39 白堊おとないて - 1 -
問答無用で抱きかかえられ連れ戻された小屋の中。
降ろされた椅子の上でむっつりと膝を組み頬杖を着いたルーシェルは、足りないグラスを探しに軽やかな足取りで部屋を出ていく天使の後ろ姿を何とはなしに見ていた。首元で一つに括っていた綺麗な金の髪が尻尾のように揺れて、大型犬、と。胸中で呟く。まるでご機嫌でボールでも取りに行ったかのようだ。衣服のせいもあるだろうが、纏う霊力さえ無視してしまえばとてもじゃないが高位の天使には見えない。そもそも、天使達の王ともあろう者が何故使用人のようなことをするのだ。
……リーネンが捕まえた小動物に動揺してしまったのは失敗だった。
ぎり、と唇を嚙み締める。
先ほど出ていったのは、がりごりと小動物の細かな骨を噛み砕く音を聞いてしまい血の気の失せた此方を容易く抱き上げた男だ。護衛のように寄り添う使い魔と隼人共に畑からここまで戻る道中、考えうる限りの暴言を吐いたつもりだったが男の表情はちらとも変わらなかった。余裕ぶりやがって、涼しい顔が揺らぎもしないのに随分と腹が立ったのだが――ふと。何も届いていないのではと。まるで強固な壁に阻まれているかのような気がして、ついに罵りも馬鹿らしくなった。
さくさくと軽やかに響く足音、視界は常よりも高く、足先は地に着くことなくゆらゆらと揺れていた。血の気の引いた頭ではただでさえ脳筋な天使に敵うはずもなく。ちらりと盗み見た横顔、青い瞳が真っ直ぐと前を見ている。酷く近い場所に男の顔がある。見るのも嫌でずっと顔を逸らしているのだが、暴れるのをやめてしまえば触れて混ざり合う体温ばかりに意識が持っていかれそうだった。便利な足として認識を改める事にする。
「……何であんなこと言った」
はらはらと見上げてくるリーネン、その汚れた口元が直視できず明後日の方を見ながら。ぽつりと口にする。
抵抗は無意味であった、安定しているにも程がある腕の中は緩やかでありながら堅牢な檻のようだ。膝の裏に腕を差し込まれ背を抱かれた状態、押した所でびくともしない。せめてもの意趣返しに不服であると全身で告げるのだが、降りてきたのはきょとりと不思議そうにした青い瞳だった。
「あんなこととは?」
「アレが苦手だということだ」
とぼけたように問い返されるのを、忌々しく吐き捨てる。
「天使が嘘をついてもいいのか?」
思い起こされるのはいつも通りの涼しい表情で、自分も苦手なのだとこちらに同調した天使だった。幾多もの悪魔を薙ぎ倒してきた高位の天使が、たかだか手のひらに乗る程度の小動物を恐れるとは思えない。事実、男は平然としていたではないか。気遣われたのだというに気付かぬ程抜けてもいない、だが、馬鹿正直かつ誠実さが売りだろうに、善の天使が行う事かと。咎めるのだが男はやはり表情一つ曇らせもしない。
「別に嘘でもありませんよ、小さな生き物は潰してしまいそうで怖いですし」
男は小さく笑みをこぼしたかと思うと、何でもないかのようにさらりと答えた。
「斬るのは得意なのですが、こう、捕まえたりするのは苦手というか……力加減を誤れば簡単に潰れてしまうじゃないですか。貴女もあまりに細いのでいつか折ってしまいそうで」
これでも気をつけているのですよと。
今まさにこちらを抱きかかえている男がにこやかに告げてきて、馬鹿みたいに安定した腕の中にいると思っていた自分の浅はかさに歯がみした。
「私をへし折るか」
「冗談ですよ」
物のたとえじゃないですかと言って、へらりと男はまた笑う。だがそれもどこまで本心なのか分かった物じゃない。回想の中の天使はいつも感情が読めないでいた。穏やかに微笑んでいるばかりで腹の底が見えない。
そうこうしているうちに小屋へと戻り、しばらく休んでおくようにと椅子へと座らされたのだった。
そうして現在に至る。
血の気は戻ってこず、頬は冷えたまま。立ち上がる事もままならない。
「いやあ、本当美人さんだよねぇ」
先程の男とのやり取りを思い出して深々と長い溜息を吐くのだが、うっとりと口にするルアードの言葉が聞こえてきて更にうんざりする。毛並みの良い大型犬だとこちらは認識しているのだが、どうやら他の者から見ればそうでもないらしい。
