41 白堊おとないて - 3 -
降り注ぐ無数の降魔の光が目の前の魔王を貫いていった。彼女の真白い肌に突き刺さる度、あざやかな真紅が視界を染め上げる。腕を、脚を、肩を腹を。貫き、穿ち、肉を裂く。まるで静止画のように流れていく光景。噛み殺した声が唇から漏れ出る、長くつややかな黒髪の間から覗く苦悶の表情、きつく噛み締められた赤い唇。
「ルーシェルさま!」
ナハシュ・ザハヴを両手で掴み、膝をついた魔王にリーネンが泣きながら駆け寄る。ぼたぼたと彼女から流れ出る血は血溜まりを作り、周囲を赤く染め上げていく。じわじわと足元に広がる朱色にぞわりと。肌が粟立った。
「防壁を張ったか」
酷薄にさえ聞こえる男の声。
真白い翼を背に、長い銀髪の天使が無感動に無表情に宙に佇んでいる。その手には今なお光の礫が揺蕩っていた。アンカーからの座標指定による正規のルートでやって来た彼は、自分達と違い通常通りの力が使える筈だ。周囲に満ち溢れる霊力、紡がれる強力な術式。霊力の高さ故に誰も歯が立たなかったルーシェルだったが、今の彼女なら、彼の持つ霊力なら。容易く殺すことが出来るだろう。
受けた傷からぼとぼとと音を立てて流れ続ける血潮、回復霊術が使えない彼女には致命傷だ。痛みに震える細い身体、小さくむせて、べっ、と血を吐き出していた。乱暴に拭われる口元、こすれた血の痕が手の甲を汚している。立ち上がることもままならないだろうに、ルーシェルはなおも銀色の天使から目を逸らさない。蒼白の頬、額に滲む汗。奥歯を嚙み締め耐えている。一目見ただけでも先日襲撃を受けた時より遥かに深い傷だとわかる。泣きながらリーネンが必死にルーシェルの傷を癒そうとしているが、低級魔族の回復霊術など程度が知れている。
流れ続ける命の色。
視界は狭隘。
縫い止められたように動けない。
背後からばん、と扉の閉まる音がした。
はっとして振り返れば小屋の扉が固く閉ざされていた。ぱたぱたと窓も閉められていく、ルアードや隼人達は室内に立て籠もったらしい。天使が人間に危害を加える事などありえないが、万が一という事もある。彼らの咄嗟の判断に感謝しながら、は、と震える呼気を零し現れた天使の前へと進む。
「やめなさいサンダルフォン」
ルーシェルとリーネンの前に立ち塞がるようにして名を呼べば、サンダルフォンは怖気の走る程凍り付いた眼差しでこちらを見据える。見開かれたそこには燃えるような憎悪と怒りとを湛えている。
ひ、と背後でリーネンが息を呑む音がした。にゃんで天界のナンバーツーが、零れ落ちた言葉はしかし地に落ちず霧散する。美しい銀の髪、紅い瞳をした熾天使サンダルフォン、……自分の右腕ともいえる副官。
「そこをおどき下さい」
押し潰したかのような、唸るような声での要請にしかし応じられない。怒りという怒り、憎悪という憎悪。厭悪。憤怒。今にもルーシェルに飛びかからんばかりの彼へ、駄目だとゆるく頭を振る。
「いけません殺しては、」
「何故でしょう」
制止に返ってくるのは怒声混じりの疑問の声。心底理解できないと言わんばかりにふわりと地に降り立つ。きりきりと突き刺さらんばかりの眼差しに、明確な殺意に。向けられる怒気に肌が焼かれるようだった。
「……今ここで争っても仕方がないと言っているのです」
つとめて冷静に。
短く告げて、怒りに戦慄くサンダルフォンに背を向けてルーシェルと向かい合う。出血は止まらない、しとど流れ落ちる血、声もなくこちらを睨みつける彼女の側にそろりと膝をついてその頬に指を伸ばした。
「何を、」
「喋らないでください、……出血が酷い」
血色を無くしているというのに、噛みつかんばかりに唸る彼女にゆっくりと治癒の力を使う。
