二〇二七年 八月三日 午後三時四八分

 日本人民共和国 東京府 千代田区 日本人民党本部


 江戸幕府創立以来四〇〇年、日本の政治的中枢であった千代田の地名は、今でも人民共和国政界を指す隠語として用いられている。江戸幕府から大日本帝国、そして日本人民共和国へ。思想と制度が激変しようと国家中枢の地理的位置が変わらないのは、長い年月の間で固定された都市条件のためだ。風雨が地面を削って地形を形成するように、人の流れは経済と権力の機構を作り出す。それを組み換えるのは計画経済と一党独裁でもっても容易な仕事ではない。


 だが解体も開発も共産主義の十八番であり至上命令だ。人間は科学によって自然に打ち勝ち、勤労人民は革命によって資本家に打ち勝つのである。


 人民党本部はそんな共産主義者の世界観を象徴する建物である。直線的で重厚、権威と秩序の雰囲気を湛える地上五二階の摩天楼。一九五〇年代にモスクワの建築家が設計したもので、社会主義リアリズムの精神を反映している。


 そして何より、この超高層建築が屹立するのは、かつて宮城と呼ばれた空間なのだ。


 ソ連軍が東京を占領した先の大戦末期、この城の主人は怯えて西の古都へ逃げ帰った。もぬけの殻となった明治宮殿は爆破解体され、濠は全て埋め立てられ、緑地は片端から混凝土コンクリートで舗装された。現在、人民党本部の足元に広がる空間は解放広場と呼ばれ、軍事パレードや人民祭典で使用されている。


 その人民党本部の最上層の一室は、今、紫煙と沈黙に満たされていた。


「…………………… 」


 円形の机を囲んで座るのは背広姿の政府高官十名。彼らは人民党中央常設委員会政治局の人員だ。その誰もが他に十指に余る役職を兼任している。日本人民共和国の複雑で巨大なピラミッド型の権力機構は、最終的にこの十人に統合される。ここがこの国の頭脳だった。


 突如、扉の開く音が沈黙を破った。滞留していた紫煙が廊下へ流れ出し、党員達の視線もそちらへ向かう。入室したのは四人。先頭の一人は日本人民軍の制服を着た高級将校で、残りは一見してロシア人と分かる背広姿だ。駐日ソ連大使と大使館の駐在武官、そして、


「どうぞこちらへ、同志オルロフスキー」


 政治局長が最初にロシア語でそう挨拶したのは三人目に対してだった。パーヴェル・ボリーソヴィチ・オルロフスキー。彼は他の二人と違って公的な身分を持たない。だが彼こそがソ連の代表であることは、ここにいる誰もがよく知っていた。


 政治局長がオルロフスキーに対しインドシナ産の葉巻を勧めるのを横目に見つつ、ロシア人達と共に部屋へ入ってきた大嶋雄理は己の席に着いた。軍事畑の要職をいくつも兼ねる彼は政治局員候補でもあり、ここにいる他の日本人達と同じく、日本戦争後の人民党を牛耳る派閥の主要構成員であった。


「宣伝部の声明は読ませてもらった」


 微笑を浮かべた口元から煙を上品に吐き出しつつ、オルロフスキーが言った。


「帝国政権の侵略を断固として非難しつつも、冒険主義的な言辞は弄さない。過不足のない適切な声明だ。帝国も準備が整うまでは進軍喇叭を鳴らさないだろう。…… さて、我々の見立てでは猶予は十二時間ほどだが、首尾は如何かな」


 オルロフキーの言葉は一貫してロシア語だった。彼は日本語も流暢に話せる筈だが、敢えてロシア語を使っている。そして、それに応える政治局長の言葉もロシア語であった。ここはそういう空間なのだ。


「我が日本人民軍は整然たる統制のもと迅速に防衛体制を構築しつつあります。将兵の士気は赫々たるものであり、部隊の充足率も兵器の稼働率も万全。前近代的な神戸政権の軍隊など―― 」


「同志カキハラ」


 垣原政治局長の威勢の良い弁舌は、オルロフスキーの言葉に遮られた。微笑を浮かべたロシア人は、灰皿に葉巻の灰を落としながら続ける。


「あらゆる正しい政治的判断の基礎は、事実の客観的かつ科学的な観察だ。ソビエトはこの真理を常に理解している。そして、君の言葉は我が祖国の観察とは一致しないようだ。この相反する二つの命題からはいかなる命題が導かれるのかね?」


