二〇二七年 八月三日 午後五時四八分

 日本人民共和国 神奈川県 川崎市 駐日ソ連軍川崎特別基地


 窓外を多摩川の濁った水が流れていく。ドイツ製の党務用自動車の後部座席に座る大嶋雄理は、舗装された川の汚い水面を眺めつつ、この川崎という土地の来歴に思いを馳せていた。


 かつて、多摩川南岸のこの一帯には真言系の仏教寺院があったという。だが今は影も形もない。大東亜戦争後、焼け野原となった首都圏を、日本人民党は徹底的に改造した。貧民街、闇市、無数の個人商店と町工場…… 資本主義の混沌を克服し、ソ連式の計画経済秩序のもとに置く必要があったのだ。その一環で旧体制と強く結びついていた寺社仏閣は組織も建築も解体された。その跡地には大抵、町工場に変わる大規模な国営工場か労働者集合住宅ルドニコフカが建てられた。


 だが、この川崎市南部一帯に建てられたのは軍事基地だった。しかも駐留しているのはソ連の反応弾戦略を担う戦略ロケット軍である。高級党員だろうと軍人だろうと、日本人は基本的に立ち入りできない。人民共和国の首都圏にありながら、ここは完全に治外法権領域だった。


 そこまで考えると、大嶋の眉には不快そうな皺が寄った。


「酷い顔だな、ユーラ。何か嫌なことでも思い出したのかね」


 窓外を眺める大嶋の横、ゆったりと座るオルロフスキーが揶揄うような口調で言った。日本人である大嶋がここに入れたのは、このソ連人の存在故だった。ユーラ。自身の名と血筋から取られたそのロシア風の愛称を無視し、大嶋は無表情を装って応える。


「我が祖国と軍ながら手際の悪さと非効率に呆れたのです、同志オルロフスキー。計画経済の優位性を盛んに喧伝しながら戦時動員で帝国の後塵を拝し、際どい綱渡りを続けている我が人民共和国に」


 それは大嶋の胸中に湧く不快感の主要因ではなかったが、一因ではあった。


 現在、日本人民共和国は総動員体制下で開戦準備を進めている。市民の私的外出は完全に禁止され、道路や鉄道、通信、電力網は軍の統制下に置かれている。工場は軍需物資の生産に、報道機関は党からの情勢報道に振り向けられ、コムネットは西ために閉鎖された。


 だが、人民党の対応は遅過ぎた。その結果として、ソ連の―― 大嶋の横に座るこの男の過大な要求を受け入れざるを得なくなったのだ。


「例えば一般市民などはさっさと後方へ移送すべきだった。労働者集合住宅ルドニコフカで腐らせておくよりは使い道もあるはずです。少なくとも帝国はそうしている。制度からすれば、住民の移送が容易なのは我が国の方であるにもかかわらず」


「それは何故だね?」


「同志オルロフスキー、貴方なら分かっているでしょう。くだらぬ理由です」


 それはひとえに党指導層のメンツのためだ。人民軍が帝国軍に敗北するはずがない。であれば住民の疎開は必要ない。逆に、疎開は人民軍の劣勢を認めることとなる。だから疎開はない。この種の非効率が人民共和国には蔓延っている。それが戦時動員で劣後した理由であり、この国が未だに軍事境界線から僅か二四〇キロの東京に首都を置いている理由だ。大嶋に言わせれば、人民の都など捨てて仙台にでも遷都すべきだったのだ。


「手厳しいな。だが、そのおかげで我々の仕事がやりやすくなるではないか」


「…… その通りですな」


 大嶋の返答と同時に車が停止する。二人が降車すると無骨な軍用車が停まっており、その傍らでソ連軍の若い歩哨が敬礼をしていた。ここから先は基地内で最も厳重な制限区域だ。当然、人民党の自動車では入れない。


「だが、祖国の非効率は君の不機嫌の理由の一つに過ぎないだろう、ユーラ」


 軍用車が動き出したと同時、オルロフスキーが口を開いた。


「君はこの川崎という土地自体が気に入らないのだ。ソ連軍が反応弾を投下して大日本帝国を降伏させ、戦後八十年に渡って占拠し続けているこの土地が。日本人民共和国のソビエト連邦に対する服従を象徴するこの土地が。違うかな?」


「………… 」


 その挑発的な言葉に大嶋は沈黙を選ぶ。常に内心を見透かしたようなことを言うこのロシア人が、大嶋はずっと苦手だった。嫌悪していたと言っても良い。だがオルロフスキーは大嶋の内心など知らず、否、知っていて敢えて続ける。


「何も恥じることはない。祖国に対する矜持も執着も、その裏返しの劣等感も、あらゆる人間の自然な感情だ。だがこの感情と冷徹な知性を併せ持つ者は少ない。知性は感情を解体するからだ」


「………… 」


「ミール機関が君を選んだのは、その知性と感情の両立故なのだよ、ユーラ。君は己の来歴をもっと誇っては良いのではないかな。それこそ、君にその稀有な素質をもたらしたものなのだから」


 腹立たしいほどに流暢で白々しい日本語が鼓膜に絡み付く。視界の端、防弾ガラスの窓には大嶋の顔が反射している。鼻が平たく目が細い、極めて黄色人種的な顔だ。そこに四分の一混ざるスラヴの血を連想させるところはない。


 己の祖父の名を大嶋は知らない。彼の親の世代には、己の親の名を知らぬ混血児がたくさんいた。それは日本本土の東半分がソ連地上軍に占拠されたからであり、北海道がソ連領クリル自治州となったからでもある。祖国解放の代償というわけだ。


 いずれにせよこの平たい顔だけが、大嶋雄理が親から貰った中で唯一感謝している贈り物だ。ロシア風の名など反吐が出る。


「同志オルロフスキーの中では…… 」


 だから再び車が停まった頃、大嶋は相手の言葉には正面から応答せず逆に問うた。


「その感情と知性は両立しておられるのですか」


「私か?確かに私はソ連生まれのロシア人だ。今もソ連の代表として、ソ連の力で仕事を進めている」


 だが、と言いつつオルロフスキーはドアを開けて降車する。大島もそれに続いた。


「ミール機関が目指すのは世界革命だ。私にとってはソビエト連邦などついでに過ぎない。便宜上、さっきはあんな言い方をさせてもらったがね」


 そして二人は目的地に辿り着く。眼前に聳えるのは半円形の巨大なドームだ。川崎基地の中心部に位置する建物であり、ソ連戦略ロケット軍がここに駐留している理由でもある。


「あれが爆心地だ、ユーラ」


 ドームを指差すオルロフスキーの顔から感情を読み取ることはできない。そこに張り付いた微笑が揺らぐところを、大嶋は一度たりとも見たことはなかった。


「あれと同じものが名古屋にもある。M2号作戦の目標だ」


 だがオルロフスキーの内心など大嶋にとってはどうでも良かった。彼がソ連のことをどう思っていようと関係ない。大嶋にとって重要なのは、この得体の知れないロシア人との関係が祖国にもたらす利益だ。


「そうだ、ユーラ。君は世界革命のことなど考える必要はない。大事なのは君自身の仕事のこと。それを成し遂げさえすれば、日本人民共和国は中国や欧州共産連合イー・エス・カーと並ぶ東側の大国に躍り出る。悪くない取引だろう?」


「その通りだ、同志オルロフスキー」

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