己の霊力を増幅装置、細かな文様の刻まれた幅広の腕輪へと流し込む。右腕に嵌めたそれは鈍く発光しながら霊力を編み込み、指先からふうわりと柔らかな風が生まれてやわくルーシェルの頬を撫でていった。頬を、肩を、噴き出す血に指先を濡らしながら直接回復霊術を肌の上に滑らせていく。ゆっくりと、けれど確実に裂けた皮膚を塞ぐ。もっと強力なものが使えれば触れる必要もないのだが、制限のかかったこの身では一度に使える量には限度があった。
指先が彼女の肌を撫でる度に、固く食いしばったルーシェルの口元が徐々に緩んでいく。強張った身体から力が抜けていく。折角回復気味だった頬がまた蒼白になっているが、それでも苦痛に引きつれた表情から、漏れ出た呼気に安堵した。生きている。失血は如何ともしがたいが、それでもひとまずは大丈夫だろう。
「……絆されたか」
男の口調が荒いものへと変わる。見ずとも解る鋭い眼差しが背中に突き刺さる。
ゆっくりと立ち上がって振り返れば、ぎ、と。はたしてサンダルフォンの赤い瞳がこちらを射抜いていた。赫怒。激昂。霊力を怒りに震わせて、その長い銀の髪がざわりと揺れる。彼の指先に残る光の矢、礫、ぐしゃりと握りしめ弾け飛ぶ。飛び散った粒が霧散して霧のように掻き消える。
「悪魔は甘美な言葉で他者を欺く。籠絡する。情に絆されて正常な判断が出来ていない」
「違います、話を、」
「何が違う!」
吼える。
「悪魔を助け、何が違うと言うのか!」
ごう、と音を立ててサンダルフォンを中心に風が巻き起こる。肌を劈くような怒りの感情が周囲に満ち満ちる。激情が凝って彼の周囲に吹き出す霊力が小さく爆ぜる。
「あの日! 破壊の限りを尽くした悪魔を何故殺していない! 何故傷を癒す! 助ける!」
ばちんと一際大きな音を立てて力が弾けた。弾けた細かな光が無数の矢となり、一斉にこちらへと向かってくるのを静かに見ていた。煌めく虹色のプリズム。
「――穢らわしい悪魔に何をされた」
びたりと。届くことなく首元に突きつけられる幾多もの光の矢、後ほんの少しでも動けば突き刺さるだろうそれを静かに見つめる。何故悪魔を殺さない、何故助ける、何か理由があるのか、返答次第ではこのまま粛清も辞さない――サンダルフォンはそう言っているのだ。悪魔と手を取り合う事など元来あり得ない事なのだから、脅されたのだろう、弱みを握られたのだろう、そう思うのは然程おかしな発想とも言えなかった。もし悪に染まったのであれば他に影響を与える前に処分する――不文律。
悪魔は邪悪なもの。
人を惑わし堕落させる絶対悪。
数多の同胞を殺した醜悪なる者。
傲慢で醜悪、退廃を好み享楽に耽る。
我らと相容れぬ者。だから協力し合う事など不可能だ――自分もかつてはそう考えていた。悪魔など、と。疎んじ軽んじ有無を言わせぬまま斬り捨ててきた。そういうものだからと。交わる事などない、殺し合う啀み合うだけの関係、それは今も変わらない。けれど。
「……彼女はそんな方ではありませんよ」
ふ、と。小さく笑みを刻んで静かに告げる。
少なくとも、彼女は今まで相対してきた悪魔とは違った。口は確かに悪い、態度も尊大である。だがいたずらに他者を貶めるようなことはなかったように思う。
欺き、籠絡、誘惑、そんな事実はない。事実と違うことは容認できない。
「彼女だと?」
わなわなと震えるサンダルフォンの声。
向けられる光の矢が彼の感情に呼応して細かく震える。
「腑抜けたか」
怒りのままに感情をぶつけて来る。当然だ、悪魔の肩を持つ天使など聞いたこともない。ついと口から零れ落ちた彼女という言葉、擁護するかのような物言いだったかもしれない。殺し殺される関係、向けあう殺意。それだけが共通点だった筈だ。戦場で殺してきた数多の悪魔、交えた刃の数、当然訪れる未来は変わらない。
「そもそも、私達がこの世界に干渉することは憚られます。彼女を今ここで殺したとして、肉体という枷を失った魂と霊力が及ぼす影響を危惧したまでです」
天界への侵入、破壊、殺戮、罪過は余りある。許す筈もない。
けれどそれはあくまで自分達の世界での尺度だ。事故であったとはいえ、こちらの世界に勝手にやって来て影響が零とは言えないだろう事態は避けねばならない。
