二〇二七年 八月二五日 午後七時三五分

 日本人民共和国 千葉県 成田市 成田空軍基地


 密閉された窓のない貨物室の中でも機体の加速を知覚することはできる。響く轟音、揺れる機体、全身の電磁筋肉エレクトロマグニトナヤムシュツァにかかる加速度とその変化。高性能な統合感知器センサルが捉えるその雑多な情報が煩わしくて、保延は全感知器センサルの感度を最低限に落とした。一転、白昼夢のようにのっぺりとした世界の中に、戦闘隊長の声が高らかに響く。


『諸君らの多くにとって、本格的な空挺作戦への参加はこれが初めてだろう。だが恐れることはない。曙光二号と多連装ロケット砲、人民空軍攻撃機の連携のもと三昼夜続いた猛撃で、敵の防空網はもはや機能していないに等しい。その上、第1空挺師団の精鋭達が我々を掩護する配置で降下する。我々の仕事は、優秀なる同志達が敷いた快適な絨毯の上を優雅に歩くことだけである』


 ソ連軍から受け継いだ全縦深同時打撃の戦法を忠実に再現し、日本人民軍は祖国解放戦争のこの重大局面で勝利を我がものとしつつある。基地で待機している間、電信機からずっと流れ続けていた党のそんな声明を思い出す。


 その声は、さらに十日前にはこう言っていたはずだ。


 ――日帝侵略軍は柏崎から軽井沢、富士の防衛線で食い止められている。


 だが東京で見た光景はそんな声明とはかけ離れていた。避難民の列と、緊張した顔の動員兵。人民党の発表とその光景の齟齬は、きっと党や参謀本部のの産物だ。人民軍と人民共和国全体の士気への配慮。保延はその必要性を理解せぬわけではない。そうしたものの存在を知らなかったわけでもない。


 だが、それでも。


 あれほど巨大な齟齬さえ認められるというのなら、今回の党の声や先ほど提示された機密度の高い情報が、


『これほど恵まれた、しかも栄誉ある任務で兵士としての初陣を飾れる諸君らが、私は羨ましくてならない』


 その恵まれた任務というのが嘘であれば、そこにある栄誉もまた。


「………… 」


 両親が反動分子だったということになって以来、この国で生存するために祖国と人民党への貢献を第一に考えて来た。いつか栄誉が得られると信じて。その栄誉によって己の過去に染み付いた汚辱が消えると信じて。


  だが、そもそも栄誉にも汚辱にも何の意味もないとしたら?


  党は自分達のことなど見ておらず、栄誉も汚辱も全て等しくまやかしで、ただ力と規律の現実を覆う言辞に過ぎないのだとしたら、何を信じればいい。


  父は、母は、いったい何のために死んだと―――― 。


『同志伍長、落ち着け』


 疑心と混乱に埋め尽くされつつあった保延の脳髄を明晰な声が貫いた。


『相当緊張しているようだな。神経防殻相関図に著しい乱れが見られる。悪いが、小隊長権限で抑制剤を注入させてもらった』


 統合感知器センサルではなく通信機から届くその声は、彼女の胸裏に渦巻いていた暗いもやを忽ち吹き消した。暴走を始めていた不安と思考が鎮まり、鈍い世界が戻ってくる。個別回線の向こう、鷺嶋中尉は落ち着き払った声で尋ねてきた。


『大丈夫か』


『…… はい』


 辛うじて応答した保延は、直前までの己の思考を客観的に想起した。そして恥じ、恐れた。


 自分は何ということを考えていたのだ。


 だがそんな羞恥と恐怖の念さえも抑制剤の作用で即座に客観的な観測の対象となる。そして、作戦行動中という状況が思考の大部分を占拠した。


『申し訳ありません、同志中尉。もう問題ありません』


『重畳だ。それに気にするな。誰でも最初はそういうものだ』


 そういうものとは、どういうものだろうか。防殻パーンツィリが観測できるのは脳髄の生理学的状況のみであり、その不安や想念の中身までは当人にしか分からないはずだ。であれば、不安の存在それ自体を指しているのだろうか。それとも。


『降下地点まで一分! 総員降下準備!』


 古閑の号令に、保延はようやく外部の状況を把握する。機体は既に飛び立っており、二十分の飛行を経て三河山地から名古屋市へと接近していた。すぐさま統合感知器センサルの感度を最大にすると、解像度を増した世界が四方八方から飛び込んで来る。


 そして、彼女はそこに混ざる戦場の空気をはっきりと嗅ぎ分けた。


 侵入経路に沿って旋回する機体から全身に掛かる重力、一万メートルの下方から撃ち上げられる対空誘導弾ロケットの燃焼音、そして、先行した第1空挺師団の輸送機が撃墜される音。


 戦争だ。本当に戦争なんだ。


『敵も存外しぶといようだ! だが最精鋭たる諸君らであればこの程度でくたばりはしないと私は信じる!』


 関節の固定を解除し、電動機マトール戦闘機動ブイヴォ― イマニューヴル用出力に合わせる。背部兵装懸下装置ストイカドリャアル― ジャの落下傘展開機構に異常がないことを確かめ、電磁筋肉エレクトロマグニトナヤムシュツァをほぐすように両手を握る。


『では、地上で会おう―― 軍歌斉唱‼』


 進軍喇叭の音が高らかと響いて仮想の鼓膜を揺らす。勇ましい打楽器の音と秩序立った軍靴の行進。戦闘隊を結ぶ戦術情報網テー・イー・エスを通して同期配信されるその曲は、日本人民軍歌だ。


