第八章 政治 1
元老院議会場はセントルム・カーヴォの一角にあった。
それはのっぺりとした薄茶色の壁に囲まれた地味な建物で、市民集会場や裁判所など、新しく大きな建物に比べると華やかさに欠ける。
しかしこの元老院議会場の歴史は古い。
創建は帝国建国当時にまで遡り、何度も改修を重ねながら二千年近くここに建ち続けている。
議会場の中には異様な空気が充満していた。
騒めきはない。誰も無駄な口はきかないが、その沈黙の中に重苦しい雰囲気が漂っている。
「では、次に。貴族議員、ドミニクス・シルウィウス・バエティカ殿、投票を」
第一人者――議長であるガイウスが議長席から次の投票者を指名する。
今日もガイウスは表情の変化に乏しく声音も淡々としていて、冷静を装っているのか、本当に動じていないのか、フェリクスには読み取ることが出来なかった。
「ピュートーに」
「では、次に。貴族議員……」
投票はまず市民議員五十名から始まった。
名簿に記された順番に、議長であるガイウスに指名された議員が議席に座ったまま投票先の神域の名を口にする。
「ネメアに投票致します」
「では、次に……」
モレアから訪れている各地の代表団はすり鉢状の底、議長席の後ろで議席に向き合う形で立っていた。
皆、一様に表情を凍り付かせている。
「エリスに」
「ピュートーに投票する」
「私はネメアに」
議場にいる誰もがその異様な事態に気付いていたが、投票を止めることはできない。
ガイウスに指名された議員は次々と投票先を答えた。まるで、順番に神域の名を口にする言葉遊びのように。
「なんだこれ……なんでこんな、満遍なく票が入るんだよ」
ルキウスの茫然とした呟きに答える者はいない。
フェリクスも返す言葉など持たず、隣に立つユリアンは顔を白くしてずっと震えている。
レグルスだけが堪え切れぬ様子で歯噛みしながら怒気を漏らした。
「アイツ、こういうやり方で……!」
レグルスが睨みつけた先には、すでに投票を終え議席でゆったりと脚を組むメルケースがいた。
メルケースはこちらの困惑にすでに気付いているようで、レグルスの視線を受けても悠々と笑みを浮かべている。
「あとはわたくしの投票で、最後ですな」
議席に座る全員の投票先が決まった時、議長のガイウスが深い溜息をついた。
ガイウスがアスカニウスと懇意であることは当然議員たちも知っている。彼の投票先は最初から決まっていた。
「ヴァレリアス様が、ピュートーに入れてくれても……」
ニコレが目を閉じて下を向く。
フェリクスも思わず目を伏せた。瞼を下ろしてもなお、議場内の緊張感が薄れることはない。
「わたくしはピュートーに票を。以上で投票を終了とする」
ガイウスは得票数の記録された書類を持ち上げ、重たそうな瞼を何度も持ち上げながらゆっくりと内容を見直した。
各候補地の代表者ならば自分たちの票数を数えていたに決まっている。
自分の票数さえ分かれば、結果は容易に知ることができた。
「アルバ帝国新皇紀二千年、ユニウスの月二十日。元老院議会場にて、アルバ元老院議会法に則った投票により採決された結果を発表する――五年後の大祭候補地投票における得票は以下の通り。
ネメア、三十三票。
エリス、三十三票。
ピュートー、三十三票。
アスカニウス・クラディウス・フィレヌス氏の欠席により、総数は九十九票。以上が投票結果である」
それまで口を噤んでいた議員やモレア各地の代表団から、ついにどよめきが起こった。
「同票だ‼」
「どうするんだ、決まらないぞ!」
議長席の後ろに並んだ代表団は蒼白だ。紫色のトーガを纏った神官が何人も、痛みを堪えるように祈りの姿勢を取っている。セサルとアウグストも顔を寄せて何やら囁き、レグルスと目配せし合った。
「ひとつ、提案をしたい!」
まとまりのない騒めきの中で、ひとりの男の声が石造りの高い天井にこだました。
「貴族議員、メルケース・コーネリウス・アリミヌス。発言を許可する」
