程を踏んでまでやって来る奴などいない、もの言いたげな表情の天使からふいと視線を逸らす。こちらが答える気がないのを感じ取ったのか、ええと、と。天使は少しばかり口を濁した。迎えが来るのであれば苦労はしない。
「……彼女は難しいようですが、私の方は何とか連絡が取れています」
「は?」
当然迎えなどないと言うのだとばかり思っていたのだが。
想定外に飛び出した言葉に思わず声が出た。と同時に、がたりと音を立てて立ち上がったのだが。こちらをきょとんとした表情で男は見上げてくる。澄んだ青い瞳には曇り一つなく、心底不思議そうにしているのである。急にどうしたのかと言わんばかりの表情にいっそ殺意すら湧く、連絡、連絡だと? 天界と? は?
「初耳だが?」
「言う機会がなかったもので……」
いけしゃあしゃあと宣いやがった。阿呆でも木偶の棒でも天使の王だ、こちらの世界に来てそこそこ経つのに天界側が妙に静かなのが気にはなっていたが。まさかこいつ、自分の知らないところで一人帰る算段でもつけていたのか。
「貴様、何故黙っていた」
「そうは言っても短文を送れる程度です。時間もかかりますし、返事が来たのもつい先日で」
ちゃんと届いていたようですとへにゃりと笑っているが、こちらとしてはそれどころではない。あちらと連絡が取れた、つまりは元の世界に戻る為のすべを手にしたと言っても過言ではないではないか。自分とは違い配下とも良好な関係の天使の王、こちらの世界に留まる理由もない。道は繋がったのだ、迎えが来る。帰る為の門が開く。急激に世界が音を無くす、じりじりと胸が焼けるような焦燥。腹の底で蜷局を巻くかのような冷い感覚。
「ヨシュアさん帰れるの?」
「あ、いえ私の無事を知らせた程度です。こちらで座標を指定できませんので見つけてもらうしかない状態ですし、今すぐ迎えが来ると言うわけでは」
ルアードの良かったねぇと弾む声に天使は少し慌てたように答える。今はまだなのだと。それでも奴にとっては光明には違いない、元の世界に戻れるのだ。迎えが来て、何もかも元通り。あのお綺麗なだけの天使様に戻って、光の溢れる園でただ美しく微笑んで。初めから何もなかったかのように。
帰る場所があるのだこの男は。
ルーシェルさま、傍らのリーネンがこちらの名を呼びながらスカートのすそを軽く引っ張った。握りこんだ拳が小刻みに震えていたのだ、不安げに見上げてくる大きな金色の瞳。は、と小さく息が零れ落ちた。天界から迎えが来る。この男を回収し、私という悪魔を殺したい奴らが。
「何事もなく帰る事が可能だとは思っていません。ただ、連絡がついたのであちらからの情報も手に入りやすくなりましたし、時間はかかるでしょうがいずれは」
「目途はついているという事でよろしいか」
「確定ではありませんが」
「お迎えがくるならもう安心だねぇ」
静かな室内で、男達の低い声のみが響いていた。
イーサンとその傍にオリビア、天使とこちらの側に座っているルアードが交わす言葉。リーネンが不安げに、にゃー達どうなるんにゃ? と小さくこちらに問うてくる。天界から天使がやって来る、あの馬鹿は元の世界に戻ってからだと言っていたが、やって来るであろう他の天使が奴の寝言に素直に従うとは思えなかった。自分はともかく、この弱小低級悪魔など格好の餌食になりかねない。
「……それを聞いて安心しました。ロージー」
イーサンの言葉と共にざっと、先程の六人がにこやかにワゴンを引いて近付いてきた。どうやらロージーというのがメイド長か何かなのだろう。てきぱきと指示を出しながらテーブルの上に色とりどりの食事の乗った皿を並べていく。木の実や葉物類が多いが、肉類やスープなどのもあった。失礼しますと言って目の前に並べられていくそれらに、やはりここでも食事からは逃れられぬのだと知る。
深く長い溜息が口から零れ落ちる。
次から次へと頭の痛い事ばかりやってくる。
