二〇二七年 八月二七日 午後八時四七分(日本時間)

 米国 ワシントンD. C.  大統領官邸 ウエストウィング


 窓から差し込む清々しい朝陽とは正反対の、死体安置所の如き沈黙にオーバルオフィスは包まれていた。


「ソ連は停戦要求を蹴ったか………… 」


 肘掛け椅子に深々と腰掛けた部屋の主人プレジデントは、震えを抑えるような声で吐き出した。目の下には巨大な隈が浮き、無意識に痙攣し続ける頬は目に見えてこけている。彼の体重はここ二週間弱の間に十ポンド近く落ちており、記者会見のたびに厚くなる化粧では既に誤魔化しきれなくなりつつあった。


「奴らは本当に日本を赤化統一するつもりだぞ…… それで、次はどうするんだ? 在日米軍は吹き飛んだ。帝国軍も吹き飛んだ。日本が赤く染まっていくのを指を咥えて見る以外、我々にどんな手があるというんだ?」


「はい、閣下。まずは閣下にロッキーへ避難していただかねばなりません」


「なんだって⁉」


 予想外の返事に大統領は泡を食って叫んだ。机を挟んだ向かい側、国家安全保障問題担当補佐官の恰幅の良い身体が聳えている。


「つい先ほど国防総省ペンタゴンから連絡がありました。環ユーラシアの全戦線で東側の軍隊に動きが見られています。統合参謀本部は、これをただの挑発とは考えていません」


 大統領は震える手でゴシゴシと顔を拭った。机の上に吐瀉物を撒き散らさなかったのは、昨夜の夕飯も今朝の朝食も喉を通らなかったためだ。


「具体的には…… 」


「カシミール、黒海、ロンボク海峡、ドーバー、台湾海峡―― その全てで、最短で六時間以内に軍事衝突が発生するでしょう。今度は日本問題では済みません。事態は瞬く間に自由民主主義条約機構LDDO国際共産主義運動インターナショナルの全面衝突にエスカレートします。そうなれば、いつ反応弾がこの東海岸に落ちてもおかしくはない…… 米軍の最高司令官として、閣下には最後まで生き残っていただかねばなりません」


 補佐官の語調は、内容の深刻さとは裏腹に冷静沈着極まるものだった。そのギャップが大統領の擦り減った神経を逆撫でした。


「生き残るだと⁉ 米国が壊滅した後の世界で生き残って何をしろというんだ⁉」


「米国大統領としての決断です!」


 ヒステリックな叫び声を叩き潰すように、補佐官は腹の底からよく響く声で怒鳴り返した。軍人としての過去を想起させる怒声に、大統領は縮み上がる。


「閣下がワシントンD. C. と一緒に消し飛べば、世界中に展開する米軍の指揮系統は大混乱に陥ります。たちまち戦線は瓦解し、同盟国軍も総崩れとなるでしょう」


 しかし、と補佐官は目を逸らそうとする大統領を視線で射抜いて続けた。その瞳にはどこか狂気と紙一重の迫力があった。


「閣下が生き残り、ハイドラシステムを発動しさえすれば事態は変わる! 世界中の地下深くに埋蔵された戦略電算機群へ指揮権が委譲され、自動化された分散的な指揮統制兵站システムのもと、米国と同盟国の連合軍は向こう三年は戦えるのです‼」


 それがハイドラシステムの正体だった。発達した軍事情報ネットワークと膨大な作戦計画の複合による、完全に自動化された最終戦争ハルマゲドンの遂行。その目標は北京、ベルリン、そしてモスクワの陥落だ。それが達成されるまで戦争は《終わらない》。停戦も降伏もない。最後の一兵卒がゲリラ兵となって斃れるまで、自由民主主義条約機構LDTO軍は総力でもって戦い続けるのだ。その黙示録的な未来像に、大統領は顔面を青褪めさせた。


「だが、だが…… そんなことをしたって米国が生き残るわけじゃないんだろう?それどころか…… 」


「ええ、そうです。しかし、少なくともソ連に向こう半世紀は立ち直れぬだけの打撃を与えることが可能です」


 大統領は天井を見上げた。そして、ほとんど泣きそうな声で縋るように言った。


「ソ連が反応弾を使わない可能性はないのか…… ?」


「ゼロではありませんが、限りなくゼロに近いというのが統合参謀本部の判断です。無論、欧州危機ヨーロッパクライシスのときのように戦術的使用に留まるシナリオも考えられますが…… こちらの可能性も高くはない。ハイドラシステムの効力を可能な限り削ぐため、ソ連は初手で使用し得る反応弾を全て使用する。これが最も確度の高いシナリオです」


「君たちは…… 君たちは、ハイドラシステムがあれば戦争を防げると言っていたじゃないか…… 」


「ええ、言いました。我々が間違っていたのです」


 そこで初めて、補佐官は僅かに顔を歪めて悲痛の感情を浮かべた。


「我々はソ連と真に対等になることを目指していました。ハイドラシステムと名古屋基地の反応弾使用跡を使い、本当の西側の盟主になろうとしました。だが、ソ連はそんなことを望んでいなかった。米ソ二極体制が固定化されるくらいなら、文明を半世紀分巻き戻して世界革命を成し遂げることを選んだ。本当の脅威になり始めた米国を、ここで叩き潰すことを選んだ」


「………… 」


「我々はソ連を見誤った。奴らを舐めたのです。欧州危機ヨーロッパクライシスのときと同じように」


「その代償が、これか」


 大統領は椅子を回して窓の方を振り返った。夏の陽光が眩しい。これが最後かもしれないと思うと、ただの太陽がこの部屋に並ぶどんな絵画よりも美しく見えた。今から向かう場所はロッキー山脈の地下一〇〇メートルだ。


「まあ、まだ全てが終わったわけではありません。もしかしたら、ソ連が全面降伏を促してくる可能性だってあります」


「…… それも米国大統領としての決断か」


 大統領は考えた。文明を五十年巻き戻して米国を地図から消滅させるのと、共産主義と憎悪で凝り固まったロシア人の独裁を受け入れるのとどっちがマシだろう。かつてCIAのレポートで読んだ、彼の国の矯正収容所ラーゲリや解放した国民への扱いが脳裏をよぎる。欧州危機ヨーロッパクライシスの後、スペインとポルトガルの人口は半減したのだ。


 ああ、クソ。考えたくもない。

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