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 二〇二二年 十二月二七日 午後八時三五分

 日本帝国 兵庫府 西神区 地下廃線跡


 寂れきった地上から吹き込んだ空気が澱のように溜まる、地下十メートルの洞穴。臭気、冷気、湿気。一寸先も見えぬ空間で、緩慢に流動する空気だけが死にかけた時間の流れを告げている。


 ここはもともと国の所有する地下鉄だった。西神区と都心部を結ぶ帝鉄ていてつ西神せいしん山手線やまのてせん。西神区は神戸一六区の中では最も地価の安い地域の一つで、神戸だけでなく帝都ていと三府さんふ全体のベッドタウンとして機能していた。だが戦後の混乱と財政危機、それがもたらした西神区の急速な衰退によって廃線。以来、買い手となる企業も自治体も現れず、ただ年月の蹂躙するがままとなっている。


「………… 」


 その朽ち果てた軌条レールの上を、石巻範三陸軍大尉は歩く。軌間は一四三五ミリ。帝鉄規格の標準軌だ。延々と真っ直ぐ続くその規則正しさが、随所に溜まった汚水と対照コントラストをなしていた。文明の敗北と荒廃の勝利という対照を。


「クソ…… 」


 石巻は毒吐いた。全て上手くいくはずだった。彼は基地の警備体制も整備計画も、憲兵隊の人事も知悉していた。そして彼には同志がいた。軍の外だけではなく中にも。だからこそ石巻は、己の所属する基地から装備品を盗み出す大胆不敵な計画を実行に移したのだ。


 無論、いつかは発覚しただろう。だが、それは早くとも三週間後の予定だった。その頃には石巻は行方をくらましており、あとは次なる計画の発動まで息を潜めているはずだった。実際、憲兵隊は今も彼のもとまで辿り着いていない。


 しかし、捜査の手は全く別のところから伸びた。


「…… 保安総局め」


 忌々しげに吐き捨てるのは、戦後、軍と競り合うように権勢を拡大して来た官庁の名だ。


 彼が異変に気付いたのは、先ほど別の拠点の同志たちと連絡を取ろうとしたときだった。武器が届いたかを確認するだけの定時連絡だった。


 だが通信は繋がらなかった。


 事態の全容を熟考するより先に、彼はこの廃線跡へ繋がる脱出路へ向かった。近くにいる同志たちに呼びかけることさえしなかった。


 それは兵士として鍛え抜いてきた第六感による、ある種の反射行動だった。


 正しい判断だっただろうと思う。この種の反射―― 戦術支援電算機スタッフコンピュータではなく脳髄から出た本能的な行動を無視してはならない。機械としての己と動物としての己を融合させ、二重過程ダブルシステムとして使用すること。それが生存するコツだと機械化レンジャーでは教わった。


 だから今は動物としての己の導くままに逃げるしかない。


 トンネルを抜けて広い空間へと踏み込む。


 そこはホームの跡地だった。石巻の立つ線路から一段上がった右手のホームには、剥がれたタイルと点字ブロックが散乱している。立ち並ぶ混凝土コンクリートの支柱を肩部ライトで照らせば、スプレーで大書された落書きが見える。「人民党に裁きがくだる」「軍神藤堂万歳」「アメ公のバカヤロー!」左手は壁になっており、西神公園前というかつての駅名が表示されていた。


 そして、石巻の眼前にまっすぐ伸びる線路の上。


「…… クソが」


 今、彼が歩いて来たのとは逆のトンネルの前で、死神が待っていた。


「保安総局だ。武器を捨てて投降せよ」


 伽藍堂のホームに機械合成の無機質な声が響き渡る。人型を基本としつつも細く歪な、針金のごときシルエット。それが迅雷改じんらいかいの統合感知器機構センサーシステムに探知されて暗闇の中で朧げに浮かび上がる。そう、あくまで朧げに。月影の恐ろしいほどの複合ステルス性能に、石巻は寒気を覚えた。そして、相手が既にここにいるということも重大な問題だった。


