二〇二七年 八月三日 午後〇時五五分

 日本帝国 兵庫府 東灘区 首相官邸


 写真写りより機能性を重視した簡素な小会議室で痩身の内閣総理大臣は言った。


「北日が声明を出すまで、あとどのくらいかね」


 かつての藤堂政権では情報大臣を務めており、四年前の政変で主要閣僚唯一の生き残りとなった彼は、臨時首相代理の身から今もなし崩し的に帝国の元首の座に収まっていた。無論、そこにあった謀略や取引など、国民の知るところではない。


 重要なのは、彼の存在で挙国一致体制への移行が滞りなく進んだということだ。


 会議室に集まっているのは、帝国政府の現中枢メンバーである。首相を筆頭に主要閣僚から成る国家安全保障会議の構成員、帝国軍統合参謀本部の高級将校、国防省や情報省の長官、局長級職員。


 非常事態法の戒厳条項が発動された現在、ここに帝国の全権限が集中しているとさえ言えた。


「外務省の予測では、あと一時間ほどかと」


 応えたのは小柄な外務大臣であった。彼は前髪を弄りながら続ける。


「無論、北日があの条件を部分的であれ承諾するなどあり得ません。が、準備が整うまでことを起こしたくはないはずですから、暫くは曖昧なプロパガンダで言葉を濁すでしょう。準備が整うまでどれくらいかかるかは、まあ西宮の方々の方がお詳しいでしょうが」


 制服を着た軍人達の座る一角から、精悍な顔立ちの空軍大佐が立ち上がる。統合参謀本部情報総局の代表として来ている彼は、礼をしてから滔々と述べた。


「人民軍は二日前から本格的な兵力の動員と展開を続けていますが、依然として充分な水準には達していません。敵が我が方の攻撃に対応し得る戦力を整えるまで、最低でもあと二〇時間かかると情報総局は見ております。これは米国の監視衛星の情報とも一致しています」


「我々の戦力が整うまでの時間は?」


「それについては自分が。前線への地上戦力の展開はあと四時間ほどで完了します。境界防衛軍区からの民間人の避難完了までさらに三時間。我々の戦略目標達成に必要な戦力は、現時刻より十五時間後に予定通り確保されます」


「では、最適なタイミングを求めるのは簡単な算数の問題というわけだな。偶発的な戦闘の発生など、それまでは何としても避けてもらいたいものだ」


 「無論であります。作戦には万全を期さねばなりません」


 首相の質問に次々応える軍人達の目には異様な光が宿っていた。


 彼らの思考を占めるのはただ一事、帝国軍の名誉挽回のみである。それは日本戦争以来十六年に渡る軍の悲願だ。


 第二次世界大戦が終結してより後、日本帝国軍の第一の存立意義は、赤い日本軍からの祖国防衛であった。故に十六年前の緒戦の敗北はあってはならないことであり、同時にあり得ないことであった。


 帝国軍が人民軍に敗北するわけがない。


 適切な指揮統制のもとにさえ置かれれば。


 だから彼らは軍部独裁適切な国家を建設したのだ。帝国軍の正しさを証明するために。


「…… 予定通りとは言いますが」


 その熱気に水を差すように上がる声と手があった。満座の視線を受けた通産大臣は、咳払いをしてから恐る恐る発言する。


「駐日ソ連軍や中朝連合軍を無視した場合の話ですよね。その…… 大丈夫なんですか。仮にどちらか一方でも参戦すれば、我が国の輸送網は五日と持ちませんが」


 対人民共和国強硬路線が前提となったこの部屋では、例外的なほど冷静な言葉だ。僅かに鼻白らむような空気が、主に制服組から漏れる。


「心配には及びませんわ」


 その空気を一蹴するように力強く断言したのは、情報省の高官であった。彼女は背筋を伸ばし凛として言い切った。


「米国はメンツを守るために必ず中ソを牽制し続けます。彼の国の戦略抑止が―― ハイドラシステムがある限り、ことは日本人の問題で済むでしょう」

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