11 言の葉と踊り黎明は彼方
自分が眠っていた部屋は宿の奥まった所にあった。
日当たりのあまりよくない部屋というだけあって、一番奥の角部屋だ。部屋を出てそろそろと歩を進める、時間帯のせいか他の部屋に人はあまりいないようだった。窓から覗くのは先日の朱色に染まる空と違い青く澄んだそれ。
りん、と耳に届く小さな音は少しずつ近づいているようだった。鈴のような音と同時に嫌な気配。不快とでもいうべきか、鈴が転がるような涼やかな音の筈なのに纏わりつく悪寒のような。手にしたナハシュ・ザハヴを握る手に力が篭る、このような気配をルーシェルは一つしか知らなかった。
「貴様、一体何をしている」
自分の部屋から三つほど離れた客室のドアを乱暴に開け放したら果たしてそこには金髪の男。こぢんまりとした室内に一人、目を丸くして備え付けられた椅子に腰かけていた。頬に貼られた大きめのガーゼと相まって実に間抜けだ。
テーブルの上にはいくつかの宝飾品のようなものが置かれている。金や銀のような金属で作られたらしい指輪やネックレス、石のついたものついていないものなどが数点。そして華美な装飾を好まないはずの天使の手首には、奴に似つかわしくない銀色のやや幅の広い腕輪がはめられていた。男の指先には淡く発光する幾何学文字がふわふわと浮いている。きん、と先程よりも強く感じる聖なる力に僅かに顔をしかめた。
「貴女、ノックくらいしたらどうなのですか」
「何をしていると聞いている」
突然の来訪に面食らっている天使どもの王に詰め寄る。
あれは、天使の指先に浮かぶのはエノク文字だ。高位の天使が使用するそれ自体が力をもった文字。確か組み合わせて霊術の様に使用していた筈だ、現に天使の頭上には小さな光の球がいくつかふわりふわりと浮いていたのである。
ドアを開け放したままでいるこちらを、困ったように僅かに眉を下げた男がすい、と。指を軽く横に振ると文字も光も霧散した。光の粒が淡く発光して霧のようにさらりと消える。それと同時に耳鳴りのような鈴の音もかき消えた。やはりここが発信源であったか。
「……私も、貴女が眠っている間に何もしなかったわけではありません」
椅子から立ち上がって、実験をしていたのだと男は静かに語る。
そうしていやに細かく文様が刻まれた銀の腕輪を外すとこちらへと渡してきた。怪訝な目で受け取る、何かあれば直ぐにでもたたっ斬ってやるつもりでいたのだが。手にした腕輪自体に嫌な気配はなかった。男の意図が解らず交互に見つめるが天使は何も言わない、渡された以上何かしらあるのだろうと自分の身長よりも長大なナハシュを肩に担ぎ腕輪を観察してみる。むろん柄から手は離さない。
上に下にと手渡された銀の腕輪を眺めてみる、継ぎ目のない輪はサイズ調整できるようなものではなく、自分の手首よりもよほど大きかった。男物なのだろうか、銀色の金属で作られたそれは水の波紋のようなものが芸術品の様に細かく刻まれており、他に石などの装飾もなくやや重く感じた。そしてそこでようやく、ふうわりと。ゆるやかな風が、足首をくすぐる程度のそれが、霊力の渦が足元から沸き立つのが解った。背に皮翼の顕現にまでは至らない微々たるものとはいえ使えなかった筈の力の発現である。
「これは、」
「魔具師用の増幅装置です」
どういう事だと天使に視線をやれば、購入してみたのですという答えが返ってくる。
自分が意識を失っている間、闘技場で稼いだ金であれこれ揃えたのだろう。いつだったか、初めて貨幣を手にした時に見せた無知と幼児性の塊のような男の買い物の姿はどんなものだったのだろうとちらと思ったが。まあ面倒くさいことになったのだろうなとも容易に想像がついたので、傍にいなかったのは正解だったのかもしれないと思い直す。
「この世界では媒介がなければ魔力が発動しない……ようは、霊力にも何らかの媒介があればいいのではないかと考えたのです」
こちらの思惑など知りもしない天使が律儀に説明を始める。相変わらずクソ真面目な事だ。
「貴女があの夜、霊力を爆発させナハシュ・ザハヴを顕現させたのは魔石の増幅装置が関係しているのでしょう。恐らく増幅装置が媒介の役割を果たし、一時的に力の発動に繋がったのかと」
そう説明しながら男はテーブルの上にあった宝飾品の中から一つ、大振りな緑の石が付いた指輪を手に取った。そうして感じる奴の霊力――力が指輪へとゆっくりと流れていくのが解った瞬間、パン、と。乾いた音を立てて石が砕け散った。一体どれ程繰り返したのか男は目を見開くこちらとは違い微動だにしない。
