42 白堊おとないて - 4 -
無数の光に貫かれた傷口は塞がれたとはいえ、流れ出た血や体力までは回復しなかった。
こちらの傷を癒す為わざわざ肌の上をそろりと触れていった男の指、霊力の使用制限。触れるか触れないかの所を滑っていったそれは酷く優しく、暖かかった。敵対する者に向けるような眼差しでも扱いでもない。やってきたサンダルフォンの怒り狂った表情を見てからもやはりこの天使はおかしいのだと確信した。
殺すなと。約束を交わしたのだからと。
最高位の天使が魔王である私を害するなと命じたのだ。目眩すら覚える、一体どこの世界に悪魔を生かしておく天使がいる。
「……天使も声を荒げるんだな」
目の前の光景をぼんやりと見ながら小さく口にする。呼吸が浅い、眩暈と頭痛が酷い。
男どもには聞こえなかったようだが、傍らにいるリーネンが天使の言い争いにこわいにゃあと半泣きでいた。
静かに諭すように喋る天使とは対照的にやってきた天使はふざけるなとずっと声を張り上げているのだ。何故悪魔を殺さない。一貫して銀色の天使はそれを口にする。しかしそれに対しての返答が約束を交わしたのだからというものである。……実に大真面目に答えるメタトロンに、顔色を無くしていく清廉で高潔である筈の天使の顔は正直見ものであった。悪魔と約束。とんだ戯言である。
こちらの傷を癒すだけ癒して満足したらしい天使と、その天使を迎えに来たらしい銀髪の天使。サンダルフォンと言えばリーネンの言う通り確かにメタトロンの次席であった筈である。大物も大物だ、わざわざ地に降り立つ存在ではない。それなのに他の者を差し置いてやって来たのは――混乱も、あるのだろうが。大切にされているからなのだろうなと思う。美しい天上の住人。そもそも生きる世界が違い過ぎる。
「殺すだのなんだの……好き勝手なことを言ってくれる」
唇を歪め、よろりと立ち上がる。
失血のせいだろう、足元に力は入らないがナハシュを支えにすれば問題はない。
くらりと目の前が白む、リーネンが慌てたようにこちらを支える。穏やかな青い瞳がこちらを心配そうに見ていたが、銀色の髪を揺らして赤い瞳が忌々しそうにこちらを射る。まさしく〝悪魔と相対した時の正しい天使の態度〟である。同じ天使でもこうも違うかと思えば、やはり共にこの世界にやって来たメタトロンの異常さが際立つというもの。
――繰り広げられる天使どもの応酬は正直くだらない。
殺すだの殺すなだの、傷を癒すなだの抱き上げるなだの実に喧しい。確かに低級者にまで心を砕く必要はないだろうが、強情な奴の事だ、聞き入れやしないのだろう。弱きを助け強きを挫くを地でいくあいつならやりかねないなという妙な確信もあった。
相対した瞬間殺し合うだけの天使と悪魔に制止をかける。
こちらの傷を癒し血に濡れる事も厭わず抱き上げてくる。
望まれたら応えるまでだと言って白い小娘に微笑み返す。
……頭が痛くなってきた。何故こうもこの男は。
抱きかかえられて男の胸に縋り付くなど冗談ではなく、腕を組んだままでいるのだが器用にも男はこちらを片腕で支えていた。嵌められた金の首輪はこちらの挙動を監視するだけで、大した制限は駆けられていない。指で弾けばりんと涼やかな音がする、この私を制御できると思っているらしい銀色の男はきゃんきゃん吼える犬のように喧しいばかりで、メタトロンは柔らかく、けれどきっぱりと所謂助言をぶった切っていくのをただただ見ていた。やかましい副官というのも考え物だが、上官がこれでは苦労が偲ばれる。
「貴様、友人とかいたんだな……」
「それは……流石に、あんまりでは?」
素直な感想を述べるのだが、ほんの少しだけむっとしたようなメタトロンはやや咎めるような声で口にする。友人などいないだろうと暗に言われた事に対して不快に思ったようだった。だがこれまでのやり取りを見れば、親友だと豪語する銀の男も大概だと思う。そこへ至ったまでの経過など興味もないが、天使というものは相変わらず理解の範疇を超えた存在なのだろう。
「対人関係に難ありだろ貴様は、……」
「減らず口もいいですがもう黙ってください、顔色が悪い」
