二〇二二年 十二月二九日 午前一時一三分

 日本帝国 兵庫府 生田区 内務省庁舎本館


「結局間に合わなかったか」


 庁舎の正面玄関を出たところで荒谷は一人呟いた。帝都は眠らぬ街だ。未だ無数の窓に灯りがともる三宮はその心臓だが、残念ながら血管たる交通網はその限りではない。義体内蔵式の時計に眼を向ければ時刻は終電二分前。最寄りの帝鉄三宮まではどれほど急いでも五分かかる。


 仕方ない。荒谷はワイシャツの上に羽織ったコートのボタンを留め、両のポケットに手を突っ込んだ。それは寒さを感じての行動ではない。今の彼がまとう10式清流は民生用としてはハイエンドの機種だ。その高い擬似恒常性パラホメオスタシス機能のため、一二月の冷気程度では充電池にも生体部にも負荷は掛からない。しかし、そんな高性能機を夜の帝都で見せびらかすのは賢い行動とはいえなかった。


「たーいちょ」


 歩き出そうとした荒谷は背後から声を掛けられた。公僕たちが激務との果てしない戦いを繰り広げる深夜の三宮とは不釣り合いな、間延びした明るい声。振り返れば、声と同じくこの場とは似合わぬ出立ちの女が白い軽自動車の運転席から顔を出していた。


「なんだ、副隊長」


 ぶっきらぼうに返せば、相手はムスッと顔を顰めた。高性能な義眼のおかげで暗闇でもその表情の変化がよく見える。髪を肩口まで伸ばした、瞳の大きな朗らかな目鼻立ち。荒谷正反対に感情を反映してコロコロと変わるその顔が、彼と同じく合成樹脂プラスチック製の模造品だと分かるのも義眼の故だった。


「なんだじゃないよ。終電、今行っちゃったよ」


「知っている」


「…… 一応聞くけれど、どうやって帰るつもりだったの?」


「徒歩だ、見ての通り」


 彼女は呆れたように溜息を吐いて頭を振った。


「乗ってきなよ、一路いちろ。私も今から帰るところだからさ」


 じっとその顔を見つめつつ思考すること三秒。結局、荒谷は彼女の言葉に従うことにした。


 助手席の上には保安総局の身分証ケースが開きっぱなしで無造作に投げ出されていた。制服と同じ色の革張りの手帳だ。室内灯に照らされた合成樹脂プラスチックのカードには、運転席に座る彼女の顔写真と氏名、階級等が記載されている。―― 崇峰たかみねあかり。保安少尉。


「あ、ごめん」


 気づいた崇峰はケースをカーディガンのポケットにしまう。季節外れの薄着だが、車内は暖房も付いておらず冷え切っている。


「警備に身分証見せろって言われてさ」


「真夜中に私服で登庁した上に何時間も車内で居座っている不審者がいれば、そうするのが警備係の職責だろう」


 乗り込みながらこともなげに発された荒谷の言葉に、崇峰は固まる。


「退勤時間が被ったように装うのなら、次からは制服を着て来た方がいい」


 ハンドルに顔を埋めた崇峰の頬がうっすら桜色に染まっている。感情表現機能が無駄に優れた官給義体と庁舎の老朽化したエレベーターの関係について、荒谷が深い思索を巡らせていると、横で崇峰が呻くように呟いた。


「仕方ないじゃん…… 迎えに行くって言ったら絶対に断るし…… 迎えに来たって言っても嫌がるだろうし…… 」


 数秒後、彼女は顔を上げるとエンジンをかけてギアレバーを引いた。全てなかったことにするらしい。車がゆっくりと発進する。


「一路もそろそろ免許くらい取りなよ」


「不要だ。いったい何に使うんだ」


「そりゃ、こうやって終電逃したときとか。だって、官舎まで歩いたら二時間だよ?こんな夜中に、そんな高級義体を引っ提げてさー。強盗にでも遭ったらどうするんだよ」


「警備四課の人間が強盗を恐れてどうするんだ」


「四課だってバレたらリンチされるかも」


「そのときは自衛手段を行使する」


 駐車場を出て右折し、十字路を横切って国道二号線へと入る。福岡から大阪までを貫く帝国の大動脈は、昼間はこの近辺で常に血栓症を引き起こしている。とはいえ、流石にこの時間ともなれば空いたものだった。軽自動車は大型トラックの後ろにつけて東へと進んだ。