「あの夜、増幅装置から魔石に流れ込んだ貴女の霊力が高過ぎた為に一時的な爆発をさせたようですが……恐らく高負荷に耐えられず焼き切れてしまった」
こんな風に。砕けた指輪のかけらをゆっくりと拾い上げながら男は続けた。砕けた石の割れ目は、確かに熱によって焼けたかのように一部が焦げどろりと融けている。
「霊力を仲介する媒介が使用不可となった為、発動条件が欠けたのだと思います」
淡々と説明をする男の声は静かだ。
発動条件、それは、逆に言えば媒介となる物がありさえすれば霊力は使えるのだと言う結論になる。
「……こいつがあれば、霊力が使えると?」
手にした腕輪を眺めながら問うが、天使は小さく首を横に振る。
「使えなくはないようですが、出力はあまり期待できなさそうです」
そう言いながら困ったように笑う男であったが、嘘を言っているようにも見えなかった。そもそも嘘を吐くくらいなら最初から辿り着いた自身の考察を語る必要などない。協力しようといった手前誤情報をわざと流すとも思えない。手の内を開示するのであれば、それ相応の切り札は必要だ。
あの、耳鳴りのような不快な音。
腕輪型の増幅装置に自身の霊力を流し込み、エノク文字でどれ程の出力が見込めるのか試していたのだろう。確かに奴の霊力は使えていたようだが大した量ではなかった、耳鳴り程度で済むほどの微力な天使の力。魔具師用の増幅装置と言っていた、ならば私が手にしたランプ台として使用されていたものよりは高耐久なのだろうがそれでもこうなるのか。焼けこげた緑色の石、品質の問題まではわからないが透明度も高く飛び散った指輪の細工も悪くないように見える。
「程度が知れているのか」
「まあ、これからもう少し模索する必要はありますがね」
砕けた指輪を拾い終えた男が再び立ち上がる。テーブルの上に広げられた、宝飾品に見えると思っていたものはすべて増幅装置の類なのだろう。闘技場で稼いだ金額が如何程であったかは知らないが、そこそこの額になったのは確かだ。あれこれと試してみようと考えるのは摯実の天使らしいと言えばらしい。
「……装置との相性もありそうだな」
「その可能性も捨てきれなくて」
数をこなそうかと、天使がそう言いかけて――不意に第三者の足音と話し声が聞こえて、互いに口を噤んだ。宿の宿泊者が戻ってきたのだろう。
天使の宿泊している部屋に踏み込むことなく、扉前での立ち話。
この世界の人間に聞かれるのはあまり好ましくないなと思ったのは双方同じだったらしく、天使がちらりとこちらを見た。話し込むのであれば密室が最善であろう、この宿は扉を閉めてしまえばそこそこの防音が効いている。締め切った部屋ならば込み入った話も可能かもしれない、けれど。
部屋は個室だった。
こぢんまりとした、シングルサイズのベッドと小さなテーブル、椅子があるだけの小さな部屋。
室内、二人きり、目の前にいるのは女のような顔立ちだが頭一つは違う長身の男だ。
時刻は昼。外は明るく、からりと乾いた空気は湿っぽさなど微塵もない。
吹き抜ける風、柔らかな香り。黴臭さなど無縁の場所。あの時とはまるで違うのに身体が強張るのが解った。警戒と緊張。
「……ここではなんですし、外へ行きましょうか」
立ちつくすこちらに、何かを察したのか柔らかく微笑んで天使が促した。
答えないこちらなどお構いなしに少し待っていてくださいと背を向けて、何やら支度を始める男を目で追った。この部屋は酷く明るく、窓から降り注ぐ煌々とした日の光が忌々しく目を刺す。現在太陽は空高く上っており、澄んだ青空にある陽の光はじりじりと肌を焼くようだ。
「こんな明るい中、出歩けるか」
精一杯の悪態をつくのだが。
「ですのでこれを」
振り返った天使にふわりと頭から何か布のようなものを掛けられた。何をすると言わんばかりにむしり取る、先日のストールかと思いきや布地が厚い。色も少し青みがかった暗い灰色だ。布の縁に白い糸で細かな刺繡が施されていた。派手さはなく、けれど上品なそれは手触りも柔らかく。
「なんだこれは、」
思わず天使を見返すと、男はまた困ったように視線を泳がせた。
「…………差し出がましいとは思ったのですが。陽の光の下では、貴女があまりにも辛そうだったので……日よけの為のコートを用意しました」
ですので、少し外を歩きませんか。