 教師が生徒を諭すかのように穏やかな口調だった。外交の場には相応しからぬ言い振りで、しかし垣原は沈黙してしまった。その額には小さな汗が浮かんでいる。彼は人民党書記長でもあり、国家最高評議会や軍事評議会の議長など、幾つもの肩書きを持つ日本人民共和国の最高指導者だ。それが、叱責を食らった子供のように縮こまっている。


「…… 私の言葉には具体的でないところがあったようですな。確かに、部分的な問題も幾つか発生しています。神戸政権軍の侵略までに万全の体制を整えられない可能性も、客観的に見て否定はしきれません」


「客観的なのは良いことだ。どのような手を打つつもりかも聞かせて欲しいものだな」


「…… 貴国との社会主義的同盟関係を信頼したい」


 部屋の空気が張り詰めた。これこそがこの会合の本題だった。


 葉巻の煙だけが漂う空間で、誰もが押し黙ってオルロフスキーの次の言葉を待っている。北日側の高官達の顔はまるで審判を待つ罪人のようだった。


「世界中の革命政権と連帯し、その危機に際しては無限の支援を送るのがソビエトの歴史的使命だ。当然、我々は友邦日本に対する協力を惜しまない」


「………… 」


「だが、社会主義的同盟関係は西側の帝国主義的関係とは根本的に異なる。相互に協働し不足を補い合うからこそ連帯なのだ。一方的な庇護は宗主国と植民地、傀儡政権の関係だ。日本がソ連を信頼するように、我々も貴国との同盟関係を信頼したい」


「無論です。だが、具体的に何を…… 」


「M2号作戦への協力を」


 その言葉を聞いた人民党員達の顔が強張った。だがオルロフスキーは気にすることもなく、淡々と続ける。


「諸君らも知っての通り、ナゴヤはソビエトの反応弾抑止に、延いては東側全体の安全保障に関わる極めて重要な土地だ。そこに米軍が展開している現状はソ連としては許容し難い。無論、これは日本人民共和国の安全保障にも関わる問題だ。故に奪還する。十六年前のように、もう一度」


 その断言に人民党員達は応答しない。何も言わずとも彼らの内心は明白だった。


 北日としては甲府や横須賀に存在するソ連軍の力を借りたい。このままでは装備の質でも動員速度でも人民軍を凌駕する帝国軍に大打撃を食らうのは必至だからだ。だが帝国領に駐在する米軍の介入は何としてでも防ぎたい。陣営全体を含めれば極東で圧倒的優位に立つのが東側だとしても、全面戦争になれば日本が受ける打撃は想像を絶する。


 だから人民共和国にとっての理想は、ソ連軍の協力によるだった。軍事境界線さえ越えなければ、米国も介入して来ないかもしれない。たとえそうでなくとも、今はその可能性に賭けるしかなかった。


「…… 同志オルロフスキー、貴方の言い分はよく分かる」


 やがて口を開いたのは垣原だった。


「しかし、名古屋基地に手を出せば在日米軍も本格的に参戦せざるを得なくなります。南北の全面戦争になれば中朝連合、台湾、インドシナ連邦まで参戦するかもしれない。事態がどこまで拡大するか…… 。世界大戦まで行き着くかもしれません」


 彼は日本人民共和国の指導者として、最後の抵抗を試みた。そして、それはオルロフスキーの微笑に一蹴された。


「世界革命が起きるのであれば、共産主義者の本望ではないか」


 その光景を見ながら大嶋は思う。


 十六年前、帝国に無謀で無益な戦争を仕掛けた当時の指導者達も、ソ連側の代表とこういうやり取りを繰り広げたのだろう。戦後、彼らが互いに責任をなすりつけあって起きた粛清の嵐の後、権力の空白に浮かび上がったのが大嶋ら現在の指導層だ。であれば、自分達がソ連の意向で無謀な戦争に打って出るのも必然なのだろう。


 それはこの日本人民共和国という国家の歴史をも象徴しているのだ。

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