二〇二七年 八月三日 午後七時十分

 日本人民共和国 宮城県 多賀城市 多賀城駐屯地


 振り回した模造刀の遠心力で独楽のように回りつつ、巧みな重心制御で距離を取る。くるくると回転する視界は不明瞭で、己の現在の体勢や位置を把握し切ることはできない。民生用義体としては高性能とはいえ、光学レンズしかないSa―9Tsの感知器機構センサーシステムは格闘戦を想定しているわけでないからだ。無論、戦術支援電算機スタッフコンピュータも戦術情報網データリンクもない。


 その不足を補うのは経験と本能が結晶した非言語的な直感だ。


 その直感に従って何の前触れもなく左脚で踏ん張った。戦闘靴が土瀝青アスファルトを掴み、回転に急制動がかかる。形状記憶合金製の大腿筋が急速に収縮し、生身の人体なら筋挫傷を起こすほどの負荷を全て受け止めきる。―― 回転運動が逆袈裟返しの溜めに反転した。


 上半身を捩じ切るような速度で振り上げる。


「!」


 手元に確かな手応えが伝わり、同時に模造刀同士がぶつかる硬質な音が響いた。宙を舞う相手の模造刀が闇夜に紛れ込む。


 驚愕に歪む相手の顔の鼻先に、返す刀で切先を突き付けた。


「勝負ありだ」


「…… 参り、ました」


 荒谷の淡々とした宣言を受けた保延は、辛うじてそう応えると全身から力を抜いて座り込んだ。それを尻目に荒谷は、戦闘服の上に装着していた全身の防護装備を外す。それは装甲のない今の身体を保護すると同時に、重量感や重心位置などを走査して軍用義体の身体感覚を相対的に再現する重石だ。


 強化合成樹脂プラスチック製の胸当を地面に落とすと、首元や脇の放熱板から熱気が立ち上った。義体の表皮に汗腺はなく、電磁筋肉E M M電動機モーターは人体以上の熱量を発する。排熱は擬似恒常性ホメオスタシス系の中心問題だ。それが民生用義体での高強度運動が推奨されない理由でもあるが、格闘戦の訓練と座学を受けた全身義体兵であればその効果と限界は熟知している。


「結局…… 白星はなしですね。さっきのはいけると思ったんだけれどなあ…… 」


 座ったままノロノロと防護装備を外す保延は、悔しさの滲む声で呟いた。


「同志少尉殿は、どうやって周囲の状況を知覚しておられるんですか。あんな速度で後退旋回していれば、サプリンの感知器センサルは役に立ちませんよね? 返し斬りに移る瞬間を判断できないはずと思ったのですが」


「同志伍長の言う通りだ。知覚しているわけではない」


「ならどうやって…… 」


 荒谷はどう言語化すべきか一瞬悩み、結局最も簡素な単語を口にした。


「勘だ」


「勘………… 」


 保延の顔が呆然とも落胆とも付かぬものに変わる。だが事実なのだから仕方ない。


 人民軍全体から集められたというだけあり、多賀城部隊臨時戦闘隊の技量は紛うことなき精鋭のそれだった。保延の属する第2小隊が初めて荒谷を仕留めた実戦演習から十日ほどだが、既にアクーラの慣熟訓練は完了している。隊員個人でも部隊内の連携でも問題はない。アクーラの来歴を考えればこれは驚くべき速度だった。人民軍の装備は基本的にソ連製兵器の輸出劣化版モンキーモデルである。アクーラの元となった西側の軍用義体とは設計思想からして異なる。電子走行装置と駆動系を中心に東側に合わせた改造が加えられているとはいえ、こうも容易にことが運ぶとは荒谷も考えていなかった。


 保延紗雪の技量は戦闘隊の中でも最高位だった。指導を頼まれたあの夜以来、部隊演習後の助言はすぐに防護装備と模造刀を用いた組手に変わった。身体を動かしてみなければ伝わらぬことが多すぎると気付いたからだ。そして彼女の力量はこの十日でも目に見えて上がった。だから荒谷はそれを率直に伝えた。


