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二〇一一年 四月七日 午前二時三五分
日本帝国 愛知県 名古屋市 某所
そこは慣れ親しんだ世界であった。
何度も繰り返し訪れ続けて、いつしか原風景にまでなった世界。その色も音も臭いも肌触りも、脳裏に浮かぶ彼方の記憶と照らし合わせることができた。
例えば爆ぜる火の粉の朱さと熱さ。例えば眼と鼻の奥を刺す煙の痛み。
例えば火の粉が焦がす人型の黒さ。例えば耳朶を揺らす叫び声と砲声。
どれも脳裏の記憶とピタリと符合し、鮮烈なまでの明瞭さでその輪郭を顕にする。その感覚は一種のデジャヴである。万のデジャヴで構成された、全てに覚えのある世界。五感のどこからでも、無際限の郷愁を引き出すことのできる世界。長く睨み合っていたジグソーパズルの完成図のような明瞭さだ。
そしてその明瞭さの故に、この世界は彼にとってどこまでも他人だった。
「………… 」
懐かしき煉獄の中を彼は歩く。一歩ずつ、よろめきながら。
小さな裸足が瓦礫を蹴飛ばす。五〇〇ポンド爆弾で三キロ離れた場所から吹き飛ばされてきた欠片だ。もとは二四階建ての高層ビルを支えていた
それは夢遊病患者の足取りだった。
そんな彼の前に、鋼鉄の怪物が舞い降りた。
―――― !
四十トン超の重量が激震と轟音で周囲を圧する。八本の歩行脚が少年の蹴飛ばした瓦礫を踏み砕き、その三倍の関節が衝撃を殺すために波打った。
鈍重で平たい印象を与える地蜘蛛のような外観。深緑の山岳迷彩は市街地の中では隠匿でなく威圧の効果を発揮し、そこに火の粉の赤がより一層の毒々しさを加えた。
全長一〇・〇一メートル。全高三・三五メートル。
日本人民陸軍の主力
ヨンシキの名で呼ばれる怪物は、己の前に立つ小さな身体を睥睨する。
捕食者と餌の相対。分厚い正面装甲の隙間で赤い
一秒に満たない間を置いて、戦車砲同軸のKPV重機関銃が銃口を獲物へと向けた。
一四・五× 一一四ミリ。その威力は生身の人間など一発で肉片へと変える。
最後の瞬間まで、彼は足取りと同じ寝惚けたような眼で相手を見ていた。
「!」
突如、鋼鉄の機体が閃光に包まれ熱風が吹き抜けた。
熱く渇いた風は彼の痩せた身体を地面からひったくり、軽々と持ち上げ放り投げる。燃え盛るヨンシキが瀕死の蜘蛛のように痙攣するのが視界の端に映り、消えたと思ったら薄雲を抱く狭い夜空が見えた。
折れそうな三日月より、炎に包まれた名古屋市街の方が百倍も明るい。
下から照らされた薄雲は赤々としていた。
背中から瓦礫に叩き付けられる。
「かっ…… 」
生理現象として肺から息が漏れても、苦痛の呻き声は続かなかった。至近距離での対戦車
頭上の夜空を戦闘機の機影が横切る。機尾から黒々とした煙を引いている。ヨンシキがくずおれる衝撃が背中から染み入る。車体から飛び出した戦車兵が地面を転がり、悲鳴をあげながら絶命する。
その感覚の全てに既視感があり、それ故に彼にとっては他人事だった。
彼はようやく得心する。
これは長い夢なのだと。
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