「もう何もかもお見通しってわけかよ…… 」


 保安総局はもともと共産主義者アカ狩りを専門とする防諜機関だ。その協力者ネットワークは帝国のあらゆる組織に及ぶと言われている。恐らく軍にも内通者がいるのだろう。


 あるいは、自分は最初から泳がされていたのかもしれない。


「南郷先生と済民会さいみんかいへ繋がる手掛かりとして…… か」


 呟くだけでも脳に血が上る想定だ。己の無能さが恨めしくなる。


 だが、今考えるべきことではない。石巻は無益な思考を切り捨てる。


「繰り返す。武器を捨てて投降せよ」


 月影は機械的な警告を繰り返しながら徐々に近付いてくる。言葉の上では投降を促しているが、その静かな歩調からは地下道の冷気を沸騰させるような殺気が漂っている。こちらに投降する気がないことを理解しているのだ。


「繰り返す。武器を捨てて投降せよ」


 だから形式じみた言葉は不要だった。


「繰り返す―― 」


 四度目の警告が終わる前に、重機関銃の絶叫が響き渡った。


「!」


 彼我の距離は三〇メートル。それを、フルオートで放たれた一二・七ミリ徹甲弾が刹那に消し飛ばす。ブローニングM2。帝国陸軍の制式装備だ。巨大な反動は六〇馬力の電磁筋肉E M Mで完全に抑え込まれており、弾道は精確無比。一二・七ミリ徹甲弾の貫通力は軍用義体の複合装甲も真正面から撃ち抜き得る。


 だが弾丸は全て空を切った。


「―――― 」


 月影はひらりと火線を飛び越えた。床と壁を足場にした背面跳びだ。予備動作の一切ないその動きは、重量二〇〇キロの兵器のものとは見えぬ。舞を披露する芸妓のごとき軽やかさ。


 ホームの上へと音もなく着地する。


「逃すかあ!」


 それに火線が追随する。徹甲弾がコンクリートを破砕し粉塵を巻き上げ、朽ちた廃駅に年月以上の荒廃を引き起こす。


「!」


 だがその破壊の嵐が迫る頃には、月影は次の回避運動を取っていた。着地の衝撃を全身のバネで速度へ転化し後方へ倒れ込む。開いた両手で衝撃を受け止め再び速度へ転化する。その連続による回転運動。―― それは後方倒立回転跳びバク転であった。


 僅か三回転で、月影の機体はシャッターを下ろした売店の向こうに完全に隠れた。


「化物めが…… 」


 石巻は思わず呻き声をあげる。


 なんだ、あの動きは。軍用義体にあんな動きが可能なのか。


 いくら機動性に優れているとはいえ、軍用義体は装甲に覆われ電動機モーターで動く兵器だ。本質的には装甲戦闘車A F Vに近い。それがあんな、生物のような動きをするなど…… 。


 驚愕と一抹の恐れ。それを振り切るように、彼は残弾数の減ったM2を弾帯ごと粗雑に放り投げる。


 石巻の電動機モーターが唸りを上げた。


 装甲の下に隠れた冷たい電磁筋肉E M Mが震える。特殊な形状記憶合金を精緻に織り上げて構築されたそれは、収縮と膨張の複雑な組み合わせで無数の動作を可能とする。動作命令コマンドを伝えるのは導電性ポリマー素材の人工神経であり、発するのは防殻シェルに収められた義体者の脳髄である。鋼の奥に収納された彼の脳髄が下した命令は―― 跳躍ジャンプ


 鋼鉄の巨人がホームの上に躍り出た。


「!」


 踏み潰された点字ブロックが音を立てて割れる。月影のものとは比べ物にならない鈍重で荒々しい着地だった。それはサスペンションの性能差や使用者の技量差というよりは、単純な重量差から来ている。