「ささやかながら食事をご用意しました。どうぞ召し上がっていってください」
「里長、まずは乾杯といきましょう」
オリビアも改めて席に着いてグラスを手にしていた。さっとロージー達が空のそれに液体を注ぎ始める。金色に揺れるそれは室内の淡い光に揺れていた。澄んだ色のそれとはひどく対照的に思考が絡まる、連絡、迎え、どう考えたとて平和的な解決などやってこない。いや、悪魔が平和を願うなど世も末だ。元の世界に帰れると手放しには喜べない。……戻れたとて。自分には魔界に居場所もない。
「ルーシェル、ご厚意には甘えるべきですよ」
こちらの思いなどまるで気付いていないらしい天使が、動きもしないこちらに失礼だと苦言を呈す。何も口にする気はないのだから椅子の背にもたれ、腕を組んでいたのだがそれは慈悲深い天使様にはお気に召さないらしかった。何ら抵抗がないらしいこの男は周囲に習ってグラスを手にしていたし、恐らくこのまま食事もするのだろう。相変わらず不必要な事をする天使の気が知れない。
「お好みではありませんでしたかな」
「いえ、我々には食事という習慣がありませんので……」
すみません、と頭を下げた天使がそもそも食べる必要がない事を説明していた。驚くイーサンとオリビア、このやり取りももう随分と繰り返されていて、その度にここが異世界なのだと改めて実感させられる。生きる為には食べなければならない、それは、異なる世界でも不文律のようだった。人間も、エルフも、竜人も。摂取頻度や量に違いはあれど生物は何かしらを口にしなければ生命活動は維持できない。……自分達は随分と異形なのだと思う。
「食事が苦手でしたらこちらだけでも」
差し出されたのは小さなグラスだった。
苦手というわけではないのだが、どういうわけか食い下がられる。食事を共にする事によって親睦を深める風習でもあるのだろうか。
小さなグラスは細かな模様が刻まれていて、金色の液体が光を受けてきらきらと輝いていた。確かにきれいだ、食事を摂る気はそもそもなかったがあれこれ言われるのは面倒だった。これ一杯で済むのであれば安いものだろう。仕方なしにグラスを手にすると、感謝します、と言ってイーサンがグラスを掲げた。儀式のようなものか。人間、ではないが生き物の慣習は色々と様式があるらしい。
イーサンの言葉から和やかな食事会が始められる。
各々が並べられた料理に手を付け始めるのを、手にしたグラスを弄びながら眺める。頬杖をついて淡い金色の液体が零れないように小さく揺らすと、光が乱反射して白いテーブルクロスの上で虹が踊っていた。隣ではリーネンがグラスを煽って、甘くておいしいにゃあとまんざらでもないようだった。皆が口をつける、天使も美味しいですと感想を告げていた。好意とやらに律儀に応える男は、皿の上に美しく盛られた料理についてあれこれと聞いているのだった。好意に応える、というよりはお前が知りたいだけだろう。
「ルアード、あとでアーネストの所にも食事をもっていってやりなさい。どうせハヤトの所でしょう、多めに包ませます。明日にでも顔を見せるよう伝えなさい」
早速ナイフを手にしていたルアードにイーサンが言う。
別れてからずっと姿を見ていない黒髪の人間。いつもの所にいるだろうと言っていたが、ハヤト、という名に引っかかりを覚えた。
「嫌がると思うけど」
「里に帰れば報告をする約束です」
「まあ、努力はします」
無理じゃないかなーとぼやくルアードに、オリビアがまた小言を言っていた。言う事を聞かせろだの、どこまで自由にさせるつもりだとぶちぶち言っているのを綺麗にスルーしながらルアードは食事の手を止めない。あー久しぶりー美味しーいとこれ見よがしに口にする男を前に、姉であるオリビアはお前はなあ、と。青筋を浮かべていた。
「……ハヤトさん、ですか?」