ちらと視線をやれば、皆それぞれ席についたまま出ていった天使を同じように見ていた。手と口を止めないリーネンとアーネストの咀嚼音が控え目に室内に響いている、よく食べるなお前ら。リーネンは先程もなんだ、小物を食べていたではないか……
満面の笑みで口元を血塗れにした使い魔の光景が思い起こされてう、と。また気分が悪くなってきた。口元を押さえるのだがしかし、周囲は気にした様子もなく和やかに談笑している。
「背が高くって金髪碧眼でまるで王子様みたいね! ルーシェルさんをお姫様抱っこして戻ってくるんだもの、すっごく素敵だったわ〜」
人間と使い魔によって減り続ける菓子を際限なく追加していく梓というらしい娘が、うっとりとしながら口にする。竜人のようだの王子様だの、よくもまあ色々と形容される男である。
「……何が王子だ、ただの脳筋だろうが」
冗談じゃないとばかりに吐き捨てる。
一体どれだけの量を用意していたのか、皿を片手に器用にふわふわと宙に浮く椅子で室内を移動している娘がきょとん、と。こちらを見た。兄である隼人とは鏡写しのように黒々とした右目と白く濁った左目が真っすぐにこちらを射る。
「脳筋? なの? あんなにきれいなのに」
「見た目の美醜など関係ないだろう」
言ってやるのだが、人間の娘はいまいちぴんとこないのか不思議そうにしてる。ルアードが事前にこちらの事をある程度説明していたようだが、一体どんな説明をしたのやら。あまりあてには出来ないだろうなという妙な確信はあったが。
「そんなに強いの?」
「……闘技場で大暴れしてたな」
「涼しい顔で十二人抜きとかしてたねぇ」
アーネストとルアードにも問いかけるが、二人とも否定しない。
付き合いの長いらしい男二人にそう返され、ほえぇ、と梓は目を丸くしている。
「天使様ってもっと祈ったりとかするのかなーって思ってたんだけど、闘技場とか行くんだ」
「あんま想像できんな」
「闘技場の件はまあなんというか、やむにやまれぬと言うか……」
「祈ってるところは見た事がないな、あいつ意外と物理的というか」
「うーん、なんだっけ、レイジュツっていう魔法っぽいのは使えるみたいだけど、そうね。滅茶苦茶強いよね。アーネストが稽古つけてもらうくらいだし」
人間とその他の四人がまた賑やかに言葉を交わし始める。それらを流し聞きながら、アーネストの言うように確かに祈る姿を見た事がなかったなと思い出していた。人間の抱く天使のイメージとは何だろうか、神に仕える者、神と人間との仲介者、人間の守護者、悪魔と戦う者――概ねそんなところか。
あの男が神へ祈りを捧げる素振りはなかったように思う。必要以上にこちらの世話を焼き、所謂戦闘能力ばかりが突出した空虚な人形というのが奴に対する正直な感想であった。意外と物理的、言い得て妙である。扱える霊力量が激減しているとはいえ、あの天使は穏やかににこやかに剣を振るい己が身体能力でのみ敵を薙ぎ伏せていたのだ。そうそう出来る芸当ではない。柔らかな物腰と女神のような見た目に皆騙されがちだが、あの男はたった一太刀で霊力のブーストも掛けずいとも簡単に腕だの翼だの斬り落とせるのだ。単に力の加減を知っているだけのゴリラでしかないのだ――と。
ふわりと嫌な空気が漂ってきて顔を上げる。
ごくごく微弱ではあるものの、天使と同じ聖なる気配が漂ってきて僅か眉を寄せた。この世界のモノではない力の流れ、ルアードも感じ取ったのだろう、ふいと窓の外を見た。瞬間。
「メタトロンさまぁぁぁん!」
爆音で天使の役職名を絶叫する幼女特有の甲高い声が響き渡った。
「な、なんだあ?」
続く狼狽えたように上ずる天使の声と、探しただの大変だったのだときゃんきゃん喚く声が聞こえてきて、ルアードがひょいと窓の外へと顔を出す。微量にしか感知出来ない霊力、恐らくではあるがついに天界からアンカーでも来たのだろう。随分とやかましい声だが低級者なら大した事などない。ひょい、と隼人と梓もルアードの肩越しに外を見ているが、天界側の使者など興味もなかった。流石に食べる手を止めたリーネンがこちらに向けてくる視線が鬱陶しい。