「この世界の秩序を乱す事は許されません」
「だからと言って魔王を生しておく必要などないだろう!」
この世界の事。元の世界の事。
総合的に判断した結果の現在であると告げるのだがしかし、サンダルフォンは関係ないとばかりに声を荒げる。
「今ではないと言っているのです」
長い生の中のほんの瞬きのようなこの時間。
霊力に制限がかけられた現在彼女を殺す事など造作もないだろう。体力、腕力、体格差から見ても彼女が自分に勝てるとは思えなかった。陽光を厭い、植物に圧倒され、よく負傷し倒れる細く小柄なルーシェル。柔らかな雰囲気の女性に何故か強く出られず、彼女にとって然程有益とも思えぬ低級悪魔を自分の配下に加え、よく怒り声を荒げ、――傷みは罰だと。こちらに告げた悪魔。終りを待ち望む悪魔。
お前はどうしたいのだと、問うてきた。
義務と願望。どう、したいかなどと。
ゆるく目を伏せる。
……魔界側はこの状態の魔王を狙っているようだったが、常の状態ではない相手を嬲るのはあまりにも趣味が悪いように思う。確かに現在の弱体化した彼女を殺す事など容易いだろう、けれどそれでは彼女に殺されていった同胞に顔向けできない。呆気ない終りを求めてはいない。今ではない。
「元の世界に戻ってから決着をつける、そう約束を交わしました。全てはそれからです」
憤然としているサンダルフォンに静かに告げる。
「魔王と云えど約束を違えるわけにはいきません」
きっぱりと理由を口にするのだが、サンダルフォンは口をぱくぱくと開閉しながら顔色を悪くしていた。激昂した赤い頬が青くなったり白くなったりする様を、どうかしたのだろうかと見やる。
「悪魔と、約束……ッ」
絞り出すような声で頭を抱えたかと思うと、
「悪魔が約束など守るか!」
幾度目かの怒号が飛んできた。
びりびりと震える空気、突き付けられたままだった光の刃がわっとこちらから離れて宙を舞った。彼を中心に外へ走るように飛び出し、そのままぱちんと弾けて消える。掻き消えるように宙に溶ける。
「狡猾で卑劣な悪魔が契約もなく言う事など聞くわけ無いだろう! ましてや我々の言う事など!」
「しかし今現在こうして共にあります」
身も世もなくがなり立てるサンダルフォンに説明をするのだが、彼は一向に納得しない。確かに口約束程度で律儀に約束を守る悪魔などいないだろう、ルーシェルとは目的が一致していたからに過ぎない。利害の一致。協力し合っているとは流石に言い難いが、それでも行動を共にしている。いやに挑発はしてくるものの、この世界に来てから刃を交えたことはなかった。彼女の本意などこちらが慮る必要などない、交わした約束が全てだろう。
「殺すだのなんだの……好き勝手なことを言ってくれる」
遮るように背後からじとりとした声が上がる。
振り返ればふらふらとしながらも立ち上がるルーシェルがそこにはいた。大鎌を杖代わりにし、リーネンに支えられながらそれでもこちらを射る瞳には強い光が宿っている。
「約束だ何だと……随分と律儀な事だ。そこの男が勝手に言っているだけだ、私が守るとでも? 天界の王とは余程めでたいおつむをしているようだ」
「黙れ悪魔! 諸悪の根源が何を偉そうに……全て貴様のせいだろう!」
息苦しそうにしながらも吐き出される嘲り、煽り。低い声がかすれてサンダルフォンの神経を逆撫でていく。そう、彼女はがやってこなければこのような事態にはなっていなかった。それは事実。天に在りだた職務を果たすだけだった。悪魔というものを知らず、彼女らの事を知らず。
「この世界も、貴様らのくだらない矜持も、私には関係ない。先程食らった分だけでも返してやろう、私はこの世界がどうなろうと知った事じゃないんだ」
「いい気になるなよ悪魔風情が……!」
ぎちりとナハシュ・ザハヴの柄を握りしめ、酷い顔色で刃を構えるルーシェルにサンダルフォンが応える。彼の指先に力が集まる。双方の赤い瞳が憎悪に燃えて絡み合う。
