第五章 眺望 1
その場所は村の西側にあった。
家々が立ち並ぶ場所から、畑の間を通ってなだらかな坂をのぼり、牛と羊が草を食む牧草地を横目に進む。
パルナ山の尾根と並走するような坂道だ。
草地の上り坂はやがて岩壁に突き当たり、フェリクスはそこに架けられた縄梯子を身軽に上がった。丈は男の背丈の二倍ほどはある。
後を追うアスカニウスが同じように梯子を登り壁の天辺から顔を出すと、草木のまばらな岩場に出る。
「おお、だいぶ登ったな。この辺りは谷なのか」
アスカニウスは向かって右手奥側、岩場が途切れ切り立った崖になっていることに気付く。
村の牧草地や葡萄畑が広がる斜面と、向かい側のパルナ山の間には深い谷が横たわっていたのだ。
フェリクスはアスカニウスに谷に近づかないよう注意し、反対側を指さした。
「あの上からなら、ラコウヴァ龍神の湖が見えます」
ゴツゴツとした岩場の中でも平らな場所に、大きな監視塔が建てられていた。
物見台は三段、その間は頑丈そうな木の梯子。足元は石組み、本体は木製で、巨岩や周辺の木に幾本もロープを張って固定されている。
塔の下にはふたりの警備兵がしっかりと武装して警戒に当たっていた。近くには小屋もあり、この場所から監視の目がなくならないよう整えられているようだ。
アスカニウスは首をうんと反らして監視塔を見上げた。
「すごい塔じゃないか。高さはどれだけあるんだ?」
「三十七キュビットほどです。神域と村の全域を見渡せる、とても重要な場所ですから」
これだけ立派な監視塔は重要な都市や、国境沿いでなければお目にかかれない。
フェリクスはひとりの警備兵に声をかけ、監視のために塔に上がっている兵をおろしてもらった。アスカニウスを案内すると告げると、彼らはすんなりと梯子をゆずり、周囲の警戒に素早く散って行く。
「しっかりした兵たちだな。そういえば最初に俺たちを取り囲んだ時も、よく統率が取れていた」
「神域を警備するのは村の誇りです。警備兵として信頼を獲得すれば、パルナ山への参詣に同行し、龍神様にお会いすることもできるのですよ」
フェリクスは話しながら梯子を上りはじめた。
毎年夏の間、選ばれた神官が供を連れてパルナ山に登る。
龍神に詣でるのは神官の役目だが、荷運びと山中の護衛として選ばれる兵は特別な存在だ。
アスカニウスも木の梯子に手をかけた。
「神官殿も山に登ったことがあるのか?」
「もちろんです。もう何度もパルナ様にお会いしていますよ。とても優しく、気さくなお心の持ち主です。神官たちはパルナ様にお会いできる年をとても楽しみにしています」
自慢げな弾んだ声になっていることに、本人は気付いているのだろうか。
その声を追うように頭上を見上げて、ちょうど体重をかけようとしていた足を踏み外しそうになった。
フェリクスのトゥニカの裾は、もはや体を隠す機能を果たしていない。梯子を上れば当然のことだが、股を隠すだけの腰巻まで、フェリクスの体がはっきりと見える。梯子を踏む足は筋肉が張り、特に太ももの後ろ側には逞しい筋が浮き出ている。
アスカニウスはなるべく自分の手の先だけを見るように気を付けて梯子をのぼりきった。最後にチラリとだけ、もう一度彼の裾を覗き見たのは仕方のないことだろう。
監視塔の頂点の物見台は、三人も立つと肘がぶつかり合うような狭い正方形で、周囲は腰の高さほどの木の壁で守られている。屋根はしっかりと張り出し、多少の雨ならば問題なく任務を遂行できるだろう。
アスカニウスは村の方を振り返った。
立ち並ぶ家々は小さく、道を歩く人の区別はつかない。中でも一際大きな建物がふたつあり、村唯一の浴場と、迎賓館の屋根だ。迎賓館から左手に視線を移すと、半円形の神殿群、競技場や劇場といった神域も遥か下に見える。
「神域を見下ろすとは、恐れ多いな」
「湖は向こうです」
アスカニウスはフェリクスが指した方向に目を凝らしてみる。
パルナ山が目の前だ。随分高い場所まで来たが、山頂にはとても及ばない。
