二〇二七年 八月四日 午前三時五八分

 日本帝国 岐阜県 高山市 高山駐屯地



 深更の高山市は静寂に包まれていた。だがそれは時間帯のためではなく、住民があらかた帝都以西へ避難してしまったが故である。江戸時代の天領に起源を持つこの町は、現在では陸軍駐屯地の機能維持を主要産業とする軍事都市だ。その変貌をもたらしたのは、日本アルプスに沿って列島を縦断する軍事境界線の西方僅か六〇キロ、天然の要害たる飛騨山脈の後背という立地である。


 市街地北方に位置する駐屯地では戦闘服姿の軍人達が動き回っていた。彼らの表情にはどこか異様な緊張感がある。この九二時間ほど、帝都防衛軍の全駐屯地は防衛基準体制一に置かれている。この十六年間で何度か発令された警報ではあるが、今回に関しては過去のものと意味が違うことを誰もが理解していた。


 事態の異常さを示すように戦車ガレージはガラ空きとなっている。隅の方に予備の旧式機が並べてあるだけだ。稼働中の多脚主力戦車LMBTは既に全て出払っている。


「準備完了です」


 ガレージの暗がり、壁に備え付けられた固定電話の前で一人の整備兵が呟いた。白い作業服と頬には機械油が飛び散っている。受話器を握る手が震えているのは、現在の基地を覆う緊張感だけのためではなかった。彼には特殊な任務があったのだ


 彼は己の行為の正しさを確信していた。第一に、これは任務だ。軍人ならば従わねばならぬ。第二に、これは帝国の未来のためだ。自分が戦災孤児となった十六年前のあの日を忘れたことはない。


 だが、それでも彼は湧き上がってくる震えを抑えることはできなかった。第一に、これは任務とはいえ軍人として拒否感を覚える行為だ。第二に、これが引き起こす事態の巨大さに押し潰されそうだった。


 仮に………… 自分の行動が致命的な誤りだとしたら?


 そんなことを幾度も考えている間に、受話器の向こうから声が返る。


『―――― 』


 彼は帽子を深く被り直した。


 最後に悩んだ時間は一秒にも満たなかったろう。


 彼がそのスイッチを押した瞬間、高山駐屯地の数カ所で爆弾が起動した。

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