「やめなさいサンダルフォン、ルーシェルもその状態で何が出来るというのですか」
「うるさい神の傀儡め……ッ」
「それだけ喚けるなら大丈夫そうですね……サンダルフォンも下がりなさい」
「何故止める!」
「言ったでしょう、今ではないと」
声を張り上げる二人に静かに返せば、サンダルフォンはきつく奥歯を噛み締めたあと不承不承と言わんばかりにその手の霊力を霧散させた。弾け飛ぶそれがきらきらと輝いて、かつて自身も自由に使えたそれに言いしれぬ郷里を思い出す。己の意志一つで発動していた霊力は今はもう無いに等しい、増幅装置を焼き切らないよう加減してからでは大した威力にはならない。
「……ご随意に……」
苦虫を噛み潰したかのような渋面のサンダルフォンが胸に手をやり軽く頭を下げる。こちらの指示にはひとまず従ってくれるらしく、ほうと胸を撫で下ろした。
彼の長い銀の髪がさらりと風に揺れる。
このような自分に仕えてくれる副官、何もかも置いて来てしまった彼らには大変な苦労をかけてしまっているだろう。己の不在、破壊された天界の立て直し、魔界側の不穏な動きと問題は山積みの筈である。
「ありがとうございます、……正直、あなたが来てくださるとは思いませんでした。ご迷惑をおかけします」
感謝と謝罪とを口にすれば、返ってくるのは形容し難いじっとりとした視線だった。何か言いたげに口元を戦慄かせて、はあ、と。深く溜息を吐く。
「………………どれだけ心配したと思っている」
「すみません」
「ともかく、無事でよかった」
サンダルフォンはそう口にしながらも眉間にこれでもかと言わんばかりに皴を寄せて、深い溜息を吐く。安堵と怒りとがないまぜになった非常に複雑な表情をしているのである。
「この事態は想定外だったがな……」
冷ややかな眼差しでルーシェルを見やる。
信用などしない、許しはしない。
そんな感情を剥き出しにして口元に不快感を示す彼が、ぱちん、と不意に指を鳴らした。瞬間、ルーシェルの首に光がぎゅるりと巻き付いたのだ。
「サンダルフォンなにを、」
「俺はお前の指示に従うだけだ。悪魔、少しでもおかしな行動をしてみろ。その首の枷、弾け飛ぶぞ」
冷ややかに投げつける。
光の凝ったそれは罪人の逃亡防止用に使われる強固なものだったはずである。術者に居場所を告げ、場合によっては首輪自体を破壊し装着者を死に至らしめる。ルーシェルに高い霊力があれば脅威にもならないだろうが、今現在のそれでは致命傷は避けられまい。
「悪魔は信用ならない」
吐き捨てるように。
「約束だと? 守るわけがないだろう。今まで共にあった? 明日もそうだとは限らないだろう。悪魔は狡猾だ、容易く嘘を付く。騙す。殺し、犯し、力が全ての蛮族だ。好き勝手にさせてはならない。殺すなと言うのであれば相応の対処は必要だろう」
逆に何故今まで何の枷もかけなかったのだ――こちらを見る瞳がいらいらしたように告げていた。
不愉快そうに金色の輪になったそれを指で弾いたルーシェルが、ふん、と。鼻で笑う。
「こんなもので私を縛ったつもりか」
「手綱は必要だ」
「この私を御せるとでも?」
く、とルーシェルは嘲るように薄い笑みを口元に刻んでいる。その表情はやれるものならやってみろと言わんばかりに歪んでいた、あからさまな挑発。
「いいさ、出来ると思うのならな。せいぜいその手綱とやらを握ってみせろ」
ひら、と手のひらを振ってくだらないと呟いた。金色の枷をはめられたルーシェルはしかしさして気にした様子もなく、ナハシュ・ザハヴをふ、と消していた。そうしてふらりとどこぞへと向かい始める。皆がいる小屋とは反対、庭から出ていこうとしているのだ。
「どこへ行くつもりです」
「いちいち貴様の許可が必要か?」