息切れの中何とか言い返してやるのだが、男は聞き流すと再び回復霊術をこちらへと流し込んでくるのだった。抱き込まれた肩から陽だまりのように柔らかな暖かなものがゆっくりと身体の中を巡っていく、全快までには程遠いが揺れる視界と酷い頭痛はゆるやかに消えていった。ほう、と。呼気が漏れ出る。
「お前はまた……ッ!」
気に入らないのだろう、殺すなという命令は承服したらしいが銀の天使が再び声を荒げた。と、同時になにやら遠くから音が聞こえてくる。腹に響くような重低音、目をやれば力強く大地を踏み鳴らし土煙を上げながらやってくる茶色い巨体――一際大きないななき。
「おかしな気配がして駆けつけてみれば……一体何の騒ぎだ」
栗色の毛並みをした馬にまたがって駆けてきたのは、庭先に現れたのはこの郷長の孫でありルアードの姉であるオリビアだった。豪奢な金の髪をほんの少しだけ乱した女の、体格の良い馬と合わさった迫力にその場にいた皆が思わず口を噤んだ。女は赤い皮の手綱を引いて馬を止める。
「オリビアさん」
メタトロンが声を掛ければ、ぎょっとしたようにこちらを見た。無理もない、血まみれのずたぼろなのだから。こちらを抱き上げる男も見事にこちらの血に濡れているのだ。何の変哲もない小さな畑と薪棚があるばかりの庭に、縦横無尽に穿たれた地面と派手に飛び散った紅。
「お二方……それは、大丈夫なのか?」
恐る恐る問われる。
ちっとも大丈夫ではないのだが、メタトロンは傷口は塞ぎましたからとのんびりと微笑み返していた。引きつった表情のオリビアに、そう言う事じゃないだろ、と。サンダルフォンがダメ出しをする。
「…………そちらが、迎えの方か?」
オリビアの緑の瞳が銀色の天使を捕らえる。強張った声、目にはどこか怯えの色が滲んでいた。乗っていた馬からゆっくりと降り立った彼女は、ぽんぽんと駆けてきた馬に礼を述べるとおもむろに上着を脱いだ。そうして着ていた上着を脱ぎ捨てるとサンダルフォンの頭に向かって投げつける。ぱん、と乾いた音を立てて上着は見えない膜のようなものに弾かれたが、銀色の天使は宙に放り出されたそれをつかみ取る。怪訝な目。
「随分と失礼では?」
「すまない、だが、悪いが髪は隠してくれ。その髪色は私達にとって、……あまり、良い意味を持たない」
酷く言いにくそうに、女エルフは何かを押し殺した表情で小さく口にする。
「……我々は魔力があるからあなた方が竜人でないと解るが。気配の探知に長けていない人間は色で判断する、竜人でないと判別出来ない。それは……とても、この世界では危険だ」
若干の狼狽を見せながらオリビアは言葉を選ぶように告げる。
その表情は当惑の色も濃く――戸惑いもあったのだろう。
この世界において、色は重大な意味を持つらしい事はなんとなく理解していた。
かつて支配していた竜人、目印のように人とは違う色彩を纏う人ならざる者。確か、竜人達の王が銀色を纏っていたと言っていなかっただろうか。もう随分と前にルアードから聞いた話を血の足りてない頭で思い出す。いつだったか、ああそうだ宿に泊まっていた時の事だ。口伝がどうとか言って――『銀の神』は、竜人どもの王だと。英雄が竜人の王である『銀の神』を単身討ち取り、世界が平和になった伝説が残っているのだと言っていた。
サンダルフォンの長くきらめく銀色の髪。
きらりと光を反射するそれは、確かに白髪とは違う鋭い刃物のようだった。自分達の世界でも珍しい色彩はこの世界では別の意味を持つ。瞳の色は自分と同じ深紅だったが、人間どもの恐怖心を煽るには十分な色彩だろう。
「竜人?」
受け取った上着を片手で揺らしながら、怪訝そうにサンダルフォンが小さく男に問う。
「人にない色彩を持つ、人より圧倒的な力を持った人喰い種族だそうです。詳しい話は後程」
「ふうん、」
メタトロンの説明を聞いた銀色の天使は小さく口にしながら、髪の色ねぇ、と。うそぶきながら己の長い髪をかきあげる。さらりと流れる硬質のそれはどこか作り物のようにさえ見えた。銀糸のようなそれが風に舞って――そうして、ずあ、と。霊力が男の手から流れ込み、瞬く間に男の髪が銀色から金色へと変わる。見るからに硬質で鉱物を思わせる色彩が、柔らかな春の日差しを思い起こさせるそれに瞬く間に変わったのだ。
「どうだ? お前と同じなら大丈夫か?」