しかし、キラリと光るものが見える。山頂は岩ばかりでほとんど植物が生えていないが、下へ行けば行くほど緑が濃くなっていく。その曖昧な境目のあたりが、陽光を受けてキラキラと光っている。
「あれか!」
そう思ってじっと見つめると、遠く木々の間から光の形が分かってくる。歪な円形を描いて、広大な湖が広がっている。尾根の連なりから少し
斜面が一度平らになり、緑が濃くなる場所に、その聖なる水溜りはどんと横たわっている。
「良かったら水晶をどうぞ」
フェリクスの差し出した水晶を受け取り、アスカニウスは再び山に目を向ける。
透明な石を通すと、もっとはっきりと見えた。
綺麗な場所だ。
この上なく美しい風景だった。
湖に遠慮するように、木々は一歩引いた離れた所に立っている。そうして縁取られた水際はどんな場所なのだろう。
アスカニウスは風に波立つ湖に想いを馳せる。
どこまでも澄んだ水に違いない。聖水に洗われた石と砂、そして青々とした草。木々よりも遠慮のない小さな花がつぼみを膨らませているだろうか。自由な翼を持つ鳥は波打ち際で羽を洗い、贅沢にも聖水で存分に潤した喉で歌うだろう。葉の擦れ合うざわめきと、水が地を洗うさざめきに合わせて。
夢中で水晶を覗き込むアスカニウスの背中に、忍び笑いがぶつけられた。
振り返るとフェリクスが手で口を押さえ、肩を震わせている。
「本当に水がお好きなんですね」
「そんなに笑うことか?」
「だって、子供みたいに」
アスカニウスが口を尖らせると、フェリクスはいよいよ遠慮なく笑い出した。目尻に滲んだ涙を拭うほどで、ここまで笑ってくれるならいっそ清々しいほどだ。
その笑いが落ち着いた後、フェリクスは穏やかな笑みを浮かべた。
「クラディウス様は正しいお人ですね。私を慰めるために、湖を見たいなんておっしゃったのでしょう」
「いや、本当にあの場の思い付きだ。夜のパルナ山を見たら、なんとなく口にしてしまっただけで」
「であれば、神の思し召しと思うことにします。ここへ来たのは久しぶりです……なんだか、懐かしい。私も初めてここから湖を見た時は、きっと貴方と同じように夢中だった」
フェリクスはアスカニウス越しにパルナ山を眺め、しばし言葉を探すように口を開きかけては閉じることを繰り返した。
アスカニウスは急かすことなくフェリクスを見つめて待っていた。高所は常に風が吹いており、フェリクスの髪にくくりつけられた覆い布が何度も翻る。
フェリクスはそれを片手でそっと押さえ、村の方に視線を向ける。
「私はまた、間違ってしまった……コリンの心を解そうとしたのに、言葉を誤ったんです。村のためにと大祭を辞したけれど、それも皆の希望とは違っていた……私は人の心が分からないのです。いつもこうやって間違ってしまう」
フェリクスはアスカニウスのことを『正しいお人』と言った。それはきっと、アスカニウスがフェリクスを気遣ったことを指しているのだろう。
他人への親切、心遣い、献身……そのどれもあふれるほどに持ち合わせるフェリクスは、己を戒め過ぎているのかもしれない。
「何度やっても間違うんです。ここを、村を守らなければならないのに……私は正しくない」
――泣かないのだな。
村を見つめて唇を震わせるフェリクスの言葉を聞きながら、アスカニウスは不思議に思った。今にも泣き出しそうな顔をしているのに、金色の両眼から涙はこぼれてこなかった。
しかし、泣いているのだ。悲しくて悔しくて、この逞しく美しい神官殿は、必死に弱音を吐いていた。
「恐ろしいんです……大祭を誘致しても、開催できなかったら? ピュートーではなく他の地の方が相応しいと言われたら? うちはダメなんだと言われてしまったら? 人々は深く傷付きます」
傷付くのはフェリクスだ。
神域に命を救われたという彼は、その名誉が少しでも傷つけられることに耐えられないに違いない。
アスカニウスはここで、フェリクスを説得しようと思っていた。
