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二〇二七年 八月一四日 午前九時三一分
日本人民共和国 静岡県 富士宮市 山中
「C08より
富士山麓に広がる市街地と駿河湾を南方に臨む林の中、
『
「C08了解」
無線機を背嚢に収納すると、無精髭の生える顎から汗が滴り落ちた。この時間で気温は既に三十度を超えている。ヘルメットの内側では坊主頭が蒸れて仕方なく、肌に張り付く
うんざりして小さく溜息を吐いた彼の近く、苔むした石の階段に座り込んでいた上等兵が立ち上がり、首を鳴らして言った。
「暑苦しい溜息を吐くなよ。次行くぞ、次」
言葉とは裏腹に、その声にも倦怠感が滲んでいる。一等兵は背嚢を背負い直し、九八式小銃を抱えて斜面を登り始めた。
「しかし、変な戦争だよな」
腐葉土でできた悪い足場を、
「この向こうの甲府盆地を取りさえすれば随分と有利になるんだ。なのに、やらねえ」
帝国軍が富士南麓一帯を制圧したのは既に一週間も前のことだ。箱根陣地での激戦を経て、今の第三軍の先頭は平塚近くまで達している。そして第二軍は諏訪までを制圧し長野全域を支配下に置いている。つまり甲府盆地を南北から挟んでいるわけだが、帝国軍はそこから東進し関東平野を目指した。甲府は今や帝国勢力圏に突き出た人民軍勢力圏になっている。
「帝国政府がソ連を怒らせたくないからだって、隊長が言っていましたよ。新潟にも甲府にもソ連軍がいますからね」
「それよ。そんなに露助が怖いんなら、在日米軍はなんのためにいるんだ?」
「露助に帝国を侵略されないためじゃないですか」
「はっ、実際侵略して来たときには、指咥えて見てただけじゃねえか」
今、ソ連軍が指を咥えて見ているように。声にこそ出さなかったものの、一等兵は暑さで茹だる頭の中でそう思った。まあ、この上官が言いたいことは分かる。
「米国もソ連も結局、血を流すのが嫌なんだ。これは日本人の戦争だからな。だが十六年前と同じように、どうせ最後に止めに入るのは米ソなんだぜ。はいはいここまで、仲直りってね。ガキの喧嘩を教師が止めるみたいにさ。死んでるのは日本人だぜ。胸糞悪い」
一週間も進まぬ戦闘とこの暑さが、彼の苛立ちを加速させているのだ。ソ連と一まとめに米国を悪罵するのは、酒が回ったときにも見せる彼の癖だった。そのせいで他部隊の隊員にアカだと因縁をつけられたこともある。だが彼は主張を変えなかった。大東亜戦争以来、一族の半分は軍事境界線の向こうにいるというのが彼の言い分だった。
一等兵には上官の言い分は理解できるものの、共感はあまりできなかった。彼は米軍に対して思うところはなかったのだ。
だから延々と愚痴と講釈を聞かずに済むよう、どっちつかずな言葉を返す。
「ソ連軍が攻めてくるよりは、今のよく分からん状態の方がマシだと思いますが……」
「そりゃ、違いねえ…… 伏せろッ!」
突然、上等兵は鋭く言うと茂みに身を隠すように伏せた。一等兵も反射的にその言葉に倣う。腐葉土の濃厚な臭いが鼻腔を直撃する。眼前に落ちている蝉の死骸に蟻が群がっていた。
「七時の方向、距離…… 三〇〇〇。二つ向こうの丘の麓だ。見えるか?」
「ああ…… 見えます」
バイザーが陽光を反射しないよう、茂みの陰からその方向を凝視する。拡大された視野の中、斜面を上り下りする重機とゴリラの合の子のような軍用全身義体が見え隠れしていた。
「間違いねえ…… レッドコングだ。畜生、人民軍め、甲府から反撃に出るつもりだ。だから攻めるべきだと言ったんだ!」
吐き捨てる上官の声を聞きながら、一等兵は無線で富士宮市街地の偵察小隊本部と連絡を取る。
「C08より
「待てっ!」
一等兵の言葉は傍らの上官に遮られた。その声には、焦燥感が滲んでいる。
「少し待て。―― どうしたんですか?」
「人民軍のレッドコングにしちゃあ、動きが良すぎるっ」
「なんですって⁉」
一等兵は再び敵部隊が潜伏する方向に目を遣った。その軍用義体が斜面を上り下りする速度は、確かに日本戦争の記録映像で見たものより幾らか速いようだった。そう思ってよく見ると、脚部装甲や頭部統合
「なんてことだ…… 」
一等兵が顔を青ざめさせて呟くと、上等兵は彼の無線機をひったくり、無我夢中で怒鳴りつけた。
「訂正!義体の機種はNe―88M! 敵は―― ソ連地上軍だ!」
その瞬間、二人の頭上を特徴的な轟音が通過した。
「カチューシャだ…… 」
呆然と空を見上げる一等兵の口から、ソ連製多連装ロケット砲の代名詞が漏れる。それは人民軍とソ連軍の恐怖の代名詞でもあった。
尻尾から火煙を噴いて飛翔する、空を埋め尽くすような物量のロケット弾。鋼鉄の流星群の向こうには、帝国領から見るより遥かに大きな夏富士が聳えている。
もはや帝国軍に開戦当初のような高度な防空能力はなく、残存する対空砲部隊の多くも神奈川県域に充てられている。貧弱な対空
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