二〇二七年 八月二七日 午後十一時二一分

 日本帝国 愛知県 名古屋市 名古屋基地反応弾研究施設


 広い空間に規則正しい足音が反響する。軍靴が金属製の階段を叩いて生まれたその音は、頭上にそびえるドーム天井で跳ね返り、周囲をぐるりと囲む混凝土コンクリート壁で跳ね返り、そして眼下にぽっかりと開いた昏い穴へと吸い込まれていく。


 直径三十メートル、深さ一二〇メートル。在日米軍名古屋基地の中央に位置する大陥没構造。それこそが今回の作戦で多賀城部隊が占拠した甲目標であり、日本戦争後に米軍がこの名古屋を帝国政府から咀嚼し軍事都市化した目的であり、そもそもソ連が人民共和国に圧力をかけて十六年前の名古屋へ侵攻した理由であった。


 荒谷が一歩一歩降りていくのは、陥没構造外周を取り囲む螺旋階段である。既にアクーラは脱ぎ去り、人民軍の民生用義体Saー9Ts の上に戦闘服をまとっている。そして、それで全てだ。この環境下でそれは恐ろしいほどの軽装だった。壁を撫でる彼の手が警告色のハザードマークに触れた。


『…… ィ…… 同…… 少…… !』


 部隊内回線で地上から通信が入る。激しい雑音が混ざっている上に切れ切れで上手く聞き取れない。民生用義体の内蔵型通信機では受信感度が不足しているのだ。荒谷が足を止めないでいると、送信機を切り替えたのか、突然音声が明瞭になった。


『聞こえているか、同志少尉! 何をしている⁉』


 野太い声は戦闘隊長、古閑浄のものだった。常に冷静沈着で軍人の鑑のようなこの男が、これほど取り乱している様に荒谷は初めて接した。


『気でも狂ったか! 直ちに帰還しろ、防護装備もつけずに反応エネルギー汚染区域に立ち入ることの意味が―― 』


『同志少佐』


 荒谷は立ち止まることなく、古閑の言葉を塞ぐように言った。


『ご心配なく。これは人民党中央軍事部の直命であります。防護装備についても―― 手は打ってあります』


 そして一方的に通信を切断した。こちらの送信出力が不足している可能性はあったが、どうせ追い掛けては来られないのだから些細な問題だった。


 巨大な螺旋を描く階段は果てしなく続く。遥か上方の天井と壁に設けられた照明灯だけでは、この空間を遍く照らすことはできない。随所にできた澱の如き闇。そこから荒谷一路の―― 鶴見雅史の十六年前の記憶が浮かび上がってくる。


 二〇一一年、三月八日。日本帝国、愛知県名古屋市。


 人民軍が突然の軍事侵攻を開始する四日前のことだ。あの日、市街地の外れのこの場所で小規模な爆発事故が起きた。帝国政府は県警とともに付近の住民を避難させつつ事態の把握に努めたが、翌日には米国からの圧力で報道管制が敷かれ、続く人民軍の侵攻と名古屋市街戦で全ては有耶無耶になった。現在では人民軍の先制攻撃だったと囁かれることも多い事故。


 その顛末を荒谷は思い出す。


 彼が初めてこの世界へやって来たときのことを。


 そして反応エネルギーを行使したときのことを。


 それによって全てを忘却し、己の本質を見失ってしまったときのことを。


 自分がどういう存在であるのかを。


 一歩一歩進むごとに思考が明晰になっていく。錯綜していた知識と記憶が体系立てられていく。それによって、あの日以来常に当事者としての実感が欠落していた己の人生が、己のものとして取り戻されていく。


 それはまるで、長い夢が終わって微睡から覚醒していくような感覚だった。


 最下層、混凝土コンクリートで固められた床に荒谷は降り立った。


「遅かったですね、荒谷一路」


 そして、眼前。


「今は鶴見雅史ですか。己の機能を思い出したようですね」


 小柄な童女のような全身義体者が、泰然たる笑みを浮かべて立っていた。季節外れな浅葱あさぎ色の羽織といい、あまりにこの空間にそぐわない異常な出立ちであった。


「誰だ」


「南郷錠山と呼ばれている者です。そして、貴方と同じ存在」


 その一言で荒谷は全てを理解した。南郷はそんな荒谷に背を向けると、草履で混凝土コンクリートの上を擦るように歩きつつ語り出した。


「世界は一つではありません」


 荒谷は無言で追随する。大きくはないのに不思議とよく聞こえる声が、暗い大深度地下にこだました。


「今、目の前に広がっているこの世界と極めて似た世界が、より高次の世界の中で無数に並んで存在しています。この一つの世界のことを私たちは確率宇宙と呼んでいる。それら確率宇宙には理論上無限の様相があり得ますが、その一部にはここと同じ天の川銀河が存在し、太陽系が、そして地球が存在します。さらにその極一部では我々と同じ人類が地表を這いつくばって暮らしています」


