二〇二七年 八月三日 午後一時四九分

 日本帝国 兵庫府 港島区 ウェイランドテクノロジーズ日本支社


 トランクケースに最後の書類と小物一式を放り込むと、アングルトンは尚も散らかった己のデスクを眺めた。酷い有様だ。彼は立つ鳥跡を濁さずという日本の慣用句とその精神を愛していたが、肝心の局面で実践するだけの時間は残されていなかった。


 アングルトンは最後に部屋の中を見渡した。デスクが何台も整然と並ぶそこで、動くものは空調に吹かれて舞う埃だけだった。窓から差し込んだ夏の日差しがそれを照らす。彼が十年以上に渡ってこの国での活動拠点として来た部屋は、今は無人となって静まり返っていた。


「課長、まだいたんですか⁉」


 その静寂を騒々しい声が切り裂いた。振り返るとドアから小太りの日本人が覗き込んでいる。アングルトンが何度も頼りにした日本支社の社員だった。


「ああ、僕だけ残って少し片付けをね。今から出るところだよ」


 アングルトンが流暢な日本語で応えると、相手は呆れたように頭を掻く。


「出るったって…… 今さっき最後の便が出たところですよ。もう神戸も伊丹も関空も、国際線は全便無期限欠航です。どうするんですか」


「会社のコネを使うのさ」


 この場合の会社には二重の意味がある。一つはアングルトンが表向き所属するウェイランドテクノロジーズ。もう一つは同社が隠れ蓑を提供しており、彼の本来の勤め先でもある米中央情報局ラングレーだ。


 アングルトンの言葉に男は納得したように頷いた。彼は日本人スタッフの中でこの二重の意味を理解する数少ないうちの一人だった。


「米軍基地まではどうやって?迎えがないなら車を出しますよ」


「迎えはないな。タクシーを呼ぼうと思っていたが…… 」


「ははっ、呼んだって来やしませんよ。もう道路は軍が押さえていますからね。まだ一般車でも通れますが、それもいつまで保つか。あちこちに検問がありますし、商売にならないってんでタクシー会社は休業です」


「ううむ。ではお言葉に甘えることにしよう」


 帝国に滞在する米国市民へ、本国政府から退避勧告が出されたのは三日前の夜だった。人民軍の行動の本格化による武力衝突の危機がその理由だ。無論、在日米軍隊員や少なからぬ公人は今でも残っているが、アングルトンらウェイランド本社から日本支社への出向組はだった。裏の会社からも新たな指示はなかったため、引き上げることにしたのだ。部下を先に帰らせて一人で残務処理をしていたのは、アングルトンなりの責任感だった。


「課長は毎年クリスマスから年始まで帰省しているんでしたっけ」


 男は社員証をかざしてエレベーターのボタンを押した後、唐突に尋ねた。アングルトンは一瞬首を捻ってから、ああ、と頷く。


「両親の家ではなく私の家だが。妻と娘の顔を見るために」


「お子さんは今年で何歳に?」


「一九だ。父親らしいことは何もしてやれないまま、彼女のティーンエイジが終わってしまった。この十年はずっとこっちにいたんだ」


「それは…… 。ならまあ、長期休暇だと思ってゆっくり話して来てあげてください。いつ元通りになるやら、分かりませんからね」


「ああ、そうするよ」


 そう応えつつもアングルトンは、内心で男の暢気な言葉を受け止めきれないでいた。この先、いかなる意味でも元通りになることなどあるのだろうか。


 到着したエレベーターに二人は乗り込んだ。向かう先は地下二階の社員用駐車場だ。


「私は所帯持ちじゃありませんが、甥が一人いましてね。会うのは課長と同じで年一回、正月の親戚の集まりくらいです。まあ娘と甥じゃ意味が違いますか。新帝都重工の広島工場で働いているんですが…… この前、召集令状あかがみが来たそうです」


「それは………… 」


 アングルトンは言葉に詰まった。咄嗟に出そうになった憐憫や同情も、祝福や激励も的外れな気がした。男と同じ日本帝国人なら何か言う資格もあったろうが、自分は今まさに出国しようとする米国人だった。この戦争については部外者に徹しようとしている国の人間だ。


「そんな顔をせんでください。召集と言ったって後方ですよ。前線に回される部隊の穴埋めみたいなもんです。だからまあ、万が一ってことも、ないはずです」


 エレベーター内に沈黙が落ちた。階数表示は下がり続け、一度も途中で止まることがない。


「すみません、変な話を聞かせてしまって」


「いや、とんでもない。何と言えば良いかは、その、分からないが…… 」


「聞いてもらえるだけで充分ですよ」


 男は階数表示を見つめながら、どこか諦念の滲む声で言った。


「日本人同士でこういう話をするのは色々とおっかなくて。相手が復興党支持者みたいなのだったら、国賊呼ばわりされかねんでしょう?」


「なるほど、僕が米国人だから話せるというわけか」


「ええ。…… 私も頭では分かっちゃいます。誰かが兵隊をやらなきゃ、国を守らなきゃ、また十六年前みたいに攻め込まれて酷いことになるってね。日本帝国を守るのは日本帝国人じゃなきゃダメなんです。在日米軍が何の頼りに…… おっと失礼」