ガイウスに指名されたメルケースが議席から立ち上がると、議場は一度しんと静まった。
メルケースはその様子をゆったりと見回す。
「はじまりの地の神域はどこも素晴らしく、甲乙つけがたいという結果が出た。それは何も悪いことではない。しかし、どこかに開催地を決めなければならない我々としては困ったことになった」
メルケースは一旦言葉を切り、同意を求めるように階段状に設けられた議員席を振り返る。
「そこで私はひとつ、根本に立ち返るための議題を提案したい!」
両手を大きく広げ、今度は議長と、フェリクスたち代表団の方を向く。
「甲乙つけがたく決めかねるモレアの神域と、これまで千五百年間ザーネス大祭を開催してきた帝都アルバ市と、本当のところはどちらが大祭に相応しい場所なのかを、今一度議論することはできないだろうか?」
「議長、反論の許可を!」
壮年の議員がひとり、勢いよく手を挙げた。
ガイウスに発言の許可を取り付けた男は、その場に立ち上がって拳を握り、唾を飛ばしてメルケースに詰め寄る。
「大祭をモレアの神域に戻すという提案はすでに可決されたのだ! それを覆そうなど、議会の決定にケチをつけるつもりか?」
「確かにモレアに戻すという話は賛成多数であった。しかし、私は今気付いてしまったのだ。モレアの神域と、アルバ市と、どちらが相応しいのかという議論はほとんどなされなかった。モレアを悪く言うつもりはない。しかし
早口で捲し立てたメルケースは、視線をレグルスの方へ向けた。
「イストモスで不正が起こりかけたこと、多額の金品が動いたことなど、簡単な報告の書類が提出されただけで、まだきちんとした説明がなされていない。開催地を決める前に解決しておくべきなのではありませぬか?」
メルケースに反論していた議員もこれには黙り込んだ。
レグルスはメルケースと睨み合いながら口を開く。
「イストモスについては私が説明しましょう。後日、議会に証人として召喚してくだされば良い」
「それでは議長、三日後の議会で話し合いをすること、決議を取っていてだいても宜しいでしょうか? レグルス・クラディウス・フィレヌス氏を証人として召喚することと合わせて」
メルケースの進言を受け、ガイウスは顔を動かさず目線だけで議場を見渡す。フェリクスもそっと周囲に視線を巡らせた。
三日後に再度議会をという提案に、反対することは難しい。今日の投票で開催地を決定できなかったことは確かだ。おそらく誰もが日を改めたいと考えている。
「では、挙手による簡易投票を行う。三日後の議会へこの議案を持ち越すことに、反対する者は挙手を」
ガイウスの言葉に手を挙げた議員は二名だけだった。
先ほどメルケースに反論した男と、もうひとりはまだ若い議員。どちらもフェリクスたちとも顔を合わせたことがあり、アスカニウスと親しい人物だった。
「投票の結果、三日後の議会で開催地議決方法についての再度の話し合いと、イストモスでの不正疑惑についてレグルス・クラディウス・フィレヌスを証人として召喚することを決定する。以上で本日の議会は散会だ」
ガイウスにより閉会が宣言されると、ずっと身を固くして立っていたユリアンが呻き声を上げた。
「うぅ、長殿、申し訳ございません……僕の力及ば、ず……」
「ユリアン様!」
よろめいたユリアンをフェリクスが慌てて支える。
十二歳にして初演説を終えたばかりのユリアンは、緊張のあまり真っ青になって眩暈を起こしてしまったようだ。
「急ぎ
レグルスの呼びかけに議場内にいた護衛兵士が駆け出していく。フェリクスが支えていたユリアンの体を、レグルスが受け取って抱き上げた。
「ユリアンは私が連れて帰ろう。フェリクス殿、急ぎ議決内容を長殿に知らせてくれないか」
「分かりました」
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