さて、迎えが来たようだがあの男はどうするのだろうな。
義務だとか願望だとか、何やら小難しく考えているようだが必要とされている以上元の世界に戻るのが最善だと思うのだが。帰りたくないと、そう思うのであれば相応に動けばいい。それだけの事が、あの男にはそこまで難しい事なのだろうか。光り輝く楽園の住人、一体何が不満なのやら。
くだらないとばかりに息を吐く。
迎えが来たのだ、これで天使と共に行動する必要もなくなった。必要以上に世話を焼く自我のない男との共同生活にやっと終わりが来たのだ、せいせいする……などと。そんな事を考えていたら。
「メタトロンさまのぉ、お嫁さんですぅ!」
ごふ、とジュースを飲んでいたアーネストが盛大に噎せた。
窓の外からだと言うのに相変わらずきんきんと耳に劈くような声、何故かその場にいた皆が一斉にこちらを見た。
「今お嫁さんって言った?」
「え、妻帯者?」
「おい押せば落ちそうな二人って言ってなかったか?」
「ちょっと待て何だそれは!?」
さわさわと言葉を交わす梓、ルアード、隼人。こちらを見ながら囁きを交わす三人から飛び出した聞き捨てならない単語に思わずいきり立つが、いやだって、と。ルアードが少しだけ目を泳がせながら、しどろもどろと弁明を始める。
「最初物凄く抵抗してたのに、最近は大人しく抱っこされてるしさ。こう、前より距離が縮まったよねーと」
「ね、お部屋に戻って来た時もお姫様みたいだった! すっごく綺麗だった~!」
「足として使ってやってるだけだ!」
兄妹にこちらの事を一体どんな説明をしたんだろうななどと悠長に構えている場合ではなかった。案の定ろくでもないことを伝えていたらしい。へらへらと訳の分からないことを口にする男ときゃあ、と何が面白いのか黄色い声を上げる梓とやらに吼える。誰が大人しくだと? 距離が縮まっただと? 冗談ではない。
勝手な事ばかりをする男、良かれと思ったと嘯いては襲撃してきた悪魔を斬り伏せ、こちらの傷を癒し、あまつさえ夢を散らし事あるごとに不調を取り除こうとする男。第一、こちらに伺いを立てた所で聞き入れないだろうと言い切ったのはあの男だ。だから自分は好きにする、と宣言したのと変わらないではないか。
相も変わらず色ボケしたエルフを殴ってやろうかと腰を浮かせかけたものの、冷えた指先も足先も上手くは動かず。ルーシェルさま、と菓子で手と口とをべたべたにしたリーネンがやってくるが触るなと一喝して。
「そもそもあの脳筋木偶の坊が私の言う事なぞ聞いた試しがないだろうが!」
「そんなことないと思うけどねぇ」
こちらが動けないのをいいことに、どこまでも他人事のように軽く笑っている。あまつさえ、ぎりぎりと椅子の背に爪を立てると今度は綺麗な手が傷付くよ? ときたもんだ。
「綺麗な顔をして随分口が悪いな」
「魔王様なんだよね? もっと恐いのかと思ってたけどすっごく綺麗なひとだよねぇ。あんなに細くて小さいのに滅茶苦茶スタイルもいいし。髪飾りも華奢なの似合っててステキ」
誰が小さいだ。
日本人兄妹も好き勝手なことを言い出す。
天使と悪魔など人間からしてみれば畏怖の対象ではないのか。畑で収穫を手伝わせ、顎で使い、好意的かどうかは置いておいたとしても怖がる様子など微塵もない。東洋の人間は然程我らを恐れないのだろうか。
「天使を足扱い出来るのなんてルーシェルさまくらいにゃ……」
「大分開き直ってきたな」
呆然と呟くリーネンに、ごほごほとしばらく咽ていたアーネストが実に面倒くさそうに返していた。口元を雑に拭うと再び菓子に手を伸ばし始める。
「お二人の美しさはね? そこにいるだけで価値があるんだよ?」
「訳がわからん!」
声を荒げた瞬間、かた、と。
小さく扉が開く音がして室内は静まり返った。静かに室内へと入って来たのは問題の渦中である男と白い小娘。背の高い天使が頭上に気を付けながら扉をくぐり、傍らにいる男の腰ほどもない小さな白髪の天使がそろりと周囲を窺いながら足を踏み入れたのだ。
「ルーシェル、一体何をそんなに騒いでいるのですか」
視線が一斉に天使の二人へと向かう。
