暁のホザンナ

青柳ジュウゴ

1 賽は投げられ地に落ちる

 悠久より聖と魔は争闘を続けてきた。

 人を堕落たらしめんとする悪魔と、悪魔から人を護る天使。

 強大な力を有するそれらは人間とは比べものにならぬ程の霊力を行使する。交わる事などない互いに永遠に対立する、人と異なる者達。

 そう、自分はか弱き人間を守護する者であった筈である。多くの軍勢を従えて、人を、天を護る為に剣を振るってきた者である。驕りではなく事実であった筈である。

 それがどうしてこうなったのか。

 誰か解る者がいるなら今すぐ教えて欲しい。

「考え事とは余裕だな!」

 女の怒声と共に地面が隆起する。

 どういうわけだか大地である。地中よりこちらへと向かって飛んでくるモノは蔓だろうか触手だろうか、そんな事を考えながら殺意にまみれたそれを躱す。しかし身体が重い。今まで気にもしなかった己の長い金髪が視界に踊って煩わしい。

「天界の大天使様はさぞ素晴らしい戦術を持っていらっしゃるのだろうな!」

 嫌味である。

 奥深い森の中、ただでさえ薄暗く足場が悪いというのに飛ぶ事も叶わず私と彼女は――天界に単身乗り込んできたこの女悪魔と私は、わけも分からず低級悪魔のような正体不明のものからひたすらに逃げ回っているのである。

「魔王様でしょう、従えたらどうです」

「低級魔族が言う事など聞くか!」

 吐き捨てられる。口の悪い。

 思うように動けぬ事に対する苛立ちを隠しもせず、長い黒髪をたなびかせて彼女はびっと右腕を横に振った。なおも攻撃の手を緩めぬそれをきつく睨み付けると、すう、と。意図して息を吸い込んだのが解った。

《深闇の炎よ、疾く来て我に従え!》

 彼女のやや低い声が詠唱霊術を口早に唱えた、筈だった。

「────ッんで発動しない!」

 苛立ちのままに彼女は叫ぶ、先程から幾度も繰り返してきているのだが互いにどういうわけだか術が発動しないのである。詠唱によって己の霊力を刃なり業火なりに変換する筈であった、それは、無詠唱では反応しなかったからである。常であるならば指先一つで力を紡ぎ攻撃出来ていた筈なのに、それなのに何の変化ももたらさない。確かに霊力は存在しているのにである。

「うぞうぞと気持ちの悪い……! 貴様は置物か! お得意の剣技はどうした!」

 いちいち煩いものである。

 魔族、であろうか。己の三倍はあろうかという巨躯、巨大な一つ目、植物のような触手を幾本も持ったそれは動物とも植物とも言えない気味の悪い姿をしていた。口はない、という事は向けられる触手は根が変性したものか? 知性などないのだろう、ひたすら視認したこちらを追いかけてきているようである。反撃の手段がない、どういうわけだろう己の背にあった翼の顕現すら不可ときた。飛ぶ事すら儘ならない。

「何故私が貴女と共闘など……」

 現状を鑑みれば手を組むのは愚策ではない。相手が彼女でさえなければ、真っ先にそうしたはずだ。

 そう、私は先刻までこの女悪魔と刃を交えていたのだ。光り輝く天界に供の一つもつけずたった一人で乗り込んできて、殺戮と破壊の限りを尽くした美しく残虐な悪魔。強大な力を持った忌むべき存在。

 逃げ回るだけではどうにもならないと言えども、だからといって手を取り合う謂れはなかった。

 そもそも、である。

「……剣がありません。私が呼んでも来ないという事は、恐らく出来ないからでしょう」

「はあ!?」

「貴女だってあの大鎌ないじゃないですか」

「出てこないんだよ……ッ」

「似たような状況なわけですね……」

 これすべて、天界か魔界かはたまた人間界なのか皆目検討もつかぬこの薄暗い森の中を駆け回りながらの会話なのである。

 相変わらず低級魔族のようなものはこちらに向かって触手を伸ばしてくる、素早くはない、が如何せん巨体である。そしてどういうわけかこちらは弱体化しているといっても過言ではない現状。

「……ここが一体どういった場所なのか解りませんが、ともかく人を巻き込むわけにはいきません。心許ありませんがこの状態でどうにかしなくては」

「無茶を言うな!」

 馬鹿かお前は、いや馬鹿だろう! どうやってこの状態を打破する気だ!

