二〇二七年 七月三一日 午後五時四一分

 日本帝国 京都府 左京区 郊外


『今月中旬から活発化の一途を辿る人民軍の示威行動を受け、政府は先ほど非常事態法第3条2項―― 通称戒厳条項の発動を閣議決定、帝国全土の戦時体制への移行を宣言しました』


 左手に高野川を望む狭い路地に駐車された軽自動車の中、カーラジオからアナウンサーの声が流れ出る。職業意識のもたらす落ち着きの向こうに、高揚とも興奮とも恐怖ともつかない何かが見え隠れする。そんな声だった。


『全陸軍駐屯地および海空軍基地はただちに防衛警戒体制一へ移行。東海、北陸、中部地方の住民に対しては避難命令が―― 』


 運転席に座っていた全身義体の男はそこでラジオを止めた。それを見計らっていたかのようなタイミングで、彼の胸元の携帯電話が鳴る。


『中佐、準備が整いました』


 電話の向こうから聞こえるのは低い女の声。長年、己の片腕として貢献して来たその部下に対し、宮桐荘陸軍中佐は手短に告げる。


「分かった。一時間後に連絡がなければ、予定通りに」


 それだけ言って携帯から離そうとした宮桐の耳に、縋るような声が届いた。


『中佐っ』


 彼が再び携帯を耳に当てると、電話の相手は躊躇うように何秒か置いた。いくつもの言葉が出そうになっては引っ込む。副官として彼に長年ついてきた深山大尉の複雑極まる思いの発露であった。宮桐は無言で続きを待つ。結局、選ばれた言葉はシンプルだった。


『…… ご武運を』


「ああ」


 通話を終えてアクセルを踏み、目的地へ向かう。車を走らせること五分。そこは山麓に佇む古びた日本家屋の門前だ。


 車を降りた宮桐は門柱のインターホンを鳴らす。四年半前にここを訪れたときと同じだ。変わったのは彼の階級が一つ上がったこと、そして彼が堂々と帝国陸軍の制服を着ていることだ。かつての天敵、内務省保安総局は最早存在しない。クーデターを起こすために陸軍と民間団体の一部で結成した済民会さいみんかいは、今や政軍官財の各界にネットワークを伸ばし、事実上の帝国中枢として機能している。


 そして、その知られざる最高指導者がこの鄙びた家に住んでいる。


 身体検査を受けてから靴を脱ぎ、曲がりくねった暗い廊下を奥へと進む。そうしているうちにかつての記憶が蘇り、胸中を懐かしい感情が満たしていった。理想と義憤に燃え、己が正しさを疑いもしなかったあの頃の情熱が。


