2

 二〇二二年十二月二七日午後八時二五分

 日本帝国 兵庫府 西神区 郊外


 切れかけた豆電球を、立ち昇る紫煙が撫でる。そこは頽廃的な印象の部屋だった。もとは白かったのだろう壁は歳月と煙草で黄色く濁り、埃の積もった床には無数の吸い殻が散らばっている。最も古い吸い殻を捨てたのは、十年以上も前の労働者だ。かつて、この廃屋が健全な工場として真空ポンプや配管を生産し、この部屋が休憩室として機能していた頃のことである。


 今、床に新たな吸い殻を追加した男が煙を吐きながら呟いた。


「大尉殿はどちらへ?」


 厚手のジャンパーのファスナーを首元まで締め、ポケットに両手を突っ込んで彼は立っている。毛糸のほつれたニット帽といい、その下から覗く髭面の小汚さといい、浮浪者然とした中年であった。


「下だ。先ほど例の同志たちが運び入れた武器を確認している」


 応じた別の男の姿も似たようなものだった。彼は粗大ゴミ同然のソファの上に寝そべり、低い天井を眺めるともなく眺めていた。


 部屋には二人と同じような姿の男たちが他に三人いた。年齢はまちまちだが、いずれも路地裏で拾ったような服をまとい、中には臭気を漂わせている者さえいる。だが見窄らしさはない。それは垢にまみれた顔と対照的な、瞳に宿る意志の光のためであった。


「武器といやあ、ありゃ本当なのか。例の…… 」


迅雷改じんらいかいだろ?本当さ。今さっきこの目で見て来たんだ。軍用の全身義体を間近に見るのは初めてだが、ありゃバケモンだな。クソ内務省どもなんて敵じゃねえぜ」


「ああ? 迅雷じんらいを間近で見たことないたぁ、坊主てめぇ…… 兵役拒否者じゃねえだろうな?」


「ふざけんな! そんなわけねえだろ! 第5師団の通信隊だったんだよ。ほら、中央方面軍は機動歩兵部隊が少ないだろ」


「はっ、どっちにしろ実戦経験もねえ包茎のガキだろうが。一丁前に息巻いてんじゃねえよ」


「こんのクソ野郎…… !」


「やめろ」


 ヒートアップしかけた二人を、最初に大尉の行き先を尋ねた男が低い声で諫めた。履き潰したスニーカーの踵で捨てた吸い殻の火を踏み消し、すぐさま次の煙草を取り出して火をつけた。


「実戦経験の有無など瑣末な問題だろう。生まれたのが遅いか早いか、十年前に現役だったか否かの違いでしかない。私も実戦経験などないよ。十年前はちょうど現役だったが、彼と同じく後方の通信隊だったからね。だが瑣末な問題だ」


 深く吸った煙を肺に溜めてから、豆電球に向かって吹き付ける。


「戦後の帝国を生き、その惨状を憂慮し、燃ゆる義憤と大義をその胸に懐いて立ち上がった。我々は皆、同志だ。―― それで充分ではないかね?」


 どこか知性さえ感じさせる滔々とした言葉に、言い争っていた二人は黙り込む。男の言葉が謙遜でしかないことを、ここにいる誰もがよく知っているのだ。日本戦争以来、道を踏み外したこの国を正道へ戻すべく武力闘争を続け、二〇一六年の博多六月暴動では市議会占拠の最前線にいた。組織を作るタイプでこそないものの、歴戦の烈士であることは間違いないのだ。その言葉をどうして否定できよう。


 静まり返った部屋の中で彼は呟く。


「重要なのは意志だ。国を想い行動を起こす、民の爆発的な意志の力だ。南郷なんごう先生ならきっとそうおっしゃることだろう…… 」


 その目が見つめるのは廃工場のシミの浮いた天井ではない。その向こうに浮かぶ六年前の幻影だ。あそこでは国を正すという大道の上に万の意志が調和していた。ユートピア。あるいはユーフォリア。―― あの光景をもう一度。


 その瞬間、立て付けの悪いドアが軋みをあげて開き、男は現実に引き戻された。


「ああ、大尉。遅か―― 」


 ドアの方を振り返りかけた男は、その言葉を言い終えることができなかった。


 鳩尾に走る鈍重な衝撃。


 急速に狭まっていく視界の端々で同志達が崩れ落ちていく。呻き声は聞こえない。光より先に音が消えたのだ。


 そして視界の中心に鎮座する、両手に九八式小銃を構えた漆黒の影。


「…… 四…… 課」


 数多の同志を屠り去ってきた死神の名を呟き、男の意識は暗転した

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る