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 遥か彼方の確率宇宙〈楽園〉の拡大史


 長い歴史の果てに、ある一つの文明が極めて高度な水準に到達した。


 その結果、彼らは自分達の住む世界と並びあう無数の別世界の存在を確信した。異なる過去。異なる生物種。あるいは異なる物理法則。眼前に広がる宇宙とは別の因果関係で全事象が結ばれた確率的な宇宙。数学的に予測されたそれらを実際に観測するため、彼らの文明の総力が投下された。


 彼らが辿り着いた方法は別世界に存在する己自身との意識の共有だった。


 事象の因果関係が類似した近傍の確率宇宙同士であれば、そこに住む人々もまた類似している。一つの確率宇宙の中では儚い偶然の織物にしか見えぬ人格や人生は、実際はある程度の必然の産物であって相応の頑健性を持っている。それ故に複数の確率宇宙で似た人格や人生が再現されているのだ。中でも確率的同位体と呼ばれる極少数の個人は、その因果の強靭な頑健性ゆえに別の確率宇宙でも同一人物と見做すことができ、その主観を一つの意識に統合することが可能だった。これが利用された。同位体という観測装置で複数の確率宇宙を貫くのだ。同位体が存在し得る至近の確率宇宙しか観測できないという原理的問題はあったが、最初の一歩としては充分だった。


 そして彼らは近傍の確率宇宙のどの文明も自分達ほどの水準に達しておらず、その多くが滅亡の瀬戸際にあることを知った。


 彼らは他の確率宇宙の観測を続けた。観測し、データを集積し、統計を取り、既知の理論で分析し、無数の仮説を立てて却下し…… その果てに原因を認識した。


 科学技術の発達を可能とする思考や認識の様式が、人類社会の維持存続と来たす根本的な不整合。そのために他の確率宇宙は行き詰まっていたのだ。


 翻って、彼らの文明は高度な科学技術と秩序ある社会を両立させた稀有な例だった。


 彼らが成功したのは、ある種の信仰で理性に蓋をし、社会という共同体が綻びる可能性を抹殺したからだった。


 均一かつ静的な精神文化、完全なる思考と思想の統制、絶対的かつ腐敗のない権力。それらによって理性に多重の枷を嵌めることによって、社会の基礎となる自然な感情が解体される可能性を摘んだのだ。永遠に続く栄光ある暗黒時代。彼らは己の信仰の無根拠さを知っていて、かつ知らない。何の意味もないと承知していながら、教会に対して服従を誓っている。批判的思考で社会を分析しつつ、その社会の中に盲目の群衆として住んでいる。


 そうした思考の二重性こそが、無数の確率宇宙での試行の果てに人類が辿り着いた唯一の正解だったのだ。


 彼らはすぐさま取るべき行動を決定した。布教、伝導、あるいは十字軍。他の確率宇宙に住んでいるのだとしても、相手は人間である。ならば、我々の信仰を受け入れるべき存在である。それが教理ドグマであった。反論や批判は学術的にのみ検討された後に全て却下され、全住民の意識から欠落した。別の信仰を持った対等な水準の文明が自分達に接触してくる可能性もあった。故に近傍確率宇宙の安全を確保しておく必要があった。そういう意味で、これは防衛的な宗教戦争でもあった。


 近傍確率宇宙は既に救い難かった。彼らほどでなくとも高い水準にあったそれらの文明では、破滅的な政治経済システムと精神文化が強固に根付いており、彼らの特異な信仰と哲学を受け入れることはできなかった。


 もっと原始的な文明と接触する必要があった。科学技術の誕生以前、少なくともその黎明期の文明と。一つの確率宇宙に拠点を設けた後、そこからより遠方の確率宇宙に接触する。そうして複数の同位体を経由することで、やがて彼らは遠く隔たった原始的な文明へ辿り着くことができた。


 彼らとその確率宇宙を繋ぐのは同位体の主観のみである。だが彼らには圧倒的な科学技術の知識があった。複数の文明の勃興を観測して再現性を確立した歴史科学があった。それでもってすれば、原始的な文明を数世紀かけて望む方向にすることは容易だった。


