40 白堊おとないて - 2 -

「ええっと、とりあえず状況整理しよっか」

 まずは一旦落ち着こうかとルアードが全員着席させたうえで口を開く。さほど広くない室内、椅子も足りないという事で小柄なヨナは自分の膝の上に座っていた。にこにこと満面の笑みでご機嫌な少女とは対照的に、ルーシェルは眉を顰めて非常に苛だし気にこちらを見ている。半眼でこちらを射る深紅の瞳は冷ややかだ。

「……低級者に対する扱いではないな」

 吐き捨てるかのように低い声。

 多少は血の気が戻って来たのだろうか、先程よりかは頬に赤味がさしてきていたがそれでもまだ少し白い。元々透き通るような白い肌をしているが、血の気が失せると途端青白く見える。ルーシェルは椅子の上で膝を組んで、けだるげに、けれど煩わしい、忌まわしい、不愉快であると隠しもせず全身で語っていた。低級者に対する扱いとは、? ヨナを膝上に乗せたことについて言っているのだろうか。

「貴女だって、リーネンさんを膝や肩に乗せるではないですか」

 魔王がアンカーを使い魔にし、あれこれ構うのとそう変わらないと思うのだが。何が違うのかと口にするのだが返ってきたのは阿呆だ、という小さな嘲りの言葉だった。呆れ果てたとでも言わんばかりに顔を歪めたルーシェルはそれきり口を噤んでしまう。ふいと逸らされた視線、どうやら賛同は得られないらしい。

 非常に機嫌の悪い魔王とこちらを警戒している傍らの使い魔、こちらを見ながら何故かにやにやしているエルフの青年と黒髪の少女。相変わらず菓子を食べる青年と興味なさげに周囲を見ている青年と三者三様の空間。

 テーブルの上に広げられた菓子と足りないグラスの代わりの小さなカップが一つ。開け放たれた窓からそよぐ風は心地よいのに、空は果てしなく青く透き通っているのに。室内の空気は何とも言えず淀んでいるような気がする。満面の笑みでぱたぱたと足を揺らすヨナだけがこの場にどこか不釣り合いだった。

「ええと! 俺とアーネストは『赤の神』探し、ハヤトとアズサはこことは違う世界から来た二ホン人で、元の世界に帰る気なし。俺らは時々戻ってきて竜人の動向をじっちゃんに報告したり、珍しい食材なんかをハヤトたちに持って帰って来てたんだ」

 ルアードが強引に話を進め始める。

「ヨシュアさんが今付けてるイヤリングも、元々はアズサへのお土産だったんだ。言語変換の範囲が広くて、なおかつちょっとオシャレなやつ」

 きれいでしょー、と。どことなく不穏ささえ感じる中ルアードの声が大きく響く。

 この世界に来た時、彼らに助けられた時。言葉が解らず困惑しているこちらに手渡された赤いイヤリングは未だ己の両耳で揺れていた。そろりと己の耳に指をやると、つるりとした石の感覚が指に馴染む。小さな雫型をした深紅の石に金色の金具のついた華奢なもの。梓の付けているものと石は同じようだったが、確かにデザインが違っていた。隼人のしている青い石の補聴器と色違いだ。――片眼が見えず、梓は脚、隼人は耳が使えなくなったが、それでも彼らはこの世界がいいのだと言う。魔法で補うことは出来るとはいえ不便だろうに。

「ハヤトは手先が器用でねぇ、加工師みたいに強力なものは無理だけど、魔石を使った武器とかアクセサリーとか作ってるんだ」

「武器って言うかもっぱらお前ら専用の鏃な。エルフ達は弓を使うし」

「ハヤト達は外に出ることないもんな」

「こんなVRもびっくりな世界で外に出ようとも思わんよ」

 命がいくつあっても足りん、と。隼人は飄々と語るのだがルアードは怪訝な顔をしている。

「ぶ……なんだって?」

「仮想現実なんだが、こっちにゃない概念かもしれんな」

 変な顔すんなよと隼人は屈託のない笑みを浮かべていた。

 無理をしているようには見えない。やや釣り目の瞳は愉快そうに緩んでいて、見えないと言う目も聞こえないと言う耳も知らなければ気付かないだろう。不調らしいものは見受けられず、ごくごく自然体に見えた。

