二〇二七年 八月三日 午後一時一八分(日本時間)

 米国 ワシントンD. C.  大統領官邸 ウエストウィング


 植樹と芝生の間に鎮座する、重厚な印象の白亜の建物。二三時を回った現在、窓やロビーから明かりと共に気品と権威の芳香を漏らすそれが、西側の盟主にして超大国の権力中枢だ。その西棟一階には、オーバルオフィスと呼ばれる円形の部屋がある。歴代指導者の肖像画や写真、彼らが持ち込んだ絵画や彫像が並ぶそこで、米国大統領は日々の執務に精を出す。


 だがこの日、部屋の主人は、威厳とは程遠い怠惰そうな顔を晒し、椅子にもたれかかって高い天井を見上げていた。


「あー、つまり、なんだ」


 彼はよく出た腹の上で手を組み、たっぷり間を置いてから言った。


帝国エンパイアは意外と正気で、ロシア人や中国人を敵に回すつもりはないし、赤い日本人レッドジャップどもを殲滅してしまうつもりもない。君らはそう考えているわけか」


 部屋の中には彼以外に十名弱の人影がある。その一人、執務机の前に立つ恰幅の良い黒人が咳払いして進み出た。彼は国家安全保障問題担当の大統領補佐官である。


「帝国の目標は赤い日本の解体ではなく、屈服です。あの最後通牒を飲ませること。そのために、まあ東京くらいまでは占拠するつもりでしょうが、民族統一を目指しているわけではありません。だから駐日ソ連軍への攻撃は慎重に避けるでしょう」


 大統領は首を鳴らしてから補佐官と目を合わせる。


「で、実際にことはそう運ぶのか?」


「あくまで最も確度が高いストーリーの一つ、という話ですが」


「なるほど、な。ではそれ以外のストーリーもあるわけだ。例えば?」


「閣下のお手元の資料に一通り書いてあります」


「この官僚的文言に塗れた分厚いクソの山を読めというのか?資料は簡潔にまとめてくれと言っただろうが」


 必要な情報は具体的に書けと、先週命じたのも彼なのだが。補佐官はそんな指摘を心の中にのみ留め、淡々と応えた。


「そうですな。例えば―― 合衆国崩壊エンド・オブ・ステートから世界滅亡ラグナロクまで、まあ色々あります」


 室内に重苦しい沈黙が満ちた。補佐官の広い背中に責めるような視線が幾つも刺さるが、彼は気にも留めない。国民の前では威勢の良いことを言うくせに根本的な決断力を欠くこの政治家に対し、退役軍人の補佐官は既に愛想を尽かしていたのだ。


 それでも補佐官が連邦政府ホワイトハウスに留まっているのは、彼が持つ米国の特定勢力との深い繋がり故だった。


帝国エンパイアの暴走をやめさせることはできんのか。例えば…… 在日米軍を引き揚げるとか何とか言って。米軍がいなければあの国は自国を守れんのだろう」


「閣下、それは不可能です」


「なぜだ? 十六年前は我々とロシア人が協力して日本人どもの喧嘩をやめさせたじゃないか。しかも、今はあのときとは違う。学者どもが言う…… あの…… なんだ、相互…… 」


相互確証破壊MADです」


相互確証破壊MADとやらの理論によれば、世界大戦を望んでいないのはロシア人も同じなのだろう? ロシア人どもには反応弾がある。今の我々にはハイドラシステムがある。全面戦争になれば勝者はゼロ。君がさっき言った世界滅亡だ。なら、最初から戦争を防ぐ方が西側にも東側にも経済的だ。違うか?」


 補佐官は頭を抱えそうになる。いったい何度説明すれば、この男は米国が三十年以上かかって築き上げた戦略構想を理解するのだろう。政治学部の学生に理解できることが、どうしてハーバード出の彼に伝わらないのだろうか。


 だが彼は根気よく何度目かの説明をまた繰り返す。結局システムの起動ボタンを握っているのは、米国市民から選ばれたこの男なのだから。


「…… 相互確証破壊MADとはそのようなものではありません。ソ連が反応兵器を使うリスクを釣り上げることが肝要なのです。米国が決定的な場面でソ連に譲歩して来たのは、ソ連にある反応弾が我々にはなかったからです」