 何よりも重要となるのは、その確率宇宙で拠点となる強靭な独裁権力の確立だ。


 理性と同じく個人の自由は最終的に社会と文明を破壊する。自由は理性を行使して己を縛る共同体に攻撃を加え、理性が自由のそうした有様を肯定する。この二者は相互に補い合って効果を高める猛毒であり、彼らにとっては慎重に制御下に置くべき概念だった。自由への欲求が哲学へと昇華される前に、経済と政治と文化を中央集権的に統制する権力を作り上げねばならない。重化学工業の勃興期には大抵この種の独裁権力が自然発生するため、多くの場合はこれを利用した。中核となる理念は何でも良いのだ。彼らは狂信者であったが、狂信の機能こそが本質であって中身は二義的であることを知っていた。


 独裁権力が確立されたら、その内外両方向への拡大が始まる。


 拠点権力の内部に対しては徹底的な粛清と監視による恐怖政治が敷かれる。絶対的な権力は絶対的に腐敗するという多くの文明が辿り着く命題は、真に絶対的な権力が稀にしか確立されないが故の誤謬だ。真に絶対的な権力は絶対的に腐敗しない。腐敗の原因となる私欲が消滅するからだ。それと並行して経済統制による産業の高度化が進められる。技術革新の不在と計画の機能不全による停滞という経済統制に付き物の問題は、彼らの文明が持つ高度な技術と社会科学理論の供与によって回避される。


 外部に対しては戦争行動が二重の目的で行使される。一つは拠点権力の地理的拡大のため。もう一つが、地球全土の間接的な統制のためだ。戦争は近代社会に対して政治経済の統制化という適応を強いる。たとえ直接的な軍事衝突が発生していなくとも、強大な軍事的権力の存在は他の権力を圧迫し、戦争の準備に走らせる。二大超大国による冷戦構造という国際関係が効率の点では最も優れている。こうして世界中で大量の人的、物的資源が政治権力主導で軍事へ投下され、市場を介した無秩序な技術革新が抑制される。余剰資源の減少で精神文化も画一化される。


 これら政治経済的な文明改造を根底で支えるのが科学技術の改造だ。彼らの技術援助を受ける拠点権力は、その確率宇宙の地球上では必ず最先進地域となる。そこでの発見と発明の動向を操作することで、他の地域へも間接的に影響を及ぼすことができる。


 幾つかの技術はその発生の芽を慎重に摘まなければならない。核兵器は原始的な技術ながら破壊的な威力を持つため、幾つもの未熟な文明が滅亡する原因となった。核エネルギーは歴史の最終段階まで生まれないのが望ましい。だが冷戦構造という持続可能な準戦争状態を作るためには、暴力の極大化が不可欠だ。そこで反応エネルギー技術を拠点権力に与える。確率宇宙間のエネルギー勾配から情報論的な破壊力を生むこの技術は、あまりに高度なため未熟な世界で拡散することはない。これを拠点賢慮奥に供与し国際政治における抑止力とする。また情報技術革命は絶対に防がねばならない。情報は権力によって統制される必要がある。情報の自由化は社会の自由化の、延いては社会の解体の端緒だ。彼らの世界にインターネットなるものは存在しない。冷戦構造による権力への技術集約が、インターネットという発想を人類から奪う。


 そうして彼らの文明は確率宇宙を超えて拡大していった。


 彼らがこの確率宇宙を訪れて既に百年が経過した。


 ソビエト連邦という独裁権力を拠点に定めた彼らは、優れた社会科学と科学技術によって共産主義を強化し、ユーラシア全域から自由主義を駆逐した。八十年以上に渡って続く戦争で西側の自由主義もまた抑制され、あらゆる技術は国家権力のもとに集約されている。


 東側は全世界へ統治を行き渡らせるのに充分な経済的余裕と政治的安定を得、二重思考の基礎となる精神文化も醸成された。


 文明を次の段階へ進めるときだ。

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