「まあ、そうはいっても俺はただの人間だから魔石の形を整えてるだけに過ぎない。魔石はそれぞれがなんだ、……属性? があるんだろ。火属性の魔石、水属性の魔石、だっけか。魔石は常時魔力が帯電されているから、攻撃時に属性が付与される、んだよな?」

 俺が使うわけじゃないから知らんが。

 グラスに口をつけながら隼人が興味なさそうに言えば、そうそうーとエルフの青年は相槌を打つ。

 石の色によって帯びる魔力が違う魔石。

 ルアードの持つ鏃は鋼ばかりだったが、状況によって使い分けるのだろう。いつだったか、『魔』に突き刺さった矢じりから火花が散っていたことがあった。あの時は霊力の発動が出来ず判別しなかったが、恐らくあれが「付加された属性」だったのだろう。

「ルアードさんの鏃も隼人さんが?」

「ああ、お得意様ってやつだ」

 こちらの問いに、隼人はにやりと口元を歪めながらいい金になるんだ、と笑った。

 異世界で生計を立てる人間は強かだ。払ってるのは正規の金額だよとはルアードの言葉だが、恐らく随分と目をかけてやったのだろうと思う。何の基盤のない余所者が、保守的だと言う里の中で生活してくのは生半可な努力で補えるものとは思えなかった。住処、食事、この世界での常識、自分達も随分と世話になった。

「えー、別に特別扱いはしてないし。ハヤトは仕事が丁寧でいいんだよねぇ、里の奴らがここで買うのだってハヤトの努力の結果でしかないよ。粗悪品買ってやるほどお人よしばっかじゃないし」

「……たまたま性に合っていただけだ、仕事は必要だったし」

「お兄ちゃん凝り性だもんねぇ。オリビア様もいい腕だって褒めてたよ」

「なんだ、随分褒めるじゃないか」

「あら? あら? もしかして照れてる?」

「うるさいな」

 ばつの悪そうに眼を泳がせている隼人の頬を、梓がくすくす笑いながらつついている。可愛い所あんじゃん、とルアードが茶々を入れて小突かれていた。

 仲睦まじい兄と妹、この世界にやって来て、手に職をつけ、畑を作り、逞しく生きている。

 じゃれるように笑いあう彼らに、本当に仲がいいのだなと口元が緩む。それなりに苦労もあるようだが健やかに過ごせているのであればよかったのだと思う。今更帰る場所もない、しがらみもなくなったと。悲観するでもなく晴れやかに帰りたくないと言っていたのだ、本心からだろうそれを否定する事もない。

「お二人さんをハヤトたちに会わせたかったのも、何か共通点でも見つかれば帰る為の手掛かりになるかなって思ってたんだけど……まあ、もう必要もないのかな」

 ルアードがこちらに振り返る。

 揺れる金の髪と穏やかな緑の瞳。

「ヨシュアさんはお迎えが来たってことだよね、ヨナちゃんと一緒に帰るのかな」

 だとしたら寂しくなるねぇと。

 残念そうに笑う彼の表情にああそうか、と。そこでようやく思い至る。アンカーであるヨナがやって来たのだ、空間転移の為の前準備。彼女が天界側に自分の居場所を伝え、間もなく転移の為の門を開いた使者がやってくるはずだ。

 賑やかな彼らとの旅もここで終わり。

 暖かな人間との交流、会話、見る事しか出来なかった彼らと交わす会話。楽しくて。優しい食事、人の子らの気遣い、健気に生きる魂の輝き。理の違う世界、自分の名を呼ぶ声、揺れる黒髪と強烈な光を放つ赤い瞳と――

「当然よぅ!」

 自分よりも先に大きな声で答えたのはヨナだった。膝の上でえへん、と少女が誇らしげに胸を張っている。

「ヨシュアさまはぁ、天界に必要な御方だものぅ。どこぞの悪魔のせいでぇ、天界は今ぁ、大変な事になってるんだからぁ」

 ヨナが先程と同じように、天界は今大変な事になっている、と。口にする。

 思い起こされるのは真白い空間だった。清浄な世界、光に満ち溢れた世界。そこに残してきてしまった者達が脳裏に浮かぶ。共に職務に当たる御前天使、自身を含めた七名の熾天使。そこに穴をあけてしまった、最も責任ある立場であったのに。彼らは今どうしているだろう、随分と苦労を掛けているに違いない。

