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二〇二二年 十二月三〇日 午後一二時二八分
日本帝国 京都府 左京区 郊外
京都府は兵庫、大阪と共に帝都三府を構成する行政区である。府庁所在地の京都市には御所と宮内省、数々の在外公館、教育研究機関が所在し、文化と学術の都として帝国の首都機能の一部を担っている。
市北東部の左京区は京都帝大と
その住宅街と山林のちょうど端境となる場所に佇む日本家屋の門前に、一台の軽自動車が停まった。
「………… 」
助手席から降りて来たのはベージュのトレンチコートに身を包んだ男であった。彼は白い息を吐くと曇天を背負う入母屋造の屋根を見上げる。眼光は意思を秘めて鋭く、背筋は桜の幹の如く伸びている。その佇まいと、何より
男は門柱に備え付けられたインターホンを鳴らす。長年の風雨で黒ずんだ檜と電子音がチグハグだった。
「
名乗ってから門をくぐり、彼は引き戸の前に立つ。しばらくすると錠を開ける音が響き、黒いスーツに身を包んだ恰幅の良い男が出て来た。顔面部は生体だが不自然に膨らんだ下半身と両腕から、
土間で靴を脱ぎ男にコートを預けた宮桐は、曲がりくねった狭い通路を奥へと進んだ。左右に並んだ障子から薄明りが漏れている。本来は自然光を取り入れる開放的な間取りだが、曇り空な上に全ての障子と襖を閉め切っているため仄暗い。
宮桐はその最も奥まった障子の前で足を止めた。
「どうぞ」
「失礼します」
声に導かれて障子を開けると、畳敷きの六畳間だった。右手の床の間には生け花の一つもなく、冷えた畳の上には塵埃さえ落ちていない。左手には締め切られた襖。生活者の匂いのない殺風景な空間に、紫色の座布団が一つだけ置いてあった。
「掛けてください」
中性的な声の主人は正面、開けた障子の向こうの縁側にいた。客人に出したのと同色の座布団の上で正座している、
宮桐は一礼してから座布団の上に正座し、背筋を伸ばして切り出した。
「
「………… 」
「まずは私服で参上した非礼をお許し願いたい。例の事件以来、保安総局の監視がますます厳しくなる中で休暇を装う必要がありました故。無論、尾行には最大限の注意を払っています」
「構いません」
南郷は振り返ることなく答えた。その視線は変わらず、閑散とした中庭へ向けられている。
「石巻くんの件は、残念でした」
「はい…… 。憲兵隊も未だ何の手掛かりも掴めていないそうです。軍内の同志が手を回しているとはいえ、こうも綺麗に雲隠れしたとあっては、
「私の指示ではありません。彼と周囲の者たちの独断でしょう」
「やはり、そうでしたか」
宮桐は深く息を吐き出しながら言う。それこそが神戸から京都までの道中、彼の胸中を占めていた疑問であった。あまりに微妙なタイミングで為された粗暴極まる作戦。事後的に事件の発生を知った宮桐には、それが己の信頼する先生の手によるものとは思えなかったのだ。
そして、実際にそうではなかった。安堵する反面、宮桐の胸中には別の感情が湧いてくる。それは強烈な自責の念。その衝動の赴くままに、彼は畳に両手をつき額を擦り付けた。
「申し訳ありません、先生。―― 石巻を
一気呵成にそう言い切った。それは彼の偽らぬ本心であった。保安総局が、この国最大の公安機関が済民会の存在に辿り着いたのは確実だ。よりによってこの時期に。
今日、自分が京都にある会の拠点へ呼ばれたのもこの件のためだと、宮桐は思っていた。
「顔を上げてください」
故に、南郷からそう言われても宮桐は頑として顔を上げなかった。
「忘れましたか、宮桐くん。貴方を面と向かって勧誘したのはこの南郷です。もし貴方に責があると言うのなら、より根本的な責は、私に」
「先生、それは」
反射的に顔を上げた宮桐を南郷は制する。
「よいのです。保安総局もすぐには大々的な行動を起こせぬでしょうし、石巻くんより先には辿れぬでしょう。谷津くん達に関しては既に手を打ってあります。―― それよりも彼らが今、この時期に行動を起こしたという事実こそ肝要なのです。宮桐くん、この意味が分かりますか」
虚を突く問に宮桐は押し黙る。一分に渡る思考の後、彼は導き出した答えを口にした。
「…… 計画が実現に向かいつつある今だからこそ、国威復興と窮民救済の理想を新たに、尚一層の緊張を己が身に課さざるべからず、ということでしょうか」
「陸軍の人らしい答えですね。確かにそれも大事ですが、不十分です」
穏やかな声でそう言ってから、南郷は滔々と、生徒に道理を諭す教師の如き調子で続けた。
「宮桐くん、私たちが民を導くのだという傲岸不遜な思考に囚われてはいけません。民が私たちを導くのです。否、私たちもまた民なのです。
私たちは迸る怒涛の先頭で跳ねる、たった一粒の無力な水の滴。今日の荒廃した帝国に横溢する、爆発せんばかりの民の意志がこの背中を押すのです。大きな意志に翻弄されて堅固な堤に己が身をぶつけ、決壊を引き起こす蟻の一穴を穿つ。その結果としてこの無力な身は砕け散る。
そこに己はありません。ただ我々だけがあるのです。その事実を自覚したとき、否応なく動いてしまう身体だけが残るのです」
淡々と語る南郷の言葉に黙して耳を傾けていた宮桐は、得心したように言った。
「石巻大尉たちも、そうであったと」
「然り」
南郷が頷くと同時に、左手の襖が開いた。入室したのは玄関にいた黒スーツの男だった。彼は封筒の乗った盆を宮桐の眼前に置くと無言で退出した。宮桐は封筒から折りたたまれた紙を取り出して広げ、そこに書かれてあった内容に息を呑んだ。
「理由は、分かりますね」
「…… 民の意志、ですか」
「時、来たれり。石巻くんの行動を見て確信しました。私は動く身体に従うだけです」
宮桐は文面を記憶すると紙を封筒に戻し、盆の上に置いた。今日呼ばれたのはこのためだったのだろう。
最早南郷は何も語らなかった。話は終わったのだ。宮桐は正座したままもう一度深く礼をする。立ち上がって廊下に出て行くまで、縁側の座布団に座った南郷は一度も振り返らなかった。
「先生のご様子はどうでしたか、少佐」
玄関でコートを受け取り車に戻ると、運転席に座った短髪の女が言った。宮桐と同じくサブジェクトを着た全身義体者だ。どこか日本刀の白銀を連想させる真っ直ぐな鋭さもまた、彼と相似していた。
「相変わらず大海のようなお方だ。どこまで見据えていらっしゃるのか…… 」
上官の様子に何か勘付いたのか、女はラジオの音量を上げた。
『来年一月前半には冬型の気圧配置が強まり、日本列島に強い寒気が流入する予想です。中国四国地方から近畿、北陸にかけて、六日以降は各所で記録的な大雪が予想され…… 』
「雪…… か」
冷え切った車内で、二人の吐く息は白い。女は車のエンジンをかけた。
「帝都に雪が降ったときこそ、我々第2特殊作戦群が帝国最精鋭の矜持と本懐を示すとき…… そうだろう、
「はい、少佐」
車は高野川、そして鴨川に沿って京都を南下し、やがて進路を西へ切って神戸へ向かった。
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