ピュートーは素晴らしい土地だ。ザーネス神に捧げる五年に一度の大祭を開く場所として申し分ない。できることなら候補地とし、元老院で票を勝ち取りたかった。自分の最後の仕事を華々しく飾って欲しいと。
しかし、それはフェリクスを追い詰めてまで完遂すべきことではない。
アスカニウスは涙も流せない彼に、もういいのだと言おうと思った。今まで通り平和な村を守ってくれればいいと、言おうとした時だった。
「貴方は、どうやって決めているのですか?」
フェリクスは視線を正面に戻し、アスカニウスをまっすぐに見つめる。
「長く生きてこられて、正しい答えが分かるからですか? 一門を率いて決断をする時、どうやって正しい道を選び取ってきたのですか?」
アスカニウスは驚きをもってその視線を受け止めた。
このわずかの間に、フェリクスの表情から未来への恐怖は拭い去られていた。一言二言の弱音に乗せて、彼はその全てを塔の下に吐き出してしまったのだ。
次に自分が取るべき行動を探している。守村の住人を率いる、人々の上に立つ者としての覚悟に満ちた顔だ。
「俺は龍の手を持っているだけで神ではない。だから、正しくはない」
アスカニウスは慎重に言葉を選んだ。フェリクスは自分の答えを参考に、村の行く末を決めようとしている。
「散々間違ったさ。今だって、大祭復古が正しい選択かどうかなんて分からん。元老院でもアルバ市から開催権を奪うことに反対する者はいる」
「ではどうやってそれを決めたのですか? 反対を振り切って、前に進むにはどうしたら良いのですか?」
「うーん、難しい質問だな……」
アスカニウスは自然と口元に笑みを浮かべた。
「俺は神官殿に比べたら捻じ曲がった人間だ。国のためにと思ってはいるが、自分や家族のために動いていることの方が多い」
「そうは思えません。もし本当に利己だけで軍を動かし、国政を動かしてきたのなら、人々はクラディウスに対する恨みを募らせているでしょう」
「うん。そうだな。ただ金儲けや、馬鹿馬鹿しい欲望を優先したなら、そうなるだろう。でも俺は別に他人を傷つけたいわけではない。自分の考えを通して、かつ犠牲の少ない道を選んだら、少しずつ今のような形になった気がするな」
どうやって道を選んだかなど、振り返ってみたのは初めてだ。
生き物としての己の命、家族の幸せと快適さ、一族の繁栄、名誉、名声、帝国の平穏……欲しいものを求めはした。
しかし争いを好むたちでもなかった。上手いことやろうと模索を続けた。
力を手に入れればそれが可能になるだろうと考えたのも確かだ。
「神官殿のやりたいことは何だ? やはり湖の浄化か?」
「はい。湖の浄化を進め、神域を守り、ピュートーがいつまでも平和で幸福であることです。ですが、昨日のように村の者と言い争うようでは……」
あれを言い争いと認識しているのはフェリクスだけだろう。
彼は争いや憎悪を遠ざけるあまり、人間の感情の起伏まで恐れているようだ。
「ユリアンが言っていただろう。大祭が水の浄化の妨げになれなければいい……結局は、あれが一番正しいんじゃないか? 村には大祭を望む者がいる。神官殿は彼らと争いたくはない。となれば、水の浄化を進めながら、憂いを除き、大祭の誘致もする」
「できるのですか……?」
「賄賂については、どこが開催地になろうと不正の摘発に努めよう。当日の神殿への直接の寄進以外を禁じるのが妥当だな。寄進目録を正確に作って、モレア州とアルバ元老院でも管理させる。ああ、もちろん総督はクビだ。すぐ別の人間に変える」
アスカニウスは自分の首に手を当てて切る真似をする。
現モレア州総督は名門一族の傍系だが、証拠を揃えればアルバ市裁判所は公正な裁きを下してくれるはずだ。
金の動くところに悪党あり。いたちごっこだが、根気強く取り締まるしかない。