 そう、だから。

 戻らねばならない。

 己の使命を果たさねばならない。

 悪魔を殺し、世界の秩序を保ち、人間を護る。その為の生。心地よさを覚えたとしても、いつまでもこのままではいけない。ならない。長い生の中、瞬きのような時間。元の世界に戻って何もかも元通り。夢は覚めなくてはならない。

 ちら、と向けた視線の先。悪魔どもの王。

 長い黒髪はつややかに陽の光を受けて輝き、紅い瞳がきらりと光る。幾分か血色の良くなった顔はしかし酷くつまらなさそうにしている。しなだれかかるようにして座る彼女を、ヨナが不躾な眼差しを向けているが、まるで気にしていないようだった。鼻白んだようにつんとしたその表情に、ヨナは語尾を若干荒げながら尚も続ける。

「あの日ぃ、おぞましい力がぁ、天を貫いてぇ、天界にやって来たのよぅ」

 憎らしげに。

 怨ずるように。

 この世界へと転移してくる直前のこと。

 魔王の住むといわれる魔界の最下層から結界を突き破り、天界の最上階までやってきた悪魔がいた。破壊の限りを尽くし、立ち向かった天使達をまるで紙切れのよう斬り捨て、圧倒的な力で他を制し、漆黒の四対八枚の皮翼を広げ狂ったように笑っていた。深紅に染まる黒く巨大な刃を片手に悠然と中に舞う、炎に煽られ巻き起こる旋風になぶられる煌めく黒髪、肺腑に満ちる空気は焼けるように熱く。清廉な天界に似つかわしくない噎せ返るほどの血の匂い、土煙、輝く空は黒煙に染まっていた。

 その中で一際輝く紅玉のような瞳。

 低く仄暗く鳴り響く高笑い。

 自分を認識した瞬間切りかかる、恐るべき力を纏い振るう魔王。名を聞くばかりだった女悪魔。彼女の目的も解らぬまま刃を交え、術が交錯し、――そうして、現在に至る。

 連綿と続く筈だった世界。

 それを命と共に破壊した悪魔。

「滅茶苦茶になった天界にはぁ、やっぱりぃ、ヨシュアさまが必要なんですよぉ」

 なのにどうして悪魔と一緒にいるのですかと膝の上にいるヨナがこちらを見上げながら問う。その眼差しは、何故さっさと悪魔を殺さないのか、と。訴えてもいた。共にいる理由、殺さない理由。元の世界に戻って決着をつける為だ。数多の同胞を虐殺した悪魔を許す筈もない、必ずこの手で始末をつける。

 きゅ、と小さく指先に力を込めた。

 努めて緩やかに微笑みかける。

「ええ、ですので」

「お前はどうなんだ」

 戻らなければならないと口にしかけて。

 不意に上がった低く響く声に思わず顔を上げた。こちらを見やるのは深紅の瞳、真っすぐに、静かに。冷えた色を湛えたそれに胸の内を撫でつけられたような気がした。

「お前は帰りたいのか?」

 もう一度彼女は問う。

 いつものような苛烈さのない、緩やかな眼差しに言葉に詰まった。静かに彼女はこちらに問うてきているのだ、本当にいいのかと。それがお前の本心かと言わんばかりに。――とっさに声が出ない。

「そんなのあなたにはぁ! 関係ないじゃあ、ないですかあ!」

 何と返していいのかわからない自分の代わりにヨナが叫ぶ。

「私は本人がどう思っているか聞いているだけだが」

「余計なお世話よぉ!」

 ルーシェルの静かな声に反してヨナは声を張り上げる。ぴょん、とこちらの膝から降りた少女がすがるように抱きついてきた。小さな体、細い指、幼い低級天使。

「ヨシュアさまはぁ、帰りますよねぇ?」

 不安げにこちらを見上げる少女の瞳。空を溶かし込んだかのような淡い色彩が揺れて、こちらをじいと見つめている。彼女は迎えだ、穏やかな時間は終わり。戻らなければならない。義務と願望。ひとつ、息をついて。

