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二〇二七年 八月一四日 午前七時八分
日本人民共和国 埼玉県 埼玉市 列島大縦貫鉄道本線上
宇都宮を超えたあたりから風景が変わり始めた。果てしなく続く山林と断続的な国農の繰り返しから、平野と畑へ。そして埼玉市からは果てしなく続く街が現れた。日本人民共和国の首都圏へ入ったのだ。規模も密度も仙台の街並みとは比べ物にならない。だが、そこにはどこか秩序立った空気がある。建築物の設計、道路の幅や交わり、行き交う住民の服装…… その全てに
そこまで考えるともなく考え、窓外を眺める荒谷はふと独りごちた。
「…… 僕も帝国の人間だな」
自分のルーツを不意に意識するのはこういうときだ。向こうにいた頃、帝国人として振る舞うことは第3小隊長としての職務だった。それはいわば仮面で、自分の芯に染み付いたものではないのだろうと思っていた。だがそうではなかった。日本人民なら東京の街並みに帝都と比べた不自然さを見出したりはしない。彼らにはこの光景の方が自然なのだから。
たとえ帰属意識など微塵もなくとも、思考や知覚の座標軸の原点として、日本帝国は荒谷の脳髄に染み付いている。
車輌の中に人影はまばらだ。いくつかのグループに分かれて座る背広姿が二十人ほど。彼らは多賀城部隊附設研究部の人員だ。半分は日本人離れした顔立ちだが、飛び交う言葉が全てロシア語であるため、彼らがロシア人なのか露系日本人なのかは分からない。荒谷にはどうでも良いことだった。彼らの方も、実験体である荒谷に話し掛けようとはしない。
「………… 」
窓外に視線を戻すと、前方に左手へ遠ざかっていく列車が見えた。埼玉から東進して鹿島灘へ向かう、縦貫鉄道南関東第一支線だ。Sa― 9Ts の高解像度の光学レンズが、その車窓に沈んだ表情の群衆を認めた。
その瞬間、荒谷の脳裏に再び帝国の記憶が去来する。
駅舎へ押し寄せる人の群れ、怒声を上げる駅員と軍人、将棋倒し、悲鳴、大渋滞、乗り捨てられた自動車、歩き続ける子供達、座り込む老人、上空を飛ぶ戦闘機の編隊、戦車を乗せて東へ向かう軍用列車。
その全てが火に包まれ瓦礫に返った三日月の夜。
あのときと同じだ。十六年前の名古屋と。戦火の振り撒く破壊と死が迫り、それから逃れ得る者と逃れ得ない者が分かれる。どちらになるかは、社会という巨大な機構の中で当人が占める位置で決まる。あの列車に乗っている彼らはまだ幸いな方だ。乗れなければ―――― どうなる?
「…… ああクソ、まただ」
荒谷は苛立たしげに呟いた。あの後、列車に乗れなかった自分がどうなったのかを、彼は咄嗟に思い出すことができなかったのだ。あの前後の記憶は曖昧だ。
自分は列車に乗れなかった…… 否、乗らなかったのだ。
なぜか? 乗る必要がなかったからだ。
名古屋は戦火に包まれることはなく、人々が逃げ出す者と残る者に分かれることもなく。
自分はあの後も普通の子供として―――― 。
「っ」
思考の連鎖を打ち切るように目を閉じた。
もう一度目を開いたとき、列車は東京に入っていた。画一的な
荒谷の視界はその光景の上に別の街を重ねていた。
座標軸の原点。帰属意識などなくとも己の思考を規定する根源。
遠目からでも見える高層ビルの並ぶ、発展したもう一つの東京。
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