「イストモスの支援は手厚くする。あと残る問題は、落選候補地の民衆の気持ちか……名誉の問題になるな。大祭まではいかずとも、何か他の任を与えよう。最高神祇官の訪問先に組み込むか、アルバの土龍の火祭りに参加させるか……その時になったら、神官殿も一緒に考えてくれないか?」
「なるほど。そのようにして行うのですね。
フェリクスは感嘆を漏らしてアスカニウスの顔を見つめる。
「大祭の開催地は、ひとつでなければならないのですか?」
「ひとつ、とは?」
「今回の投票で決まった神域がしばらく開催権を持つとしても、いずれまた投票を行い、その時に力のある神域がまた開催権を持つというのはいかがでしょうか? そうすれば、イストモスが復興を遂げた後でも可能性がありますし、最初に落選したところも次を目指すことが出来ます」
「それも面白いな!」
アスカニウスは思わず手を叩いた。
もとより、アルバの前はイストモスが、その前はピュートー、さらにその前はエリス、始まりの時はネメアで大祭が開催されていた。
それと同じようにしようというのだ。
「あとはな、神官殿。そういう面白い案を通すなら、文献と根回しが必要だ。古い書物の文言を引用して、事前に関係者の説得をしておく。例えば再投票をするまでの期間だが、かつてモレアで行われていた神事の期間と同じにしたりな。自分の考えこそが神の意志を体現している、くらいの自信を持って説得に当たれ。全員が言うことを聞いてくれるとは限らないが、これだけでもかなり意見を通せるようになる」
「それは……クラディウス様の地位あってのことでは」
「まあ、それもある。だが神官殿がピュートーで同じことをやれば、同じ結果が得られるんじゃないか?」
フェリクスは溜息と共に何度も頷いた。
彼から尊敬の眼差しを向けられるのは大変気分がいい。
「神官殿、俺の話に乗ってくれ」
アスカニウスは両腕を広げた。
それは自分の意思を表明する演説の時の癖でもあるし、フェリクスに思いを伝えたい、安心させてやりたいという気持ちの表れでもあった。
「ピュートーでの大祭が叶った暁には、貴族だけでなく、神域に詣でたい民衆もなるべくたくさん連れてこよう。彼らはきっと湖の浄化も祈ってくれる。ピュートーからアルバに来たいという若者がいれば、クラディウスで面倒を見る。学びたい者は学び、商売がしたい者は商売をすればいい。不安があれば全て聞こう」
アスカニウスの言葉に、フェリクスは細かく頷きを返す。
「俺は本当にこの地が気に入った。心から大祭に相応しい場所だと思っている。だから一緒に、ザーネス神への一番の祭りを、ピュートーに呼び込んでくれ!」
フェリクスの瞳にはアスカニウスが映っていた。両手を広げるアスカニウスと、その背後に
春の昼の薄い青色の空に突き刺さるような神の山、快晴に筆で引いたような一筋の雲、広がる豊かな緑の大地を背負って、龍の手を持つアスカニウスは両手を広げてフェリクスを誘っている。
飛び込んできて欲しいと。
フェリクスはアスカニウスと神域の景色を瞳に映して、今度ははっきりと頷いた。
「分かりました」
フェリクスは綻ぶように笑った。
太陽にたっぷり愛された赤い肌に、それよりほんの少し濃い色の唇から白い歯がこぼれる。丸い黄金の瞳が細められ、目尻にくしゅりと皺が寄った。ハリのある頬が盛り上がって目の下に小さな山を作る。
「村の皆が良いならば、私も貴方の話に乗りたい」
今までに見たどの笑顔よりも美しい。
アスカニウスに水が美味いと言われた時の、勝ち誇ったような顔よりも、時おり見せてくれた、村人たちへの慈愛に満ちた微笑みよりも。
無邪気で晴れやかな笑顔のフェリクスこそが、最も美しく輝いて見える。
アスカニウスは胸の下の方がきゅうと絞られるように鈍い痛みを覚えた。その正体をよく知っているが、今は吐露すべき時ではない。
彼のひたむきな思いを支えたい。
アスカニウスは広げていた腕を体の横に戻し、両の拳をゆるく握りしめた。
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