呆れたように口にしながら入ってきた男が、面食らったかのように僅かに目を見張る。腰には白く小さな娘をぶら下げていて、おそらくこれが先程の爆音の元だろう。白髪の、淡い色彩の蒼が溶け込んだかのような緑色の瞳をした小娘がぎゅうと男の服を掴んだまま。恐々と室内にいるこちらを順繰りに見ているのである。取るに足らない程度の力、見るからに儚い印象。
リーネンとさほど変わらないであろう幼い姿に、狼狽えたようにごくりと。ルアードが喉を鳴らした。
「お、おさなづま、?」
「はい?」
言っている意味が解らないのだろう、きょとんと天使は不思議そうにしていた。と同時に二人の天使ににじり寄るルアードはアーネストに思いきり後頭部を叩かれていた。そのまま襟ぐりを掴まれ引きずられていく。
「阿呆が失礼した」
「阿呆はないでしょうよぅ……」
つい先日も見たような光景である。
引きずっていく相手は変わったものの、引きずられていく男は変わらない。
「こんにちは可愛らしいお嬢さん、あなたも天使なの?」
すい、と空飛ぶ椅子に腰かけたままの梓が白い小娘の前に移動する。リーネンと然程変わらないその少女に柔らかく微笑みながら問いかけていた。小娘はと言えばさっと男の影に隠れる、如何にも弱者の取りそうなあざとい行為である。ちらりと覗く小娘の、その恐々と言った表情が非常にうざったい。
「はい、彼女はヨナ。アンカーとしてやって来てくださったそうです」
天使は天使で相変わらず間の抜けた言動をしている。
男の紹介に、白い小娘は小さくお辞儀をする。御挨拶を、と促されおずおずと言ったように、男の服を掴んだままこちらをじいと見て。
「ヨナと申しますぅ。メタトロンさまのぉ、お嫁さんですぅ」
頬を染めて、言い放った。
まだるっこしい、やけに間延びした喋り方にしん、と。再び室内が静まり返る。アーネストすら菓子を食べる手を止めて、ぽかん、と。珍しい表情をして小娘と男とを見比べていたのだ。
「やっぱ聞き間違いじゃなかった!」
瞬時にしてざわつくのはルアードと梓だ。
「どうしようルーシェルさん、やっぱりお嫁さんだって!」
「何故私に言う」
「だって王子様とお姫様じゃない!」
「違うが」
何を興奮しているのか、梓を乗せた椅子がぶんぶんと非常に忙しなく動き回っている。相変わらず制御の方法は解らなかったが感情にも反応するのだろうか。というか、天使に配偶者がいたとして私には関係のない事ではないか。天界に婚姻制度があるとは知らなかったが。
小娘の淡い青みがかった瞳が此方を見ている。男に寄り添うようにして、男からは見えないであろう角度で。んべー、と。舌を出した。それはもうあからさまに。此方に。宣戦布告だとでもいわんばかりに。ひゃあ、と。何故だか梓が小さく声を上げた。
「……貴様に嫁がいたとは知らなんだ」
馬鹿らしいとばかりに口にするのだが、天使達の王であるはずの男は実に不思議そうに小首をかしげていた。
「天使に婚姻の制度はございませんよ?」
「気持ちのぉ! 問題ですぅ!」
「だそうだが?」
「ヨナは最も人間に近く数の多い存在です。人々と関わる事も多く、人間界の婚姻システムを聞き憧れでも持ったのでしょう」
「違うもんー!」
お嫁さんと言ったらお嫁さんなの! そう言って喚く小娘はまさに子供としか言えない態度である。
天使で最も数の多い存在と言えば低級三隊の一番下、所謂「天使」だ。最も人間と近く、大天使の手足となって直接人間に影響を及ぼすとかなんとか……アンカーとなるのだから、それこそほとんど人間と変わらない。微々たる霊力、他者からの干渉を受けない者。殺す価値すらない低級者など構っているだけ時間の無駄である。
「ええと、本当にお嫁さんなの?」
「違います」
「違わないもんんー!」
梓の問いかけに男は否定するが、喧しい小娘はきゃんきゃん叫ぶ。その度に視界の先で揺れる天使特有の白いワンピース、膝下のスカートが小さく翻る。……天使とはもっとしとやかな存在だと思っていたのだが、実際は大分違うらしい。低級者ゆえだろうか、品格は階級によってもたらされる物なのかもしれなかった。