 南郷の説明する内容を荒谷は既に知っている。だが、既知の内容が語られることでより確固たるものとなっていく。だから荒谷は耳を傾け続け、相手が話すに任せた。


「極一部とはいえ、それでも人類が文明を発生させた確率宇宙の数は膨大です。近接する確率宇宙であれば類似した歴史が繰り広げられますが、遠く離れるほどに歴史も乖離していく。異なる民族が、異なる宗教が、異なる世界帝国が誕生し、異なる近代文明を作り上げて多様な繁栄を謳歌します。そこでは人類文明の可能性が試し尽くされていると言って良い。


 それにもかかわらず、勃興した人類文明の末路というのは決まり切っています。


 過剰発達による破局、そして種の衰退あるいは絶滅。


 これはある種の社会科学的な問題です。


 なのです。


 如何なる歴史を辿るかによらず、科学技術の発達は理性と呼ばれる脳の機能と不可分です。合理的で論理的で客観的な思考。それが自然現象の分析と介入、そして応用に寄与する度合いが一定水準を超えたとき、文明の科学技術化という不可逆の過程が始まります。社会システムは科学技術を駆動しやすい形態へと変形し、食糧生産の改善と医療衛生水準の向上によって人口は爆発的に増加し、エネルギー生産量の増大とその集約化によって産業はますます高度化していきます。


 人類文明の、黄金期。


 ですが、それも長くは続かない。やがて綻びが露わになります。


 環境破壊や食糧不足、エネルギー危機…… そうした地球の有限性に起因する問題は比較的早期から認識されますが、そんなものは技術的問題に過ぎません。


 より本質的な問題は、という事実です。


 個人を結びつけて社会を形作るのは経済や技術だけではありません。今の貴方なら分かるでしょう? 勿論、法律や政治だけでもありません。


 道徳、宗教、信仰、神話。そうした感情的な物事によっても社会は形作られている。


 しかし、これらは感情に起因するものであって究極的な根拠はない。根拠はないがゆえに理性によって容易に解体される。一度解体されてしまえば最早元には戻らない。科学技術という後ろ盾を得た理性の浸透は不可逆だからです。


 そして、多くの人間はそのような社会に耐えられません。人間は理性的に生活するために社会を作るのではなく、感情を満足させるためにこそ社会を作るからです」


 荒谷は四年前の冬の情景を思い出す。


 あの日、歩道橋の上で群衆のデモを眺めていた荒谷にあの男は言ったのだ。彼もまた眼前のこの人物と、そして荒谷と同じ存在だ。別の確率宇宙から呼び掛けていた彼の言葉を、今の荒谷は明瞭に思い浮かべることができる。


「不合理と破壊への衝動を満足させるために人間は存在している。より破壊するため、より強い情念を、より心地よいスローガンを、より大きな一致団結を実現するために人は社会を作る………… 」


 荒谷の方を振り返った南郷が満足げな微笑を浮かべた。


「然り。それ故、その欲求を満たさぬような社会を多くの人間は許容しません。理性によって社会を立て直す…… つまり合理主義や普遍主義の絶対化という試みも全て失敗します。やがて社会はより小さく過激な社会へと四分五裂していき、それが相互に闘争を続ける世界が出現することになります。そして核兵器に代表されるように、科学技術の発達した世界では個人の握る暴力は肥大化し、そうしたくだらぬ争いからでも呆気なく世界は滅ぶ」


 そして南郷は足を止めた。陥没構造の最下層からさらに横方向へと伸びる洞を、進んだ先にある狭い空間。


「ですが、天文学的な回数の試行が行われれば、理論上可能な如何なる事象も起き得る」


 この空間こそが爆心地グラウンドゼロ


 この確率宇宙に漂着した十六年前の荒谷が、反応エネルギーを暴発させた地点だった。


 彼方に関する記憶が流れ込んでくる。

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