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 二〇二二年 十二月二八日 午後四時一二分

 日本帝国 兵庫府 東灘区 首相公邸


 葺合区、生田区、灘区、東灘区。六甲山とそれを削った土で作った人工島に挟まれた、この百平方キロメートルに満たぬ陸地に、帝国の政治機能は集中している。前世紀の震災を契機に一部は大阪や西宮へ移転したものの、その多くは今でもこの地に残っていた。


 東灘区住吉町もまた、そうした政都神戸の歴史と現状を体現する土地であった。ここには新国会議事堂や与党自由党本部、そして首相官邸が所在し、同町の名は帝国政界を指す符牒になっているのだ。その官邸と隣接したモダンな煉瓦造りの三階建てが、内閣総理大臣が日々の生活を送る公邸である。


「結局、陽が沈む間際になってしまったな。空き時間が取れなくて申し訳ない」


 二階の西に面した小応接室で、チャコールのソファに腰掛けた壮年の男が言った。腹の底から響く野太い声は退役軍人特有のもの。日本人離れした顎鬚と豊かな白髪で獅子じみた相貌の男であった。


 彼こそ現日本帝国首相、藤堂左京とうどうさきょうとうどうさきょうである。


「昨晩の件で国防大臣が制服組からの突き上げを喰らっていてな。よりにもよって、この私に取りなしてくれと泣きついてきた。一体何を考えているんだか。国防部会や協議会にしても…… おっと」


 藤堂は言葉を切って首を振った。睡眠不足で散漫になりがちな思考を意志で繋ぎ合わせ、髭を撫でながら向かいに座る来客と視線を合わせて言う。


「すまない、時間がないのは貴方も同じだな。本題に入ろう」


「いえ―― 」


 言葉を向けられた相手は座したまま小さく頭を下げる。藤堂と同じく長身だが痩躯、そして対照的な禿頭の男だ。年齢は藤堂の十歳上だが、皺の多い顔と時代遅れな黒縁の眼鏡のいでもっと老けて見えた。


 そしてスーツ姿の藤堂とは異なり、老人は鳶色の制服を着ていた。


「軍の怒りもある意味尤もでしょう。我々は情報を握りながら敢えて犯人を泳がせ、基地の外で実力によって拘束したのですから。首相にはご迷惑をおかけします」


「承知の上で作戦実行の許可を出したのだ、構わんさ。それより私が求めているのはこの睡眠不足に見合うだけの結果だ。…… 現状はどうかね、羅凪局長」


 羅凪寛斎らなぎかんさい保安総局長は鞄から大きな茶封筒を取り出した。二人の間にはメープル材のローテーブルがあり、机上の湯呑みからは湯気と緑茶の芳香が立ち上っている。羅凪局長は茶封筒を藤堂の湯呑みの横に置いた。


「今回の捜査に関しては上々です。が、全体の事態は我々が想定していたより深刻かつ急を要する…… といったところでしょうな」


 羅凪局長の言葉を聞きつつ藤堂は封筒に左手を伸ばす。鈍く光るその手は合成樹脂

《プラスチック》で出来ていた。安物ではなくオーダーメイドの高級品だが、敢えて一眼で義手だと分かるようにしてある。それが彼の政治家としてのイメージ戦略だった。戦争を知る強い指導者。


「入手した石巻大尉の防殻シェルを科研で解析にかけました。幸い電子防壁ファイアウォールは薄く、化学的な自壊機構も備わってはおりませんでした。そこで自閉モードを解除してノグラミンを注入しました」


「ノグラミンか…… ならだな」


大尉を軍に引き渡すわけにもいきますまい。処理はこちらでしておきます。憲兵隊も失踪という線で決着をつけるしかないでしょう」


「納得はせんだろうが、な…… 。それで、得られたのがこれか」


 封筒に収められていたのは七人の陸軍将校のプロフィールであった。氏名と顔写真、階級、出身地や経歴が網羅されている。


「同志、なのだそうです」


 それは自白剤を投与された石巻の脳髄が吐いた情報を元に、保安総局刑事部が半日で調べ上げた彼の共犯者のリストだった。


「なにか、お気付きになりますか」


「ふむ…… 」


 藤堂は髭を撫でながら書類をめくる。いくつかの項目に注目して相互に比較し、一分ほど経ってから口を開いた。


「全員に共通する点がある、というわけではないようだな。同郷でも陸士同期でもない。兵科はバラバラ。同時期に一つの部隊にいたわけでもない」


 藤堂の指摘に羅凪局長は頷く。眼鏡を鼻の上に持ち上げてから老人は言った。


「その事実から彼らの属する集団について、一つの仮説が浮かび上がります。それは恐らく利権に基づく陸軍内の派閥というよりは、思想で繋がっている緩やかなグループでしょう」