この世界で聞く名にしては違和感を覚える響きのそれ。相変わらず慣れない食事に四苦八苦している天使も同じように思ったのか、不思議そうに問うていた。自分が先程風呂で聞いたアズサという名にも似ている、見る限りエルフの里は金髪緑眼ばかりだが黒髪がどうとかと言っていなかったか。
「実はですね、あなた方の様に別の世界からやって来た子供が他にもいるのですよ」
深く深く溜息を吐きながらイーサンはゆっくりとグラスを傾けていた。秘匿の里だと言うのに先客がいたらしい。
ああだから。
得心する。
似たような事例が既にあったから、彼らはここまで自分達に「またか」と言っていたのだろう。アーネストの事だとばかり思っていたが、どうやら先客がいるらしい。いや、一体どういう確率だ。
「それは……また、」
流石に言葉のない天使を見ながら、面倒事は御免だとばかりにグラスに口をつけ、く、と中身を仰ぐ。
やわらかな金色のそれは酷く甘い匂いがした。
「――――――ッ」
瞬間、舌を焼く感覚に爆発したかと思った。吐き出しこそはしなかったが思わず口を右手で覆う、驚いて飲み込んだ液体が喉を熱く滑り降りていった。胸が、腹が急激に燃え上がったかのように熱い。
「ルーシェル!? どうしたのですか」
慌てた様な天使の表情、駆け寄ってきたのだろうがそれどころではない。毒でも仕込まれたか、浅慮だった。いやでも、と。覚えていたのはそこまで。
頭の先からひゅうと血の気が落ちるような感覚と共に、身体が平衡感覚を失うのが解った。燃える様に熱い内部、反して冷える頬。くらりと視界が踊って。
――ブラックアウト。
※
文字通り酔いつぶれてしまったルーシェルを待機室へと連れて帰り、部屋の隅に用意されていた寝台へと横たわらせた。眩しそうだったので明かりは少し落としてほんのりと薄暗い室内。頬を真っ赤に染め上げ、ぐったりと白いシーツに沈む様子はまるで病人のようだ。時折うーん、と唸るような声がその赤い唇から零れ出す。
「ルーシェルさま大丈夫にゃあ……」
ぱたぱたと彼女の主人をうちわで扇ぎながら、リーネンが泣きそうな表情でいる。まさかあんな小さなグラス一杯でひっくり返ってしまうとは思わなかった、提供された甘い酒を飲んだ瞬間ルーシェルはいきなりテーブルへと突っ伏してしまったのだ。ごん、と凄い音がした、無防備にテーブルにぶつけた額は赤みがかっている。食器の上でなかったのが幸いだった。
「お酒、弱いみたいですね」
言いながらからりと窓を開ける。すっかり日の沈んだ外はほのかな街灯と共に見事な星々が瞬いていた。ひんやりとした空気がゆっくりと流れ込んでくる。張られた結界はたわむことなくそこに存在し続けていて、けれど薄い膜のように夜風を遮らずにいた。揺れるカーテン。
グラスに注がれたのはミードという蜂蜜から作られたお酒だったらしい。
食前酒として度数のさほど高くないものを用意していただいたようだったのだが、どうもルーシェルは全くアルコールが受け付けないようだった。こちらが美味しいと思った瞬間、彼女の声にならない悲鳴が上がったのだ。流石に驚いた、すわ襲撃かと思った。
ルアードは食事持ってって来るから~と一人大荷物を抱えて屋敷の外へと出ていっていた。アーネストは未だ戻ってきていないようだ、ついでに温泉にもいってくると言っていた。ちょっと遅くなるかも~と言い残していった彼とその家族に深く礼をし、早々とこの部屋へと戻ってきていた。随分と失礼な事をしてしまったが、だからといって倒れた彼女を一人にしておくわけにもいかなかった。
この世界にやって来たと言う人間とはまた明日にでも改めて紹介すると言う。里に来たばかりの時ルアードが会わせたいと言っていた人物なのだろう。
思い返してみれば出会った当初から随分と彼らは異世界というものに理解が早いとは思っていた。驚きこそすれ、妄言と一蹴しなかった。先達がいたのであれば当然だろう……子供だと言っていたが、自分達とも違う世界からやって来たのだろうか。同じだろうか。