 気高い筈の女悪魔はわあわあとまくし立てる。細く小柄な体躯だ、霊力があればまだしも基礎体力としては心許ないのかもしれない。終わりの見えない持久戦、反撃する事すら出来ない。

 どうするべきだろうか、見知らぬ場所、力の使えぬ状態でどうすればいい。

 人を護る為の存在が人を巻き込むわけにはいかない、なれば、このままここで諦めてくれるのを待つのが得策だろうか。諦めてくれるかどうか確信は持てないが。

「……ッ!」

 突然傍を走っていた悪魔が体勢を崩す、どうやら右足首を触手に捕らえられたようだった。ぐん、とそのままなす術なく空へと引き上げられるのが見えた、宙吊りとなった彼女と目が合う。

 名を、呼ぼうとして一瞬躊躇った。

 悪魔の名を口にしてどうするというのか、助ける謂れなどない、しかし、ここで簡単に死なれても困る。だが助けるだけの手段がない。理由もない。

 彼女も解っているのだろう、酷く悔しそうな表情をしたもののこちらに助けを求めるでもない──当然だ、私だってそうする。

 しかしだからといって自分一人逃げるのかという問いも脳裏を掠めていった。殺害対象、永遠に交わらぬ存在、いっそここで彼女諸共排除が好ましいのでは。生存戦略。魔王をここで葬れば指揮系統が瓦解するのでは、しかし悪魔共が共闘しているとも思えない……などと。

 彼女が生き延びたとて他を害せずにいるという保証もない。やはりここでどうにか仕留めておいた方がいいだろういう結論に達し、何か武器になるものはないだろうかと周囲に気を回した瞬間。何かが鋭く飛んでくるのを肌で感じとった。風を切る音、とっさに身を翻すとそれは寸分違わず己を追う魔物の瞳孔に突き刺さった。

「矢、……ッ!?」

 視認と同時に魔物は一際激しく暴れたかと思うと悪魔の足を掴んだまま蔓を大きく振り上げた。放り出される女悪魔は空高く飛ぶ、翼のない、力の使えない状態ではまともに受け身も取れまい──

 こんな呆気なく終わるものなのか。

 殺戮の限りを尽くした魔王が、こんな簡単に、訳のわからぬまま死ぬのか。声も上げずにこちらを睨みつけてくる彼女、己の最適解を弾き出せぬままでいると矢が飛んできた方向から黒い影が躍り出た。そうして煌めく銀光。それが刃の翻る軌跡だと理解した時には赤が視界に舞っていた。早い。

 そうして重力に身を任せるままであった悪魔を抱きとめる黒い影、ぼとぼとと血の雨と魔物の肉片と共にふわりと舞い降りる。

「…………、」

 そこにいたのは、聞き慣れぬ言語で何かを呟く大剣を構えた一人の青年だった。


 ※


 状況を整理しよう。

 第六天に魔王が単身乗り込んで来、殺戮と破壊を繰り返すので熾天使である私が彼女と対峙した。そうして殺し合いをしているうちにどういうわけだがここへと飛ばされてきたようだった。互いに武器はなく、霊力は存在するというのに霊術の発動が不可である。翼も顕現出来ない。

 完全な丸腰状態で気が付けば鬱蒼と茂る森、天界なのか魔界なのかそれとも地上なのかすら解らぬまま魔族のようなものに襲われていたところを助けられた。らしい。

「あ、あの、助けて頂いてありがとうございます」

「……、、、?」

 礼を言うが、やはり聞いた事のない言語で返された。

 長い黒髪の、青い目をした人間の青年だ。頬に深い傷跡がある。魔族を切り刻んだのは彼なのだろう、彼の背丈程もあろうかという大剣がどす黒い血に汚れている。

 ぶん、と大きく振り下ろしてそれを飛ばすと、抱きかかえた魔王をゆっくりと下ろしてやっていた。未だぜぇぜぇと肩で息をする彼女の足首は赤く腫れ上がっており、立てずにずるずると座り込んだがしかし彼女との距離の取り方を測りかねる。