 ―― 曙光の輝き、祖国を照らし


 ―― 革命軍が、鬨の声を上げる


 二六〇人分の歌声が通信回線を埋め尽くし、否応なしに全員の戦意と士気が高まっていく。保延も引きずられるようにそこへ歌声を加えた。そして、すぐさま先ほどの疑問など消し飛んでしまった。


 ―― 怯まず走れ、我らが隊伍


 ―― 占領軍を、打ち砕け


 後部扉が開き、与圧されていた貨物室から空気が外へ殺到する。遠方に見える山体は人民軍が解放した日本アルプス。その手前に広がるのは三河山地だ。そして、眼下の平野では東西の連合軍が戦闘を続けている。灯りの消えた市街地に煌めく砲火は、距離によって破壊力さえも失ったように見えて、どこか可愛らしい花のようだった。


 ―― 自由の雄叫び、高らかに


 ―― 人民の祖国、解放せん


 二列に並んだ隊員達が次々に夜空に身を投げ出していく。保延もまたそれに続いた。肩部の固定金具を外す。腰を低く屈めて両脚の走行輪で貨物室を駆け、一気に高度一万メートルの高空へ飛び出した。


 ―― 進め、日本人民軍!


 ―― 栄光の党の軍隊よ!


 視界の端に表示される速度が上昇していき、入れ替わりに高度が低下していく。氷点下五〇度の外気で急速に冷やされた装甲表面に霜が浮く。保延は戦術支援電算機サヴェートニクコンピューテルの指示通りに落下姿勢を制御し、地表方向から見た電探ラーダル反射断面積が最小となるよう頭から落下していく。上下左右に散開する多賀城部隊の隊員達。さらにその外縁に広がる第1空挺師団の隊員達。合計二四〇〇名、三個機動歩兵大隊分の戦力が、敗北を告げる鋼鉄の雨となって敵陣の只中に降り注ぐ。彼らを結ぶ戦術情報網テー・イー・エスには戦意と興奮に満ちた歌声が走り続けていた。


『革命の赤き、血潮を湧かし』『人民兵士が、軍靴を鳴らす』『恐れず進め、我らが隊伍』『侵略者を、叩き出せ』『献身の宣誓、高らかに』『日本の同胞、解放せん』


『『『『『進め、日本人民軍!』』』』』


『『『『『栄光の党の軍隊よ!』』』』』


 高度千メートル。開傘。


「!」


 背部兵装懸下装置ストイカドリャアル― ジャに収納されていた落下傘が展開し、時速四〇〇キロメートルに達していた機体に急制動がかかる。生身の人体であればバラバラに吹き飛ぶほどの衝撃を、強靭な形状記憶合金の筋肉と関節の緩衝機構が受け流した。遠方、打ち上げられた地対空誘導弾パトリオットの一群が夜空高く飛翔していくのが見える。だが、狙われた友軍機の末路を確認する余裕は保延にはない。急接近する地表を電探ラーダルで走査し地形図と照合。着地点候補の中から最適なものを瞬時に選択し、侵入角度を微調整―――― 。


 両脚から展開した走行輪が土瀝青アスファルトを掴み、高速回転して火花を散らした。


「!」


 速度は未だに時速九〇キロを超えている。横転しないよう姿勢を制御しつつ減速。同時に統合感知器センサルで周囲を警戒する。そこは住宅街の外れの幹線道路だった。敵軍の展開する地点からは比較的遠いが、着地予定点からもかなりずれている。かなり手前で降ろされたようだ。


ZMザーマク13、侵入に成功。損害なし。着地予定点の北北西五二〇〇メートル。付近に敵部隊なし』


 小隊内共有回線で報告を上げつつ保延は、背部兵装懸下装置ストイカドリャアル― ジャから落下傘を切り離した。一四・五ミリ重機関銃を取り出して構える。慣れ親しんだ重量が心地良かった。


 そして、先ほどまでの爆発の如き歓喜が徐々に達成感と自負に変わっていく。


 ―― 私、やれたんだ…… !


 最も死者の多い最初の戦闘で、高高度義体空挺降下という極めて難易度の高い作戦を成し遂げた。その実感が湧いてくる。無論、まだ敵と銃火を交えたわけではない。作戦は始まったばかりだ。だが、何もかもがこのまま上手くいく気がした。日本人民軍は無敵だ。


『こちらZMザーマク02、侵入に成功した小隊各位は予定通り第一合流地点へ向かえ』


 出撃の緊張からの解放と抑制剤の反動により、保延の精神は一種の躁状態にあった。だから彼女はこの瞬間まで気付かなかったのだ。戦術情報網テー・イー・エスに示された異様な状況に。


『なお、ZMザーマク01は戦死された。これより自分が小隊の指揮を取る』


「小隊長が………… 戦死…… ?」


 呆然と呟いて戦術情報網テー・イー・エスから付近の状況を確認すれば、半径三キロの範囲に散らばった隊員達の中に鷺嶋中尉の名だけがなかった。


 信じられなかった。


 自分のような新兵さえ生き残るような任務で、なぜ叩き上げの彼女が死ぬというか。


 だがそれ以上に信じられなかったのは、


「全域内の味方残存兵力…… 二〇〇〇以下…… ?」


 直後、彼女の頭上を燃え盛る輸送機イリューシンの破片が通過していった。

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