人一人通れる程度には離されてはいるが、並べて置かれた二つの寝台。仰向けで眠るルーシェルの傍に腰かけると、きし、と小さく軋んだ音を立てる。そろりと手を伸ばす、眉間に皴を寄せ眠る彼女の額を癒そうかと思ったのだが、封魔の術がかけられており上手く発動できなかった。宙に浮いた指先でさら、と。彼女の前髪をほんの少しだけ触れるに留まる。
――不可抗力とはいえ、こうまで無防備に寝顔を晒すか。
それはいっそ呆れのように。
綺麗に張られたシーツ、植物の多い部屋。横たわる魔王、その傍らにいる使い魔。一堂に会する事自体がまずありえない光景だ。目を引く白く細い首、髪の先とは言え触れても起きない。反撃がない。まるで肩透かしのように。全体的に細く小柄な彼女を、自分が今、もし、と。
「…………、」
ルアードの言葉が脳内で再び響く。
共存。共生。共に手を取り合えるのが最善だとは思う。だがあくまでも理想論だ。生き物には感情がある、好きか、嫌いか、大まかに二つに大別されたそれは生きていく上での本能的な指標だ。明確な理由があれば感情は理性を容易く凌駕する。竜人さえとエルフの青年は嘆いていたが、最早竜人そのものがいなくなったとて生じた不和は容易く瓦解しないだろう。
……共存。
自分と彼女の置かれた今の現状を、共存というのだろうか。
脳裏にちらつくのはささやかな疑問。彼女は自分の獲物、美しい獣。必ず殺す絶対悪。そこに感情など必要ない。長く長い間そうするよう定められた間柄、何故と疑問を挟む隙もない。
「にゃー、お水貰ってくるにゃ」
起きない魔王に居ても立っても居られないのだろう、ぴょこんと寝台から飛び降りると、小さな猫型悪魔はてててと何とも言えない足音を立てながら部屋の外へと走って行ってしまった。使い魔の契約を交わしたのはつい先日の事だが随分と主思いだ。後ろ姿を見送ってしばらく、ルーシェルがわずかに身じろいだ。
「ん、……ぅ」
ぱたりと扉の閉まる音が彼女の意識を引き上げたのだろうか。小さく唸ると、ふ、と。ルーシェルは目を覚ました。のったりと持ち上げられる瞼、縁取る長い睫毛がふるりと揺れる。融けだす紅い瞳が淡い光を反射してゆらりと輝いた。血のように紅いそれは、酔いのせいか酷くうるんで艶やめかしい。
「お目覚めですか」
意図して柔らかく。
「ここは、……」
発音が怪しい。ぼんやりとした焦点の合わぬ眼差しでルーシェルは天井を見上げていた。こちらの声が届いているかも怪しい。白い頬を朱色に染め、長くつややかな黒髪が僅かに揺れる。ほう、と漏れ出る呼気は随分と熱っぽく、濡れた唇、常とは違う柔らかな表情にひとつ。胸の内が跳ねた気がした。
己の拍動に疑問を覚え、胸に手をやるが一向に理解できない。考えに没頭していたから、だろうとは思う。
ルーシェルは身体を起き上がらせるのは億劫なのか、こちら側にころりと横向きになる。スカートの裾が彼女の細い足に絡んで体の線を強調していた。力なく胸の前に置かれた折れそうに儚い腕、桜色の指先。白いシーツ、ぼんやりとこちら見つめる眼差し。濡れた唇が僅かに開く。けれどそれは。
「にいさま……?」
彼女の口から零れ落ちたのは自分ではない者を呼ぶ声だった。ほんの少し弾んだような、幼さの残る少女のような問いかけ。ふわ、ときつい目元が緩くほどける、嬉しそうに。酒精にやわく焼かれた舌は声色すら柔らかく解かし、どこか甘さすら漂わせていた。
恐らく、彼女が全幅の信頼を寄せている人物なのだろうと容易く解る。
彼女のこのような表情は見た事がない。
「……違いますねぇ」
ゆるやかに問いかけを否定、舌先から落ちる己の声の固さに自身が驚いた。どうしてこんなにと驚くほど胸の内で拍動が跳ねまわる。
飲酒による前後不覚だ、彼女は常の状態ではない。いや、そもそも彼女は自分の名なぞ滅多な事では呼ばないではないか。誰かと間違えたとて、どうして、こんなに、――こんなに?