声を掛けるも振り返りもしない。なんだと、と、サンダルフォンは再び腹を立てているようだったが、彼女のその足取りはおぼつかない。どこまでも気丈に振る舞ってはいたが、酷く辛そうにしているルーシェルの傍へ改めて近寄った。半泣きのリーネンにやわく笑みを向けて、身を強張らせて警戒する彼女に手を差し伸べる。
返ってくるのはげんなりしたような表情であったが、ルーシェルはもう暴れたりはしなかった。抵抗する気力もないのだろう。傷口は塞いだとはいえ、かなりの出血量だったのだ。彼女の着ていたコートもずたずたである、血に染まったそれと血溜まりを見れば先程の貧血など可愛いものだろう。
「一度、お部屋に戻りましょう。ルアードさん達も怖がらせてしまいました」
びしゃ、と。ゆっくりと抱き上げればコートから血がしたたり落ちる。こちらの衣服にじわじわと染みてくる生ぬるくぬめった感触、ルーシェルからの抵抗はない。諦めたかのような表情で大人しく抱えられてくれたのは助かる、失血量の多い中無理をしてはそれこそ生命が危ぶまれる。死なれは困るのだ。この世界の為にも、交わした約束の為にも。
「何をしている……ッ」
しかしこれに慌てたのがサンダルフォンである。
「何をとは、」
「何でそれを抱き上げるんだ!」
それとはなんだ、腕を組み大人しく抱え上げられたルーシェルが憮然とした表情でぼそりと口にする。
「困ってる方に手を差し伸べるのは当然のことでしょう」
「悪魔には適用されねぇんだわ!」
当たり前の事だろうと告げるのだが、サンダルフォンは絶叫して今度こそ頭を抱え込んでしまった。
「悪魔は殺せと言ってるんだ!」
「そ、そうですよぉ! なんでぇ、悪魔をだっこ……だっこ! ヨナもぉ!」
こちらのやり取りを見ていたらしいヨナも駆け寄ってくる。ぴょんぴょんと手を伸ばして己も抱き上げてほしいという少女に、リーネンがうるさいにゃあと腹を立てていた。似たような年の頃である、なによぅと言い返すヨナとのやり取りはじゃれ合いのようにも見えた。互いに戦闘能力はないに等しいからだろう、どこか微笑ましくさえあって。
片手でルーシェルを抱え、もう片方の手で白髪の少女の頭をゆるく撫でてやる。はわぁ、良く分からない感嘆の声を上げる少女に微笑みかけて。
「ヨナ、あなたは後です」
「だから! なんで低級者に構うんだ!」
順番ですよと告げるのだがしかしこれにもサンダルフォンは声を荒げて反駁してきた。何故も何も、である。
「求められたら応えるべきでしょう?」
「階級という秩序を重んじろ!」
「肩書など名ばかりでは……」
「お前がそれを言うのか!」
もはや地団駄を踏む勢いである。
熾天使サンダルフォン、天界における上から二番目、自分の次に位の高い高位の天使である。強大な霊力を持ち他の天使達を指揮する立場。元々自分とは違いかなり快活な彼ではあったけれど、ここまで声を荒げる様など長い付き合いの中でも見たことがなかった。
「悪魔は殺せ! 低級者には距離を取れ! 立場を考えろ!」
「殺しては駄目だと言っているではありませんか」
「それはそれ! これはこれだろう!」
「何を言っているのでしょう……?」
「なんでだよ!!!」
咆哮である。
「……やっぱり貴様がおかしいんじゃないか」
ぼそりと、抱き上げたルーシェルの何処か引いたような声。顔色の悪い彼女におかしいと言われても、自分にはどこがそうなのかはわからなかった。魔王ではあるがこの世界の為に殺してはならない、約束は守らねばならない、低級者といえども等しく接する、それは、そこまでおかしな事だとは思えない。
「貴様の上官は一体どうなってるんだ」
「融通はきかないかもしれない……」
こちらがサンダルフォンの言葉を理解し難く思っていたからか、ルーシェルがサンダルフォンに向かって問いを投げかけていた。どうなっているもくそもあるか、己の副官はしかしどういうわけか額に手を当てながら呻いていた。そろそろ泣き出しそうだな、とは。ルーシェルの呟きである。泣く、とは?