「いや、気にしなくて良い。日本戦争のことを思えば、君の言い分も尤もだ」


「…… そういうことを頭で分かっていても、実際に自分の家族が兵隊に行くことを喜べる人間は、そうはいませんね。少なくとも私には無理です」


 エレベーターが地下二階に着いた。コンクリート柱が規則的に並ぶ陰気な社員駐車場には空きが目立つ。この非常事態下でウェイランド日本支社の機能も半分停止している。そこを暫く歩くと、男が突然あっと声を上げた。


「車のキーをデスクに忘れました。ちょっと待っていてもらえますか。時間は……」


「ああ、大丈夫だ。まだ余裕がある」


 そう返事をすると、男は何度も頭を下げながらエレベーターに戻って行った。その後ろ姿を見ながら、アングルトンは男の言葉を反芻する。


 彼の言葉は彼自身の視点では正しい。だがアングルトンの視点からすればそうとは言い難い部分もある。


 例えば客観的に見て今回の危機を煽っているのは、人民党を責める帝国政府の発表や声明とは裏腹に帝国自身だ。無論、人民共和国側も大規模軍事演習などの挑発を繰り返したが、帝国側にその気があったからこそ、これほどの速度で事態は悪化したのだ。その背後にあるのは、この十六年間の帝国の世論とエリート層の右傾化だ。


 だが男の言葉にも圧倒的な事実が含まれている。そもそも帝国が右傾化したのは、十六年前の北日の軍事侵攻が直接のきっかけなのだから。だが多くの共和国人民は、日本戦争が帝国の侵略で始まったと思っているだろう。人民党のプロパガンダの産物だ。戦争で肉親を失って帝国を憎悪している者もいるだろう。そして、これから実際にそうなるのだ。


 日本人民軍が何故軍事境界線を越えたのかは今なお謎のままだ。当の人民党は帝国軍の先制攻撃を主張しているが、これが事実関係と矛盾することは米国の調査では明らかだった。


 いずれにせよ、両国の相互不信と恐怖、憎悪は複雑に絡み合ってほどきようがない。そこにはアングルトンの祖国と彼自身も深く関わっている。


 思い出すのは四年前、このビルの最上層階で帝国情報省JCIAの女とした会談。


 あのとき、彼女の申し出を蹴っていれば。


 クーデターを成功させろという本国の命令を無視していれば。


 何か変わっただろうか。


「…… そんなわけがないな」


 アングルトンは己の妄想を嘲笑し一蹴する。命令を無視したなら彼が更迭されるだけのこと。そして、仮にあの日藤堂左京が生き延びてクーデターが失敗に終わったとしても、遠からず帝国の破局は訪れた筈だ。ソ連の反応弾による戦略的劣性と恐怖。それからの解放は米国の悲願だった。ハイドラシステムの完成のためにも、冷戦の前線で東側に宥和的な態度を見せる藤堂政権を米国は許容できなかったのだ。たとえ、その排除が帝国の未来に致命的な傷を与えるとしても。


「………… 」


 こういうことを考えていると、アングルトンは気が遠くなって来る。世界の巨大さに対し個人はあまりに矮小で、歴史の長さに対し人生はあまりに短い。一人一人にできることなど、その巨大さに流されつつ右往左往することだけだ。それは彼が木端役人に過ぎぬからではない。たとえ米国大統領であろうと、この巨大で雄大な流れを己が意志で制御するなど土台不可能だろう。


 それでも彼は、木端役人なりに最善を尽くして来たつもりであった。それは忠誠を誓った米国のためであり、遠く離れたシカゴで暮らす家族の平穏のためだった。たとえ日本列島が灰燼に帰そうとも、祖国と家族が無事であればそれで良い。四年前、あのデルタフォースに告げた覚悟に嘘はない。さっきの同僚の話を聞いてもなおそう思う。全てを救うことはできないのだから。


 だがやはり、自分は何か巨大な過ちを、取り返しのつかぬ失敗をしてしまったのではないか。そういう不安がずっと消えなかった。


「ああ…… クソ」


 無人の駐車場でアングルトンは毒吐く。


 ただ家族に会いたかった。彼女らの無事を確かめたかった。国に帰りたかった。

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