 今や全て遠い過去の話だ。


 奥まった障子の前で足を止めると、間を置かずに部屋の中から声が届いた。


「どうぞ」


「失礼します」


 そこは畳敷きの六畳間だ。生け花も掛け軸もない床の間、塵一つ落ちていない冷えた畳…… その生活感のない殺風景も、かつてのままであった。


 ポツンと置かれた座布団の上に宮桐は正座する。正面、開け放たれた障子の向こうの縁側に、この家の主人がこちらに背を向けて座っている。


「お久しぶりです、南郷先生」


 宮桐が呼び掛けると、南郷錠山は中庭の向こうに聳える大文字山に目を向けたまま応じた。


「宮桐くん…… 直接顔を合わせるのは二年ぶりですね。息災でしたか」


「はっ。昨今の情勢緊迫で軍務山積の上、オキナワへの長期出張まで重なり、長らく会合に顔を出せませんでしたが。先生の方もお変わりなく、何よりです」


「ええ…… それで、今日はどのような要件でここに」


 その持っていた言葉に、宮桐は改めて背筋を伸ばす。そして一拍置くと、己の思いを込めるように強く言った。


「単刀直入に申します。先生に、戦争を止めていただきたいのです」


 真っ直ぐに放たれた言葉に南郷が返すは無言。季節外れな浅葱あさぎ色の羽織は揺るぎもしない。宮桐はその小さな背中を見据えて続ける。


「此度の軍事的緊張、その原因の一端は、現帝国政府にこそあります。戒厳条項の発動、非武装地帯DMZへの兵力展開、住民疎開と予備役招集………… 国民に対しては人民軍の威圧行動への応答と自衛措置であると説明していますが、どれも過剰な対応であることは明らかです。無論、日本戦争の教訓に鑑みれば、拙速は巧遅に勝るとも言えましょう。しかし、現政権の無用に挑発的かつ攻撃的な声明は、あたかも戦争熱を煽るが如し。これでは抑止になりません。人民党も引けなくなってしまう」


 なおも南郷は無言を貫き、対する宮桐の言葉は熱を帯びていく。


「政府の暴走の裏にあるのは済民会同志の好戦傾向です。現在の済民会、分けても陸軍と外務省、情報省を中心とするタカ派は、日本戦争の再開と人民党の屈服を望んでいる! 彼らは三日中に人民共和国政府に対し、無理を承知の最後通牒を突き付ける腹積りです!」


 そして宮桐は畳の上に手を着き、額を擦らんばかりの勢いで頭を下げた。


「我々は窮民救済の理想を達成するため権力を掌中に入れたはず。その権力で日本戦争の悲惨を再現するわけには行きません。止めるには今しかないのです! ―― どうか先生のお力で、今一度済民会に道を示していただきたい!」


 それが、宮桐が今日南郷のもとを訪れた一つ目の理由だった。


 しばらく経ってから南郷は、穏やかな口調で言った。


「宮桐くん。貴方は、私にこれが止められると思っているのですか」


「…… 確かに、今の済民会の活動に、先生が殆ど関与しておられないことは存じております」


 ですが、と宮桐は頭を下げたままに続ける。


「それでも済民会の行動の基本方針は、今なお先生の『済民大計要綱さいみんたいけいようこう』を遵守しております。四つの大項目、二八の小項目、そして一四七の具体的施作。あの冊子に記されていたそれらへの理解と協力こそが、現在も変わらぬ入会要件です。理念を簒奪する者もいました。しかし、会員の大多数は今でも南郷先生の思想に共鳴しているのです。先生が立てば動く者も多くいるはず。どうか―― !」


「…… 宮桐くんの考えはよく分かりました」


「…… ! ではっ」


 勢い込んで顔を上げた宮桐の眼前、いつの間にか彼と正対して座っていた南郷は、微笑を浮かべたまま制するように片手を上げた。羽織のゆるい袖元が揺れる。童女の如き小柄な体躯にもかかわらず、宮桐はその動作に得体の知れない威圧感を覚えた。


「貴方は勘違いをしているようですね」


「勘違い…… ですか?」


「要綱の四つの大項目…… 全て覚えていますか」


「無論です」


 そして宮桐は一度姿勢を正してから朗々と読み上げる。


「国賊打倒、機動施作、窮民救済、国威復興…… 帝国を正道に戻すための方策を、この十年間、片時も忘れたことはありません」


「では、その中に戦争回避の言葉はありますか?」


「………… 」


 黙り込んだ宮桐に対し、南郷はその笑みを深くする。一を聞き十を知った生徒に満足する教師の如く、愉快そうな口ぶりで続けた。


「国賊の打倒は機動的な施作のため。機動的な施作は窮民を救済し国威を復興するため。 ―― では国威の復興は何のために?」


「日本帝国にかつてのような平和と繁栄を取り戻す。そのためだと考えておりました」


「繁栄は手段に過ぎません。そして、この四年半で帝国は目的に必要十分な繁栄を取り戻しました」


 宮桐は静かに目を閉じた。


 予期していた答えではあったが、自分の耳で確かめるまでは信じたくなかった。


 大義は堕ちた。否、そんなものは最初からどこにもなかったのだ。宮桐の行動は、彼自身が報じていた大義とは無縁な論理に規定されていた。彼は利用されたのだ。


「南郷先生―― 」


 宮桐は目を見開く。


 けじめをつけねばならない。


「おさらばです」


 宮桐の身体が宙に浮いた。


 正座の姿勢から脚力と重心移動だけで繰り出される跳躍だ。


 軍用と違い、民生用義体は人体機能の忠実な再現を目指している。馬力も目方も人間並みに過ぎない。だが人工の筋肉と神経網は、使用者の練度次第で人間離れした動作を可能とする。それは、武道の達人が素手で人を殺せるのと同じことだ。