「お前の上官が阿呆みたいにおかしなことをているわけだが、この場合どうするつもりだ?」
「………………知らんわもう」
自分のことを話しているのだろう事までは解ったが、良くわからない会話を二人が交わし始める。どうやらさじを投げられたらしい、何を投げられたのかは定かではなかったが。
困惑している自分と彼らとの間に、さらりと風が吹き抜けていった。何一つ好転などしていないのに頬を撫でていくそれらは酷く心地よい。空は青く、緑は美しく。瑞々しく緑の葉を揺らす畑、果樹、……美しく整えられていた庭も穴だらけになってしまっていた。何より大量に流れ出た血痕によりなかなか凄惨な光景となっている。結界に守られたエルフの里での流血沙汰だ、ここに住む彼らにとってサンダルフォンもヨナも侵入者である。
「……これでは叱られてしまいますね」
小さく口にして苦笑する。
流石に異世界とはいえ下界である、人間達への影響も考慮したのか使われた霊力はある程度加減はされていた。それでも厄介事を持ち込んでしまったのだ、ここへの滞在を許してくれたイーサンやオリビアにも謝罪すべきだろう。
「誰がお前を叱るって?」
何もかもが面倒になったような、投げやりな表情でサンダルフォンがこちらの呟きを拾う。そこには疲労の色が濃い。
「私達を助けてくださったこの世界の方達ですよ」
「はん……保護してもらったってわけな」
「そうです、霊力も使えず言葉も通じない私達に心を砕いていただいて」
「んで、そんな恰好なわけか」
まじまじとこちらの世界の服に身を包んだこちらを見る。
こちらに来た時には丁寧な口調だったサンダルフォンだったが、最早取り繕うのも馬鹿らしくなったのか実に砕けた物言いになっていた。職場ではないのだからという判断もあるのかもしれない。上に立つ者は下の者の模範にならねばならない。
「……階級を重んじろと言う割には随分と態度の大きな配下だな」
眉を顰めてルーシェルが不愛想に言い捨てる。
熾天使には七名が名を連ねていた。持ちえる霊力量と能力値で細かく階級が決められているのだ。最上位であるメタトロン、その次がサンダルフォン。
魔界では力が全て、天界のように細かな階級制度ではないようだが能力の劣る者が上の者にぞんざいな物言いをすればどうなるかくらいは容易く想像がつく。それを言っているのだろう。
「古い友人なのです、共に士官学校で学んだ仲なのですよ」
「友人じゃない、親友だ」
ふん、と面白くなさそうにサンダルフォンはそれでもはっきりと口にする。ずっと自分を助けてくれてきた大切な友人、親友だと臆面もなく宣言する彼にふふ、と。小さく笑った。
足元にはルーシェルの側から離れようとはしないリーネン、ヨナもまだでしょうかとこちらを見上げて来ていた。わくわくととした緑がかった青い瞳、だっこしてくださいとねだるその様子は微笑ましい。自分達にもこのような時があった、サンダルフォンと初めて出会ったのはいつだっただろう。綺麗な銀色の髪を揺らして、きつい眼差してこちらを見ていた赤い瞳は酷く印象的で。
「貴様、友人とかいたんだな……」
怪訝な表情でルーシェルが小さく呟く。
流石にあんまりな言い草ではないだろうかと思った。
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