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二〇二七年 八月四日 午前八時三一分
日本人民共和国 軍事省特別管轄区 第19防衛区(旧長野県長野市)
『誰か…… 誰か応答してください。誰か…… !』
部隊内共有回線で呼び掛けながら山間の隘路を走る。Ne―88J猩猩の分厚い脚部が腐葉土に沈み込み、広い肩が低木の枝をへし折る。この重量三七六キロのソ連機は平原や岩石砂漠での運用を想定している。日本の地形には向かないのだ。故にこのような獣道には可能な限り踏み込まないというのが、仙台教導学校で最初に教わることだが、今の彼女の頭からそんな教科書的知識は消し飛んでいた。
『隊長…… ! 同志曹長! 苅田さん!』
部隊内共有回線は未だに沈黙を続けている。だが彼女に出来るのは呼び掛けを続けることだけだった。小隊より上と直接連絡を取る権限は最下級の彼女には与えられていない。
帝国軍侵攻の報を受けたのが午前四時。第一防衛線突破はその僅か一時間後だった。第一防衛線の引かれた連山地帯を抜かれると、第19防衛区部隊の策源地たる長野盆地への敵の侵入を許してしまう。延いては戦線が軽井沢まで後退することになりかねない。これを阻止するのが我が第3機動歩兵大隊の役割である。―― 作戦のあらましはこんなものだったはずだ。
戦場に演習のような秩序はなかった。演習も秩序立っているとは言い難い過酷で我武者羅なものだったが、今の状況と比べれば観兵式のようにお行儀の良いものだった。
真っ先に死んだのは小隊長だった。金属質な音が響いたと思ったら、彼の義体がぐらりと揺れて木にもたれかかってそれきりだった。その足元の広がる赤黒い培養液と遅れて響いた銃声で、彼女はそれが機銃狙撃だと理解した。八〇〇メートル以上前方にいるはずの敵斥候部隊が、何故か側方に回り込んでいたのだ。猩猩の無駄に分厚い装甲は本当に無駄だった。悪態を吐く間もなく副隊長が迫撃砲で消し飛び、新兵の多い彼女の小隊は組織的抵抗力を失った。
そこから何がどうなってこうなったのか、彼女は思い出すことができない。気付けば獣道を彷徨っていた。
――ああ、そうだ。抑制剤があれば、思考がまとまるかもしれない。
『小隊長、抑制剤願います』
応答がないことに首を傾げた直後、彼女の機体は足を踏み外して斜面を滑落した。
猩猩は太い四肢を何度も樹木の幹に引っ掛け、しかし止まることなく滑り続けて最後に空中へ放り出された。浮遊感の後に四メートルの高さを落下し、背面装甲を強打した。脳裏に
――水の音。
それを黙らせて立ち上がると、そこは川の浅瀬だった。山間を蛇行する細い川だ。いつの間にか、随分と南へ来てしまったらしい。戻らねば。どこに戻るかも考えず、反射的にそう考えた。どこかに戻らなければならないのだ。作戦を成功させるために。第一防衛線の引かれた連山地帯を抜かれると―――― 。
循環を始めた彼女の思考を、突然の騒音が吹き散らした。
「!」
収音
だが人民陸軍のMi―35ではない。もっと洗練された機影だ。だいたい飛んで来た方向がおかしい。つまり、
「ああ、そうか」
全てを理解した途端、今更のように思考が明晰になった。
敵の
そして、自分は敵陣の真っ只中に一人取り残された。
機体下部の三〇ミリ機関砲が真っ直ぐこちらを見つめている。攻撃
悪足掻きのように間延びしていく時間の中、
――おい貴様は今死んだぞ、間抜けめ! くだらぬ死に方をしおって。死ぬなら祖国と党に貢献して死ねい。無駄死には裏切りと知れ!
「申し訳、ありません…… 」
迷彩塗装を施された機体が迫る。火閃が煌めいて―――― 。
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