 着地すると同時に飛びかかる。僅か六畳の空間を一飛びで横切り、防殻シェルの収まる胸部を正確に貫く手刀を―――― 。


「!?」


 繰り出す直前、宮桐の身体は突如として制御を失った。


 畳に顔面を強打して派手にリバウンド、そのまま障子をぶち破って縁側で背中を強打。もう一度跳ねた挙句、中庭へ転がり落ち、庭石に当たってようやく止まった。


「っ!」


 そして反射的に立ちあがろうとした宮桐は、己の義体が一切の操作を受け付けないことに気付いた。全身が不随意に痙攣し、砂に塗れた制服をより汚していく。自己診断プログラムも働かない。これは―――― 。


「クーデターで打ち立てられた体制の末路には、幾つかのパターンがあります。外部権力からの攻撃による崩壊、民衆の運動による転覆、あるいは合法的体制転換。中でも最も多いのは、内部の一勢力による権力の簒奪です」


 縁側から降りて宮桐の傍らに立った南郷が語る。倒れ伏す彼の視点から見えるのは、草履と色無地の着物の裾だけだ。


「今の私は済民会の活動の多くには関与していません。手中に収めた国家機構の運営が軌道に乗った以上、もう私がいなくても帝国の政治と経済は決められた方向に進むからです。しかし、公安業務に関してはそうも行きません。手中に収めるべき機構内務省保安総局は取り潰してしまいましたからね。情報省と共にその代替を務めるのが今の私の仕事です」


 宮桐はようやく理解する。既に何もかも見通されていたのだ。でなければ、事前に宮桐の民生用義体にウィルスを仕込んでおくことなど、できるわけがない。彼の思考を読んでいるかのように南郷は言った。


「貴方の協力者達も既に拘束しています。人民軍の脅威が高まり続け、それへの対応が時々刻々と進んでいる今日の帝国では、


 宮桐は不随意となった身体から力が抜けていくのを感じた。城内平和は守られたというわけだ。これで帝国を破滅から救う道は途絶えた。己の罪悪を償う機会も。


「さて、最初の質問の答え合わせがまだでしたね。私に現状の帝国を止めることができるか。これは否です。私にその気がないからではありません。私にその気があっても最早止められませんし、その意味では貴方の行為は的を外していました。


 覚えていますか、宮桐くん。かつて、ここで私が貴方に語った言葉を。


 私たちは迸る怒涛の先頭で跳ねる、たった一粒の無力な水の滴。そこに己はありません。ただ我々だけがあるのです。


 我々とは日本帝国国民です。日本帝国国民とは我々なのです。


 重要なのは常に民の意志です。権力者なるものを含むあらゆる個人は、この民という全体に従属する部分に過ぎません。どんなものであれ個人の意思など問題にならぬのです。


 日本帝国が戦争に突き進むとすれば、それは民がそう望んでいるからです。否、帝国だけではありません。世界を見渡してください。ドーバー海峡、黒海、カシミール、ロンボク海峡…… 世界中で横溢するこの圧倒的な意志を、どうして南郷一人に止められるでしょう」


 南郷が言葉を区切った頃、宮桐の身体は黒服の付き人によって引き起こされていた。彼の視界に入った南郷の顔は、やはり穏やかな微笑を湛えていた。


「宮桐くん、貴方は最後まで理解しなかった」


 それ宮桐荘が最後に聞いた言葉となった。

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