「はあ…… そんなんだから自閉モードを使うことになるんだよ。また課長に怒られたんじゃないの」


「……………………………… 否定はしない」


「間、なっが。まったく、ちょっとは反省しなよ。命大事に。日頃の生活でも同じことだよ。そんな難しい命令じゃないんだからさ」


「無駄なリスクを払っているわけではない。必要なコストだ。たしかに、課長にはコスト計算に不備があると指摘を受けたが…… 」


「夜中に帝都を歩き回ることのどこが必要なコストなのさ」


「………… 」


 国道から外れて市道へ入ると途端に交通量が激減する。スーパーマーケットとレストラン、個人商店の看板を出したままの空き家が並んでいる。現政権を罵倒する過激なグラフィティの大書されたシャッターの前で、若い男たちがたむろしていた。


 それを眺めながら二十通りほどの反論を検討し、その全てに理がないことを確認した荒谷は、観念したように口を開いた。


「…… 君が正しい」


「だから間が長いってば」


「課長には、この義体の奥に収納された脳髄こそが最も高価な装備なのだと言われた。第3小隊ぼくたちについては特にそうだ。その上、一度壊れれば修理が不可能なのだ、と。だから生命を大事にしろ、と。まったく正しい。君の忠告も同様だ」


 己の非を認めるその言葉は、あまりに滔々としていて逆に言い訳じみていた。その滑稽さに気付いた荒谷は、口を開いたときと同じく唐突に口を閉ざす。


 荒谷の言葉を黙って聞いていた崇峰は、無言のままブレーキを踏む。赤信号だ。


「命を大事にしろって、別にそんな複雑な理屈が必要な話じゃないと思うよ」


 私は、と、助手席に座る彼の横顔をしっかりと見つめて言った。


「一路が死んだら悲しいよ」


「―――― 」


 荒谷は思わず声の方向を向いてしまう。小さく震える声は彼女の感情を正確に再現していた。ゴム素材を組み合わせた人工声帯から発されたものとは思えぬほどに。


 視線の先で瞳が揺れていた。その瞳に、吸い込まれる。


無茶を使い続けてたら、本当にいつか死んじゃうよ。…… そうじゃなくても、もし何かの間違いで隊の皆んなみたいになっちゃったら、やっぱり悲しいよ。もう私と一路しか残ってないんだから」


 それは痛切な本音の告白だった。心配と不安がない混ぜになった静かな叫びだった。たった一人残った同類を失い、真の孤独へと突き落とされることを恐れる感情の発露に、荒谷は胸の奥が疼く感覚を覚えた。そこには防殻シェルがある。彼の中枢神経系を、つまり唯一残った生来の肉体を保護する、コバルト合金製の密閉容器。


 その疼きを声に変えて吐き出した。


「不要な心配だ。…… 僕は大丈夫だ、灯」


 彼女のものとは似ても似つかぬ平板な声だった。ルームミラーに写った表情も微動だにしない。本当に同じモデルを使っているのかと、このときばかりは自分の義体の性能を疑ってしまう。無論、それが責任転嫁でしかないことを、義体操練のプロフェッショナルである彼は理解している。


 返事を聞いた崇峰は目を丸くし、それから破顔した。


「へへ、そっか」


 笑った彼女が前を向くと同時に信号が青に変わる。車が進み出す。彼女の感情の変転の速度に、慣れている荒谷はそれでも感心するやら呆れるやらだった。


「じゃあ、明日はどっか出掛けないとね!久し振りの休みなんだから」


「ああ…… いや、待て。それと命を大事にする指針との間に何の関係が…… 」


「命を大事にするんなら、まず実際に命を大事なものに変えないとだめなんだよ。そのためには楽しい記憶を増やさなきゃ!」


「それは理解し難い論理だが…… どのみち無理だ。椛谷主任に大量の技術報告書を渡されている。二日あっても終わるかどうか」


 崇峰は引いたような声を出す。


「うえ…… 二日って。どんな量なの…… 」


「憂さ晴らしだそうだ」


「あー…… 。そうだ、なら二人でやっちゃおうよ、それ。一路じゃないと書けないところはそんな無いでしょ。分担すればきっと一日で終わるよ」


「なに?たしかに主任は君に手伝ってもらえと言っていたが」


「さっすが主任!なら決定だね!」


「いや、だが…… そもそも不毛な書類仕事を片付けるだけの作業だぞ?それが楽しい記憶とどう関係すると」


「ええい、ごちゃごちゃ言わない!」


「…… 」


 予想外の剣幕に圧倒された荒谷は沈黙を選んだ。ハンドルを握る崇峰の機嫌はますます良くなり、今にも鼻歌を歌い出しそうなほどだ。


 彼女の論理や行動には相変わらず理解不能なところが多い。だが、それで良いのではないかと荒谷は思う。二人はずっとこんな関係だったのだし、彼女が理解できない存在でいるという事実が、荒谷一路の存在を外側から補強しているような気がした。


 車は北進し、二人の住む内務省の特別官舎へ向かう。

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