「…………、、、、」

 また聞き取れない言語を口にした青年は眉を顰めてこちらを見る。魔王に駆け寄る事もしない自分を不審に思ったのだろう。通常であれば介抱すべきなのだろうが、私と彼女との関係性がそれを躊躇わさせる。悪魔。滅するべき我らと対峙するもの。護るべき人間を惑わせるもの。

「……っは、」

 整わぬ息のまま項垂れていた女悪魔が顔を上げた。顎へと流れる汗、高調した頬、吐き出されたのは吐息か嘲笑か。

「どうした、……隷属しか知らぬ神の犬め。私の首はここだぞ」

 表情を醜く歪めて魔王は笑った。

 ぶつかる深紅の瞳は血のように深い。

「──余程、生き急いでいるようですね」

 解りやすい挑発である。

 受けて立つ事は容易いがしかし、これ程近くに人間と思しき生物がいる以上無暗に動くのはあまり良い判断とは言えないだろう。何より今は状況把握を優先した方がいい。

「貴女、彼の言葉が解りますか?」

「それが何だと、」

「私は彼の使う言語を知りません。人間界のあらゆる言葉でも、天界のものでもない」

 そう告げれば彼女も思う所があったのだろう、突き刺さるような殺意は変わらずも僅かではあるが思い返しているようだった。

「…………魔界の古狸達のものとも違うな」

 ややあって彼女は小さく口にする、苦虫を噛み潰したかのようなその表情はある程度状況を理解したようであった。察しが良くて助かる。

 知らぬ魔族、知らぬ言葉、霊力の使えない世界。それは、ひとつの可能性を示していた。

 面倒な事だと言わんばかりに魔王は表情を歪めた。助けてくれた青年も困惑したようにこちらを見ている。ヒト、である事は間違いないと思う。彼からは何ら力を感じない。己が守護してきた人間と変わらぬように見える。

 背後から第三者の声がする、目をやると金色の髪をした青年が小走りでこちらへ向かってきていた。きらめく緑の瞳、手には弓を持っている。先程の矢は彼が放ったのだろうか。黒髪の青年の連れなのだろう、二人はこちらを見て何やら話しているがやはり彼らの言葉はまるでわからない。彼らも、こちらの言葉がわからないのだろうどう対処すべきなのか困っているようだった。

 まず、敵意がないというのを示す必要がありそうだ。

「…………! 、、!」

 彼らの前で膝を折って両手を握り合わせると、弓を持つ青年が驚いたような声を上げた。

「貴様正気か!? 何故そんな事をする!」

「まず相手を安堵させるべきでしょう?」

「だからと言って!」

 足を痛めて一人では動けない魔王が何やら喚いているが、何を言っているのか理解はできなかった。何故も何も武器はない、霊力も使えない、こちらは相手を害するだけの手段はないとはいえ向こうからすればそんな事は解らぬだろう。なればこそ身をもって示すべきだ。

 神に懇願するように彼らを見上げる。害意はないのだと言外に伝わるよう柔らかく微笑むと、はっとしたように金髪の青年が何やら鞄を漁りこちらに何やら押し付けてきた。

「イヤリング……?」

 小さな雫型の、美しい深紅のそれは金色の金具がついておりとても華奢な作りをしていた。急にどうしたのだろうと不思議に思うが、これを渡してきた青年が付けろと大仰な手振りで伝えてくる。

 何でしょう、親愛の証でしょうか。解ってくれたのなら良かったとその小さなアクセサリーを両耳につけてみる。とたん、何か力が発動するのがわかった。小さく空気を震わせるかのような何か。

「えっと、俺の言葉、わかりますか……?」

 恐る恐る金髪の青年がこちらに向かって語りかけてきた。先程とは打って変わって理解出来る言葉である。

「わかります、……」

 驚いて青年を見つめる。

 先程のは翻訳か通訳の効力があるものだったのか。

 魔王にも目配せをする、効力の範囲がどれ程なのかはわからなかったが彼女も青年の言葉が理解出来るようだった。わずかだが眼を見開いて自分と彼とを見比べている。

「よかった美しいお嬢さん、どうしたんですかこんな所で」

 青年が立ち上がるように手を差し出してきてくれたのでありがたくその手を掴む。弓を引くからだろう、皮で作られた手袋の感触になんだか妙に安堵してしまった。理解の範疇から外れた世界で出会う確かな実体は、思っていたよりずっと不安であった事を告げていた。