くだらないやり取りだと見ていたからだろう、小娘の眼差しとかち合った。とたん、淡い色彩の瞳が醜く悪意に染まっていく。それは、天使が悪魔を見る時のものだった。汚らわしいと言わんばかりの蔑み、嫌悪、憎悪、そういった感情を隠しもせず忌々し気にこちらを見ているものだから。ふ、と。口元に笑みが浮かぶ。懐かしい眼差しだ。
相まみえた天使は揃って同じ目でこちらを射る。断罪を口にして、悪魔を殲滅する事こそが最善であると豪語し、私を殺そうと幾多もの攻撃を仕掛けてくる。いくら血に塗れようとも、翼を折り手足が引き千切られようとも決して諦める事なく攻撃の手を緩めず――そうして絶命していく。穢れなき白い衣服と羽根を鮮血に染め、それでもなおこちらへの存在を否定し、罪を咎め、許さないなどと口にする。
命乞いなどしない。神の名の元に殉教する事は奴らにとって誉であるからだ。
悪の権化である悪魔に懇願するなど、清廉な奴らにしてみれば神への冒涜にも等しいらしい。
「あなたがぁ、魔王ルーシェルねぇ」
唇をきゅっと引き結んで、小娘が意を決したように口を開いた。
酷く幼い容姿だが腐っても天使だ、この手で殺してきた天使達と同じ目でこちらを見ている。淡い色彩の瞳は穢れを知らぬ、偽善と傲慢に満ちた暴力的なまでの無垢に彩られている。
「……だったら何だ」
冷ややかに返してやれば、うぅ、と。何も知らぬ小娘は怯んだようだった。
一度に使用できる量が限られているとはいえ、内在している霊力量は変わらないのだ。こちらが一体どんな存在なのか、その羽虫程度の霊力でもわかるだろうに実に勇猛な事だといっそ感心すらする。
「こ、怖くなんかないんだからぁ! 穢らわしい悪魔風情なんか!」
随分と威勢のいい事を吐いているが、相変わらず男の後ろからは出てこない。天使の王を盾にするとは随分と豪胆な事だ、自分は安全圏に身を置きながらこちらを糾弾するか。
なんにゃと、と傍にいるリーネンが毛を逆立てるがやめろと牽制。
アンカーであるならリーネンと同じく超低級者である。取るに足らない、他者からの干渉を受けない者の暴言など可愛らしいものだ。羽虫が飛び回る羽音は喧しく不快だが、こちらを恐れながらも噛みついてくる姿勢は情けなく哀れで実に愉快だった。
「ヨナ」
男が諫めるように小娘の名を呼ぶが、憎悪に燃え上がらせこちらを睨みつける瞳は揺るがない。
天使として当然の反応である。天より堕とされし悪魔、地の底に投げ入れられた神への反逆者を天使どもがその存在を許容する筈がないのだ。
「あ、あ、あなたのせいでメタトロン様がこんな所に来る羽目になったんだからあ! 天界だって大混乱よぅ! 皆迷惑してるんだから……ッ」
「ヨナ」
困ったように男が再び小娘の名を呼ぶ。まるでやめる様にとでも言いたげで、やはりあの男はおかしい、と再認識するに至る。メタトロンがこの世界に来たことも、天界側が対応に追われているのも私のせいだろうに。何故一つも咎めないのだ。そもそも悪魔である私に構うだけの理由がない。悪魔など天使からしてみれば唾棄すべき存在である、小娘の反応こそが正しい。困っているのだからと言って悪魔に手を差し伸べる天使など聞いた事もなかった。
天界は完全な階級制だ。霊力量によって厳格に定められており、最下層の階級である小娘が最高位の男と同じ空間にいること自体がそもそもあり得ないのだ。魔界なぞ上級者が見かけただけで殺されようと文句の言えないと言うのに、随分と好きにさせるものだ。
吹けば飛ぶような、ごく弱い霊力。
向けられるのは心地よい敵意、嫌忌、厭悪。
感情の強さは低級者だろうが上級者だろうが変わりはない、く、と。唇が弧を描く。
「こんな所で悪かったね」
肩をすくめながら隼人が嘯く。
「すみません隼人さん、ヨナもいい加減になさい」
「でもぉ!」
尚も食い下がる小娘に男は苦言を呈するのだが聞き入れやしない。
「私達はこの世界にお邪魔しているだけの異端です、悪く言う事はなりません。それに――何もかもが悪かったわけではありません。この世界の彼らと交流を持てた事はとても幸いな事です」
異世界、異種族、同じ世界から来たと言う転移者。