天使の提案に悪意は感じられない。日よけの為のコートを用意して、陽光が苦手な私の為にこれならばきっと大丈夫だからと手渡してきているのだ。何度でも言うが天使がである、長い時を対立してきた悪魔の私を気遣っているのだ。
「…………私は悪魔だぞ」
正気かと、言外に多分に含め口にするのだが。
「存じておりますが……?」
男は不思議そうにこちらを見つめるばかりだ。
欠片も自身の言動に疑問を持っていない。
「天使が悪魔に何故こんなことをする」
互いの立場を忘れたのか、という思いと心底馬鹿じゃないのかという思いが二分され二乗される。自分が今一体何をしているのかわかっているのか、困惑と疑問が鎌首をもたげたが困惑が大勝した。
しかしさっぱり通じないのがこの天使という生き物である。
「それは、関係ないことでは? 貴女が困っているのは事実でしょう」
不思議そうに返される。
足りていないものに不足分を与える、ただそれだけなのだと全力で、言外で、態度で叩きつけられる。
くらりと目眩がした。
打算もクソもなく男の思う「正しいと思うこと」が実行されたのだと解った。貴様は敵対者にも等しく心を砕くのかと問い詰めたかったが、返ってくる答えが解りきってしまったので口を噤むしかなかった。善性が形を持ったかと言わんばかりの天使。その傲慢なまでの清らかさ。眩しいまでの。
「……ともかく、外に出ましょう?」
促される。
視線を合わせないまま男はするりと自分の脇を通り過ぎて部屋から出ていく。その後姿を見ながら何か言おうとして、結局口から言葉が零れ落ちる事はなかった。
施しなどいらんと突っぱねる事も出来たのに。
大嫌いな天使から渡されたコートを、いらない必要ないと投げ捨てるタイミングを完全に失ってしまったのだ。
何より男の言う通りに外へ出る必要などない。
天使の指示など聞く道理がない。意味がない。
男の意図がさっぱり理解できない。
あまりにも自然に行われる不自然な善意をかまされて呆然としているとでも言うべきなのだろうか。
……旅を続けるのであれば、コートは必須だな。
混乱に近い思考回路の末、脳がそう判断を叩き出した。真面目にあれこれと考察する男の話を聞いてみれば現状の打破が狙えるのかもしれないという、わけの解らぬ心理までが働いた結果。ふらりと男の後を追うことにしたのだった。
※
金に揺れる長い髪、男の衣服はどこぞで揃えたのかこちらの世界の物だった。あの白く長い布地で作られた天使特有のものは着ない事にしたのだろうか。まあ、目立つし地を歩くのなら汚れるものな。そんな事を考えながら、いつかの竜人の男のようにコートに袖を通し目深にフードを被る。切れた唇や首を絞められた痕も隠せるのはよかった。変に悪目立ちもしたくない。
ナハシュ・ザハヴは目立ち過ぎるから置いて来いと天使に言われ、仕方なしに一度自室へと戻った。あの夜の竜人がいないとも限らない、かといって丸腰ではいられないのでサイドテーブルの上にルアードから借りている小刀があったのでそれを持っていくことにする。闘技場にも持っていったところまでは覚えていたが……どこぞで回収されたらしい。ありがたい事だ。
乾いた音を立てる階段を踏みしめ、ゆっくりと階下へと降りる。視線の先には座る事もなくじっとこちらを待っていた天使、こちらの姿を目にするとふ、と。一つ小さく笑った。そうして少し出かけてきますと一階の受付カウンターにいる女将に一言告げ、宿を出ていく天使の後ろを無言で追った。
久しぶりに明るい時間帯に外へと出る。直ぐ傍は公園になっており、旅人も街の人々も据え置かれたベンチに座ったり窓から見えた噴水の周囲で語り合ったりしている。絵に描いたような平和な光景。あの夜の事などが嘘のようだ。
僅かに先を行き、こちらを待っていてくれるものの決して横並びにはならない男。
男が用意したと言うコートには遮光効果でもあるのか目に痛いほどの陽光もさほど気にならなかった。天から降る矢のようであった痛みもつらさもない。ただただ、ほんの少しだけ先に行く男の背で揺れる金の髪がゆらゆらと揺れて、淡く光を反射するのを見つめていた。どこまで行くのだろう。
互いに言葉を交わすこともなく。先を行く天使の後をついてく。
何をしているのだろうとようやく正気に返り痛感しつつも、今更部屋に戻るのもしゃくでそれも出来ない。
