第一章 未完の戦後
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二〇二二年十二月二七日午後八時五分
日本帝国兵庫府西神区郊外
そこは死に絶えたように静かな通りだった。
ときどき響くブゥンという音は古びた白色街灯の断末魔。明滅するそれが照らす通りには、人影一つ見当たらない。存在するのは潰れた空き缶、膨らんだ古新聞、注射器の欠片、煤けた官製義手の左小指。それらは寒風に吹かれてひび割れた
歓楽街の活気は無論、住宅地の生活音さえない。まだ深更には届かぬ時刻を思えば不自然なほどだ。遠景に見える煌々たる摩天楼と比べたとき、その
『
その濃密な静寂を、声ならぬ声が切り裂いた。
『全部隊展開完了。対象に目立った動きは見られない。気付かれてないね。当然だけれど』
それは電波に変換された囁き。否、最初から電波として発信された声だ。強力な暗号化を施された無線通信の走る帯域は、声の主人と同じくこの国の電波法の外側にある。
『いつでも行けるよ…… って』
一転、声が怪訝そうな色合いを帯びる。
『ちゃんと聞いてる?』
その怪訝さもまた電波の形で表現されたものだったが。
『聞いている』
暗い街角のどこかから声が返る。平板で無機質な、感情を欠落させた声。電波で意思疎通する彼らのような存在にはむしろ似つかわしい声だった。それと比べると、
『何してるの』
『月を見ている』
『月ぃ? まさか、月が綺麗だなんて気味の悪いこと言わないよね』
『言わない。三日月は嫌いだ』
『…… あっそ』
『…… どうしてか、聞いていい?』
『不快な記憶を思い出すから』
『はあ、またそれだね』
『…… 不快な記憶、不愉快な記憶、不機嫌な記憶。何を見てもそれしか言わないじゃん。たまには楽しい記憶を思い出したりしないの?』
『記憶にないな。どの記憶も、不快か、不快でないかだ。マイナスとゼロがあるだけだ。そして三日月はマイナスの方に結びついている。背中が痛んで嫌な汗が出る』
『この身体に汗も痛みもないでしょ。でも、哀れな人生だね』
『君も僕と似たような生い立ちだろう。少なくとも、この十年は』
『でも私は三日月を見て背中が痛んだりしないもん。同じ風景を見ても抱く気持ちが一つとは限らないんだから、要は気の持ちよう一つだと思うね』
『気の持ちようで幾らでも愉快に過ごせる、か。哀れな人生だな』
『なんだと!?』
憤慨する相方を無視して
『
『
落ち着き払って乾いた男の声だった。
『今日は随分と無駄口が多いようだが?』
『はっ、申し訳ありません。少尉と月が惹起する記憶の質について論議していました』
『少尉、なんだ、それは?』
『ただの無駄話です。申し訳ありません』
感情を任務と階級で抑えつけたような
『まあいい。それより企画課から新しい情報が入った。全員に繋げ』
通信の範囲が拡大する。三人の間の専用回線から戦術
『こちら
戦術
『今回の標的は
そこまで言って羅凪少佐は数秒の間を置いた。ここからが本題だと暗に示す間であった。
『以上が先ほど伝えた任務の概要だ。しかし、今入った情報で少し事情が変わった。石巻が右翼どもに横流しした装備は既に刑事二課が摘発しているが、どうも消えた装備品と数が合わんらしい。特に厄介なのが、
上官の問いかけに回線は静まり返っている。数拍置いてから
『
『正解だ。軍の記録によれば石巻は標準的な新帝都重工製サブジェクトFS2を着て外出したことになっている。一応、顔写真を配っておくが、この手の事件の常として個人認証は無効化されているだろう。どれに石巻が入っているか不明である以上、全身義体は軍用も含めて全て生け捕りにするしかないというわけだ。そして、ゴム弾も催涙ガスもスタンガンも、軍用義体を無力化するのには役立たない。そこで作戦をこのように変更する』
羅凪少佐から全隊員へ新たな作戦計画が送信される。
『何か質問は?』
静寂。
『よろしい。二〇二五をもって作戦を第二段階に移行する。以上』
羅凪少佐が回線から離脱し、隊員たちだけが取り残される。時刻は午前〇時二三分。いつも通り二分だけ残された空白を前に、
いつもの役目だ。この部隊の隊長たる彼の役目。
『聞いての通りだ、諸君』
そして吐き出された声は、
真意はともかく、聞き手にそう信じさせるには充分な力のある声だった。
『帝国に賜った技量と職分を濫用し、帝国国民の税で鍛造した装備を盗難し、挙句帝国に仇なす逆賊どもを支援する。石巻範三は決して許してならぬ大罪人である。何より、奴は今日の病んだ帝国の内憂を、つまるところ陸軍の専横と飽くなき権力欲を体現する存在である。
『国益、防衛、あるいは自存。耳に心地よい甘言を弄して民心を誑かし、その実、際限なき軍拡で復興予算を圧迫する。日本戦争から早十年。帝国が未だに戦後を終えられないのは、偏に軍の視野狭窄とそれに扇動された過激派のためであり、そこに掣肘を加えるは我ら内務省保安総局の大使命である。
『諸君、思い出せ。我々に軍が何を与えてくれたかを。
『諸君、思い出せ。我々が白虎と忌み呼ばれる理由を。
『諸君、思い出せ。我々の白虎たる矜持とその精華を』
戦術
『狩の時間だ!帝国万歳‼』
爆発するような歓喜と興奮、そして殺意を乗せた電波が乱れ飛ぶ。
その波長が反射していった路地の奥から、漆黒の巨体が静かに一歩を踏み出した。
重量と金属的な光沢に似合わぬ、幽鬼のごとき静けさであった。
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