にやりと笑うサンダルフォンは、自分を抱えたままのメタトロンとまるで同じ髪色に変えたのだ。目を見張り声を無くすオリビアに、しかしメタトンはおや、と。何やら嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、それにお似合いですよ」
「そうだろう」
満更でもなさそうだ。
オリビアと言えば、いとも簡単に色彩を変えた男を前に呆然と立ち尽くしている。
「ま、あとはついでだな」
褒められて嬉しいのか知らないが銀色の――いや、今は金の髪に変わっているのだが、銀の天使もといサンダルフォンは上機嫌で高らかに右腕を上げるとぱちん、と。大きく指を鳴らした。瞬間、ざらりと衣服に付着していた血液が砂のように掻き消えていった。ずたずたになっていた衣服も、周囲の惨状もまるで何事もなかったかのようにきれいに元通り。期待なぞはなからしていなかったが、こちらの回復には一切触れてこないあたり排除しようとする気概に満ちていていっそ感心すらした。陰湿だとは思わない、ただただ悪を嫌う天使らしい。
「ありがとうございます」
どこまでわかっているのか知らないが、メタトロンは穏やかに微笑みながら礼を口にする。そうして少しだけ眉毛を下げて、あの、と。言いにくそうに。
「出来れば彼女も助けてやって欲しいのですが」
「馬鹿言え」
呆れたようにサンダルフォンが大仰に肩をすくめて見せる。芝居がかったようなその仕草。
「俺は悪魔なぞどうでもいい。せいぜい苦しめばいいさ」
「サンダルフォン、」
「いいか、殺さないでいてやっているのは仕方なくだからな」
先程までの得意げな笑みから一点、眉間にしわを寄せてすごまれる。
得意げに術を振るってドヤ顔をしていたくせに。最初こそ従順な配下として振る舞っていたようだったが怒りに我を忘れたか、普段からこうなのか知らないが結構な態度をとってくれるものである。
「……犬風情が、出来るものならやってみるがいい」
蔑んだ眼差しで、声色で。
告げてやれば激しく舌打ちをされた。清らかな天使にあるまじき態度の悪さである。元来天使は清らかな存在だから濁りに染まりやすいという風説を思い出す、銀色の天使を前に噂は噂でしかなかったという事か。メタトロンも一見真白い天使の中の天使といった形容がしっくりくると見せかけておいて、その実頑固で強情で融通が利かない。清らかであるという定説も実に曖昧なものである。
「無様な姿を晒しておいて随分と虚栄を張るものだ」
「貴様の上官の奇行を諫めてから言え」
「霊力の使えぬ悪魔など慈悲で生かされているに過ぎない、感謝するんだな」
「何故この私が天使ごときに」
「立つ事もままならないというのによく吼えるものだ」
「騒ぎ立てるばかりの小物が何を」
「減らず口を……!」
「いい加減になさい二人とも」
困ったようにメタトロンが制止の声を上げる、途端口を噤むのがサンダルフォンである。とてつもなく不服だと言わんばかりの、不承不承と言った表情ではあったが。
ぎゅうとこちらを肩を抱く腕に力が篭りただでさえ触れる体温がさらに密着する。おい馬鹿止めろと押しのけるが男はちっとも聞き入れない。そうしてこちらのやり取りを立ち尽くしたままただ茫然と見ていたエルフに向き合う。
「すみませんオリビアさん」
こちらの抵抗をまるきり無視して男は困ったように、ご迷惑をおかけしますと謝罪を口にする。
しかし返ってくる女エルフがこちらを見る目には明確な恐れが宿っていた。得体のしれないものを見る目。強張った身体、言葉を飲み込んだかのようにただ黙ったまま。
異物、異端、理解の範疇を超えた存在を前に人は畏怖する。
霊力、魔力、姿形は同じとはいえ扱う力の違い。纏う色の違い。多少の差異を人は恐れ排除しようとする。それが解らぬわけではないだろうに――男は、本当に何でもないかのように。相手の覚える不和を拭い去るかのように穏やかに。
「あ、いや、…………あの馬鹿どもは」
はっとしたようにオリビアは殊更大きく声を上げた。
「ルアードさん達なら小屋の中に」
「そう、か。ならばいい」
ふうぅ、と。オリビアは酷く重苦しい息を吐いて。
「事情は……中で聞こう。ルーシェル殿も休まれた方がいい」
小屋へ戻るよう促された。
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