「ちがう……、?」
小さく零してルーシェルはこちらをしばらくじっと見ていたが、そこでようやく彼女の兄ではないと解ったからだろう。すう、と華やかに微笑んでいた眼差しから色が消える。きらきらと綺麗な瞳が悲しみに染まったのが解った。先程とは打って変わって気落ちした悲し気な声。
「んン、……そうだな、貴様じゃないな」
いつもと同じ声色。
こちらが誰かを正確に認識したのだろう。
「そう、兄さまは、もう、いない……」
まるで自身に言い聞かせるかのようにゆっくりと彼女は口にする。冷えた眼差しが虚ろにどこかを見ている。
……魔王ルーシェルに兄がいたとは聞いた事がなかった。長らく君臨していた前王が突如として亡くなり、それまで表舞台に出てこなかったルーシェルが王位を継いだと聞いている。彼女に兄がいるとすれば、継承権は兄となるのが順当だと思うのだが――いないというのが引っ掛かる。死別だろうか。それでも、名前の一つ聞いたことないのは一体どういうことなのだろう。
魔界の慣習などこちらでは伺い知れない。
何かもっと、複雑な事情でもあったのかもしれない。
彼女は現在常の状態ではない、どこまで本当なのかも怪しい。でも、確かに慕う「誰か」はいたのだろう。
「私、お兄さんに似ているのですか?」
「いや?」
酒のせいか、どこかいつもより幼い雰囲気でいる彼女に問うが。
此方の疑問にどういうわけだろう、食い気味に否定された。似ていないのか。ならば何故今自分に向かって兄かと問うてきたのだろう。
「兄さまは、強くて美しい方で、私を……助けてくれて――」
疑問符が浮かぶが彼女は全く気にもせず彼の兄とやらの素晴らしさを嬉しそうに語っていた。酔いのせいで呂律は回っておらず、半分も言いたいことは解らなかったが。自分の事などいつもならば語らぬ彼女は幼児退行でもしているのだろうか、語彙力がややこどもっぽい。
実の兄妹ではないのかもしれない、近しい年上の者をそう呼ぶこともある。
女性にしてはやや低く、柔らかくもない硬い声色で少しはしゃいだように喋っている。幼さの残る彼女の、柔らかな雰囲気に少々戸惑う。こんな風に笑うのか。声が柔らかくなるのか。彼女が慕う「誰か」に対して彼女は素直に好意を示している。それは少し、――少し? 少し、何なのだろう。解らない。解らないものが己の中で荒れ狂う。決して暖かなものではないそれは、けれど放り出してしまうにはあまりにも惜しく感じるのだった。
じ、と再びこちらを見上げてくる視線に気づく。
血のように紅い瞳。
「ああ……でも、お前も綺麗で強くて優しいな」
ふわ、と。
穏やかに彼女は笑う。心からの安寧、取り繕う様子もなく。強くて優しい、恐らく彼女が自分に対する評価なのだろう。嵐のように吹きすさぶ胸の内、それでも柔らかな彼女の表情は、感情は、初めて向けられるもので。だからきっと酷く動揺していたのだろうと思う。
「お前がきっと、私を殺してくれるんだろうな……」
さながら懺悔のように。悠揚な祈りのように。
彼女はこちらに告げると、再び眠りの底へと身を任せたのだった。
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