 全高二八二センチ。重量三五三キロ。最大出力六〇馬力。


 新帝都重工製WBJ― 3迅雷改じんらいかい。帝国陸軍の主力軍用全身義体である。


迅雷改じんらいかいの頭部に埋蔵された電探レーダーがホームを瞬時に精査する。


「―――― 」


 すかさず石巻は背部兵装懸下装置バックガンマウントから二丁の九八式小銃を引き抜き、両手に把持して眼前の売店へ弾丸の雨を叩き込んだ。


 判断の理由は三つ。電探レーダーに敵の反応がなかったこと。敵が他の場所に隠れる時間はなかったこと。そして、あの機動性と細長いシルエットから、月影の装甲が極めて薄いと予想されること。売店を貫通した七・六二ミリ弾でも、この超至近距離からであれば十二分に殺傷し得る。


 やがて石巻は義体用の巨大な引き金から指を離した。穴だらけとなったシャッターを見下ろし、素早く店の裏側へ回り込む。


「―― 」


 貫通した銃弾で無数の弾痕を穿たれた床だけがそこにあった。


 敵影の不在を認めた瞬間に反撃を回避することができたのは、石巻が動物としての己に従ったからだった。


「!」


 彼が前へ倒れ込んだ直後、耳障りな高音がホームに反響した。山岳戦を想定した迅雷改の高性能なオートバランサーが即座に姿勢を修正。左の踵だけでコマのように回って背後の敵と相対し―― 石巻は瞠目した。


「振動刀だと⁉」


 彼の視線の先、高音と共に床から散る火花に照らされ、ゆらりと浮かぶ漆黒の義体装甲があった。月影が両手で把持するのは刃渡り一・五メートルの無骨な長刀。秒間六万回の超音波振動による摩擦熱で義体装甲を切断する零式振動刀である。大上段から振り下ろされて石巻の義体の背部を擦過した近接格闘兵装は、冷たい床に激突して火花を上げていた。


 回避に成功すれども依然として主導権は月影にある。迅雷改の鈍重な躯体が持ち直すより早く、そして速く、月影が追撃の一歩を踏む。


 そこで石巻は敵の不可解な反撃の絡繰を知る。


電探レーダーに映らねえ…… !」


 眼前に敵はいる。だが電探レーダーに反応がない電探反射断面積R C Sを最小化する滑らかな機体表面と電波吸収材料によるステルス性能。石巻が電探レーダーでホームを精査した時点で、敵は彼の背後に回り込んでいたのだ。


 話には聞いていた。相対した瞬間から統合感知器機構センサーシステムの機能不全には気付いていた。


 だが、格闘戦の最中でこれほどのステルス性を維持するとは―― 。


 零式振動刀が九八式の銃身を切り飛ばす。


「っ!」


 石巻は逃げるように後退跳躍バックステップ。だが間に合わない。返す刀で振り下ろされた刃先がもう一丁の銃身も切り捨てる。これで丸腰だ。武器は全て失った。どうする。遅れる視界。粘つく時間。アドレナリンで加速した思考速度で十数通りの行動を検討する。どうする。勝ち目のない選択肢を次々に棄却する。どうするどうする。脳裏に偵察訓練で潜伏した御嶽山が浮かぶ―― 。


「があっ!」


 石巻は吼えた。電動機モーターが焼けつき電磁筋肉E M Mが部分的に断裂する。最大で六〇馬力を可能とする迅雷改の膂力を総動員した超過駆動。


 思考の果てに彼が辿り着いた解答がそれだった。


 重機じみた彼の巨体が月影に真正面からぶつかり、圧倒する。


 装甲に覆われた三五〇キロの鋼鉄の塊による、力を集約したタックルだ。その破壊力は軽トラックの衝突事故にも匹敵し、たった二〇〇キロに満たない細長い機体を吹き飛ばすには十分だった。同じ軍用義体といえども両者の体格は倍ほども違う。機動性では勝負にならないが、単純な力比べであれば結果は逆となった。


 ほとんど水平に飛んだ月影は背中から売店の残骸に突っ込み、沈黙した。そして、


「ははっ、ざま」


 迅雷改も倒れ伏した。その分厚い胸部装甲には二本の振動刀が突き刺さり、背中まで抜けていた。


 唐突に暗転ブラックアウトした石巻の意識はその事実に気づくことさえなかった

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