「ありがとうございます、あの、私はお嬢さんではありませんが、」

「…………随分背が高いんですね美しいお嬢さん」

 立ち上がると青年を見下ろす形になってしまっていた。

 僅かに目を見開いてまじまじと見つめられている、握られた手は離されない。

 魔王の吹き出す声が聞こえた。

「あの?」

「おいルアード」

 咎める声は低い。黒髪の青年がやめろと言わんばかりに肩を引くが、しかしルアードと呼ばれた金髪の青年はやはり微動だにしない。ぎゅうと手を握ってこちらをじっと見つめている。居心地の悪さを覚えるがしかし恩人でもある彼を無下に扱うのは躊躇われた。とりあえず微笑んでみる。どうしてだろう、言葉は通じるようになったというに青年の考えがまるで分らない。

「随分とがっしりとした手をしていらっしゃる……」

「あのですから私はお嬢さんなどではなく、」

「女性にしては随分と声も、」

「ですから」

「あれ?」

「私は男です」

 伝えた瞬間。

 ばちんと握られていた手を乱暴に払いのけられた。

 それはもうびっくりするくらい乱暴に。

「男に! 施してやるものなんて! ねぇんだよ!」

「ルアード!」

 訳が分からなくて呆けていると何やら吼えられた。

 態度が急変した青年を黒髪の青年が張り倒すがしかしルアード青年は嘘だ! 騙された! と何やら叫んでいる。

「す、すみません……? 騙すつもりなんて、」

「、ッいやでもやっぱ美人!」

 弁明するのもおかしいとは思いつつも困ったように告げると彼は絶叫して頭を抱えて座り込んでしまった。

 黒髪の青年がそれを汚いものでも見るかのような凍える眼差しで見下ろしている。面倒くさそうに口を思いきり歪めて、やはり埋めておくべきだろうかと何やらぶつぶつ口にしている。

 この二人は相棒ではないのか。

 というか私は一体何を言われたのか。

 どうするべきなのか皆目わからず、おろおろとしていると不意に笑い声が響いた。魔王が大笑いしているのである。それはもう、遠慮会釈などないくらいに思いきり。

「こいつは愉快だ、貴様、本当に女のような顔をしているからなぁ」

「……魔王様のお気に召したようで光栄ですよ」

「だがしかし、騙されたとは、……っくく、」

 何が面白いのかくっくと笑い続けている。

 なんだか肩の力が抜けてしまった。あまりにも非日常の出来事である。殺し殺されの関係ではあるがここまで嘲笑されるとなんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。気を緩めるつもりはないが、一時休戦というのもありなのかもしれない。ここは天界でも魔界でもないのだ、下手に刃を交えて他の生物を傷つける事は避けたい。

「そちらの美しいお嬢さんはお嬢さん……?」

「貴様は貴様で無礼にも程があるぞ」

 項垂れていたルアード青年が顔を上げて魔王を見上げる。

 硬質な長い黒髪の魔王は非常に女性らしい体躯である、確かに失礼ではあるが青年はいやだってさっき思いっきり騙されたしもしかしたらね、と何やら疑心暗鬼になっている。何やら悪い事をした……のだろうか……

「とりあえずその足も治療したいし、お話合い、いいかな……」

 ルアード青年の提案は是非とも受けたいものであったが如何せん落ち込みが凄すぎて反応に困る。

「馬鹿の事は放って置いていい」

 言い放った黒髪の青年は荷物袋らしきものから何やら小さな小瓶を出していた。

 透明な水のようなものが入ったそれを周囲に円を描くように撒く。半径二メートル程度であろうか、そうして円の中に入るよう促しながら、

「魔除けの結界だ。水が完全に乾くまでの間は問題ない」

 短く告げる。

 そうしてルアード青年を円の中に蹴りこんでいた。されるがままである、という事はこのようなやりとりは左程珍しい事ではないのかもしれなかった。普段からこういう状態なのか? 二人で旅をしているようなのに?

 なんなんだこの二人は。

 宿敵である者同士の意見が一致した最初の瞬間であった。

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