しばらくそうやって二人して歩いていたが、ふと、天使が足を止めた。宿屋の傍にある公園、その隅にあった巨木の下。明るい空の下でも濃い影を作るそこにはベンチが置いてあり、天使がここはどうでしょうとこちらに問いかける。こんなところまで気遣われたのだという苛立ちと、結果として大人しくついてきた己への複雑な思いと共になんと返していいのか解らず、黙ってどかりと座れば了承と取ったのか天使も同じようにふわりとベンチへと腰かけた。互いの間には一人分座れる程度に空いた微妙な距離。続く沈黙。
する、と目深に被っていたフードを取りややほつれた髪を手ぐしで直す、大木が作る影のおかげで陽光は遮られつらくない。柔らかな肌触りのコートは確かにありがたかったが、しかし何故という疑問は残る。
「どうして、これを私に?」
ここまで来る間ずっと疑問に思っていたことを問うた。
天使が悪魔になぜここまでするのか。正しい行いとやらをしているのだとは分かったがどうしても問わずにはいられなかった。貴様は一体を何を考えているのか。何故、どうして。陽の光を苦手とする私を憐れんで大天使がわざわざ恵んでやったとでもいうのか。理解できない事象の解を求めたのだが、やはり通じないのが天界にいる天使というもので。
「……あなたのイメージは赤と黒なのですが、黒だと暑いでしょうし、あまり目立つのも好まないかなと思って……」
私の判断です、と。ぽつりぽつりと語り始めたが、斜め上の返答が返ってきたのは全くの想定外だった。いやまて、誰がコートの色の話をしている。
ルアードさんには良いのではと仰ってもらったのですが。
貴女が使うものですので、その。嫌でしたら無理にとは。
珍しく天使はぼそぼそと歯切れ悪く口にする。
お前は一体何を言っているのだと、こちらが呆然としているのをどう受け取ったのか知らないがボケた天使はこちらをじっと見つめ、
「身体はもう大丈夫なんですか?」
覗き込んでくるときた。
さらりと流れる金の長い髪、こちらの視線と絡む透き通った空と同じ色をした瞳、酷く近い所にある距離の取り方がおかしい天使の頭を慌てて乱暴に押しのける。
「近い!」
何なんだお前はと声を大にして叫ぶが、天使はそうでしょうかと不思議そうにしている。痛いですよ、とちっとも痛そうにしていないところが更にムカつく。へらへらと笑っている、何故、何なんだお前は。敵同士だろう。お前の仲間を散々殺したのは私なのに何故笑う、何故距離を詰める。元来交わらぬ種族である、まるで違う生命である。理解の範疇から外れているのは重々承知の上でそれでなお問う。何なのだお前は。
「体調がすぐれないとかはありませんか」
どこか得体のしれない薄ら寒いものを感じていると再び同じ質問が飛んできた。相変わらず男は穏やかに微笑んでいる、一見綺麗なだけのそれは穿った見方をすればただ胡散臭いばかりで。
「…………平気だ」
答えなければ延々と続きそうな圧を感じたので、忌々しいながらも小さく返した。随分と頑丈なのですねくらいの嫌味が飛んでくるかと思いきや、それなら良かったですと返され肩透かしを食らう。ほのぼのとした空気を纏ったままの男、自分ばかりが喧嘩腰でいる事の不毛さを突き付けられているかのようだ。
調子が狂う。
正しく穏やかな人物なのかもしれない。そんな事すら思う。
――脳裏に蘇るのは天界に乗り込んだ時こちらを射るあの冷酷な瞳だった。絶対零度の戦鬼のような眼差し。他者を圧倒する剣技、膨大な霊力。今はどれをとっても当てはまらない。今自分の隣にいるのは何の力も持たないただのボケたやたら女顔の男でしかない。腹の底が見えず、かと言ってこちらと進んで親交を深めようとするわけでもない。それなのに用意されていたコート。ぽつんと異物のように訪れた不可解さ。
再び沈黙が二人の間に訪れる。
何を考えているのか皆目わからない。
公園には人がそれなりにいて賑やかだった。仲睦まじい恋人達、老人、はしゃぐ子供達の甲高い笑い声。巨木が作る濃い影の下、陽と陰と隔てられたかのように別世界のように見えた。明るい世界の下でなんのわだかまりもなく生きる生物。それらを、外で続きを話そうと言っていた筈の男は慈しむかのように眺めている。ざわめく木々が揺れる、影がゆるゆると形を変える。
「人の世界は、不思議です。この街にいる方々は皆さん良い方達ばかりで、摂理の違うこの世界は新たな発見があって……戦うことしか知らなかった私には新鮮で、そう、私は、……楽しかった」
陽の光の下ではしゃぐ人間たちから目を離さないまま、まるで独り言のように天使は呟いた。