「交友関係や思想傾向についての調査は?」


「残念ながら、不十分です。リストのうち三人は日頃から石巻と接触があったので、既に刑事二課の方でも追いかけてはいましたが、怪しい動きは掴めませんでした。思想傾向については、調べれば多かれ少なかれ反体制的な部分は見つかるでしょうが…… 」


「今の陸軍なら珍しいことでもない、か」


 呟いた藤堂は湯呑みに義手を伸ばす。今は民生用の義体を使っている彼が、中度軍用義体で豊橋の街を駆けた日から早くも十一年。除隊後に政界進出した彼は、初出馬から僅か二年という異例の速度で首相就任を成し遂げここにいる。


 それは国民が戦争の英雄を求めたからだろう。半世紀に渡り政権を担ってきた自由党の失墜と、右翼勢力の躍進による果てしなき混沌。それを終わらせるためには分かりやすい象徴シンボルが必要であり、藤堂はそのニッチに収まったのだった。


 だが、政治家藤堂は元軍人であっても軍の味方ではなかった。それどころか勢力を伸張させる軍と果敢に対立さえした。


 故に今では裏切り者としてかつての同輩達から目の敵にされているのだ。今回の作戦は軍内の過激分子の動向を掴むためだったが、これで彼はいっそう軍から嫌われただろう。


 濃い緑茶を啜って一息つき、藤堂は羅凪局長に尋ねる。


「その七人のうち誰かを拘束することは」


「不可能です。もう彼らも今回のようなボロは出さぬでしょうし、軍だって次は我々の横槍を許さぬでしょう。それに、七人のうち誰がより中核に繋がる存在なのかも不明です。ただの実行犯である石巻大尉はそれすら知らなかった。七人とも尉官以下である以上、階級で当たりをつけることもできません」


 ですが、と、羅凪局長は続ける。


「手詰まりというわけでもありません」


「ほう、何か他の手掛かりが見つかったと」


南郷錠山なんごうじょうざん


「―――――――― 」


 コトン、と、テーブルに湯呑みを置く音が響いた。しばらくの間、二人きりの小応接室を換気扇の低音だけが満たす。


 やがて先に口を開いたのは羅凪局長の方だった。


「それだけではありません。済民会さいみんかいという組織の名も出て来ました。こちらは局のデータベースにもない未確認の集団ですが、南郷はその指導者と目されます」


 藤堂はなおも黙したままだ。羅凪局長は一人で続ける。


「無論、南郷錠山なる人物が実在するのか否か、実在したとして、二〇一六年に博多暴動の陰で暗躍していた怪人物と同一なのかは不明です。しかし、石巻が自分への指示が南郷から来ていたと考えていたのは事実です」


「…… 確かに、事態は我々が思っていたより深刻なようだ」


 ようやく絞り出された藤堂の口調は陰鬱だった。義手がテーブルをコツコツと叩いている。


「なら、これからはその済民会とやらを鍵に操作を進めるんだな?」


「はい。在野の右翼団体やノンセクトにも目を光らせておきます」


「それは、を想定してのことか?」


 腹の底から強く響く藤堂の声に、覚悟ゆえの気迫はあれども恐れはない。羅凪局長は対照的に淡々とした調子で応じた。


「まだ確実なことは言えません。ただ、首相。貴方の就任以来の四年間、我々が常に想定し、備えて来たのは、その最悪の結末であったはずです。そもそも貴方が制服を脱いだのも、その結末を防ぐため…… 違いますかな」


「いや…… その通りだ」


 藤堂の肯定を受けてから、羅凪局長は緑茶を一口だけ啜る。顔と同じく皺だらけの手だ。その手で一体何人葬り去って来たのか。首斬り寛斎。帝国政官界に轟くその異名を藤堂は思い出さざるを得ない。


 立ち上がった羅凪局長は両手を体側に揃え、きっちり十五度の敬礼を行う。


「貴重なお時間をありがとうございました。失礼致します」


 ドアへと向かう鳶色の後ろ姿を赤い西陽が照らす。その光景を見ていた藤堂は、ふと一つの質問を思い出した。


「そうだ、局長」


 呼び止められた羅凪局長はゆっくり振り返る。


「大したことじゃないんだが…… 石巻大尉の拘束は大変だったろう。どうやったのかが気になったんだ。これでも私も元機動歩兵でな」


「ああ、白虎ですよ。ご想像の通り」


 黒縁眼鏡のレンズが夕陽を反射して白く光る。


 その口元にはなんの感情も浮かんでいなかった。


「詳しい報告書をお送りしましょうか。明日になるとは思いますが」


「…… いや、いい。ありがとう」


 その反応に納得したのか、保安総局長は小さく頷いて部屋を後にした。


 分厚いドアが閉まる音が響く。


「毒をもって毒を…… というには、醜悪すぎるな」


 一人きりになった小応接室で、首相は己の感情を噛み締めるように呟いた。



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