「自信を持て、同志伍長。勘で差がついたということは、勘以外の部分では並び立ったということだ。アクーラの運用時間はもちろんだが、格闘戦の経験も自分はちょっとしたものだ。勘は場数を踏まなければどうしようもない。貴官にもう指導すべきことはない」


 荒谷の言葉を聞きながら立ち上がり戦闘服のパンツを払った保延は、深々と頭を下げて言った。


「自分の身勝手に付き合っていただいて感謝します。同志少尉殿の域には到底及びませんでしたが、貴重な経験となりました」


 慇懃な言葉だが口調の向こうにある悔しさの感情は消しきれていない。彼女は仙台学校の機動歩兵訓練課程で格闘戦首席だったという。だから従軍五年目でこの部隊に配属されたのだ。謙虚で控えめな性格だが、精鋭としての自負はあるのだろう。


 その態度に荒谷は懐かしい光景を思い出す。剣先と共に実力の差を突きつけられ、歯噛みする部下達。その実力差ゆえに彼は白虎の長として彼らを統べたのだ。最早遥か昔のことに思える。


「同志少尉殿は、いったいどこでこれほどの操練技量を?」


 保延の予想外の質問がその感傷を打ち切った。荒谷が沈黙すると、保延は慌てて手を振る。


「い、いえ、もちろん軍機に関わることであれば結構です!小官に尋ねる権限はありませんから」


 無論、応えることはできない質問だ。東側では義体化兵の言動はログを通して監視されている。かつて荒谷が所属していた帝国内務省保安総局と同じように。軍機を話すことは荒谷以上に彼女の身の安全に関わる。


 だが、荒谷が沈黙した理由はそれだけではなかった。


「いや、過去について尋ねられたこと自体が初めてだったものでな」


「…… やはり、同志少尉殿はこの国の生まれでは…… 」


 荒谷の言い振りで察した事実を、保延はおずおずと口にした。荒谷はどこまでなら話して良いかを吟味し応える。


「自分は、日本人だ」


「………… 」


 それ以上踏み込むべきでないと思ったのか、保延は口を閉ざした。


 鉄のカーテンを超えてから四年、誰も荒谷に敢えて関わろうとはしなかった。だがこの酔狂な女軍人は荒谷に技術指導を頼んだ挙句、その過去を尋ねるようなことさえした。何故だろうか。考えが足りぬだけかもしれないが、そんな輩がこの国で下士官になるのは難しい。


 何より、荒谷は既に彼女の酔狂に付き合ってしまっていた。


 だから荒谷は尋ねるしかなかった。己の酔狂を説明するために。


「同志伍長。貴官の父は日帝に殺されたと言っていたが、御母堂は」


「母は…… 反動分子でした」


 躊躇いがちに溢された応答で、荒谷は全てを理解した。


 同じなのだ。かつての荒谷の部下と。そして彼自身と。彼らは依るべき指標を幼くして失い、他に何も知らなかったから巨大なものに縋った。その中に存在する役割を鋳型として自分を鋳造した。それが日本戦争によってもたらされたものという点で、彼女はかつて荒谷が統率しようとした少年兵達と相似形だった。


 それが彼女を惹き付けたのなら、自分は四年で一歩も進んでいないのだろう。


 進むべき道を見つけていないのだから当然ではあった。今の彼は帰るために戦っている。


「最後に一つだけ聞く。貴官は日帝が憎いか」


「無論であります」


 この国では元より否定など存在しない問いであったが、即座に返った肯定が本心であることは彼女の目を見れば明らかだった。荒谷は何と言うべきか分からなかった。だから無言で模造刀と防護装備を抱え上げ、去り際に一言だけ告げた。


「死ぬなよ」


 保延は瞳を見開いていた。まるで、予想外のものを見たというように。

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