「……浮かれて、いたのです。人間に受け入れられること、闘技場の時も己の腕を認められたようで酷く……嬉しかったのです」
慙愧に堪えない事ですとか細く天使は口にすると、その青い視線を落としじっと己の手を見つめる。きつくきつく握りしめられた拳は白くなっていてぎちりと音さえ聞こえた。傷一つないそれは骨ばった男の手だった。ゴツくはないが華奢でもない、大きな男の手。その手で拳を握り、恥ずべきことだと。ぽつりぽつりと語られる独白。
「人間の、いえ彼らは人間ではなかったのですが……悪意というものを、私は侮っていた」
さながら断罪のように。
「貴女が人間に危害を加えているのだと思い込んでいたのです。だから、あの日。貴女が傷付いているとは思いもしなかった」
あの夜のこと。
闘技場での天使の連勝、熱気と絶望、夜の闇の濃さと冷えた風の匂い、ほんの少し気を緩めた際に嗅がされた睡眠薬か何かの甘ったるさ。
建物を破壊し、竜人らしき男が消えた後現れた私を慌てて探しに来たらしい天使の愕然とした表情は、たしかに見物ではあったが。なにか妙にばつの悪そうな男の言葉に成る程と合点がいく。やたらと驚いた顔をしていると思ったら私が悪事を働いていると決め付けていてくれたらしい。
くっと。
喉の奥から低い笑い声が漏れ出た。
「……なんだ、私の負傷がそんなに珍しかったか」
ごちゃごちゃと喋っていたが要はそういうことだろう。人に仇なす悪魔を探しに来たら被害者たる人間は居らず、悪さをしているに違いない悪魔が負傷していたのだからそりゃあ驚くだろう。
くつくつ喉を震わせていると、それはそれでなにか言いたいことでもあるのかむっとしたようにこちらへと男が向き直った。
「あの魔王ルーシェルがまさか人間に、……いや人間ではなかったのですが、怪我を負わされると誰が想像出来ますか」
「霊力がなければ人と変わらんということだ、私も天使達の王たる貴様が薪割りをするなど想像もしなかったさ」
「まだそれを言いますか」
「配下共が見たら卒倒するぞ」
「貴女こそその姿では心配されるのでは?」
ごく自然に怪我のことを指摘される。現在私の口の端には貼られたテープ、首と手首には巻かれた包帯がある。こういうところが甘ちゃんというのだ、言動は基本的に経験したものしか出てこない。
「さあ……どうだろうな」
ふいと視線をそらす。
弱さを見せればすぐにでも叛逆されるのが魔界である、王の負傷を心配などする輩がいるとも思えないが天界にいるものには理解できないようだ。
「貴様らの道理は通用しない世界だからな」
強ければ生き、弱ければ死ぬ。それだけが魔界における唯一の法である。天界とは道理も理屈も違う。
「そう、貴女は悪魔だ」
噛みしめるかのように口にしたこちらを見据える男の瞳からす、と穏やかな色が消える。
「魔王ルーシェルは悪魔達の頂点に君臨する者。霊力が使えず人と同じように怪我をする存在となっても、私が殺すべき相手である事は変わりません」
随分と親しげに話しかけてくるものだと思っていたが、殺すのだときっぱりと言い切られてなんとも言いようのない安堵が訪れた。
なんだ、理解の及ばない行動をすると思っていたのだが腹の内は変わっていなかったか。殺し殺される間柄だ、何を今更という体なのだろう。それでなくてはこちらも困るというもの。
「馬鹿らしい。結論は決まっているのだ、協力を余儀なくされているとはいえ私は天使と仲良しこよしになりたいわけではない」
元の世界に戻るまでだと互いに理解した上での現在の関係である。天使共の博愛など我らからすれば対局の位置に存在するものだ。相互理解ができるとも思っていない、そこにあって対立するもの。上辺だけの親睦など気色悪いだけである。
そこら辺を天使はどう考えているのか知らないが、また何やら思い詰めたような表情で口を開いた。
「……貴女は悪魔で、魔王で、けれど私はそれ以上知りません。貴女という人物を知らず、あの日、思い込みで貴女の行動を決めつけていた私は愚かだと、……」
そこで口をつぐむ。
また独白のようなことをつらつらと語っていたがわずかに言い淀んで、改めてこちらをじっと見つめた後。意を決したように。
「私は、貴女に謝罪をしたいと思っていたのです」
「は?」
一息に発せられた天使の酷く乾いた言葉は、こちらが受け取るよりも先に地面へと転がり落ちたのだった。
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