 第二次世界大戦でソ連に大勝をもたらした大量破壊兵器の実体を、現在に至っても米国は掴めていない。電探レーダー、ジェット機、巡航誘導弾ミサイル、弾道弾、軍事衛星、軍用義体、多脚戦車、小型電算機マイクロコンピュータ……八十年に及ぶ冷戦で東西両陣営は無数の新兵器を開発、改良し、量産して来たが、反応弾だけは一貫してソ連の独占下にある。米国はその厚い機密のベールを破ることも、科学研究の面から追い付くこともできていない。それが如何なる科学理論に基づくものかさえ未だ不明なのだ。


 その実在性を疑う声すらも定期的に出る。だが、疑った結果が自由の凱旋作戦オペレーション・フリーダムズ・リターンだ。


 六十年代、欧州亡命政府や植民地政府の本土反攻作戦を英米連合軍が支援した欧州危機ヨーロッパ・クライシスの末期、ハイデルベルクに史上五発目の反応弾が落ちた。同地に展開していた米陸軍三個師団は消滅し、欧州軍は総崩れとなった。同時期にアフリカで発生した革命の嵐で植民地政府も崩壊し、西側は大陸欧州への足掛かりを永久に失うこととなったのだ。


 以来、米国は軍事面では常にソ連に劣後している。それは西側の東側に対する劣後と言っても良かった。いくら通常戦力で並び立ち経済力で凌駕しても、最終的な戦略的優位はソ連が握っている。


「この非対称性を改善するゲームチェンジャーがハイドラシステムなのです。反応弾に相当するだけの脅威でもって米国とソ連を対等にし、両者の間に均衡を作る。そして我々の手札を増やす」


「分かっているさ!で、何が言いたいんだ?」


「我々が反応弾を恐れるように、ソ連がハイドラシステムを恐れなければならないのです。反応弾は歴史上で五度使われています。しかしハイドラシステムは完成してまだ四年。その恐怖を―― 信頼性を究極的に保証するのは米国の態度なのです。我々がソ連を恐れて先に身を引けば、その分システムの信頼性は下がります。均衡は破られ、逆説的に大戦のリスクが上がるのです。世界滅亡を回避するためにこそ、米国はソ連に譲歩してはなりません」


 つまり、と前置きしてから補佐官は結論を口にする。


「帝国の侵略をソ連が傍観することが必要なのです。十六年前、米国が赤い日本人レッドジャパニーズの侵略を傍観したように。そうして初めて米ソは対等になる。ハイドラシステムの信頼性が世界的に示され、米国はようやく反応弾への一方的な恐怖から解放されるのです」


 それは補佐官を含む米国タカ派の悲願であった。超大国スーパーパワー西側の盟主リーダー・オブ・ザ・ウェスト自由主義の砦フリーダムズ・フォートレス。そうした言葉を並べようと、米国がソ連と対等でないことを歴史が示していた。その八十年続いた悪夢を終わらせ、白頭鷲を唯一の世界の盟主として君臨させる。それが人類のためでもあると彼らは確信していた。


 大統領はその説明にうんざりしたような溜息をつき、椅子に座り直した。


「もし、ソ連が赤い日本に加担した場合は…… ?」


「チキンレースの始まりですな。少なくともナゴヤをロシア人に渡すわけにはいきませんから、在日米軍は直ちに出動させる必要があるでしょう」


「………… 」


 大統領は椅子から立ち上がると、側近達に背を向けた。窓の外に広がる芝生と植木、街灯の牧歌的な風景を眺めている。


 補佐官はその背中に冷ややかな視線を送る。この大統領は選挙でこそ盛んに反共的言辞を振るったが、それは共産主義者への攻撃と大統領選挙の得票率が一般に相関するからに過ぎない。人気はそこそこだが信念があるわけではないのだ。重大な決断が迫りつつある今になってようやく連邦政府の巨大さに気付き、その重圧に何もかもが嫌になっているのだろう。


「しばらく休暇を取ってアーカンソーにでも行きたいな。ホット・スプリングスだよ。リウマチに効くらしい」


 反応を返す者はいなかった。


 

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