まあ多種多様ではある。天界の最上層に君臨する男からしてみれば未知の世界だろう、人との交流を随分と楽しんでいるようであるし、あながち嘘ではないのだと思うのだが。興奮状態の小娘にはどうしても受け入れられないらしい。こちらを指差しながら憎悪をむき出しにする。
「そもそもぉ、全部この悪魔のせいじゃぁ、ないですかぁ! どうして庇われるようなこと言うんですかぁ!? 大体何でぇ、まだ生きてるのよぅ! メタトロン様ならさっさと殺」
感情的に喚く小娘の口元に、しい、と。男は人差し指を当てた。
「ヨナ」
低く名を呼ぶ。
眼差しは柔らかいまま、それでもどこか威圧的に。先程よりも若干強く。無礼千万な小娘に口を噤むよう命ずる。驚いたように男を見上げていた小娘がようやく黙った事にまた一つ小さく笑みを落とし、する、と。指先が離れていくのを一々まだるっこしい事をするものだと眺めていた。恫喝でも物理的な排除でもない、上級者の命を低級者は拒めないのだからやめろと一言発した方が手っ取り早いと思うのだが。それをしないあたり随分とお優しい事だ。
「……はい……」
ぼんやりと口にする小娘は頬を真っ赤に染め上げて、うつむいたかと思うと両手で頬を押さえて黙り込んでしまった。随分と威勢のいいことを言っていたが、流石に叱られたなら大人しくなるかと思ったのだが。
「メタトロン様ったらぁ、こんな悪魔にもぉ、慈悲をおかけになるなんてぇ、相変わらずお優しいのだからぁ……」
語尾にハートでもついてそうな、うっとりとした甘ったるい声色で小娘は恥じらっていた。まるで周囲に花でも舞ってる幻影が見えるかのような変わりようである、いや待て、そんな流れだっただろうか。
随分と強かだな、と隼人の言葉が小さく響く。
愛だの恋だのくだらない。
大体この男のどこがそんなにいいんだ。
「ヨナちゃんは本当にヨシュアさんのことが好きなのね」
「もちろんよぅ! 強くてぇ、お優しくてぇ、悪魔に襲われていたヨナをぉ、助けてくださってぇ……メタトロンさま、え、あれ」
声をかけた梓に力強く男の魅力とやらを語り出した小娘だったが、はた、と。そこで動きを止めた。
「……ヨシュア、?」
誰それとでも言いたげな表情である。
きょとん、と淡い瞳を目一杯見開いて見上げた先、小娘の王たる男はふわりと微笑みを返していた。
「私のかつての名です。天界にいない以上、メタトロンを名乗るわけには」
「よ、ヨナも! ヨナも呼ぶ!」
男の説明に食い気味に小娘が宣言する。
「お嫁さんだもん! 名前でぇ、呼ぶのがぁ、仲睦まじい夫婦ってことですよねぇ!」
「夫婦ではありませんが……」
ぴょんぴょんと跳ねまわってお名前! すてき! とはしゃぎ倒している小娘を男はしかし困ったような笑みを浮かべているだけだった。別に小娘の発言を止めるでもない天使を見ながら、若干置いてけぼりを喰らっていた人間その他の四人がまた口々に喋り出す。
「王様の名前って、そんな軽々しく口にできるものなのか?」
「普段は役職名って言ってたけどねぇ」
「本人が気にしてないようならいい、のかなあ?」
「しかしまあ、人外ってのは賑やかだな」
「アーネストはなんで俺を見ながら言うんですかねぇ!」
賑やかな四人とは対照的に、リーネンが傍らでやはり警戒したように身構えている。小娘から向けられるものは明らかな悪意だ、男は小娘を制したがそれだけである。いや、制すること自体がそもそもおかしい。天使は悪魔を忌み嫌うものだ、異世界転移という異常な事態にうっかり流されてきたがそもそも悪魔を助ける天使など聞いたこともない。
跳ね回る小娘、その様子を穏やかに眺めているばかりの男に頭痛すら覚える。
メタトロンという役職名ではなく名前で呼べと悪魔である自分にすら要望する男だ、低級者とはいえ同族に呼ばれる抵抗などないのだろう。嫁発言は緩く否定するが、小娘が名前を呼ぶことを止めはしなかった。いいのかそれで。階級はもっと厳格なものではなかったのか。そんなに、異世界だからと羽目を外せるものなのだろうか……
考えたとて、空虚な木偶の棒の事など解る筈もなかった。
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