「……もちろんです。皆様にもご迷惑をおかけしてますし、それこそが私の役目ですから」

 だから、と。続けようとして、くっくと低く笑い声こえてきて思わず口を閉ざした。ルーシェルが肩を震わせているのだ。

「……くだらない、人形はどこまでも人形か」

 ばさりと前髪をかきあげ、恫喝するかのようにその美しい顔が歪んだ。まるで心底失望したとでも言わんばかりのその表情に、何か言わなければと思うのに。言葉が喉の奥に張り付いたように出てこない。

「人形って何よぅ!」

 反射的に叫ぶヨナをじろりと赤い瞳が捉える。仄暗い光が宿るそれに、戦うこともままならない低級天使はうぅ〜と。唸るようにこちらに回す手に力を込める。

「こ、こわくなんかぁ、ないもん……!」

 震えるヨナに、何も言えないこちらに。

 冷ややかな一瞥をくれると、まだ若干白い頬のままゆっくりとルーシェルは立ち上がった。

「ちょ、ちょっとルーシェルさんどこに行くの」

「不愉快だ、天使と共になぞ居られるか」

 こちらのやりとりをはらはらしながら見ていたルアードの声。それに短く答えると、そのまま部屋から出ていこうとする。後を追うリーネン、自分もルーシェルを追いかけなければと思うのに、でもその理由がわからない。追いかけてどうする、なんと言うつもりだ。わからない、道理が見つからない。

 ふと、立ち止まった魔王がこちらに振り返った。揺れる黒髪、流れ込んでくる風に乗るふうわりと香る柔らかな香り。しゃらりと彼女の髪飾りが揺れて音を立てる。

「…………意気地なし」

 言葉が。

 ごとりと音を立てて落ちた。ような気がした。

 何に対してなのかわからないのに、腹の底が冷えたような気がする。胸の柔いところを弄られるような感覚にひゅ、と。喉が鳴った。

「ま、待ってくださいルーシェル、」

 慌てて彼女を追いかけようと立ち上がった。がたりと音を立てる椅子、しかし構ってはいられない。

 視線の先、開かれる扉。その向こうには美しく広がる庭。森。淡い色彩の空、緩やかにそよぐ風、たなびく美しい黒髪をした厄災の悪魔。未知の世界、回る感情、気付いてはいけない。何もかも蓋をして、動ずる事のないように。心乱されることのないように。それこそが正しい。それこそが正道。その為に生かされた命。背負う業と命題。私という個は必要ない。だからこそ。

「――全部全部、あなたのせいなんだから」

 忌々しげに。

 怨嗟の言葉にはっとした。

 振り返れば小屋の外に出ていたルーシェルに向かって、ヨナは何かを構えていた。薄く丸い鏡のようなもの――捕縛の為の封霊具。力を持たない低級者も扱えるようにか、恐ろしく強力なものだとわかった。それ自体が霊力を纏っている、霊力を封じ身体を縛り上げる対上級悪魔用の封霊具。

「ヨナ、一体何を……」

「悪魔なんて、みんな消えてしまえばいいんだわ」

 言葉と共に封霊具から光が弾け、幾重もの光の帯がルーシェルに向かう。しかし魔王は動じることもなく、あわあわと慌てるリーネンを目一杯突き飛ばしすと音もなくナハシュ・ザハヴを呼び出した。そうして一人の捕縛の光を実に鮮やかに斬り捨てていく。刃が当たり弾け飛ぶ光の粒、舞い踊るように全て叩き斬る。

「この程度で私を封じるつもりか……随分と舐められたものだな」

 くだらないと言わんばかりに小さく笑って。

 彼女を絡め取ろうとする光の帯最後の一つを、刃を滑らせるように切り捨てようと一際大きく振り上げたその瞬間。

「よくやったアンカー」

 空から聞こえる懐かしい声にぞわりと肌が泡立った。己の知っているものからは想像もつかない程冷徹な男の声。空気が変わる、周囲が夥しい霊力に満ちる。ばっと見上げればふわりと舞い踊る真白い羽根、揺れる長い銀の髪。ふわりと現れたのは一人の天使、きらりと光る鮮やかな紅い瞳。すいと指先が宙を切る、収束し圧縮していく力の流れ。明瞭な殺意。

「やめ……ッ」

 言葉よりも先に、光の矢が魔王の身体を無数に貫いた。

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